3:忘却の海を揺蕩う。
王城で働かれている皆様、こんにちは!
只今、ワタクシ、王城内をズンズンと歩くミカエルさんに、担がれております!
工事現場のセメント袋のように。
スーパーの米袋のように。
ホームセンターの肥料のように。
担がれております!
だけど、気にしないで下さい!
そんなにジロジロ見ないで下さい、お願いします。ホント。
――――てか、どこに行くんだろ?
ミカエルさん、細身なのに凄いなぁ。私、たぶん、ごじゅ…………超えてないはず。
「ミッ、ミカッ、エル、さっ――――」
「話さないで。舌を噛んでしまうよ」
「……」
担がれたまま王城を出て、馬車に乗せ…………いや、どっちかと言うと、詰め込まれた、かな?
「あの、ミカエルさん」
「……」
「ミカエルさん……?」
「……」
馬車の向かい側に座るミカエルさんに、何度も話しかけた。視線は合ってるから聞こえていないはずはない。明らかに無視されてる。
全く訳が解らない。何でここにいるの? 何で怒ってるの? 何で? どこに行くの? 何を聞いてもミカエルさんは答えてくれなくて、少し悲くなって俯いて膝の上に置いた手を見つめ続けた。
十分ほどでどこかのお屋敷に到着した。
んで、馬車から降りたら、またもや肩に担がれてしまった。
ズンズンズンズン進むミカエルさん。
慌てふためく使用人さん達を無視してズンズンズンズンとお屋敷の中を進んで行く。
そして、ズガーンとけたたましい音を立ててドアを蹴り開けて入ったのは、たぶんだけど、ミカエルさんの寝室だった。
そっとベッドに下ろされ、えっ? と思った時には既に押し倒されていて、ミカエルさんが私に覆い被さっていた。
「――――っ⁉」
足の間にミカエルさんの膝が差し込まれた。ミカエルさんが膝で股の所をグリグリと刺激して来る。
誰にも触られた事が無いソコを執拗に刺激されて、お腹とか、背中とか、心臓とか、ゾワゾワした。
変な声が出そうになるのをぐっと我慢した。
「ン、ミッ、ミカエルさんっ!」
「黙って」
不機嫌そうなミカエルさんの顔が近付いて来て、ミカエルさんの唇と私の唇が重なった。
「っ、んっ……ん、ん、ふ、んいっ……」
こんなの、知らない。
キスって、唇と唇合わせてチュッて触れ合うものじゃ無いの?
ミカエルさんの舌が口の中をグチャグチャに搔き回したり、私の舌と絡めたり、吸ったり、甘噛みしたりしてくる。
「ミッ…………ん、やぁ……くるしっ! …………ハァハァ」
「……ハァ」
激しいキスは息切れとともに止まった。
だけど、唇も舌もジンジンとして上手く話せない。息が、喉が、胸が……苦しい。
ミカエルさんは少し深呼吸をして、私のお仕着せのズボンに手をかけ脱がそうとしてきた。
バタバタと抵抗したけど、男の人の力には敵わなくて、ズルンと脱がされてしまった。
「ひぁえっ!? ミカエルさん…………あのっ……そっ、そのっ、まって……」
「ターニャ、もう逃さないよ? ねぇ、一緒に気持ちよくなろう? ね?」
「え……」
たぶん、私の顔は真っ青になっていたんだと思う。ミカエルさんが目を見開いた後、クスクスと笑いながら左手で私の頬を撫でて怖がらなくて大丈夫だと言った。
右手は私のパンツを脱がそうとしてきている。
全然、大丈夫なんかじゃないと思う。
「ふふふ、以前は何度もしていたじゃないか。ターニャは私とキモチイイコトするの、好きだったじゃないか。またたくさん教えてあげるよ」
――――以前、何度も?
