罪
過去に戻ってやり直したいことはありますか?
誰しもが1つや2つぐらいあるでしょう。
過去の犯罪を悔いる男が、過去にタイムスリップ。そこで思わぬ展開が待っていた。
午前4時、店内のバックヤードにあるパイプ椅子に腰を掛ける高橋大貴は転寝をしていた。
急に店内に鳴り響いた入店音のBGMに驚いて目を覚ますと、新聞配達員が朝刊の束を抱えて入店してきた。
いつもと同じ配達員、いつもと同じ時間、そろそろバイトも終わる時間だと、そんなことを考えながら大貴はレジの前に戻って気だるげに立ち、什器棚に丁寧に新聞を並べていく配達員を眺めていた。
ここのコンビニでバイトを始めて3年目、大学入学と同時に始めたバイトで、毎月両親から振り込まれる仕送りとは別で、少しでも足しになればいいと思い、始めたバイトだったのだが、大学を中退してしまった今はフルタイムで働いている。
元々大学に進学する意思はなかったが、大学を出ていた方が将来的に有利だからと、両親からの強い説得によって泣く泣く地元から上京して、関東圏の大学に進学した。
嫌々ながらも入学当初は真面目に朝から授業を組んで出席していた。
何か将来やりたいことが見つかるかもしれないし、サークル活動なども並行して続けていれば恋人もできたりして充実した大学生活を送れるかもしれない、当初はそんな期待を勝手に膨らませていたが、性根が飽きっぽく怠け者の大貴に継続する力など無く、バイト代と親の金を持って夜の街に繰り出しては散財する日々を送るようになり、生活リズムは乱れ、次第に授業もサボるようになり、入学から1年ほどが経過したタイミングで、両親に内緒で中退してしまった。
中退してすぐは両親に打ち明けることが出来ずにいたが、数日が経過して父親から連絡が入ると、相談もせずになぜ勝手に大学を辞めたんだと強く問い詰められた。
散々父親と揉めた挙げ句、通話を自分から強引に切る形で話し合いには応じず、その後も両親からの電話、メールなどの連絡は全て無視を決め込んだ。
後日、心配した母親が何度か大貴の住むアパートに訪ねて来たりもしたが、居留守を使ってやり過ごしたり、郵送されてきた両親からの手紙も一切読まずにそのままゴミ箱に捨てたりと、両親からの連絡は完全に断っていた。
両親にとって大貴は大事な1人息子だ。
決して裕福ではない家庭だったが、幼少期から大貴が興味を持った習い事は全てやらせてくれていたし、欲しい物も人並みに買ってもらったりと、なに不自由なく生活をさせてもらった。大学の入学金だって馬鹿にならなかっただろうし、そんな中でも毎月仕送りも送ってくれていた。大貴のことを想い、今までサポートをしてくれていた両親の気持ちを踏みにじり、最悪な形で裏切ってしまった。
最近は両親からの連絡の頻度も少なくなり、愛想を尽かされてこのまま勘当されるのではないかと一抹の不安を感じたりもしていたが、それ以上に不安に駆られる重大な問題を大貴が背負っているなんてことは、両親は知る由もない。
早番の従業員と交代する形で退勤した大貴は、徒歩で自宅アパートに帰る。
木造2階建ての築30年ほどの古いアパートで、お世辞でも綺麗とは言えない外観だが、駅、コンビニも近く、大学へも徒歩で通える距離の立地に惹かれてこのアパートに決めた。
錆び付いた鍵を鍵穴に挿し込み、玄関の扉を開けると、8畳ほどの広さのワンルームの部屋に、黒ずんだフローリングの床には布団が乱雑に畳まれていて、数日分の弁当の空き箱がごみ袋に包まれた状態で無造作に置かれ、その隣には小さいテレビが直接床に置かれている。簡素な部屋…いや、質素な部屋と表現したほうが正しいだろう。
