あなたが紡いだ世界が
「大往生ですね。」
そう言われても、納得できない自分がいました。
確かに長生きでした。確かに痛みを伴うことなく亡くなりました。はたからみれば、非常に幸せな亡くなり方に見えるでしょう。
それでも、
「頑張ったね。ありがとう。」
という言葉は、出てこない自分がいました。
考えれば考えるほど、「どうして」で頭が埋め尽くされるような思いになるのです。
思えば、始まりも「どうして」でした。
彼は図書館によく行く人でしたが、どうも彼は小説を読まない人で、書架の隅に置いてあった小さな朱色のソファに腰掛けて、いつも絵本を読んでいるのでした。
その頃の私は、長くて難しそうな小説を読むのをかっこいいと思い込んでいましたから、絵本のような文字の少ない、すぐ読み終わる本ばかり読む彼のことを怪訝な目で見ていたものです。どうしてあんな簡単な本ばかり読むのかしら?
しばらく図書館通いもすれば、毎日いる人など顔見知りのようなものになってきます。ある時ふと思い立って、私は彼に話しかけてみることにしました。今思えば、「私はすごい本を読んでいるのよ。」という優越感に浸りたいという、あまりに不純な動機だったのですが…。
その日も彼はソファに座って絵本を読んでいましたので、私はソファの方へずんずん歩いて行きました。そう人通りの多い書架でもありませんでしたから、彼はすぐこちらに気づいて顔を上げました。私が笑って片手をあげますと、彼も笑って片手をあげ、ソファから立ち上がりました。
「こんにちは。いつも図書館にいらしていますよね。」
「ええ、そちらこそ。本がお好きなのですね。」
彼は私と大して歳の変わらない人でしたが、ずいぶん大人びた話し方をされたので、私は少し驚いて、咄嗟によそいきの声を出しました。
少しの世間話をしたあとで、私は「よし、今だ」と思って、あの話を切り出しました。
「ところで、いつも絵本を読まれていますよね。小説などは読まないのでしょうか?」
夏目漱石なんかを小脇に抱えて、私はふふふっと笑いました。「もっと難しい本を読んだらいかがかしら?」という感情を顔に滲ませて。
ところが、彼はにこにこ笑って言うのです。
「それが、絵本ってとってもいいんですよ。ほら」
彼が差し出した本のページを、私は眉をひそめて覗き込みました。
「カステラらしいのですが」
おおきな、ふんわりとした黄色いカステラ。ほかほかしていそうで、どこか森の匂いがしそうなカステラ。あたたかくて、どこか幸せそうなカステラ。私はしばらくそのページをまじまじと眺めました。
「おいしそうな、素敵なカステラですよね」
見れば、そのページには、森の動物たちに混ざって小さな付箋が貼ってあって、幸せそうに笑っている男の子の絵が描いてありました。見比べて、すぐに分かりました。だって、すぐそこに、顔いっぱいに幸せって書いてあるような彼がいるのですから。図書館だから図書館の本を読んでいるものとばかり思っていたのですが、どうやら私物のようでした。
簡単な絵本ばかりを読んでいる彼をからかうつもりが、まんまとペースに乗せられて、私は少し頬を膨らましながら帰りました。一方で、あの絵本の世界というのはどうにも奥が深いので、幸せな気持ちでもありました。
彼がディスレクシアという特徴を持っていると知ったのは、それからずっと後の話です。
私と彼はそれからも何度かお話をして、時に一緒に本を読んだり(もちろん彼は絵本です)、おやつを食べたりするようにもなりました。
彼は絵本作家になりたいと言って、絵の勉強をしていました。落ちて、滲んで、広がって混ざって…。色の粒は、彼の繊細で幸せな世界を作っていきました。その時の彼の真剣な顔と言ったら、いつでもそこに思い出せるようです。彼の腕か服か机かには、かならず絵の具が少しついているのでした。彼の作業の部屋で一緒に勉強させてもらう時は、大抵綺麗な場所をわたしが選りすぐって、パソコンと本を広げるのですが、時々気づかないところに乾ききらない絵の具があって、私の本の裏表紙にじんわりついているのでした。