「ミカエルさん…………あのね、あの、わたっ、んぐっ……」
「ターニャ、もう、黙って。お喋りの時間はおしまいだよ」
そう言って、ミカエルさんが私の口を手で覆ってしまった。
「っう……ぅ、うぅっ……」
ミカエルさんが怖かった。
訳が解らない事が色々と起きていて怖かった。
組み敷かれているのが怖かった。
口を塞がれているのが怖かった。
ミカエルさんが私を見ていないのが……とても辛かった。
「ターニャ、泣かないで?」
――――私、ターニャじゃない。
「ターニャ、ずっと側にいると約束して」
――――私、ターニャじゃないよ?
「んーっ!」
「ターニャ、叫ばないで?」
――――私、ターニャじゃないもん!
やっと、やっとミカエルさんに逢えたのに、ミカエルさんはずっと私に怒っている気がする。
怖くて、辛くて、涙が止まらなかった。
「ターニャ!?」
「っ、うぅぅっ…………」
あまりにも泣く私に驚いたのか、ミカエルさんの手の力が緩んだ。
身を捩ってミカエルさんの腕を振りほどいて、ミカエルさんの下で芋虫みたいに丸まって自身を抱きかかえた。
「…………ごめんなさい」
「ターニャ?」
「ミカエルさん……ごめっ、うぅっ、ごめんなさい」
いっぱいお世話になったのに、挨拶もせずに出て行ってごめんなさい。
アーヤって呼んで欲しいなんて、浅ましくお願いしてごめんなさい。
お手紙の返事が欲しいなんて、わがまま言ってごめんなさい。
…………好きになって、ごめんなさい。
ベッドの上でパンツ半脱げ状態で芋虫みたいに丸まって、グスグスと泣いてしまった。
「ター…………っ、アーヤ」
「……はい」
ミカエルさんがターニャって呼びそうになったけど、アーヤって呼び直してくれた。それだけで、心臓がドキドキした。
スルッとお尻から太股にかけて撫でられて、ビクッとしたら「力を抜いて」と言われた。
そして、そっとパンツをしっかりと穿かされた。
――――え、パンツだけなの⁉
チラチラとベッドの下に投げ捨てられていた私のズボンを見ていたら、腕を引かれてベッドから起き上がるようにと促された。
おずおずと起き上がったら、ミカエルさんに正面から抱き締められた。
「ミミミミカエルさんっ⁉」
「アーヤ、私の方こそごめんね。泣かせたくは無かったのに。怯えさせるなんて、以ての外だったのに。…………アーヤ、キスしていい?」
「…………」
「駄目、だよね? もう嫌いになってしまった?」
「…………ダメじゃない……です」
今度のキスは、唇同士がふんわりと触れるだけの優しいものだった。私がキスだと思っていた、キスだった。
「アーヤ、愛してるよ」
「っ! だ、ダメですよ! ダメなんです!」
「何が駄目なんだい?」
「っ、ダメなんです…………侯爵様がそんな事、言ったらダメなんです。平民にそういう事は言ったらダメなんです。……私に言ったら、ダメです」
だって執事さんが言ってたもん。
これ以上あのような身分の低い者を囲うのはお止し下さいって。愛人にするにしても、せめて将来の奥様が認められるような地位の、せめて淑女の教育を受けている方にして下さいって。あのように侯爵家に寄生して生きようとする端女は、絶対に認められませんって。
「っ! 聞いていたのかい?」
「わっ、私…………ミカエルさんとどうにかなりたいとか、思ってません! …………でも……その、だから……ちゃんと働かなきゃって。好きって言いたいから、働いて自立しようって…………」
身分はどうにも出来ないけど、働いてこの世界で生きる事は私にも出来る。
ちゃんとミカエルさんを安心させて…………好きって告白したら、ミカエルさんの事、ちゃんと諦めようって思った。
「私の事…………好きなのか?」
「っ!」
しまった! 勢い余って余計な事まで口走ってた。
「す、すっすすすきじゃないです」
「ふっ、あはっ、あはははは! 真っ赤な顔して! …………あぁ、君は変わらず君のままなんだね。アーヤ、愛しているよ」
「っ!」
知ってた。
だって、目覚めた時から、ずっとそんな態度だったもの。いくら鈍感な私でさえも気付いてしまう程に。
本当は面と向かって告白して、潔くフラれたかったけど、それが出来なくなった。
だから、お手紙を出す事にした。お手紙の返事、もらえるって思ってた。
ちょこっと幸せな思い出を手に入れたら、それを宝物にして生きてこうと思っていた。
でも、お返事はもらえなかった。
「…………何で?」
「え?」
「何でお手紙のお返事くれなかったんですか? 欲しかった、のに。ミカエルさんとの証、欲しかったのにっ!」
「っ、うん。うん、そうだよね。ごめんねアーヤ。ゼスト……執事が裏切っていてね、アーヤの手紙を改ざんしていたんだ」
――――えっ!?