テーブルや椅子もなく、床に直接座って、コンビニから持ち帰った廃棄弁当を食べ始める。
~~♪
食べ進めていると、床に置いてあった携帯の着信音が部屋に鳴り響く。
携帯の液晶画面に目をやると''片桐陵''という名が表示されていて、大貴の心に緊張が走る。こんな早朝から何の用だと、一瞬戸惑いながらも電話を取る。
大貴「もしもし…?」
陵「大貴か?久しぶりだな」
大貴「ああ…久しぶり…。どうしたこんな朝早くに…何かあったのか…?」
陵「いや、特になにもないよ。ちょうどお前がバイト終わった頃かなって思って電話したんだよ。今日の夜さ、酒でも飲みに行かないか?」
陵からの突然の誘いに一瞬言葉が詰まってしまう。
大貴「ああ……別にいいけど…」
陵「最近2人で会ってゆっくり話す機会も無かっただろ。久しぶりにさ、ゆっくり飲もうぜ」
大貴「分かった…」
陵「じゃあ夕方に駅前で合流な。それじゃ…」
そう言うと陵は間を置かずに電話を切った。
この片桐陵という男は高校時代の同級生で、
双方確認するまでもなく親友だと言える間柄だった。陵は高校を卒業後に大手メーカーの工場に就職。偶然にも配属先が大貴の通う大学と同じ県だったため、共に上京する形となった。上京してからも2人はよく行動を共にしていた。授業をサボりがちになるきっかけとなった夜遊びも陵と一緒だったし、何をするにしても隣には陵がいた。
だが、''あること''がきっかけで、ここ最近は2人で会うことが少なくなってしまっていた…。
大貴は携帯を床に置いて布団に横たわり目を閉じる。陵と話したのも約1ヶ月ぶりだろうか、つい最近までよく一緒に居たのが嘘のように感じる。
暗く狭い部屋の中に、明るい光が平たい板のような形に射し込んできている。僅かに開いたカーテンの隙間から射す朝の光。雀のさえずりを聞きながらだんだんと意識が遠退いていく。
深夜、バイト先のコンビニの駐車場で酔っ払った男達が大声で話しながら屯ろしている。
近隣住民から苦情が来る前に注意をしないといけないのだが、逆上されて殴られたりしても癪に障るためそのまま見てみぬふりをする。
しばらくして外を見ると男達の姿はない。
外に出て、先ほどの男達が捨てたであろう酒の缶や吸殻を拾い、黙々と掃除を始める。
深夜2時過ぎ、周囲は静寂に包まれている。
掃除が一通り終わって店内に戻ろうと振り返った瞬間、顔中傷だらけになったスーツ姿の中年の男がこっちを睨みながら立っていた。
知り合いでも顔見知りでもない男だが、見覚えのある顔…。いや…忘れられない顔だ…。
突然のことに大貴は言葉も出ず、足が震え、身体が言うことを聞かない。男は狂気に満ちた目で大貴を睨みながら、1歩ずつ詰め寄ってくる。男の腹部からは大量の血が流れていて、白いYシャツが真っ赤に染まっている。
男の顔が目の前まで来ると、ドスの利いた低い声で呟く…
「逃げ切れると思うなよ…?」
慌てて布団から飛び起きると、大量の冷や汗が身体中の肌にじっとりと染みていた。
胸を強く締め付けられるような痛みを感じて心拍数も急激に上がっている。
ゆっくり呼吸を整えながら、携帯の液晶画面に表示された時計を見る。
''午後17時''
カーテンの隙間からは夕焼けの赤い光が部屋に差し込んでいた。
布団に入ってすぐ寝てしまっていたようだ。
「またあの夢か…」
消え入るような声で独り言を呟くと、ゆっくりと布団から起き上がり、冷蔵庫から500mlのペットボトルの水を取り出し、勢いよく口の中に流し込んで一呼吸置く。
夜に陵との約束があるため、すぐに準備をしないと間に合わない。風呂場へ向かい、シャワーを浴びて冷や汗でベトベトになった身体を綺麗に洗い流していく。