彼が絵本作家としてデビューした頃、私は学校に勤めていました。もはや「難しい本を読んでいるほうがかっこいい」だなんて思っていませんでしたから、私はよく図書室に行って、絵本コーナーを見てまわりました。これはいいと思った絵本は、高学年でも読み聞かせをしました。幸い、図書館に置いてもらう絵本の推薦をするのは簡単なことでした。だって、新しくていい絵本はすぐに彼が買ってくるので、彼の部屋にさえ行けば、新しくていい絵本をどっさり試し読みできるからです。絵本コーナーの近くには、小さなソファを置かせてもらいました。こういう場所で、絵本を読む子がいるかもしれないと思って。
彼は、告白する時もプロポーズする時も、一冊の絵本を描きました。どちらも、埃を被らないように透明なケースに入れて、大切に棚に面出しして置いてあります。そばに、鳥やらカエルやら熊やらの、小さな置物が置いてあって、そこだけ絵本の世界が溢れ出しているようです。告白の時にもらったお話は、うまく人と関われなかったくまくんが、お互いを理解し合えるお友達のしかさんとであって、一緒にたくさんの冒険をするお話。プロポーズの時にもらったお話は、木の下で出会ったたんぽぽさんとはちさんから、だんだんたんぽぽ畑が一面に広がって、きらきらの朝日の中で一斉にわたげを飛ばすお話。そらでも一言一句間違えないほどには、何度も読み返したものでした。
私と彼が出会い、結婚して…それからしばらく経った頃。もう私も彼も、ベテランと呼ばれるようになっている頃です。その日は夕食当番が私だったものですから、私はせかせかと仕事をして、さっさと家に帰りました。そして、
「今日の夕飯はなにがいい?」
と聞きましたところ、彼はこう言うのです。
「今日はそこに置いてあったお菓子をつまんでしまったから、それでいいや」
彼が甘い物好きなのは十分承知しておりましたから、その時は大して気にしませんでした。でも、だんだんその頻度が増えてきたのです。
「おとといも、昨日もそうだったでしょう?今日はきちんと夕食を食べないと…」
と言っても、彼はいいや、いいや、と言うのです。同じ頃になって、こんなことも言うようになりました。
「あれ、ここに置いた筆は、どうしたっけな…」
そこに筆など、置いていないのです。しかし彼は、目をうつろにして取り憑かれたように探すのでした。
「これは、もしや…。」
嫌な予感がしました。私は、「健診に行きましょう?」と彼を説得して、脳外科に彼を連れて行きました。
結果を聞きに行くのは、私1人で行きました。病気のことを本人も知ったほうがいい。そのことは重々承知しておりましたが、そのショックが彼のあの世界を壊してしまうかもしれないと考えると、恐ろしくて、1人でくるしかありませんでした。心の準備はしていた。そのはずなのに、検査結果を見て涙が溢れてきました。
“病名 アルツハイマー”
泣き腫らした顔では帰れないと、私は帰りがけに喫茶店に寄って、コーヒーをいただきました。それでも、あたたかいコーヒーはむしろ彼との幸せな日々を思い出させるようで、涙は次から次へと溢れてきました。心の整理はつかないまま、私はとぼとぼと帰路をたどりました。
帰ると、彼は「おかえり」とこっちを見て、驚いた様子でした。彼は慌てて私に駆け寄って、何かあったのか、大丈夫かと背中をさすったり、ティッシュを用意したりしてくれました。
「違うのよ。とっても感動する映画をね、帰りがけに見てきたのよ。」
苦し紛れに言い訳をしましたが、彼は「そうか」と言って、泣きじゃくる私にそれ以上何か聞いてくることはありませんでした。ある程度私が落ち着いて、ふいっとどこかへいなくなったと思ったら、かわいいねこさんの絵を描いて、持ってきてくれました。彼が、いつものふわふわした微笑みを浮かべるものですから、私も結局、困ったなぁと笑うしかありませんでした。
彼には、
「物忘れが少しよくなる薬ですって、お医者さんが言ってたのよ。毎日飲んでくださいって。」