「でも、執事さん、お屋敷で何十年も働いてるって」
「うん。残念な事に、親族に取り込まれていたよ。信頼関係は築けていなかったらしい。私はとても不甲斐無い男だね」
ミカエルさんが、とても悲しそうな、悔しそうな顔をしていた。眉尻を下げて、目を細めて、微笑むミカエルさんの顔を見たら、何だか私まで悲しくなって来た。
抱き締められていた隙間から右腕を出して、ミカエルさんの頭を撫でた。
「…………アーヤ、逢いたかった。ずっと、こうやって抱き締めたかった」
「私も、です」
自然と顔が近付き、唇が触れ合う。
ちゅ、ちゅ、と音を立てて、甘くて優しいキスを何度も繰り返した。
嬉しいのに、悲しい。幸せなのに、苦しい。甘いのに、苦い。そんなキスだった。
悲しくて、苦しくて、苦いキスを続けながら涙を流した。
「アーヤ、なぜ泣くんだい?」
「っ……この行為に、この気持ちに、未来は……ありますか? 私は、ミカエルさんの側にいていい人間ですか?」
「そんなの、当たり前じゃないか!」
「……私が、ターニャだった頃の記憶を取り戻さなくても? ミカエルさんは……私じゃなくてターニャが好きなのに? 私の中にあるターニャを探してるのに?」
「アーヤ…………」
ミカエルさんが言葉に詰まっていた。
はくはくと口を開け閉めするミカエルさんをそっと押し退けて、ベッドの上で少しだけ距離を取った。
「あの……私、王城に帰りますね」
「っ駄目だ! そんなの、嫌だ。アーヤいなくならないで? 私のターニャはもういないのに、アーヤまでいなくなるの? 皆、私を捨てるの? 家族になろうって言ってくれたのに。私の家族になってくれるって言ったのに! ターニャが言ったくせに! 君が私との思い出を捨てたのに。私を、私だけを責めるの? アーヤの中のターニャを少しでも見たらいけないの? それなら、私も君に言うよ! ターニャを返してくれよ! 妻になるはずだった人を返してくれよ! 今すぐ…………今すぐ、ターニャに逢わせてくれよ!」
ミカエルさんはそう叫んだ後、苦しそうな顔をして、片手で目元を覆ってしまった。
「…………結婚の約束、してたんですか?」
「あぁ――――」
ぽつりぽつりとミカエルさんが過去の事を話してくれた。
◇◆◇◆◇
両親が、親戚からの怪しい儲け話に手を出して領地の運営に失敗し、家財を持って弟だけ連れて逃げた。
両親は、父親にそっくりな弟だけを溺愛していた。
私は、母親の出来の悪い兄に瓜二つらしい。だから愛せない、と言われた。顔だけしか取り柄の無い男にお前もなるんだろうね、と蔑まれ続けていた。
気付かぬ内に爵位は弟に継がせると決まっていた。その事に異論は無かった。何故なら一刻も早くこの家を出たかったから。
自立できる年齢になり、私は騎士になった。
帰りたい家が無いと言うのは、思いのほか仕事に打ち込めるのかもしれない。あれよあれよと出世し、王族の目に止まるような手柄を立て、二十三にして近衛騎士に抜擢された。
忙しくも充実した日々を三年過ごした。
王子殿下が無事に一歳を迎えた事で、王子殿下付きの騎士を誰にするか話し合っていた最中、実家の執事から知らせが入った。
割と国の重要な位置にある実家の領地。そこを傾ける事はならないとの事で、陛下に再建を命令された。国に返還し、然るべき手腕の持ち主に与えて欲しいと具申すると、それが私なのだと言われた。