''バレるのも時間の問題''
心の声が脳内に響く…。その声をかき消すように頭を掻きむしりながらシャワーを浴び、身支度を整えて自宅を後にした。
午後19時、大貴は自宅の最寄駅のロータリー付近に立っていた。ロータリーには、駅に迎えに来た車やタクシーでごった返している。視線の先に、以前まで自分が通っていた大学の生徒だろうか、若い男女5人組が笑顔で会話をしながら駅構内へと続くエスカレーターに乗り込んでいく姿が見えた。
今も大学に通っていれば、あのグループの輪の中に自分も居たのだろうか。
そんな事を考えていると、見覚えのある1人の男がこちらに向かって歩いてくる。
夢に出てきたスーツ姿の男ではないことはすぐに分かった。白いTシャツに下は濃い紺色のデニムとラフな格好で現れたのは陵だった。
陵「悪い悪い、待たせて」
大貴「おう…久しぶりだな…。3ヶ月ぶりぐらいか…?」
陵「そうだな。いつものあの店でいいか?」
大貴「うん…」
陵「じゃあ行くか」
会話も早々に切り上げると、2人は駅のロータリーを抜け、繁華街へと続く道を歩いていく。週末の金曜日、道は人でごった返していて、すれ違いざまに何度も肩がぶつかる。
田舎から上京したばかりの頃は、多くの人が道を行き交う様子を見るだけでもテンションが上がったものだが、今はただただ憂鬱に感じてしまう。季節も夏が近くなってきた6月、蒸し暑い気候な上に、人混みの中にいると更に体温が上がり、汗が滴り落ちてくる。
汗を拭いながら、目的地である大衆居酒屋に到着した。
「いらっしゃいませー!!」
店員の威勢のいい声が店内に響く。
店内はほぼ満席状態だったが、たまたま1席だけ空いていたテーブル席へと案内される。
陵「とりあえずビールでいいだろ?」
大貴「うん…そうだな」
メニュー表を片手に店員を呼んだ陵は、ビール2杯と酒のあてとなる一品料理を適当に注文する。店員は笑顔で注文を受けて厨房に戻っていく。
しばらくしてビールと料理が運ばれてくると、お互いにグラスを持って乾杯。
1口、2口と渇いた喉にビールが染み渡る。
思い返すと、人生で初めてビールがうまいと感じたのがこの居酒屋だった。
高校時代に2人で缶酎ハイなどの酒を買って飲んだりした時は1度も美味いと感じたことはなかったが、上京後に初めてこの居酒屋に2人で訪れて飲んだ安酒のビールが、喉の奥が震えるぐらいうまく感じた。
「少しは大人になったのかもな」
そんなことを当時2人で話していた。
凌「まあ、あの時まだ俺ら未成年だったけどな」
過去を懐かしんで口元がほころぶ陵。
2年前初めてこの店に訪れた時のことを回想しながら当時の思い出話をしていた2人。
大貴「もうあっという間に2年経ったんだな」
グラスに注がれたビールを飲み進めながらお互い無言になり、暫くの沈黙が訪れる。
飲み干して空になったグラスをテーブルに置いた陵が、少し気まずそうにしながら口を開く。
陵「明日で丸1年になるな…」
大貴「そう…だな…」
陵「本当に悪かった…巻き込んじまって…」
大貴から目を反らし、視線を落とした状態で眉間に皺を寄せながら思い詰めたような表情をする陵。
大貴「もういいんだよ…。今更どうすることもできないんだから…」
大貴は続くようにグラスに残ったビールを飲み干し、再度2人の間に沈黙が訪れる。
そんな2人の空気とは対照的に、店内には客の賑わう声が鳴り響いている。
凌「過去に戻ってやり直せたりしたらいいのにな」
大貴「なんだよ急に…」
陵らしくない突拍子もない発言に少し驚いた。過去に戻れるのなら今すぐにでも戻って、あの事件を無かったことする。そんなことが出来たらどれほどいいことだろうか。