とだけ言って、お薬を飲んでもらっていました。進行を遅らせられる、というだけですが…私にとっては、彼や、彼の世界が壊れてしまうのを防いでくれるような、偉大な力があるものに思えていました。それでも、彼の症状は少しずつ悪くなっていきました。
お世話になっていた出版社の方を忘れてしまったり、買っていない本を買ったと思い込んで書店に電話したりしました。薬や食事を嫌がって、摂らなくなってしまうこともありました。お会計の時に小銭を考えるのをめんどくさがって、お札しか出さなくなり、綺麗な滲みの入った皮のお財布には、じゃらじゃら小銭が溜まりました。そんな彼を見るたびに、私は胸の詰まるような思いがして、休日は抜け殻のように、ぐったりとしてしまうのでした。
しばらくして、彼は筆さえ取らなくなりました。一日中ぼうっとして、うつろな目でテレビを見続けるようになり、体力もすっかり落ちて、ソファに座り込んでいるのでした。もう、本当に若い頃のお話以外は覚えていなくて、話すにしても何度も何度も同じ話。
「あそこの画材屋さんは元気かい?」
「画材屋さんは何年も前に潰れてしまったし、主人は亡くなられたのよ。」
「そうか…」
画材屋さんとは、彼が絵を勉強する学生だった頃にお世話になった場所のことです。あの頃の、きらきらした希望に溢れた目は、幸せでいっぱいの目は、どこへ行ってしまったの…。そう思って彼を見ても、また彼は私に一瞥もくれずに、うつろな目でテレビを見続けていました。私はため息をつく以外、できることがありませんでした。
親戚や知り合いと相談して、彼にはケアマネジャーがついて、デイサービスを使うことになりました。お風呂にも入りたがらず、食事も取りたがらない彼の衛生と健康を、私だけが保ち続けるのは、そろそろ無理がありました。それに、いくら大切な彼だとしても、同じ話をずっと聞き続けたり、急に妄想で不安がるのに対応したりするのは、疲労の溜まるものでした。はじめは週に1回や2回でしたが、ケアが必要な部分が多くなり、施設に行く日は増えて行きました。
そのうち彼は、私以外何もわからなくなってしまいました。私のことはわかると言っても、施設の人に
「ほら、奥さんいらしてますよ」
と言われて私を見て、
「あぁ…」
とうめくように声を出すだけでした。もはや、彼の世界は彼の中に残っていないようでした。私は家に帰って、飾られている絵本やら、彼の部屋の山積みになった画材やら、一面の本棚の絵本やらを見て、またため息が漏れてしまうのでした。しまいには、もはや彼の世界のカケラを見ることさえ少しずつ辛くなってきて、彼の部屋のものは埃をかぶるようになりました。
症状はさらに進行して、彼は家に帰ってこなくなりました。老人ホームに入居したのです。時々様子を見に行きますが、もはや私のことも、自分のことさえ分からないようで、寝たきりになってぼうっとしていました。「これは生きていると言っていいのかしら…。」私には、もう彼が生きているのか、分かりませんでした。仮に生きていたとしても、心の生きていない彼に、生きる意味などあるのでしょうか。虚しく横たわる彼を見るたび、彼が生きているのは、私の、生きていてほしいというエゴでしかないのかもしれないという気持ちが、頭を掠めるのでした。もう何もかも、彼の中には残っていないんだ。あのあたたかい世界も、幸せな日々も…どこかへ消えてしまったんだ…。
そうして彼は、老人ホームで亡くなりました。老人ホームのベッドで、痩せ細った彼は横たわって、眠っていました。私は受け入れられずに、わけのわからないまま涙が頬を伝うのを感じていました。放心状態のまま、慌ただしく遺品整理やら何やらをしました。あの埃を被った彼の部屋も、知り合いに手伝ってもらいながら整理していきました。あれも、これもそれも、私にとっては、遺品、というより、彼の世界の残骸でした。彼が紡いだ、美しい世界があった証拠であると同時に、それは虚しい灰のようにも見えるのでした。ほんとうに、何もなくなった。彼は、彼の世界は、死んでしまったんだ…。遺品が被った埃を手で払って、美しい水彩画が顔をのぞかせると、私はそんな現実を突きつけられているようで苦しくなり、目を閉じてスズランテープをかけるのでした。
