2話 残されていない記録
その翌日、マナは珍しくレイトーマ国王であるマライア・ソール・レイトーマから昼食に誘われた。その報を伝えるのは勿論緋媛の仕事である。
これを聞いたマナの表情が曇り、額から一筋の汗が流れた。
「あのお兄様が私を……」
自己中心的な二十六歳のマライアは、国王となってから国民が納めた税金を湯水のように使い、贅沢三昧の日々を過ごしていた。
幼い頃は先代国王の意向で王族と言えど倹約的な生活をしており、常に我慢、我慢の日々。有事の際に使える金を国庫に貯えてたい――先代国王のその意向、マライアはそれが我慢ならなかった。それはマナも同じだったが、彼女の場合はなぜ倹約生活をするかを理解していた為、当たり前の事だと思っていたという。実はマナの下に弟が一人いたのだが、彼もマナと同じ考えであった。
『国民こそ宝であり、レイトーマ王室は国民の為の王室である』
先代、先々代国王が常々口にした言葉。ところがマライアは『王室が、己が一番』と考える。その彼は少しずつ、少しずつ残虐な性格へと変わっていき、レイトーマ王室史上最悪の事件を起こしたのだが、それはこの後どこかで話すとしよう。
マナはマライアの事を思い返しながが、「あまり気が進みませんが」と加えた上で昼食の席を共にする事を承諾した。
レイトーマ城内のダイニング・ルームは広い。長辺に十五人は腰掛けられる縦長のテーブルを五つ並べられる程の広さに、椅子を引いても十分人が歩ける余裕がある。
先代国王はこの部屋を利用し、兵士達と共に食事をしながら城下で聞いた噂や悩み事などに耳を傾けていた。だが、元国王のマライアに代わってからはそのような事を一切しなくなり、だだっ広い部屋でメイドや執事を傍に置きながら食べたい物を自由に口にするようになってしまったという。
その様子を見るのかと、気を落としながら緋媛と共にダイニング・ルームへ向かうマナの足取りは重い。マナはもう何年もマライアと食事を共にしていないが、その噂は自身の目で見ずとも事実だと分かる。マライアは昔から我儘な性格だったのだから――。
ダイニング・ルームを前に、マナは緊張を紛らわすように深呼吸した。……よし、と小さく頷く。入る準備が出来たと察した緋媛がダイニング・ルームの扉に手を掛け、ゆっくりと扉を開いた。
目の前には沢山の食事が並んでいる。まるで夕食を思わせるような肉、魚、野菜を使った料理の数々。林檎や葡萄等の果物も多く、テーブルを彩っていた。
その食事を手に取り、ガツガツとがっつくように部屋の真ん中の一番奥で食べているマライア。その左右には執事とメイドが二名ずつ姿勢よく立っているのだが、彼らのマライアに対する視線は凍てつくように冷たい。
マナは緋媛に誘導され、マライアより五席離れた側面の椅子に座った。その席には既にナイフとフォークが置いてあったので、最初からこの席に座るよう指示されたようなものである。
執事の一人が食事を少しずつ純白の皿に取り分け、マナの目の前に置いていく。料理がすべて出されると、執事が丁寧に頭を下げ、マナはふんわりと「ありがとうございます」と礼を言った。それが嬉しいらしく、氷の視線を出していた執事はにっこりとほほ笑んだ。
フォークとナイフを手にしたマナが一口、また一口、上品に食事を口に運んだところで、ようやくマライアがガツガツ食べながら「姫よ」と言葉を発した。
「城での生活はどうだ。望みはあるか?」
望みなど山のようにある。目の前にある願望は兄へ向けた、もっと上品に食べて欲しいというもの。そもそもその食事を城下の貧しい民へ分け与えてはどうか。昔のように城内で王族に尽くす臣民と食を共にし、より多くの意見を取り入れて国民の生活を豊かにする……など。
が、この国王に望みを伝えても叶える事はない。分かり切った事を言っても仕方がない。それでも聞かれた事には答えねばならないので、マナは毅然とした態度で答えた。
「私を外に出して下さい。国民の不満が溜まっています。私が病で伏している等という嘘をついて何になるのでしょう」
「……お前との縁談を申し出た国がある」
マナの発言を無視したマライアは、ダイニング・ルームに響く程の大きなげっぷをした。周りの執事やメイドが、嫌そうに視線を合わせている。
おそらくマライアは、本題に入る前に『ただ』『何となく』そんな理由で聞いたのだろう。