陵「冗談だよ…。ちょっと疲れてるのかもな…こんな馬鹿みたいなことばっか最近考えちまうんだよ…」
少し笑って見せた陵だったが、顔の頬は少しこけ、生気が感じられない。先ほどまで気付かなかったが少し身体も痩せたように伺える。
大貴「俺もさ…毎日怖いんだよ…。いずれ全部捲れて、警察が家まで来るんじゃないかって…」
陵「ほんとにごめん…。もし万が一バレたとしても、全部俺の指示でやったって言ってくれ。実際俺が1人でやったことなんだから…」
2人はその後も追加で注文した酒を飲み進めるが終始会話が弾むことは無く、2時間ほど経過してから店を出た。繁華街の歩道を無言で並んで歩く2人、昔はこのままクラブにナンパしに行ったりしていたが、今はとてもそんな気分にはなれない。しばらくすると合流した最寄りの駅まで戻ってくる。
陵「今日はありがと。またな」
力なく手を上げて去っていく陵の背中をしばらく眺めていると、もう2度と会えなくなるような…表現し難い、訳もなく寂しい気持ちにひしひしと襲われる。
大貴「陵!!」
大声を出して呼び止めると、陵は驚いたような表情をして振り返る。
大貴「俺は大丈夫だから!あんま気落とすなよ!また近い内にどっか出掛けようぜ!」
不安な気持ちを隠しながら必死に虚勢を張ってみせる。
陵「おう。ありがとな!」
陵は笑顔を見せてもう一度大きく手を上げて去っていく。陵の笑顔が見れて少し胸をなでおろした大貴は自宅アパートへと歩を進めた。
今から1年前の6月10日の夜、大貴と陵はいつもの行きつけの居酒屋にいた。この時は大貴が大学を中退して両親と揉めてからまだ間もない頃で、酒を煽りながら陵に愚痴を吐いていた。
大貴「親父も頭ごなしに怒鳴るだけでさ?俺の言い分とか全く聞かねえんだよ」
陵「お前の親父さん厳しい人だからな。まあ、お前もお前だよ。辞めるんならせめて一言相談するべきだったんじゃないの?」
大貴「俺もそれは悪かったと思ってる。親父から連絡来たときにそれは謝ったよ。それなのにあんな言い方されたらまともに話し合いもできねえよ」
陵「お袋さんはどうなんだよ?」
大貴「昨日家にインターホン鳴らしに来たよ。居留守使ったらすぐ帰っていったけど」
陵「おいおいまじかよ…。わざわざ来てくれたのにそれはないだろ」
大貴「どうせ話した所で今すぐ帰ってこいって強制的に連れ戻されるだけだよ…。家に帰っても親父にまた頭ごなしに怒鳴られるのは目に見えてるし…」
大貴は酒を勢いよく飲み干し、すぐに酒を追加で注文しては立て続けに飲み続ける。この頃は毎日酒に溺れながら現実から逃げていた。
陵「お前ちょっと飲み過ぎじゃね…?大丈夫かよ…。もうそれぐらいにして外の空気でも吸いに行くか?」
大貴「いや…まだまだ飲み足りねえよ」
一心不乱に酒を煽り続けて約3時間、頬は真っ赤に変色し、呂律もだんだんと回らなくなってきている大貴の様子に、見かねた陵は椅子から立ち上がって
陵「もうやめとけって…。ほらっ!もういくぞ!」
半ば強引に陵に引きずられるような形で2人は店から出ていく。外に出て歩き出すと一気に身体中にアルコールが回り始め、次第に千鳥足になっていく大貴を陵が慌てて支える。
陵「だから飲み過ぎだって言っただろ…?ほら、ちゃんと掴まれよ」
大貴「気持ち悪い…」
大貴は陵の肩を借りながらゆっくり歩く。
陵「愚痴ならいくらでも聞いてやるから。このまま酒に溺れて腐っていくのだけは本当に駄目だぞ?俺もできるだけ協力するからさ」
大貴「ありがと…」
高校1年の時に同じクラスになった2人。
