35 天使と悪魔
ソリタリオ王子に抱っこされたまま、丘を下りる。
わたしは猟師に捕まった子ギツネのようにちんまりしていたけど、気分だけは九尾の子キツネのように贅沢だった。
なぜなら、むせかえるようなバラの香りの中に、ほのかに香るラベンダーという豪華な香りの二重奏に包まれていたから。
バラの香りはゴージャスな感じがしていいんだけど、でもずっと嗅いでると飽きてくるな。
やっぱりわたしはこっちのほうがいいやと、王子の肩に顔を埋めてくんかくんかする。
「ふふ」と笑い声がしたので顔をあげると、九尾の親ギツネのような視線がそこにあった。
「ソレイユは本当に感情豊かだね。猫の目のように変わるっていうのは、キミの顔のことをいうんだろうね」
「そ、そう?」
「キミはちょっとしたことで怒ったり落ち込んだりするけど、すぐに元気になるよね」
「あ……それは友達にもよく言われる。学校の登校中にケンカして口を聞かなくなっても、ホームルームの時には笑顔で話しかけてくるからビックリするって。わたし、イヤなことはすぐに忘れるタイプみたい」
「ふぅん、じゃあ猫の目というよりニワトリの頭だね。三歩歩けば忘れる。」
「もう、またからかって……。でもすぐ怒るわたしと違って、王子はぜんぜん怒らないよね? 怒ったところを見たことがないんだけど」
「その必要がないからね」
たしかに、王子という立場のうえになんでもできる才能があるなら、ストレスなんて無さそう。
わたしの羨ましげな表情を察したのか、王子は自虐的に笑む。
「でもそのかわり、心の底から笑うこともできないんだよ」
「えっ、そうなの? 王子は意地悪をした時、いつも楽しそうに笑ってるのに」
「結果がわかっていることに、本気で笑うことはできないだろ? 絶対に勝てるジャンケンに勝っても嬉しくないように」
「絶対に勝てるジャンケン? それって、相手の出す手がわかるってこと?」
すると王子は顔を上げ、見渡す限りのバラを眺めつつ言った。
「相手の手がわかるというより、僕が望んだ手を相手に出させることができる、といったほうがいいかな。僕がその気になれば、ここにあるバラをすべて、この惑星の裏側に持っていくことだってできる。しかも一切、僕の手をわずらわせることもなく、ね」
わたしは一瞬「うそぉ」と思ったけど、王子のこれまでの活躍からしてそのくらいのチートがあってもおかしくないな、とすぐに思い直した。
王子はどこを見ているのかわからない、ぼんやりとした瞳で続ける。
「でもなんでもできるというのは、なにもできないのと同じ。なんでも見えるということは、なにも見えないのと同じなんだよ。僕が魚なら、この世界は汚れた水槽と同じさ」
禅問答みたいなことを言いだした王子は、わたしが知らない王子だった。
「僕はテストや勝負ごとで一度も負けたことがなかった。あの決闘が、僕にとって初めての敗北だったんだ」
あの決闘というのは、わたしのドジで負けた決闘のことに違いない。
ジワルくんにさんざん新聞紙でぶたれたから、わたしは罪を清算した気でいたけど、そういえば王子本人にはまだ謝ってなかった。
「ご、ごめんなさい、わたしのせいで……」
「謝る必要なんてないよ、だって楽しかったから。まるで住み慣れた水槽のなかで、外に繋がる管を見つけたような気分なんだ。管の先は天国のような大海原か、それとも地獄のような下水道か、僕でもまったくわからない」
ふっと視線を落とし、わたしの顔をふたたび見る王子。
「それが僕にとってのキミさ」
その顔は、いつもの王子だった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
夜、宮殿に帰ったあとでも、わたしはひとり寝室で首を傾げていた。
「わたしは王子からすると、どこに繋がってるかわからない管……? それって、どういう意味なんだろう?」
しかしわたしは考えることがニガテだ。
「ええい、わかんないことをいつまでも考えてもしょうがない! 寝よ寝よ!」
と、さっさと床に着いたのはよかったんだけど……。
寝返りを打った拍子に顔にゴチンと固いものがぶつかり、わたしは鼻を押さえて飛び起きてしまう。
