「ニューワールド〜新たなる一歩」
【血塗られた祭典】
強化アクリル越しに見上げた空は雲ひとつなく真っ青だ。日差しが照りつけるが、暑くはない。巨大なアクリルドームの中は適温調整されているからだ。女の手のひらには白い錠剤がのっていた。いまそれを口に含み、水なしで飲みほす。これが彼女の食事だった。この時代、全人類の食事はタブレットにとって代わっている。女はこれから始まる本番にそなえて水分摂取を避けた。
白い衣装に身を包んだ女は胸に鈴蘭の花を飾っている。薄紫色をしていた。彼女の姉が大好きな花だ。姉は常々、その花の香りと花言葉が気に入っていると話していた。尊敬する姉のお気に入りの花を身につけることで、これまでの練習の成果が発揮できる。そんな想いで、本番のステージを迎えていた。女は踊り子である。彼女は選抜されてこの場所にいた。
いま女は背筋を伸ばし、両手を頭上で一つに重ねた。音楽がスタートするのを待っている。そしていま悲しげな縦笛のメロディが流れてきた。その旋律に合わせて女は躍動する。
高鳴る鼓動を感じている。皮膚にヒリヒリとした感触を覚えた。やがて痛みに変わり、最期は我慢できなくなった。
「ダンスに集中しなくては」独り心の中でつぶやく。周りを見ようとするが滲んで見えない。両目が熱くなり、涙がこみ上げてくる。やむなく拭えば、涙ではない。真っ赤だ。「いったい何?」ヌルヌルと手が滑る。他の踊り子みんなも同じように赤く染まっていた。「い、い、痛いっ」。再び激痛が眼球を貫く。立っていられないほどの痛みだった。女は背中に衝撃を感じた。倒れたのだ。鮮血の匂いが鼻をつく。血の海なかに横たわっていた。次第に痛みの感覚が遠のく。同時に視覚はすべての光を失った。辛うじて機能する聴覚は、うめき声と叫び声を捉えていた。女の胸飾りの花びらは、薔薇の花と見違えるほどに、たっぷりと鮮血を吸い込んでいた。
テレビ中継のカメラはアップで捉えていた。それは、白いシルクに身を包んだ女たちが踊っている様子だ。衣擦れする音までもがBGMを奏でるようにリズミカルだった。躍動するたび、美しい肢体が衣装から透ける。妖艶な色香が漂った。ココナッツに熱を加えたような甘い香りが漂ってきそうだ。踊る女たちを数える。あまりの多さに途中で諦めた。彼女らは流線型の巨大なオブジェを取り囲みながらダンスしていた。旋律に合わせて飛び跳ねると銀杏の葉がひらひらと舞っているように見える。激しい動きだ。世界中から選抜された彼女らの髪・肌の色は様々だ。いま音楽は悲しげな縦笛のメロディだった。ラテンの旋律は南米大陸の荒涼たる砂漠を連想させた。
ダンスの様子をさらに多くの観客が見つめていた。男も女も老いも若きも皆が熱狂していた。彼らの歓声が地響きとなってこだまする。披露されるダンスに酔いしれるというより、人類史上初となる宇宙移住計画に陶酔していた。人々を収容するのは、すり鉢状の巨大なスタジアムだ。巨大宇宙船を発射するための施設だが、宇宙船と同様に施設も超大なためスポーツ競技場にみえる。中央に鎮座するシルバーの巨大なオブジェこそが人類が開発した宇宙船「オデュッセウス」号だ。その周りで白い踊り子たちが舞いを披露している。
巨大な宇宙船とその周り取り囲む人々。その様子を見晴らせる高所にはガラス張りの貴賓席があり、フュラー総統をはじめ幹部が顔を揃える。フュラーこそが地球連邦政府を率いる人物だ。黒のレザー制服に身を包む。傍らには、ガンメタリック色の鈍い光をたたえるアンドロイドがいた。汎用AIの頭脳を搭載したアドルフと呼ばれる人型ロボットだ。総統の戦略立案の補佐役であり警護を兼ねる。
いまフュラー総統の視線は巨大モニターに注がれていた。豪華客船の側面ほどの大きさがあった。ダンスを映し出していた画面は、男女二人の映像に切り替わった。男は宇宙計画の責任者・チェンバレン博士。医師の資格も持つ天才科学者でフュラー総統からの信望も厚い。女はジャーナリストのアリス。全世界へと生中継される番組の聞き手としてマイクを片手にしていた。