爵位を継ぎ、死にもの狂いで領地の運営を学び、王都で手に入れた伝手を活用し、清濁を合わせ飲み、二年で負債を無くした。
暫くすると『天使の名と顔を持つ魔王侯爵』とか不名誉かつ奇妙な二つ名で呼ばれる事となった。
そんな奇妙な名にも慣れた頃、領地のとある村で珍妙な子供が発見されたと報告が入った。我が領地は二つの国境が近いので、他国の子供が何かあって迷い込んだのかと思い、たまたま近くに行く用事があったので件の村に立ち寄った。
そこで、艷やかに輝く真っ黒な髪を振り乱し、鶏を追いかけている少女に出会った。
彼女は村人達から『タニア』と呼ばれていた。
彼女は山賊に襲われ、帰る家も何も無いと言っていたそうだ。奇妙な子供、と報告を受けていたが彼女は二十歳だと言う。二十歳と言う割には、あまりにも幼い見た目をしていた。
まぁ、長らく栄養不足だったか、過酷な環境で生きていたせいなのだろう。
何となく気になって、月に何度かタニアの様子を見に行く内に我が家で雇う事になった。
タニアはとても不思議な子だった。
どこで学んだのか、計算が異常なほど早く正確だった。帳簿の間違いに気付いた時などは、訂正し、改善案まで出して来た。
執事のゼストはタニアを不審がり帳簿を触らせるのを嫌がったが、能力の高さは認めていた。
もしや貴族の出だろうかなども考えたが、当たり前の事……例えば二つの隣国や世界の歴史、誰もが知る物語など、一切知らなかった。
あまりにもちぐはぐな為、不審に思い問い詰めると『異世界から来た』などと馬鹿げた事を言うようになった。
初めは信じていなかった。だが、色んな事が積み重なり、にわかには信じられないが、それでも事実なのでは? と思うようになっていた。
ある日の夕方、タニアが庭にある四阿のベンチに座り、足をプラプラと動かしながら歌っているのを発見した。
聞いた事も無い言葉なのに、聞いた事も無い音程なのに、聞いた事も無い歌なのに、何故か聞き惚れて、涙を流していた。
私に気付いたタニアが「天使の名と顔を持つ魔王侯爵にも涙腺があったんだ!? ぶふっ……魔王侯爵って厨二病っぽい」と驚いた後に爆笑しだした。
人を良く分からない病にして爆笑とは何事かと怒ったが、泣き顔を見られた手前、あまり威厳は無かったと思う。
泣き顔を見られてから、タニアが妙に優しくなった。そして、異常に構ってくるようにもなった。
お菓子を作った、一緒に食べよう! や、肩凝ってるねぇ! と肩揉みしてくれたり、仕事のしすぎ! と怒って来たり。
その度に執事のゼストが険しい顔をしていたが、私は見て見ぬ振りをしていた……。
ある日、タニアが夜中に庭の四阿で酒を飲んでいる所に出くわした。
聞けば、今日は二十一歳の誕生日だと言う。顔を真っ赤にして瞳と唇を潤ませて、寂しそうに月を見上げていた。
つい……はずみ、気まぐれ、出来心、たぶんそんなものだろう。
この子はこのまま消えてしまうのでは? と妙な不安に駆られ、気付いた時には抱き締めて唇を重ねていた。
首の後ろを支えながら、ねっとりと舌を絡ませていると、胸を緩く叩かれた。
息継ぎがしたいのかと思い、そっと唇を離すと、タニアは顔を真っ赤にして良く分からない言葉で叫び、私の頬に平手打ちして走って逃げて行ってしまった。
次の日、屋敷の中でふと見掛ける度に真っ赤になって逃げて行くのが面白くて、ついつい……付け回した。