兄とはいえ、こんな人物が国王とは……。怒りを通り越して呆れて心が苦しくなったマナの、ナイフを握る力が強くなる。
「その、国はどちらです? カトレア王国でしょうか。それとも江――」
「江月だ」
対して驚きもしないマナは「ああ、先日緋媛が言った事はこの事だったのね」と冷静に思った。もし江月から縁談があったらという例え話。
その例えが現実になったとはいえ、マナはその回答を何も考えていないので答えようがない。ましてや今後の一生に関わる結論を、一国の王女だけで決めてはいけないのだから――。
マナが答えられずにいると、がたりと食事を終えたマライアが立ち上がった。
「一週間後には使者がやってくる。その時に奴らの言い分を聞くだけ聞いてやるが、お前はやらん」
口を拭くマライアが、げっぷをしながらはっきりと言い切った。
おそらくマライアは、自分より先に縁談がある事が気に入らないのだろう。そうでなければ今頃マナはどこかの貴族と結ばれているのだ。
ここで言い返さなければ一生外に出る事は出来ないとマナは考える。マライアの言うとおり生きたくはないと、怒りさえ込み上げてきた。
「それだけだ。食事が終えたら去るがいい」と席から立ち上がりながらマライアは言った。
拳をきゅっと握りしめ、テーブルに両手を付いてガタンと立ち上がったマナは、ダイニング・ルームから出ようとしたマライアに向かって「国王陛下!」と声を張り上げた。
マライアの足がダイニング・ルームの扉の前で止まる。
「私の縁談ですから、私自身が決めます! お父様とお母様が生きていれば、きっとそのように仰います。お前の人生、自分で決めた事ならば文句は言わないと! 私達の弟のマトも賛成するでしょう!」
弟のマト――その言葉に対し、マライアの拳に力が入る。
第二王子であったマト・トール・レイトーマは、十一年前の国王暗殺事件の際に亡くなった。いや、正しくは亡くなったものとされていたのだった。
国王暗殺事件の直後、何があったのかとマライアに問うた時、彼に触れたマナは、恐ろしい過去が見えたのだ。――マライアが、幼いマトに剣を振り下ろそうとした瞬間の過去が。
弟は殺されてしまったかも知れない。泣きながら緋媛にその事を伝えたマナは「信じればきっといつか会えますよ」と緋媛に宥められていた。信頼できる護衛が言ったのだからきっと生きている。
そう信じているマナは、マライアを問い詰めるように言葉を発した。
「マトは生きていますね? あの子はどこにいるのです。居場所ぐらい掴んでいらっしゃるのでしょう」
「あれは死んだ。何を根拠にそんな馬鹿げた事を……」
「国王陛下、……いえ、お兄様こそ、何を理由にマトが亡くなったとしたのですか! この際ですから申し上げます。私は、第二王子のマトこそが! この国の国王に相応しいと考えます! 国民から搾取し、このような贅沢をするお兄様は、国王とは呼べません! 歴代の国王陛下に申し訳なく思わないのですか!!」
――ダン!という音がダイニング・ルームと廊下に鳴り響く。眉間にしわを寄せ、唇を噛み締めたマライアが部屋の扉を叩いたのだ。驚いたマナは体を震わせ、硬直させた。
「ただの姫のお前が! 国王を侮辱するな! 緋媛! マナを部屋から出すな! 一生部屋に閉じ込めておけ!」
入口にいる兵士がダイニング・ルームの扉を開ける。マライアは苛立ちながらずかずかと部屋から出て行った。
緊張の糸が途切れた執事とメイドから深いため息がこぼれ落ち、マナはストンと椅子に腰かけた。第一王女である自分の声すら届かない事に悲しみながら――。
「申し訳ございません、姫様。幼少期の陛下の教育を誤った我々の執事の責任でございます。何なりと罰をお与え下さい……」
ぐっと涙を堪える執事に、マナは「貴方方に非はありません。お兄様の性格が歪んでいるのです」と落ち込みながら答えた。
執事の話では、マライアは幼少期はとても大人しく、マナを可愛がり、泣き虫のマトの面倒も見ていたという。その頃までは城内で働く誰が見ても仲睦まじい兄妹に見えていたが、先代国王と王妃だけは「マライアは恐ろしい子だ。決して目を放さぬように」と執事とツヅガに話していたのだ。その様には見えないので、執事もツヅガも首を傾げていた。
態度が豹変したのは国王暗殺事件の後。いよいよ化けの皮が剥がれ、自分が一番だと言い出したのだった。親である王と王妃は我が子の本性を見破っていたのだと、執事達は自分達の愚かさに気付いたという。
