色事師と大教主
「……」
ジャスミンは、恐る恐るモブに近寄り、彼の顔を覗き込む。
モブは白目を剥いて完全に気を失っていた。弛緩した口からは泡を吹いている。
ジャスミンは振り返る、光が飛んできた方向へ。
そこには、相変わらず福々しい微笑を浮かべた大教主がいた。
彼の右手は箒を手放し、掌を向けて前に突き出されていた。掌には、彼の額と同じく、大きな『眼』の刺青が刻み込まれており、その『眼』は仄かに紅い光を放っている。
「あ、あんたがやったの?」
ジャスミンは恐る恐る尋ねる。ここまで色々と見せつけられては、柔和な大教主の微笑が、何にも増して不気味で恐ろしい。
「ええ、まあ」
大教主はあっさりと認めた。伸ばした右手をフラフラと振ってみる。『眼』の淡い光は徐々に弱まり、やがて消えた。
「ご存知ないですかな? ラバッテリア教の神官は、皆等しく、両掌と額に『聖眼』を刻み付けております。即ち、右掌には紅月神ブシャム、左掌には蒼月女神レム、そして、額には太陽神アッザム」
大教主は、ジャスミンに向けて両掌を広げ、そして額の聖眼を指差した。
「今ご披露いたしましたのは、紅月神ブシャムの聖眼の力でございます。聖眼に己の体内を巡っている『雄氣』……平たく申し上げますと生命力ですな、それを集め、体外に放ちます。雄氣が当たった相手は、自身の体内で流れている雄氣の流れを妨げられ昏倒いたします……ほれ、この様に」
白目を剥いたままうつ伏せで倒れているモブを指差す。
「この力は生氣で動くもの――まあ、全ての生物ですな――それらに対して有効です。因みに、左掌……」
「ストップストップ!もういいよ…いや、いいっす!」
ジャスミンは、突然開講してしまった『大教主の路上聖眼講座――序章――』の聴講を慌てて辞退した。
「いやー、大変興味あるお話ではありますが、もう遅い時間ですので、それはまた次の機会にゆっくりとお話をお伺いしたいな~……と、思います。ホント残念ですが……」
「遅い時間」というよりは寧ろ「早い時間」なのだが……。石畳の路上には、生気に溢れた黄金の日の光が燦燦と降り注ぎつつある。
「まあ、そう言わずに。なかなか面白いんですぞ。特にこの額の……」
「じゃ、そういう事で! 助けてくれてどうもアリガト!」
ジャスミンは、猶も話を続けようとする大教主の言葉を強引に遮り、背中を向けて早足で立ち去ろうとした。
今日はいろいろな事がありすぎた……。今から、ねぐらに帰って一眠り、その後は……
と、ジャスミンは、皺だらけの手に肩を掴まれた。
「まあまあ、お待ちなさいな」
振り返ると、皺まみれな顔が間近にあった。
「! ッジジィ! てめ……」
「死にたくなければ」
「へっ……、あ――、あの……スミマセン……」
「ああ、申し訳ございません。ビビッてしまいましたか?いやいや、そういう意味じゃなくてですね」
顔を綻ばせる大教主。しかし、ジャスミンは一生忘れられないだろう。「死にたくなければ」といった瞬間、大教主の細い目に一瞬宿った殺気の光を。
明らかに「そういう意味」だった。
そんな彼の恐怖に気づいてか気づかずか、大教主はにこやかな表情で口を開く。
「私が申しましたのは、貴方がこの後、モブ殿や彼のお仲間に始終命を狙われる事になる、という事でございます」
「ああ、多分そうだろうね……」
ジャスミンは頷いた。
「まあ、しょうがないんじゃない。知らなかったとはいえ、やくざ者の女に手を出しちゃったみたいだからね……。まあ、なんとかなるよ。俺も頼りにできる伝手が無いわけじゃないし」
「タダのやくざ者では無いですぞ」
大教主はズイッと、その顔を更にジャスミンに近づける。
「タ、タダのやくざ者ではない、って? どういう意味……てゆーか、顔、近っ!」
「ああ、これは失礼しました。ホッホッホッホ……で、なんでしたっけ?」