仕事しろ! と本気で怒られた。
キスをしたあの夜から、タニアが女に見えて仕方なかった。
ぷっくらした唇、ぷにぷにの二の腕、肩揉みの時にたまに当たるささやかな胸、香水とは違う甘い香り、抱き締めた時の何ともいえない心地良さを思い出すと…………腹の奥底が疼いた。
ゼストの目があったというのもあるだろうが、私もタニアも自分の身分や立場を弁えていたのだと思う。
睦まじげに話したり、頭や頬を撫でるなどの触れ合いはするが、それだけだった。
タニアは翌年の誕生日もまた庭の四阿で酒を飲んでいた。
あまり強くないようで、コップ一杯のワインで程良く酔って心地良さそうにしていた。
これ以上は飲むなと言ったが無視して飲もうとするので、取りあげて私が飲み干してしまおう思った。飲んでいる途中でタニアが取り返そうとして来たので、慌てて全て口に含んだ。
…………タニアが私の両頬を押さえ込み、唇を重ね、私の口の中のワインを吸い出した。全てを吸い出し、飲み下して、ニヘヘッと変な声で笑っていた。
一年近く我慢していたがもう無理だった。
抱き締め、貪るように舌を絡め、服を脱がそうとした。が、真っ赤な顔で「ここじゃヤダ」と言われた。ここでなければいいのかと確認すると、タニアはコクンと頷いた。
タニアは初めてだった。
初めてを私にくれた。
私に愛を教えてくれた。
タニアは私の、私だけの宝物になった。
幾度となく体を重ね、愛を囁やいた。囁き続けた。
それでも、タニアは未来を、将来を誓ってはくれなかった。
なぜそんなに結婚したがるのかと聞かれ、家族とも言えない家族の話をした。
自分だけの家族が欲しいと話した。
タニアはホロホロと泣いて抱きしめて、キスをくれた。それでも、将来の約束はしてくれなかった。
それでも私はタニアを愛し続けた。
いつの間にか、ターニャと愛称で呼ぶようになった。
ターニャは「外国人みたいでカッコイイ」と気に入ってくれた。アニメとかいうもののキャラクターと同じ名前だとかも言っていた。
それから更に三年経ったある日、両親と弟が隣国で捕まり、強制送還されて来た。
隣国で犯罪に手を染め、落ちる所まで落ちていたらしい。
三人は隣国からの要請で死刑になった。そこは割とどうでも良かった。陛下も解っていたかのように、ほぼ業務連絡のようにサラッと「昨日処刑した」だけだった。
ただ、これで私は本当にこの世に一人きりになったのだなと思った。
ふと、この世界に一人きりで寂しくはないのかとターニャに聞いてみたが、彼女は答えてはくれなかった。
翌朝、目を覚ますと、ターニャが枕元に座り、私の頭を撫でていた。
どうしたのかと聞くと、やっと決心が着いたと言い、話し始めた。
ターニャは、いつか自分は元の世界に戻ってしまうかも知れない、と言った。
この世界に来た時、ターニャは仕事帰りに町中を歩いていただけだったらしい。なのに森の中にいた。そして、例の村で保護された、と。
だから、家族を欲しがる私が傷付いてしまわないか心配だ、と言った。
ターニャがいきなり消えて、心を壊さないか、また泣いてしまわないか、ターニャはそれが怖いと言った。
私は、何も言えなかった。ターニャを愛している。でも、ターニャみたいに、彼女の事なんて考えていなかった。
ただ、欲しがっていた。私だけを見てくれる相手を欲しがっていただけだった。
