3話 眠りの姫
自分が自分ではなくなってゆく――
薬華の診療所に向かっている緋媛はそう思っていた。
自分の意志とは無関係にマナを抱きしめ、安らぎも感じてしまう。意識がはっきりした時に手放した彼女の顔は、桃色に染めながら下を向いてしまい、逃げるように自室へ向かってしまったのだ。更にはフォルトアがマナを貰うという宣言。
(何なんだよ、訳解んねえよ、この気持ち!)
彼は言っていた。緋媛にその気がないなら本気で自分のものにすると。これまでならば自由にすればいいとはっきり言えたのだが、言葉が詰まり、何も言えなかったのだ。
「あ、緋媛くーん」
このままではフォルトアに奪われてしまうと、柄にもなく焦っている。何とも自分らしくない。人間の雌等どうでも良いのに。そんな苛立ちのある緋媛は、里の若い雌に声を掛けられても無視する。そこへ視界に入ったのは兄の緋倉だった。
「兄貴、大人しく寝てろよ! 何ぶらぶらしてんだ」
「イゼル様に抗議に行くんだよ! どけ、緋媛!」
戦力外通告の事は緋媛も聞いていたが、やはり兄は黙っていない。彼の腕を掴む。
「そんな真っ青な顔して何言ってんだ! これ以上動いたら死期が早まるだろ!」
「お前、俺に何もするなって言うのか」
緋倉はどこか悲しげで複雑な表情をした。何もするなとは言えないが、毒が抜けるまでは大人しくしてほしいのだ。ひねくれている緋媛は、素直にそんな事は言えない。
「……離せよ。俺が大切にして護っていた奴はもういねえんだ。他に護るモンは、蘇ったミッテ大陸と、この里しかねえ。どんなに里の連中に避けられようと、陰口を言われようと、連中に認められたい一心で里を護り続けたんだ。その意志を俺が継がなくてどうする」
死んだ者に縛られているだけではないか。これまでの緋媛ならばそう考えていただろう。今は違う。それほどゼネリアに惚れていたのかと思い知ったのだ。緋倉を掴む手が緩む。イゼルのいる屋敷に向かう緋倉を止める事は出来なかった。
(惚れる? 惚れるって、何だろな……)
本能に抗おうとする緋倉の葛藤は、まだまだ続く。
一方、自室から書庫に移ったマナは、何かに取りつかれたように本を読み漁っていた。
(緋媛が、私を抱きしめて……! 口から心臓が飛び出そうって、こういう気持ちなのね)
しかし頭は緋媛の事でいっぱいで、本の中身など頭に入ってはいない。屋敷の書庫は龍族のものだが、人間の書いた書物もある。マナがよく読んでいた歴史の書物もあるが、それはごく少数。多くは龍族にしか読めない言葉の物で、規則性もない事から人間には解読できないのだ。
(緋媛の心臓の鼓動が違った。前に城から抜け出そうとした時とは違う鼓動で、少し体が熱かったような……)
思い返すと、一声一声に吐息が混じり、マナの耳に囁かれるように言っていた。イゼルから発情期の事を聞いているとはいえ、あれは緋媛ではないと信じたくなくなる。龍族の雌ではなく人間の女に発情するなどないと、マナは思い込んでいた。
「わ、私ったら何てはしたない事を考えているの!」
頭の上にある靄を消すように、両手を振る。
「ああ、ここにいたのか、姫」
驚き後ろを向くと、声の主は司と気づく。この奇行を見られてしまったと、マナは真っ赤になってすぐ顔を逸らした。
「どんなはしたない事考えてたんだ? まさか――」
書庫の入口からペタペタと歩いてくる音が聞こえてくる。笑いながらからかう司の先手を打たなければと思うマナだが、ここで司の方を向いて墓穴を掘ってしまう。
「ひ、緋媛の事ではありません! 彼のお体ががっしりしてたとか、そういう事では……」
途中で何を言っているのか気づいたマナは、更に赤くなって顔を逸らした。
「何だぁ? 姫から手ぇ出したのか? それとも俺の息子か? どちらにせよ、あんたフォルトアと婚約してるんじゃねーの?」
「そ、それはそうですけど……」
本当は緋媛がいい事に気付いた、などと誰にも言えない。特にフォルトアにそれを言ってしまったら、彼を傷つけてしまうから。だが結婚してからでは遅いので、マナはどうしたらよいか悩んでいた。
「……ま、いいや。あんた、本が好きなんだってな。ここの本じゃ人間には全く読めねーだろ」
マナの隣にどかっと司が座り、彼女が見ている本を覗く。昔の龍族の暮らしを学んでいるようだ。
「ええ、そうなんです。龍語で書かれているそうなので人間の言葉に訳せないかと試みたのですが、規則性も何もないので断念しました。代わりに絵を見て私なりに昔の事を推測しているのです。……過去を調査するのはご法度ですけど」
「そりゃカトレアとレイトーマでの話だ。俺達龍族と流王になるアンタには関係ねーよ」
「そういえば、ダリスは何故違うのです? 三国とも禁じられているはずですよね」
「知りたいか?」
と、マナの心を探るように笑う司に、彼女は恐怖を感じた。それが何故かは解らないが、離れるよう体が言っている気がする。
「い、いえ、結構です」
読んでいた本を片付け、書庫を去ろうとするマナの頭を司が掴む。
「眠れ」
その一言で、マナの意識が途切れた。崩れる体を司が支え、抱き上げたところで廊下から緋倉がイゼルを呼ぶ声が聞こえる。
(緋倉に暗示を掛けられてんな。解かせるか……)
だがそれも今は面倒だ。後で解いてやればいい。イゼルが緋倉に掴まっているうちにこの里を出なくてはと、司はすやすやと眠るマナと抱いて屋敷を出た。