「ボケるな、ジジイ! だーかーらー、『タダのやくざ者ではない』って、どういう意味だっつー話!」
「ああ、そうでしたそうでした。ホッホッホッホ」
大教主は顎髭をしごきながら、愉快そうに笑い、また、顔をぐっと近づける。
「ダ・カ・ラ! 顔が近いっつう……」
「貴方は、『レイタス・ファミリー』に、一家総出で狙われます」
大教主は端的に言った。その言葉の持つ深刻さとは正反対な、極めて軽い口調で。
――ジャスミンは、その言葉を聞くや、大教主の顔を押しのけようと手を伸ばしたままの姿勢で固まった。
「れいたす……アンタ……もしかして、レイタス・ファミリーって言った?」
「はい」
ジャスミンの顔から、音を立てて血の気が引く。
「な……なんで? 嘘だろ? だって、俺はうっかりチンピラヤクザの女に手を出しちゃっただけだぜ? 何でレイタス・ファミリー自体から追われなきゃならないんだよ! たかだか一構成員の事で、ファミリー挙げてお礼参りにくる訳ないじゃん!」
「いやー、それが――このモブ殿はですね……」
大教主は、必死の形相でしがみ付いて来るジャスミンを軽くいなしながら、足元にだらしなく横たわる小太りの男を指し示した。
「その能力とは分不相応に、ファミリーのボス、レイタス殿にいたく気に入られておりまして、彼のお嬢様をお嫁に貰っているのですよ。つまり――」
大教主はジャスミンを指差し、微笑んだ。
「貴方が姦し……いや、ヤリ逃げ……いや、お持ち帰りされた、この――おや、もういらっしゃいませんねぇ。ご主人を路上に寝かせたまま、自分だけでさっさとご帰宅とは――。なかなか貞淑なお方ですなぁ、あのご夫人……ホッホッホ」
「つか……あのマダム……ひょっとして」
ジャスミンは、今までの話から導き出した、自分の予想を恐る恐る口に出してみる。その考えが間違いでありますようにと祈りながら……そして、その予想は恐らく当たっているだろう事を確信し、絶望しながら。
「レイタス・ファミリーのボスの――娘……?」
「その通り。ホッホッホ……。どうです? 狙われる理由としては充分でしょう?」
他人事そのものといった表情で呑気に笑う大教主。
と、ジャスミンは青ざめた顔のまま、くるりと背を向けると早足で南へ向かって歩き出した。
「おや、どちらへ?」
「き――決まってるだろ? トンズラするんだよ! 一刻も早くこの町から離れて逃げないと……」
「あー、ちょっとお待ちくださいよ。危ないですよ」
制止も聞かず、ジャスミンはどんどん大教主から離れていく。
「迂闊に動いちゃダメですよ。死にますよ~」
「うるさい! 早く動かないとそれこそ死んじま――」
「止まれッ!」
「え? ――――ッ! うわッ!」
大教主の緊迫した叫びに思わず足を止めたジャスミンの鼻先を何かが掠めた。彼は慌てて仰け反る。
その何かは、乾いた音を立てて、彼のすぐ脇に植えられた街路樹の幹に突き刺さった。恐る恐る見てみると、ソレは紫色の液体が塗布された吹き矢だった。
「うお……!」
彼は思わず呻くと転げるように走り、大教主の傍らに舞い戻った。
「いやあ、さすがはレイタス・ファミリー。仕事が早いですなぁ」
「か、感心してる場合か! ヤバイんですけど! マジで!」
ジャスミンは、泣きそうな顔で大教主に縋りつく。
「ジジイ……じゃない、偉大な大教主様、これってどうにかならない? 大教主様の御威光とやらでさ」
「いやー、さすがに難しいですなぁ。教義上、他人の妻を寝取った男を教団で保護する事は出来ませんしなぁ。――ああ、でも」
「でも?」
「貴方が、今回を含めた、これまでの姦淫の悪行を改悛し、我らラバッテリア教に神官として入信なさるのであれば……。それならば、教団所属の神官を保護するという事で、貴方をレイタス・ファミリーからお守りする大義名分ができますなぁ」
大教主は、そう言うと、額の聖眼を撫でた。