私はとても恥ずかしくなった。
だけど、ターニャは笑って「そういう所が可愛くて好き」と言ってくれた。そして、お願いされた。
「私がいなくなっても、愛しててくれる? 他の誰かを愛してもいい、再婚してもいい。けど…………私の場所はちょこっと残してて欲しい、かな?」
当たり前だ、絶対に、命を掛けても、と誓うと「重たい」と笑われた。それから「結婚してあげるよ。家族になってあげる!」とかなり偉そうに、真っ赤な顔でそっぽを向いて言ってくれた。
人生で、一番幸せな日だった。
それから一週間後のあの日、指輪の注文に出掛けた帰り道が、人生で一番最悪な日になった。
◇◆◇◆◇
ミカエルさんが俯いてボロボロと涙を流していた。
私が泣かせてしまった。
今思えば、ミカエルさんは一回も『思い出して』とは言って来なかった。
ターニャはどういう人で、どういう生活をしていた、自分とどういう関係だから、なんて一言も言わなかった。
ただ、私の中にあるターニャをこっそり愛し続けていただけだった。
ターニャとの約束を守って、彼女を、私を、愛し続けている。とても優しい人を、自分勝手な理由で責めてしまった。
なんて優しい人なんだろうか。
なんて愛しい人なんだろうか。
こんなにも愛されているのに、ターニャはどこに行ってしまったんだろうか。
「ミカエルさん、泣かないで?」
「…………無理だ。もう、頑張れないよ」
ミカエルさんが俯いたまま、ぷるぷると頭を振った。
「頑張らなくていいです。今度は私が頑張ります。私、思い出せるか解らないですけど、思い出したいです。私が消えてもいい。ミカエルさんにターニャを返したいです」
それくらい、この人を愛しいと思った。
それくらい、二人で幸せになって欲しいと思った。
それくらいしか、私には出来ないと思った。
なのに、ミカエルさんは絶望したような顔になった。
「アーヤ、そんなっ! アーヤ、すまない……私は何という事を!」
ミカエルさんが私の頬を両手で包んで、しっかりと目を合わせるように顔を覗き込んで来た。
「アーヤ、君は一人の人間だ。君はアーヤだ。君は君のままでいい」
「でも……」
「アーヤ、お願いがあるんだ。ターニャを愛したことを無かった事にはしたくない。彼女の場所を、彼女への気持ちを、少しだけ残す事を許してはくれないだろうか。そして、君を愛し続ける事を許してはくれないだろうか。わがままを言っているのは解っている。不誠実だとも解っている。最低な男ですまない…………」
呆れるほど単純な私は、『君を愛し続ける』それだけで舞い上がった。
答えはイエスしか持ち合わせていなかった。
ミカエルさんに触られれば触られるほど、体の奥から蜜が溢れ出した。
恥ずかしい。とにかく、恥ずかしい。胸やお腹や……足の間を、全身を見られた。
脇毛、こまめに抜いていたけど、特に誰に見せるでも無いし、ノースリーブとかこの世界じゃ着ないし、とか思った自分を呪いたい。最後に抜いたのは五日前だったから、嫌な予感はした。やっぱりちょっと生えてた。
ミカエルさんに「ふふっ、どこの毛も黒くて可愛い」と脇を撫でられた時は死にそうなほど恥ず悔しかった。
初めては痛いって皆が言うよね……って、皆が言うし、痛いの怖いな、すっごく痛かったらどうしよう、でもミカエルさんがくれる痛みなら我慢できそう……とか思ってた。
――――痛く無いんだ?