いつも明るく社交的な陵とは対照的に、人見知りの大貴はなかなか周りに馴染めずにいた。そんな時声を掛けてくれたのが陵だった。陵と仲良くなったことをきっかけに、周りにも馴染むことが出来た。
陵の存在が無ければ、あのまま周りに馴染めないまま暗い高校生活を送っていたかもしれない。陵には感謝の気持ちでいっぱいだった。
毎日酒に溺れ、だらしのない醜態を晒してしまっている今も常に気に掛けてくれている。そんな陵が友人で良かったと、改めて思えた瞬間だった。
繁華街から少し外れたラブホテル街を歩いている途中に急に吐き気を催し、今にも胃から込み上げてきそうな状態になる。
大貴「やばい…ちょっと限界かも…」
陵「まじかよ…!もう少し待て!この先に公衆トイレあるから!」
ラブホテルが建ち並ぶ通りの道路を挟んだ反対側に、''中野公園''という公園がある。その公園に隣接された比較的新しい公衆トイレがあった。足早に公園へと向かい、そのトイレが視界に入るや否や
大貴「悪い…ちょっと行ってくる…!」
凌を公園に残して一目散にトイレへと走り出す。大便器の前に立つや勢いよく胃の内容物を吐き出していく。いつもなら1度出してしまえば楽になっていたが、普段飲まないような度数の強い酒を調子付いて飲んでしまったが故、1度吐き出しても喉の奥がぎゅっと詰まり、またもや悪心が込み上げてきて、再三度嘔吐する。
苦しいほど息を弾ませながら、壁にもたれ掛かってその場にしゃがみこむ。何度も嘔吐したことで体力が消耗され、加えてトイレの個室の中の蒸し暑さのせいでグロッキー状態となり、暫くその場から動けなくなってしまった。
目を開けると世界にもう一度時間が流れ始める。ポケットから携帯を取り出して時間を確認すると間もなく午前0時を迎えようとしていた。30分ほど意識が遠退いていたことに気付き、慌てて立ち上がってトイレを出る。
外に出ると夜風を浴びて少し寒気を感じながら、公園に戻るが陵の姿がない。
酔いもだいぶ冷め、頭もだんだん冴えてくると、30分も待たせていたにもかかわらず、なぜ凌は様子を見にこなかったのだろうかと不思議に思った。先ほど携帯を確認した時、陵からの着信やメールも入っていなかった。不審に思った大貴は公園内をうろつきながら陵を探し始める。
公園には街灯が1つあるだけで、ほぼ暗闇に包まれている状態。携帯のライトで照らしながら周辺を隈無く探していると、ベンチが2つ並んでいるその奥の雑木林の中に人影が見えた。恐る恐る中に入って近付いてみると、ライトに照らされたのは陵の後ろ姿だった。
大貴「陵…?」
大貴が弱々しい声で名前を呼ぶと、慌てて後ろを振り返った陵は、緊張で強張って蒼ざめた表情をしている。大貴が更に距離を詰めると、陵の前には血まみれになった状態の男が仰向けで倒れていた。
大貴「え……あ……」
急に視界に飛び込んできた惨状に気が動転して言葉が見つからない。
陵「大貴…俺…とんでもねえことしちゃった…」
荒々しい息遣いをしながら呆然と立ち尽くすその足元には、バタフライナイフのような小型の刃物が落ちていて、大量の返り血を浴びたのか、Tシャツは真っ赤に染まっていた。
大貴「な、なにしたんだよ…?!」
陵「ベンチで座って待ってたら…このおっさんが後ろからナイフ持って急に襲いかかってきて……抵抗してナイフ取り上げて…刺し殺しちまった……」
陵の発言に、脳天に一撃を食らったような衝撃を受ける。恐る恐る近付いて見てみると、年齢は40代ぐらいの中年の男、目と口は開いた状態になっていて、何度も刺したのだろうか、腹部からは大量の血が流れて血溜まりができていて、絶命していることが一目で分かった。初めて見る人間の死体に、再び虫唾が走って咄嗟に口を掌で覆う大貴。