「どうされますか? 神官になられますか?」
「……それしかない?」
「そうですね。あ、因みに、神官になったら二度と女遊びは出来ませんのでご了承ください。もし破ったら『破戒裁判』にかけられて、それはそれは厳し~く罰せられますので、気をつけて下さいね」
「いや、ムリ! ソレ絶対ムリだから! パス!」
首を横に大きく振るジャスミン。
「それだけはやめられないから! 何せ、俺の人生の目標は……」
そこで一呼吸おき、ジャスミンはフッとアンニュイに微笑んでみせた。透過光入りで白い歯がキラリと光る。
「千人切りだから」
……物凄い名言をかましたかのようなドヤ顔だが、言ってる事は最低。
「ほおほお、そうですか、ま、それも良いでしょう。――もっとも、直に人生のフィナーレを迎えられるでしょうから、時間的に千人切りは難しいかと思われますがねえ。ホッホッホッ」
「……」
「では、私はこの辺で失礼させていただきますよ。帰って朝のお勤めに向かわなければなりませんので。建物の影と戸口――あと、食べるものにも充分お気をつけくださいな。ではでは、御機嫌よう。――次にお会いするのは、棺桶越しでかもしれませんが」
そう言うと、大教主はにこやかな微笑みを浮かべ、一礼をしてトコトコと立ち去ろうとする。
「ちょ、ま! ストップ! ストップ!」
慌てて大教主を引き止めるジャスミン。
彼は、目を血走らせながら、大教主に叫んだ。
「じゃ、じゃあさ! ば……バイトって事でどう?」
「……バイト、ですか?」
首を傾げる大教主に、ジャスミンは必死の表情で訴える。
「そ、そう、バイト! 神殿の掃除とか、下働きとかさ。募集してない? 俺の事をバイトとして雇ってくれよ。な、この通り!」
「うーん、そうですねぇ」
プライドをかなぐり捨てて頭を下げたジャスミンを前にして、大教主はしばし思案顔。
「下働きといっても、間に合っているといえば間に合ってますしなぁ。賃金のお支払いも……」
「あ、金の事は贅沢言いません。とにかく雇ってくれ、そして、俺を保護してくれ! ……頼むから!」
ジャスミンはもう必死。なりふり構ってなどいられない!
「ほおほお、――じゃあ、これ位でいかがですかな?」
大教主はそう言うと、枯れ木の様な指を三本立てて、ジャスミンに示した。
「……え、と。これ時給?」
「いえ、日給ですが」
「に、日給? そりゃ、いくら何でもケチすぎだろう? ブラックかよ!」
「あー、そうですか。ご納得頂けないようでしたら、誠に残念ですが、この話は無かった事に――」
「え――! ……いやいや! オッケーオッケー! この金額でオッケーです。是非お願いします!」
ジャスミンは半ば自棄になって頭をブンブン上下に振り回す。
大教主はその言葉を聞くと、
「そうですか、その待遇で構わないのであれば、我がラバッテリア神殿は、下働きのアルバイトとして貴方をお迎え致しましょう」
にっこりと微笑んだ。紛れも無く勝利の笑みだ。
ジャスミンは、(このクソジジイ……。人の足元見やがって……)という心の声はおくびにも出さず、
「ありがとう! 恩に切るぜ、ク……じいさん!」
にっこりと微笑んでみせた。口元が引きつってはいな……かったと思う。
「では、神殿へ向かいましょう。お勤め頂けるのならば、早速お願いしたい事もございますので」
大教主は踵を返して、神殿へ向かう。ジャスミンは渋い顔でひとつ舌打ちすると、慌ててその後を追う。
バルサ王国首都チュプリの城下町を、初夏の朝の強い光が燦燦と照らしていた。
だが、ジャスミンはまだ気づいていなかった。
大教主の示した賃金が――、
彼の考えていた金額より一桁少ない事を……。
これにて「プロローグその一」は終了となります。
次回からは辺境の地へ舞台を移します。
次回「プロローグそのニ 『騎士団と傭兵団(仮)』」
宜しくお願い致します。