カメラクルーを伴ったアリスは博士にインタビューしている。「チェンバレン博士、宇宙船の出発が一年後に迫りました。ご苦労も多かったと思います。お話を聞かせてください」。マイクを向けられたチェンバレンはウェーブがかった金髪で青い目をしている。尖った顎が印象的だ。「我々は先人の偉業を振り返るべきだ。アルバート・アインシュタイン博士。そして量子宇宙論の分野を切り拓いたスティーブン・ホーキング博士の偉業に負うところが大きい。ホーキング博士が亡くなって来年で五十年という節目を迎える。彼の提唱した基礎理論が無ければ、人類の火星移住実現に漕ぎ着けることはなかった」低く渋い声でこたえる。「地球の隣の軌道を回るのが火星です。ホーマン軌道を使えば、航行距離は短くて済む。さらに地球外の燃料を使う事でエンジン燃焼効率を上げ航行速度のアップも実現した。それによって片道半年掛かっていた火星旅行は1ヶ月へと短縮される」と続けた。視線の先には、1年後に発射される巨大な宇宙船がみえた。流線型でグレー色をしている。球技で使用されるドーム球場ほどの大きさだ。
アリスが質問を続けていると、チェンバレンの表情が曇った。異変を感じたからだ。いまサイケデリックな曲に合わせて身体を動かしている踊り子らの様子がおかしい。アリスがカメラスタッフに伝える。「インタビューはいったん中止。ダンサーたちをアップにして!」。ビデオカメラは狂気を捉えていた。ダンサーだけではない。人々が咳き込み次々とその場に突っ伏した。叫び声や悲鳴がこだまする。
目を疑う光景が広がっていた。白いはずの衣装が真っ赤に染まっている。流れ出た鮮血が衣服の色を変えたのだ。よく見ると人々は目頭から血を流していた。苦痛を伴っているようで、もがき苦しみながら崩れ落ちていく。「いったい何がおきているの?」アリスは力無くつぶやく。緊急事態を受け、中継は打ち切られた。チェンバレン博士は部下を引き連れ走り出す。一瞬立ち止まり、アリスを振り返った。「医療班と合流する。私は患者の応急処置に向かう。君は安全な所へ避難するべきだ!毒ガスの可能性がある」。アリスが悲鳴に近い声を上げる。「妹がいるの。踊っていたの」。一瞬だけ逡巡するような表情だったチェンバレンだがアリスに手招きしながら再び駆け出した。アリスも後を追った。
重苦しい空気が、ガラス張りの貴賓室を支配していた。動揺する連邦政府幹部をよそに一人冷静な男がいた。フュラー総統だった。傍らのアドルフも静かに佇んだままだが、人間の目に相当する部分のLEDライトがいま、ブルーからレッドへと変化した。「緊急事態。毒ガスもしくは細菌兵器によるテロ攻撃の可能性が90%。残り10%は偶発的事故だと推察。いかがしましょうか。フュラー総統」抑揚のない電子音声が室内に響き渡る。
フュラーは顔色一つ変わっていない。むしろ冷ややかな眼差しだった。「アドルフ。細菌兵器、毒ガスどちらでもよいが、我々の安全確保を最優先してほしい」。アドルフは、通信モードに入る。左腕の先端をパネルの並ぶモニタージャックに差し込み、メインコンピュータにアクセスした。遠隔操作で、周辺に警備ロボットを配置する。会場に無数あるスピーカーから甲高い警告音とともに、誘導アナウンスが流れた。「初期対応完了。これから大型ドローンでこの会場から脱出。よろしいでしょうか。フュラー総統」。呼びかけに頷きフュラーが貴賓ルームを退室した。幹部が続き、最後にアドルフが身体から発する金属音と共に部屋を後にした。
【神からの天罰なのか】
チェンバレン博士は、白い防護服に身を包んだ医療チームと共に惨状を目の当たりにした。目から血を流した人々のほとんどが絶命している。かろうじて息がある者は、両手で目頭をおさえ、もがき苦しんでいる。「神経ガスなのか?」チェンバレンは防護マスクのガラス越しに亡骸の様子を診ていた。声がする。振り向くと、白かったはずのドレスを鮮血で染めた女がいた。ハイビスカスの耳飾りをしており、惨状との対比で場違いに見えた。
「神の罰。いま私たちは天罰を受けているの」その女は血だらけになった両手を天空へと広げ、譫言のように繰り返している。黒髪が腰まである。声に張りがあり、よく響く。眼に力をたたえていた。その瞳から出血は無い。
「なぜ彼女だけ大丈夫なのか?ということは、毒ガスでない?そういうことか!」。チェンバレンの思考を切り裂く音がした。頭上を見上げる。高速ローターを回転させながら飛び去る航空機が見えた。機体に赤い稲妻があしらってある。総統専用機だった。「混乱収集の陣頭指揮を放棄したというのか?」チェンバレンは怒りがこみ上げるのを感じながら胸の内でつぶやいた。
チェンバレンから百メートル離れた所。血だらけの亡骸がおびただしい数、横たわっている。その中に防護服の女が独り、彷徨っている。誰かを探しているようだ。鈴蘭の花を飾った女を見つけ、その場にしゃがみこんだ。胸に花を身につけた女性を丁寧に抱きかかえる。防護マスクのガラスが内側から曇り、嗚咽が漏れた。
【パンデミック】