「アーヤ、んっ、アーヤ……手を繋ごう?」
ミカエルさんが恍惚とした顔で指を絡めて来た。
視界がゆらゆらと揺れる。
ゆらゆらゆらゆら、海を揺蕩うように、ゆらゆら。
ゆらゆら、ぐらぐら…………揺らめきながら何かを呟いては忘却の彼方に置いていく。
お腹の奥が痛いほど疼き、太股がガクガクと震え、訳がわからない叫び声が漏れ、あまりにも怖くて涙が溢れ出した。
頭がぼーっとする。
ゆらゆらゆらゆら、また視界が揺れはじめた。
「…………アーヤ、泣かないで……アーヤ、ごめんね……ごめんね、我慢、出来無い…………酷い男でごめんね………………ターニャ……っ、ターニャ! 愛してる!」
「ミカ――――」
キスで口を塞がれた。
ミカエルさんもポロポロと泣いている。
泣きながらもお互いに貪る事は止めなかった。
ゆらゆらゆらゆら、揺蕩って、さっき聞こえちゃった名前は……忘却の海に捨ててしまおう。
今だけは、私だけのミカエルさんでいて欲しいから。
今だけは、私だけを愛してて欲しいから。
ゆらゆらゆらゆら、体が揺蕩う。温かくて気持ち良い。
重たい瞼を押し上げると、ミカエルさんに後ろから支えられてお風呂の中にいた。
「…………お、ふろ……?」
あの日、私が目覚めた日のように、声が出なかった。ちょっと違うのはカラオケをし過ぎた時みたいに妙に上擦る感じなトコ。
「アーヤ、ごめんね。酷くしてごめん」
「痛く……なかった、です、よ?」
「っ…………アーヤは怖いって、言ったのに。止まらなかった」
「うん。怖かった。……でも、幸せ。好きな人と一つになれて幸せです」
「…………」
後ろにいるミカエルさんを見ようと振り返ったら、目を逸らされてしまった。
「ミカエルさん?」
「っ、私は、君の名を――――」
慌てて耳を塞いだ。
急に動いたせいで支えを失って、お湯の中に仰向けで潜るように滑り込んでしまった。
慌てて起き上がって、少し咳をしながらちらりとミカエルさんを見たら、真っ青な顔で小刻みに震えていた。
「アーヤ、お湯は飲んでない!? 苦しくない!? アーヤ!?」
「大丈夫です。飲んでませんよ」
ミカエルさんがホッとした顔になって、ギュウギュウに抱き締めてきた。
「アーヤ…………」
「ミカエルさん?」
「アーヤ、ごめんね」
「なんで……なんでそんなに謝るんですか?」
なんでそんなに辛そうな顔をするの? やっぱり私とは無理だったのかな? ターニャじゃ無いと駄目だったのかな? 私は幸せだったのになぁ。ミカエルさんは違ったのかなぁ。お別れの言葉だったら嫌だなぁ。聞きたくないなぁ。
「聞こえていたよね?」
「――――な、にがですか?」
一瞬言葉に詰まったけど、とびっきりの笑顔で、何の事か分からないふりをした。
「ターニャ」
「……」
「君を、そう呼んでしまった」
とびっきりに偽装した笑顔が、グシャっと歪んだのが自分でも分かった。
せっかく忘却の海に捨てて来たのに。こんなにも簡単に戻って来るなんて。
それなら……ターニャ本人が戻って来れば良いのに!
「お風呂、あがりましょう?」
「アーヤ……」
「……」
「アーヤッ!」
湯船から出てタオル置き場に向った。呼ばれたけど無視していたら名前を叫ばれた。
「何ですか?」
「アーヤ……」
「ターニャって、呼べば良いじゃないですか。私はターニャなんですよね?」
「アーヤ…………」
ミカエルさんが、とても苦しそうな顔をしていたけれど、私は無視して服を着た。
次話は21時頃に更新します。