陵「捨てるぞ……」
大貴「え……?」
陵「死体を隠すんだよ……!」
度重なる陵の衝撃的な発言に、思考が付いていかず、返答が上手くできないまま立ちすくんでいると、陵はその場で返り血を浴びたTシャツを脱ぎ始める。
凌「車持ってくるからここで見張っててくれ…車に乗せて俺が捨てに行く…。悪いけどお前のTシャツ貸してくれないか、このままだとまずいから…」
真っ赤に変色したTシャツを渡されると、言われるがままに大貴も服を脱いで陵に渡す。
大貴「本気…なのか…?」
陵「ああ…。これしか方法はない…。すぐ戻る」
Tシャツを受け取って着替えた陵は、雑木林を抜けて公園を後にする。静まり返った周囲に陵の弾丸のように走る足音が響く。
本来なら警察に自首するべきなのだが、死体の状況から見て、執拗に腹部を刺して殺害しているため、過剰防衛と処理されて逮捕される可能性が高い。そうなってしまうと、陵にとっては非常に分が悪くなってしまう。
実は陵には過去にも逮捕歴がある。
陵は高校生の時に両親を事故で亡くし、4歳上の姉の麻季が、昼夜仕事を掛け持ちしながら家計を支えていた。
その時に、麻季は働いていたラウンジの客の男からしつこくストーカーの被害に遭っていた。店長に相談しても中々解決には至らず、警察に相談しようかと考えていたある日、自宅前で麻季がその男に詰め寄られ、車に連れ込まれそうになっていた。
陵が学校から帰宅した際にそれを目撃して、
その男に何度も暴行を加えて病院送りにしてしまい、そのまま逮捕された。しかしそのストーカー男は、別件で複数の女性に強制わいせつや強制性交などの事件を起こしていたことが発覚して、後に逮捕。陵は麻季を守るために暴行を働いたと、諸般の事情を鑑みて陵の事件は大事にならずに済んだ。
しかし、今回は人を殺めてしまっている。
いくら自己防衛だったとはいえ、逮捕歴のある陵にとって今回2度目の逮捕となれば、前回のような寛大な処分とはいかないだろう。そうなってしまえば、姉の麻季にも多大な迷惑を掛けることになってしまう。
というのも、現在の麻季は美人料理研究家としてSNSでバズり、地上波のテレビにも出演するほどの有名人になっており、弟である陵が逮捕されたと噂が広まってしまうと、麻季の料理研究家としての今後の活動が難しくなってしまう。それだけは避けたい陵は、死体を埋めて事件を隠蔽するという苦肉の策を選んだのだろう。
時刻は深夜1時。
こんな時間に公園に入ってくる人間は然う然う居ないだろうと推測できるが、ラブホテル街ということもあって、時間関係なく人の出入りがあるため、万が一の場合も考え、身を屈めながら神経を研ぎ澄して監視をしていた。しばらくして、車のエンジン音が聞こえてくる。ドアの開閉音が鳴って、足音と共に激しく息を弾ませながら凌が走って戻ってきた。別の服に着替えてきた陵は、借りていた大貴のTシャツを投げ渡し、片脇に抱えていたブルーシートを広げ始める。
陵「これで包むぞ…お前も手伝ってくれ…!」
大貴はTシャツを着て、言われた通りに加勢する。死体をブルーシートの上に乗せ、頭から爪先まで見えなくなるように包み、その上からガムテープで何重にも絡ませながら巻いていく。巻き終わると2人で担ぎ上げ、しきりに周辺に人が居ないか確認しながら運び、車の後部座席に乗せる。2人で車に乗り込み、慌てて車を急発進させて公園を後にした。
車内では2人とも一言も発することはなく、異常な興奮状態で胸の動悸と息遣いが荒くなる一方で、対向車線を走る車とすれ違う際に、運転手の視線が異常に気になってしまい、更に心臓の鼓動が乱れる。しばらくして、大貴のアパート近くの路上に車を止めた陵は