謎の出血による死亡者はわずか1週間で100万人に達した。当初、毒ガス、細菌兵器によるテロと思われたが、罹患率の高い病原菌である事が医療チームによって断定され、変異ウイルス「血汗症」と名付けられた。罹患者がまるで汗をかくように血を流す様子からそう命名された。
いま鈍く光るステンレス製の円卓には、地球連邦政府の最高会議が執り行われていた。参加者全てが、食事を摂りながらテーブルを囲んでいる。ランチミーティングと言っても、錠剤2粒と白濁したドリンクだけだった。円卓の中心には黒いレザーに身を包んだフュラー総統。傍らには最高度の人工知能を搭載したサイボーグ・アドルフが屹立している。会議テーブルを挟んで対峙する格好で、チェンバレン博士がいた。白い研究服に身を包んでいる。
口火を切ったのはチェンバレンだ。「病原菌は空気感染することが分かりました。感染率は4割。感染後の致死率は9割を超え、エボラ出血熱のそれに匹敵します。潜伏期間は、数日から数週間を経て発症すると推察しています。そして地球規模で広がっている。自然界でどのように突然変異したのか?それは分かっていません。現時点で判明しているのは、罹患した場合、目や耳、鼻などから大量に血が流れ出して、出血性ショック死にいたるという・・・」
チェンバレンの説明にフュラー総統が割り込んでくる。「全能なる神が、愚かな人間を戒める。その天罰という可能性は?」。チェンバレンの青い目は総統とアドルフを捉え、鋭い視線を注いでいる。極度に緊張した表情が瞬時に崩れ、そして大きくゆっくりと息を吐き出し、かぶりを横にふった。呆れた表情をしている。
総統は表情を変えずに続けた。「今後の感染率の予想ならびに根本的根絶方法の目処はどうなっている?」。かすれた声で質問する。チェンバレンが率いる医療チームの見解はこうだ。効果あるワクチンの開発を進めているが、感染率のスピードと人々が亡くなる数があまりに多い、というものだった。つまり有効な手立てを見いだせないでいる。
説明を聞いていたフュラー総統の表情に一瞬だけだが翳りがみえた。そのわずかな表情の変化をチェンバレン博士は見逃していなかった。チェンバレンの胸中にある疑念が、その微かな変化を見とったのだ。「フュラー総統。ひとつ伺ってよろしいでしょうか」チェンバレンはフュラーの眼を見つめながら続ける。
総統は、小さく縦にかぶりふった。いつもの威厳を感じることが出来ない。「総統。疾病対策についてのお考えはいかがでしょう。ワクチン完成までに一年かかるとみています。それまでの間、市民の隔離を地球規模で行う必要がある。どのように行うかが重要になります。なぜなら人間の居住区域は現在、強化アクリルで覆われた巨大ドームの中になっていて・・」。
チェンバレンの声を今度はアドルフが遮る。「強化ドームは、大気汚染や自然災害から人間を守るために考案された。今回の式典における“血の惨劇”はドーム外での出来事。ところが、感染した患者がドーム内で菌を撒き散らし、さらなる患者を増やすという悪循環となっている。密閉空間のドーム内では悲劇的なスピートで死傷者がでている現状。以上の分析でよろしいでしょうか?フュラー総統」。感情を持たない電子ボイスでアドルフが現状を補足した。
チェンバレンの鋭い眼光は、鈍く光るアドルフの合金ボディとフュラー総統を交互に見遣っていた。視線がフュラー総統のそれと合う。フュラーが左手をチェンバレンへと差し出し、口を開く。「チェンバレンよ、私は君を息子のように思っている。私には、計画がある。私と行動を共にしてくれまいか?」。その眼差しには、春の陽光のような温もりを感じさせた。
フュラーの眼差しとは対照的に、チェンバレンの眼光には南極の氷のような冷たさが漂った。「僕はあなたを本当の父のように尊敬していた。それはあなたがこの地球上から戦争をなくしたからだ。国単位のつまらない駆け引きや争い事を超越するリーダーシップ。それをあなたが発揮した。核ミサイルを廃棄して世界に平和をもたらしたのも、あなただ。さらには食糧合成技術によって革命を起こした。いまや食糧は天候に左右されず工場で必要な分量を計画的に生産できる。結果、地球連邦政府が誕生して世界が一つまとまった。かつての国々のリーダーが、あなたを信任した。だが今のあなたは・・・」。チェンバレンはそこまで言うと言葉を詰まらせた。「だが今のあなたは、何かが違ってしまったように感じる」。そういうとチェンバレンは会議イスに深く体をあずけて、視線を虚空に漂わせた。