「い……いったぁ~! な、なに? なんか固いのが……」
カーテンの隙間から光がさしこむ部屋は薄明るく、窓から鳥の鳴き声がするのでもう朝なんだろう。
まだ眠い目をこすりながらベッドの上にあったものを確かめた瞬間、わたしは「ウギャー!」と絶叫していた。
「なっ、なななな、生首っ!? それも、マザーロウの!?」
マザーロウの生首はひとつだけじゃなくて、ベットサイドのテーブルや床にも置かれていた。
まるで生きてるみたいな生首たちがこっちを見ていて、ここはなんの地獄かと思ってしまう。
恐怖のあまりベッドから転げ落ちそうになっちゃったけど、よく見たら生首の頭部にはポッカリと穴が開いていた。
「……あ……あれ? これ、花瓶……? あ、もしかして、美術品置き場にあったやつと同じ……?」
冷静になってくると視覚だけじゃなくて嗅覚もハッキリしてきて、ラベンダーの残り香を嗅ぎつける。
最初はジワルくんの仕業かと思ったけど、すぐにあの顔が浮かんできた。
「い……イタズラ好きのお魚王子めぇぇぇぇぇ~~~~~っ!」
火のついた導火線のように迸る怒りを感じながら、わたしはパジャマ姿のまま寝室を飛びだす。
ちょうど制服姿の王子の背中が廊下の向こうに見えたので、わたしは全力で追いかけた。
「お……王子! なんてことするの! ビックリして心臓が止まるかと思ったわ! なんでわたしに意地悪ばっかりするの!?」
すると王子は、狼少年が初めて本当のことを言ったのにウソだと罵られたような、傷付いたような顔をした。
「意地悪じゃないんだけど」
「えっ」
「大事にしてくれるんじゃなかったの? 言ってたでしょ? 僕が花瓶を直したら一生大事にするって」
その一言で、わたしの怒りは青ざめる顔とともに消沈していく。
そういえば美術品置き場でマザーロウの花瓶を割ったとき、わたしは宣言していた。
『王子が直してくれたら、花瓶はわたしが一生大事にする! だって、こんなに愛情いっぱいの花瓶……しまっておくにはもったいないから!』
いや、でも……あの約束は、直してくれたやつだけのつもりだったんだけど……。
現に昨日までは、わたしの部屋には王子が直してくれたマザーロウの花瓶がひとつだけあった。最初は窓辺に置いておいたんだけど鳥が来なくなったので、書斎机の上に壁のほうを向けて置いてあったんだよね。
そう弁解しようとしたんだけど、王子は心の声すらも聞いていたかのようにわたしの機先を制した。
「ふぅん、キミは花瓶をしまっておくのはもったいないとか言っておきながら、僕が直したひとつだけを大事にするんだ。ふぅん、残りはぜんぶ暗くて狭い棚の中にしまっておいても平気なんだね」
「ぐぬっ……! わ、わかったわよ! あの花瓶、わたしがぜんぶ使う! あとで使うから返せって言ったって遅いんだからね!」
売り言葉に買い言葉。わたしはついカッとなって、マザーロウの花瓶をぜんぶ引き取ることになってしまった。
「ところでソレイユって、すごく寝付きがいいんだね」
「えっ?」
「花瓶を運び込んだときにけっこううるさくしたんだけど、ぜんぜん起きなかったから」
「あ……そうなの? でも、それはよく言われるかも」
いちど寝たらちょっとやそっとのことでは起きないのは、わたしの数少ない取り柄のひとつだ。
「あれじゃ、寝込みを襲われても気づかないんじゃない?」
背筋が寒くなるような一言に、わたしはサッと身を引く。
「まさか王子、わたしにへんなことを……!?」
「したよ」
あっさり認めたので、わたしは「えっ」となってしまう。
いや婚約者だから、多少ならへんなことはしてもいいんだけど……ってなに言ってんだわたし。
キョドるわたしに向かって、王子は立てた親指で廊下の窓を示す。
つられて見やった先には王子の姿、そしてパンダみたいなメイクをした女の子が立っていた。
「うっ……うがぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーーーーーーーーっ!! こっ、この、悪魔ぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーーーーーーっ!!」