陵「後は俺がやる…助かったよ…」
陵にそう言われると、一瞬間緊張が緩んだが、重量のある死体を1人で運んで捨てに行くとなると相当な労力がいるし、1人で手間取っている間に誰かに見つかってしまうリスクも高くなる。そしてなにより、今自宅に1人で居るほうが余計に不安に駆られる気がした大貴は
大貴「俺も手伝うよ…そのほうが…早く終わるだろ…?」
陵「いいのか…?」
大貴「ああ…」
陵「ありがとう…」
助手席に大貴を乗せたまま再度車は走り出す。しばらく走って郊外までやってくると、静寂に包まれた住宅街を抜け、とある橋の上で車を止める。他の車や人が居ないことを確認すると、2人は車を降りて、ブルーシートに包まれた死体を担ぎ、橋の上から死体、ナイフ、血に塗れたTシャツを全て川に投げ入れた。
ドボン!と着水した音が聞こえ、下を覗くが暗闇で全く見えず、橋の上から身を乗り出してまで下を確認しようとする陵の腕を大貴が引っ張って静止する。
大貴「おい…!落ちるぞ…!この時間じゃどうやっても見えねえだろ…。それより早くこっから離れようぜ…!」
大貴に静止されると、陵は我に返ったように頷き、2人で車に乗り込んでその場を後にした。
帰りの車内でも2人の間には暫く沈黙が続いていた。事を済ませた後のため、心無しか緊張の糸がほぐれた気がしていたが、後部座席を一瞥すると、ブルーシートに付着していた泥や枝葉などの残留物を見つけ、''死体遺棄事件''に自分が関わってしまったのだと、改めて実感して激しい自責の念に駆られる。
大貴「ほんとにあそこに捨てて大丈夫なのか…?」
沈黙を破るように大貴が話し掛ける。
陵「あそこの川は大きいし、流れが早い。明日は大雨らしいから、増水して更に遠くまで流れてくれれば…そうそう見つからないはず…。大丈夫だ…きっと…」
大貴「そうか…。ほんとにとんでもねえことしたな…俺達…」
陵「今の日本には行方不明者なんて数え切れないぐらい居るし、万が一捜索願が出されたとしても、死体が見つからなければ警察は本格的に動かないって、ネットで見たことがある…。だから大丈夫だ…」
陵は自分に言い聞かせるように、ハンドルを強く握りながら話す。
もし万が一死体が見つかって警察の捜査が始まったらどうする?
周辺の防犯カメラなどで特定されないか?
など、最悪なパターンが大貴の頭によぎったが、陵が不安な表情を浮かべながら必死に虚勢を張って自分の気持ちを落ち着けようとしている様子を見ると、中々言い出せなかった。
大貴のアパートの前に車が止まると、助手席から車を降りる。
陵「付き合わせてほんとに悪かった…。この事は…もう無かったことに……」
大貴「ああ…分かってる…。もう忘れよう…」
陵「うん…。じゃあまた連絡する…」
助手席のドアを閉めると、陵の車は自宅方面へと走っていった。
それから1ヶ月、2ヶ月と時間が経過しても事件は明るみに出ることは無く、このまま迷宮入りにできるかもしれない。そんなことを考えた時もあったが、いつかひょんな事で全て明るみになるかもしれないという不安は拭えず、自ら忘れようとは言ったものの、この1年間、片時も忘れたことはなかった。
あの事件以来、陵との関係にも溝のようなものが生まれ、連絡する頻度も減ってしまった。もしかしたら無意識のうちに、自ら陵を避けてしまっていたのかもしれない。
たまに会って話すとなると、どうしても事件の話題になってしまい、毎回なんとか笑顔で取り繕うとするが、一緒に居ても心から笑える時はなかった。
あの事件を起こしたという事実がある以上、もう昔のような2人の関係には戻れない…。