差し出していた手をフュラー総統は胸元へとやった。首から下げている勾玉のネックレスを所在なさげに撫でる。無意識でやっている仕草だった。おもむろに口を開く。フュラーの言葉を遮る音がした。ドアが乱暴に開け放たれた。「会議中に恐縮です。緊急連絡がチェンバレン博士あてに」。円卓会議の外側から事務官が告げる。「猛威を奮っているウイルス性血汗症ですが、罹患者ゼロという地域がある、との情報です」。会議室全体がざわついた。「地域というより、厳密には島ということです」。事務官は手にしたペーパーと会議メンバーとを交互にみながら読み上げた。
「総統!専用機の出動を要請します。現地に飛んで確かめたい」チェンバレンは興奮を隠しきれない。謎のウイルスを解決する答えの鍵にいち早くアクセスしたい。その気持が全身からみなぎっている。フュラー総統はゆっくりとかぶりを縦にふる。その表情は暗い。一方チェンバレンはすでに会議室を飛び出していた。
【蓬莱諸島の奇跡】
その情報は、ジャーナリストのアリスからもたらされた。総統からの特別許可を得て、チェンバレンはアリスと共に特別機で蓬莱諸島に到着した。蓬莱の島々は、広大な海域に散在する大小160の島々から構成されている。亜熱帯海洋性気候でアジアの入り口という地理的特性がある。
「君には礼を言わなくちゃいけない。情報をありがとう」チェンバレンがうやうやしくアリスに会釈した。アリスはうなずく。「妹の犠牲を無駄にしたくない。解決の糸口がみつかればいい」。ぽつりとつぶやいた。
アリスによると、血塗られた祭典—宇宙船のお披露目イベントでの生存者をたどると蓬莱諸島に行き着いた、という。きっかけは、チェンバレンから聞いた「生き残りの女性がいる」という証言だったという。いまアリスとチェンバレンは、その中でも最も大きな面積を誇る沖那島にいた。
訪れたのは世界最高水準の科学技術を研究する施設だ。博士養成過程があり、その研究成果が注目を浴びていた。医学分野のドクターが応対してくれた。初老の紳士だった。白衣をイメージしていたらカラフルな開襟シャツを着ていた。「おっしゃる通り。この島、いや諸島どこを見回しても、感染者は皆無。ゼロです」白髪交じりの医師は訛りのある英語でとつとつと語る。まるで昔話を孫に聞かせるような声のトーンだ。アリスとチェンバレンは真剣に聴き入っている。固く唇を結んでいたチェンバレンが初老の医師に問いかける。「いったい、何故?この島の人々は新興感染症の影響を受けないのでしょうか?」。
医師の目元には深いシワが刻まれていた。そのシワは彼が重ねてきた人生の深い悲しみと喜びとを年輪にしたようにみえる。訛りはあるが、単語一つ一つしっかりと発音する聞き取りやすい言葉で質問に答えはじめた。「この島の人々は合成食品を拒否しました。そういうと言い過ぎかもしれません。合成食品の摂取はごく一部にとどめている。そう表現するほうが正確でしょうね」。医師は微笑んだ。その微笑みは、この島特有の初夏の木漏れ日を連想させた。「土からの栄養。太陽からのエネルギー。これら自然の恵みによって育まれた作物を口にしようと決めたのです」と医師は続けた。
合成食品は、食糧危機を回避するため科学技術によって作り出されたタブレット錠の食べ物のことだ。人工的に作り出されたビタミンなどを主に含んでおり、加えて満腹中枢に働きかける成分が食欲の暴走を抑えることを実現した。その昔、地球規模の乱獲による水産資源の奪い合いが起こった。サンマ、鮭、うなぎの稚魚など。価格が高騰するまではよかったが、水産資源がほぼ枯渇した。その際、当時天才科学者として名を馳せていたフュラーの率いる科学チームが、食糧問題解決する画期的なアイテム「合成食品」を発表したのだ。食糧・エネルギー革命により、沖那島から全ての軍事基地が無くなった。返還された跡地から汚染物質の全てが除去され、作物の種がまかれた。太陽の日差しを浴びた野菜は高い栄養価を含み、島の人々を健康に満たしていった。ニューワールドが訪れたのだ。
背もたれ椅子に身体全体を預けていた老医師は両手をあわせて拳をひとつにした。それを胸の前に組みながら上体を起こした。まるで祈るような仕草にも見える。「免疫。免疫が体内の中にあるからでしょう。おそらく、合成食品では、そのような免疫や抗体は人体にはつくれない」。そう結論づけると医師は悲しげな表情をした。この島の人々が感染しなかった事を安堵しているのでなく、いま地球上の多くの人々が感染し、その命を失っている事実に心を痛めているのだろう。
チェンバレンは医師の話を聞きながら、当時のフュラーの功績を眩しい思い出の1ページとして回想していた。新進気鋭の科学者として活躍するフュラーに憧れ、科学の道を志したからだ。「自然由来の作物からワクチンを作れると思うのですが?」アリスの声にチェンバレンは瞬時に現実へと引き戻された。