彼のお通夜は、あれこれ考えているうちにあっという間に進んでいきました。あの時、病名を伝えていたほうが、良かったのかしら。いっそ、何もわからなくなるその前に、一緒にあの世へ行けた方が、幸せだったのかしら。少しずつできたことができなくなっていくのも、少しずつわかっていたことがわからなくなっていくのも、きっとすごく恐くて、つらくて、苦しかったでしょうに…。どうして、こうなってしまったのかしら——
お経を読む声も、ぽくぽくという音も、お焼香をあげる人たちの顔も、まるで頭に入ってこず、ああだったら、こうだったらと、取り留めのないことばかりが頭を渦巻いていました。
「大往生ですね」
納得できるはずがありませんでした。
お通夜がひと段落し、親族以外の人たちが帰り始めた頃、何人かの人が、こちらへ駆け寄ってくるのが見えました。ケアマネジャーの方と、施設の方でした。
「この度は、大変お世話になりました…」
そう私が言いますと、施設の方はいそいそと何か取り出し始めました。
「これね、あの人が描かれたんです。寝たきりになってしまう、少し前くらいだったのですが…」
そう言って、私に一枚の絵をくださいました。
「画材と、絵本を見せてみたんです。奥さんから、以前聞いていた画材だったのですが…。すごかったですよ、一瞬で、作家の目になったんです。するする筆が動いて、色を滲ませて…。」
「筋肉の衰えもありましたから、以前の通りに、とはいっていないのかもしれませんが、とても綺麗で、素晴らしい絵でしたので、しばらく施設に飾らせていただいていたのです」
濃い緑、薄い緑、黄色…いろんな色がふわふわ滲んで、広がって、2人の人の元に、木漏れ日がさしていました。2人の顔には幸せそうな笑顔が浮かべられ、周りにはたくさんの動物が描かれていました。木の周りには、一面のたんぽぽ畑があって、いくつもの綿毛を飛ばしていました。そらには、白くて美味しそうな雲がたゆたっていて、そこにひばりが羽ばたいていました。
なんてことでしょうか、彼の世界は失われていたわけではなかったのです。彼のあたたかく幸せな世界は、彼の本棚の奥に隠されて、息を潜めていましたが、画材と絵本がその図書館のドアを叩いて、彼の世界をもう一度外へ出してくれていたのでした。
完成された絵を滲ませてはいけないと、幾度も幾度も指で涙を拭き取るのですが、それだけでは到底追いつかないほどの涙が心の底から溢れてきて、彼の絵の角を滲ませました。
私はその絵を受け取り、しっかり抱きしめて、もう一度寝ている彼のところへいきました。そっと顔を覗き込むと、やはり彼は痩せ細っていて、うつろな顔で寝ていました。でも、確かに彼の奥底に、あの世界が生きているのだと、そう思うと、笑みが溢れてきました。涙で視界が滲んで、彼の顔がぼやけていくと、なんだか彼が前のように、幸せそうに笑っている気さえしてきました。
「もう、絵本ばっかり、読んでいるからよ…!」
私は彼の絵を胸に抱えて、ふふふっと笑いました。
告別式の時までに、少し時間をもらって、彼が最後に絵を描くきっかけになった本を、スズランテープを解いて、薄いホコリを払って、持ってきました。施設の方に聞きましたところ、「奥さんが持ってきてくれたものですよ」と言われましたので、ピンときたのです。
私はその本の、とあるページに、小さな付箋に幸せそうな女の子の絵を描いて、貼り付けました。
それで、そのページを彼に見せてから、彼の胸元にそっと起きました。
カステラを囲んで、幸せそうに笑う動物たちと、男の子と、女の子。それが彼の世界の残骸だなんて、灰のようなものだなんて、もはや思いません。
あなたが紡いだ世界が、幸せな日々が、ここに残っているのを私は知っていますから—