「もっとスピード感ある対策が現実的かもしれない。沖那島の野菜から抽出したサプリを大量生産。それを世界中へと配給する」チェンバレンは反射的に解決策を口にした。初老の医師からは暗い表情が消えて、柔和な笑顔に変化している。
「ドクター!速報を見て下さい」。施設スタッフの声だった。3人がいる応接室のドアをあけて、室内に固定されたモニターの電源を入れた。シルバー色の巨大なオブジェが映しだされていた。「一体、あれは?」初老の医師は映像に圧倒されている。チェンバレンが譫言のように呟いた。「宇宙船が飛び立つのか?計画通りなら目的地は火星。まず、月面に着陸する。燃料となる鉱石を採取して後、ふたたび宇宙への旅へ出る」。チェンバレン博士の傍らにいるアリスは不安気に見守っていた。
【交差する二人の男達】
群青色の海を小さな影が移動していた。ドローンの影だ。ときおり白い波が立ち、海鳥がその影とすれ違う。美しい海とまるで対を成すように紺碧の空が存在していた。アジュールブルーの海と空を切り裂くように大型ドローンは東と進んでいる。ドローンには、チェンバレンとその部下、アリスが搭乗する。操縦するのは、汎用AIを搭載したパイロット専用ロボットだ。スタッフ数人はウイルス感染を予防するサプリ開発のために残してきた。
沖那島を出発して2時間が経つ。ここまで来れば、発射寸前の宇宙船との通信が可能となる。「フュラー総統!こちらチェンバレン。応答して下さい」必死に語りかける。フェイス・トゥ・フェイスという通信機器はお互いの姿を確認しながら対話ができる。過去にあったテレビ電話との違いは、モニターを介さないこと。ホログラムで相手の全身が映し出され、まるで目の前に人がいるようにみえる。
ほどなく宇宙船内のビジョンが浮かび上がり、フュラー総統が姿を現す。「チェンバレンよ。そちらの音声は聞こえているが、その姿が見えていない。通信環境が悪いかもしれない」。フュラーの側には、アドルフが寄り添っていた。人間の目に相当する部分のLEDライトが赤くなっている。つまり、宇宙船が離陸する態勢に入っていることを意味していた。
怪訝に思いながらもチェンバレンは訴えた。「総統。ウイルスの感染を食い止める方策が見つかりました。1ヶ月の時間があれば大丈夫です」。沖那島での出来事を簡潔に報告した。フュラーは腕組みをしながら聞いている。険しい表情のままだ。報告内容を疑っているのか?開発したサプリの効能が実証されるまでは信じないと言いたいのか。
「チェンバレンよ」。人差し指を突き出し、それから鼻先にもっていく。その指は首から下げた勾玉のネックレスに触れていた。フュラーが不安を感じ考え事をするときの癖だということをチェンバレンは知っていた。「チェンバレンよ、私にはもう時間が無いー」。チェンバレンはその言葉の意味を理解できないでいた。「なぜいま宇宙船に乗り込んでいるのですか?発射態勢に入っている」。チェンバレンは頭をかしげ、何かしら閃いた。「月を経由してゆくのですね。でも仮に火星に到着したとしても、移住するための設備は整っていない。現地で生きてゆくための水の確保が出来ていない。どうして今、出発するのですか?あと1年を待てない理由があるのでしょうか」。チェンバレンは語気を強め、まくしたてる。
カラーホログラムによって立体的に投影されたフュラーの背後には大量の水を詰め込んだタンクが見えた。傍らにいるアドルフは沈黙を守ったままだ。眼光だけが赤く輝いている。「チェンバレンよ。聞いてくれるか」。フュラー総統の視線が真っ直ぐに見つめている。「怖いのだ。疫病が地球を滅ぼす。その前に、この星から立ち去るべきだ」。フュラーとチェンバレンのやり取りを見つめていたアリスは両耳を手で塞ぎ、首を横にふる。
「宇宙船内の生体反応は一名のみ。宇宙船オデュッセウス号は人型サイボーグ・アドルフによって制御。発射まで残り十分を切りました。以上船内の様子を報告します。チェンバレン博士」。パイロット専用ロボットの電子音声がドローン内に響いた。
「フュラー総統。あなたは核兵器廃絶を成し遂げた。化石燃料に頼らずにクリーンエネルギーを導入した。それによって地球温暖化をくいとめ、食糧問題も解決でき戦争を回避した。世界から国境という概念を無くして地球に平和をもたらした張本人だ。何が怖いのですか?あなたは真に勇気のある人ではなかったですか?」
カラーホログラムに映し出されたフュラーは両膝から崩れてフロアに手についた。恐怖で肩がわなないている。惨めな初老男のそばにサイボーグのアドルフが冷たく屹立したままだ。絞り出すような声がスピーカーを通じて伝わった。フュラーの声だった。「疫病という悪魔が地球を蝕んでいく。人類は滅びるのだ」。
ホログラム映像に掴みかかる勢いでチェンバレンがにじりよる。「食い止める手立てはある。サプリが有効だ。少しの時間があれば開発できる」。そう言いながら両手を広げ、天をあおぐ仕草をみせる。しかしチェンバレンのその姿はフュラーには届いていない。
再びフュラーが口を開く。「いま疫病が地球を滅ぼす。避ける事は出来ない」。かすれた声で絞り出すように言葉をつむいだ。「もしかして」。チェンバレンの傍らにいるアリスの声だ。「もしかして、黙示録のことなの」。彼女の声は震えている。チェンバレンの視線と彼女のそれとが合う。チェンバレンは「どういうことだ?」と口の動きだけで疑問を投げかけた。アリスが小さくかぶりを縦に振り続けた。「新約聖書の最期のパート“ヨハネの黙示録”の事よ。この世の終わりについて記述したもので、今ある世界は滅ぼされ、神が新しい天と新しい地を創造するという内容なの。その中で疫病が人々を苦しめるくだりがあるの」。そう言い終えるとアリスはフュラーを映し出したホログラムを見遣った。
へたりこんでいたフュラーが力無く立ち上がる。「神の試練は、科学の力で乗り越える事ができる。そう、信じていた。だが、違った。天からの苦難はまるで、陣痛のように繰り返しやってくる。恐怖だ」。フュラーの視線は虚ろだ。さらに続ける。「核燃料による弊害は太陽エネルギーで解決できた。戦争の危機は食糧問題の解決によって回避できた。今回の疫病は違う」。
チェンバレンが両手の拳に力を入れてフュラーの言葉を遮るように言った。「何が違うというのです。フュラー総統、皆で力を合わせることこそが重要です。いまがその時だ。一緒に乗り越えていきましょう」。
チェンバレンの言葉に反応したようだ。フュラーの視線がホログラム通信装置の向こう側からチェンバレンの姿を探す。チェンバレンからフュラーは見えているが、フュラーからチェンバレンは見えていない。通信環境の不具合のためだ。フュラーが口を開く。「文明は感染症の“ゆりかご”に例えられる。分かるかチェンバレン」。チェンバレンが頷く。フュラーは再び言葉を紡いだ。「戦争や自然災害が命を奪う。歴史的にみれば、繰り返されてきたことだ」。
「総統、あなたがエネルギー革命を起こし、そして各国リーダーをまとめて地球から戦争をなくしました。そして地球各地にドームを建設することで、自然災害から人々を守ったではありませんか」
生気のない表情のフュラーだが、その瞳の奥に一瞬だけ光が灯り、ほどなく暗くなった。まるで宇宙の暗黒を暗示させるような暗さだった。「戦争。自然災害。それら以上に、ウイルスが人類の命を奪った。まぎれもない歴史的事実だ。天然痘ウイルスが3億人、ペスト菌は1億人、新型インフルエンザが5千万、エイズウイルス、3千5百万人。この全てが、目に見えない小さなウイルスや細菌などの仕業だ」。その言葉を聞いたチェンバレンは反論できずにいた。フュラーが再び語りだす。「全知全能の存在から与えられる惨苦は母体を責める痛み・陣痛のように押し寄せ、そして間隔が短くなっていく。つまり病原菌は神の御業だ。人間によって出来るわけが無い」。
チェンバレンはつとめて冷静な声で語りかける。「陣痛を経て生まれるのは新しい命。決して死ではない。そうやって新しい命、新たな世界が生まれる。総統、諦めないで。必ず解決できる。光り輝いていたあの頃のあなたに戻ってほしい」。
チェンバレンの言葉がフュラーに届いたかどうか、はっきりしなかった。ホログラムの中のフュラーは言った。「私は疲れた。そしてリーダーとしての孤独に、もう耐えられない」。フュラーは力無くそう言い残し、傍らのアドルフに寄りかかった。ちょうどその時、ホログラム映像が途切れた。「宇宙船内の生体反応は変わらず一名のみ。宇宙船オデュッセウス号は人型サイボーグ・アドルフによって発射されました。月に向かって進路を取り、月面に着陸。燃料となるヘリウム3を採取してのち火星へと出発します。以上、宇宙船の予定針路について報告します。チェンバレン博士」。パイロット専用ロボットの電子音声が冷たくドローン内に響いた。
【新たなる予兆】
小さな手のひらには、白い錠剤が一粒あった。お水と一緒に飲めば大丈夫と傍らにいる母親が、小さな手をした女の子に伝えている。だけれど、女児は飲み込めないで震えている。お薬が苦手なのだ。母親は薬じゃない栄養剤よ。サプリメントなの、と娘を諭す。しかし我が子を気にしながらも、ついには涙を目にいっぱいためる娘の態度にしびれを切らせていた。なぜなら親子の後続には多くの子連れ家族が並んでいたからだ。
母親の視野は、手を引かれてきょとんと立ち尽くす男の子や注射を打たれると思い込み、既に泣き出す女の子の姿をとらえていた。それから母はしゃがみこみ、我が子の目線の高さに合わせた。ゆっくりと落ち着いた声で何かを言った。すると娘は涙を拭い大きく頷いた。そばに立つ看護師の女性も大きく頷く。女の子は心を決めた。錠剤を口に含み、カップの水で一気に流し込んだ。その様子を見ていた医療スタッフから拍手がドッと沸き起こる。母親は我が子を抱きしめる。子は両目に涙をたたえながらも口角をあげて、ぎこちない笑顔をつくった。
世界中の医療施設で同じような行列と光景が見られた。人類を死で覆い尽くそうとした感染症を食い止めるサプリが完成したからだ。当初、開発には一ヶ月かかるとされた。チェンバレンらの医療チームが十日で完成。全域に配布するのに要した期間はわずか三週間だった。結果、ウイルスによる感染と死亡者数を減らすことになった。人類の危機を乗り越えた。人間の強い意志と科学の力が勝利したのだ。
ニュース映像が流れている。伝えるのはジャーナリストのアリスだった。時折、記録映像が差し込まれる。チェンバレンとその医療チームの功績をたたえていた。また変異ウイルス「血汗症」が世界的にみて収束に向かっている、と地球連邦政府・保健部門の見解を紹介している。最期に画面は蓬莱諸島の島々の美しい自然と碧い海を映し出しリポートを終えた。
ニュース映像を温和な表情で見つめるのは、初老の医師だった。ここは沖那島の研究室だ。チェンバレンとアリスに、この島の野菜が含む栄養素が免疫効果を有するとの情報をもたらした功労者だ。不意に研究室のドアをノックする音がした。医師は振り返る。椅子から立ち上がり、そっとドアを開けた。開ききらないうちに、鋭く空気を切り裂く音がした。ボウガンの矢だ。すでに老医師の右目を貫いている。大きな音と共に電池の切れたロボットのように医師は背中から床に倒れた。肢体は痙攣すらしていない。眼窩から血液が音もなく静かに溢れ出す。いま応急措置をしなければ、失血死するだろう。倒れ込んだ医師に、まるでつばを吐きかけるように罵声を浴びせる女がいた。
白い衣装に身を包んだ女だった。衣装から薄く透けて艶めかしい身体のラインと黒いアンダーウェアの上下がみえる。赤いハイビスカスの耳飾りをしていた。血塗られた式典で生き残った女性だ。「情報を漏らした天罰。神々の邦、到来を邪魔した」。女はそう言うと、視線を背後にやった。そこには、実験衣に身を包んだ長身の女性と、ボウガンを手にする武装した女が立っていた。
ボウガンを携行した女が「神々の邦到来が、また一歩近づいた」冷ややかな声でつぶやく。実験着の女は言った。「サプリメントの効果を無効にするウイルスを開発すればいいだけよ。完成には時間もかからない」自信にあふれる表情で言い放つ。三人の足元には、老医師が横たわっている。その顔は、痛みを感じているようには見えない。多量の出血で、青ざめた表情が土色へと変化していた。それはまるで地球上の生命体が、その命を失えば、土となって大地に還る事を暗示するかのようだった。
白い衣装の女が言う。「ギリシャは哲学で世界を制覇した。ローマは道路を整備することで世界を一つにした。スペインは圧倒的な海軍力で全ての海を制圧した。アメリカは核兵器の抑止力を後ろ盾に地球すべてのエリアを手中に収めた。私たちはウイルスのパワーで神々の邦を実現する」。その女の声を、薄れゆく意識の中で初老の医師は捉えていた。
【漆黒の闇・宇宙で】
宇宙船オデュッセウス号の船内は静寂に包まれていた。人工重力で制御された船内は、しっかりとフロアに足をつけて歩行できる。宇宙にいることを意識させない、まるで地球にいるようだ。その船内を機械音だけが寂しげに響いている。アドルフが船内を移動していた。数ある部屋の一つ、そこのドアの前で立ち止まる。アドルフの左手は電子制御盤と直に接続でき、ドアロックを解除できる。いま赤いライトが青へと変わる。部屋の中へ進むと、フュラーの背中があった。しかし様子がおかしい。フュラー総統は上半身をデスクにだらしなく預けている。アドルフはフュラーが寝ていると判断した。ただデスクの上にある大量の液体に気付き、その分析を始めた。どうやら血液のようだ。
すると咳きこみながらフュラーが上体を起こし、振り返った。「良かった。アドルフ、間に合った。早速始めよう。残り時間が少ない」。フュラーの声はかすれていたが、しっかりと言葉一つひとつを発していた。椅子に腰掛けたまま、こちらにもう少し寄りなさいという意味の手招きをした。それはまるで映画「ゴッドファーザー」のドン・コルレオーネの仕草のようだった。ゴッドファーザーと違ったのは、フュラー総統の眼・耳から大量の血液が流れている点だった。「アドルフ、試したいことがある。私の生体データをお前にインストールする。さあ、早くこちらへ」。フュラーの声は冷静さを取り戻していた。チェンバレンとホログラム通信を交わした、あの時とは別人だった。多くの羨望の眼差しを集めた、かつてのフュラー総統の威厳が、その表情にはみてとれた。
アドルフは人間の胸に相当する部分、そこのシールドを電子制御で左右観音開きにした。するとスマートフォンの画面ような大型デバイスが現れる。バックライトが点灯すると、フュラー総統の血だらけの顔が青白くぼんやりと浮かび上がり、フュラーの網膜スキャンが始まった。赤外線がフュラーの眼光を左右に照らす。眼からの出血で通常より時間が掛かったようだが、無事に網膜を読み取ったようだ。続いて、フュラーは左の手のひらをデバイスに押し付けた。5本の指すべての指紋認証を行っている。時折フュラーが咳き込み、そのたび認証がストップした。だが、こちらも認証全てが、済んだようだ。
すると生体データのインストールを完了した汎用性AI搭載の人型サイボーグ「アドルフ」が再起動した。人間の眼に当たる部分の色が、ダークグリーンに変化。まるで人間の眼光と何ら変わりない。その様子をみて、フュラー総統は満面の笑みになった。まるで子供が大切な宝物を自慢するような表情だ。そしてつぶやく。「うまくいった。汎用性AIと生体データを融合させた最強のサイボーグがいま、誕生した。人間のように考え、人間のように振る舞う。鋼鉄の身体は、ウイルスを寄せ付けない。そして寿命という制約にも縛られない」。そう言うと、フュラー総統はぐったりとして二度と動かなくなった。
アドルフの声に変化があった。無機質な電気音ではない。アドルフは今、フュラーと全く同じ声で発話する。「肉体をまとった私は弱かった。私は今、永遠の命を得た」。そう言うと、倒れたフュラー総統の首元から勾玉のネックレスを丁寧に取り外した。コクピットへと移動する。「地球上全てのAIロボットは私の忠実なしもべとなる」。つぶやきながら、専用デバイスそのものとなっている左手を制御ネットワークに差し込んだ。地球上で稼働する人型サイボーグや警備用アンドロイドだけでなく、ドローンを操作するロボットすべてに命令を発動した。ネットワークを通じて指令が全てのロボットへと伝わる。続いて宇宙船に対してコマンドを入力した。「宇宙船オデュッセウス号の目的地は火星から変更。地球に針路をとれ!」
【熱狂する就任式典】
アリスの胸には薄紫の飾りがあった。鈴蘭の花だった。爽やかな香りを発している。花言葉は「再びやってくる幸せ」。アリスは切なる願いを込めて胸に花を飾った。そして亡き妹への鎮魂の意味も込めた。アリスは今、かつて血に染まった祭典と記憶された会場にいた。新しい総統の就任式を世界中継するためだった。カメラクルーを伴って、式典の始まりを待っている。フュラーが地球を去り連絡が取れなくなってあと、地球連邦政府のリーダーを決める総統選挙があった。チェンバレンが若くして総統に就任した。感染症をくいとめたリーダーシップも評価された。
フィクスされたテレビ中継用カメラは会場の全景を捉えていた。それから演説の行われるステージ周辺の人々をズームアップで捉えていく。続いて会場に集まる人々を映し出していく。画面は左から右へとパン。熱狂する人々の表情を伝える。途中、白いシルクの衣装に身を包んだ女性だけの集団をとらえた。楽器のようなものを手にしていた。人数にして百人はいたかもしれない。また会場のセキュリティを管理する警備用ロボットの様子もいつもと違った。この日に限って銃で武装をしているのだ。画面は、マイクを手にしたジャーナリスト・アリスに切り替わった。会場の熱気をリポートしていた。
チェンバレン総統の演説が始まった。「生き残った我々人間は一つの言葉を礎に人類復興をスタートさせる。それは“自然に帰れ”だ。生き延びた人類は土を耕し、大地に種をまこう。見事な花を咲かせ希望の果実を実らせよう」。集まった人々から地響きのような歓声が沸き起こった。ニューワールドは、さらなる一歩を踏み出した。
【おわり】