「……私も愚かですね。お兄様の愚行も止められず、国民を幸せにする事の出来ない王女など、いない方がい」
立ち上がったマナは「参りましょう」と一言緋媛に言い、彼の誘導でダイニング・ルームから出て行った。マナの席には食欲が失せたのだろう、殆ど手を付けていない食事が残った。
落ち込みながら私室に戻ろうとしているマナに、緋媛はどう声を掛ければいいか分からない。彼女の瞳に薄く涙が浮かんでおり、対応に困っているからだ。こんな時にメイドか誰か来てくれればいいのだが。
と、レイトーマ師団第三師団長のカレン・コリータと遭遇した。彼女は前髪を樺茶色、他は桃色掛かった茶髪に染めてツインテールに結い、メガネを掛けいている女性。男だらけのレイトーマ師団の中で数少ない女性隊士故に、兵士からは人気が高い。
緋媛にとっては煩い奴だが、マナの対応に困っていたので不覚にも天の助けのように思える。
身分など関係ないと言うほどお気楽な性格のカレンは、唇に人差し指を当てながらマナの前で首を傾げた。
「どうしたんですか、姫様。泣いてるみたいですけど……」
「何でもありません。少し目を擦っていただけです」
ふわっと笑うマナに「ふーん」と言うカレン。たまにはこのまま女同士で話でもしてくれと、冷ややかな視線をカレンに送る緋媛。視線には気付いたが、その真意までは解らないカレンは別の意味で捉えてしまった。
「何々? あたしの可愛さにやっと気づいた?」
「煩うるせえよ、さっさと仕事に戻れ」
「してるよ仕事ー。おじいちゃんに江月の資料渡してきたもん」
カレンの言うおじいちゃんとは、レイトーマ総師団長ツヅガ・アルバールの事である。彼の家系は男児が多いため、女性のカレンもマナ同様に孫のように可愛がっているのだ。「おじいちゃんと呼んで」と言われて以来、ずっとそう呼んでいるという。……ここぞという場面を除いて。
「江月の? その資料、私にも見せていただけませんか?」
興味が閉鎖された国『江月』に移ったマナは、ころっと元気になった。こんな事で良かったのかと、緋媛はやや呆れる。
カレンは「軍事機密なんでちょっと……」と悩みながらも、ぱっと明るくべらべらと答えた。
「でもいっか、殆ど白紙だし教えちゃう♪ 江月の情報は全くと言っていい程皆無なんですよ、建国してから二百年も経つのに。あるのはにダリス帝国から独立してUS2051年に建国されたって事と、ナン大陸のどこかにあるって事だけ。……なんですけど~、面会記録はあるんで~、先代より前の、歴代の国王陛下と何か会合はしてるみたいなんですよ」
「面会記録だけ? 議事録は残ってないのですか?」
「それがないんですよー。そもそもマライア様が国王になってから江月から書面が送られてきたのは、今回が初めてなんです。それまでは半年に一度はカトレア国王と三ヶ国会合していたみたいなんですけどね。毎回ダリスが外れているのは軍事国家だからでしょうけど――」
これ以上は王女と言えど機密事項の漏洩になるため危険だと判断した緋媛は、「おい」とカレンを睨んで牽制した。「怖いなぁ、もうっ」と頬を膨らませたカレンは、マナにこの事は内緒にして欲しいと両手を擦り合わせて頼み込んだ。
普段政治に関わっていないマナは「分かっています」とにっこり笑った。
情報部隊で何かと忙しいカレンは、マナに一礼して去ろうとした。が、「あ、そうだ」と思い出したように今度は緋媛に詰め寄ってくる。
「なんか緋媛とシドロの情報が無くなってるんだよね」
「シドロもか?」
「うん。その内見つかると思ってたけど、全くないんだー。個人情報紛失だって騒ぎになっちゃうから、こっそり情報出しといて、お願いっ! では、姫様、失礼しまーす♪」
情報部隊は団員の個人情報も管理している。緋媛は出身地が知られると後が面倒なので情報をこっそり破棄していたが、隠密部隊の第二師団長シドロ・モドロの分もないという。それはシドロもレイトーマの人間ではないという証でもあった。
だが、レイトーマ人がそれに行きつく事はないだろう。何故ならシドロは布で顔を覆うなど、巧妙に素顔を隠しているのだから。
カレンが去った後でマナは、緋媛を恐る恐る見上げた。
「あの、今の情報がないというのは……」
「あんたが気にする事じゃねえ。それより自分の事を気にしてろよ。部屋から出られねえんだから」
自身に置かれている状況を忘れていたマナは、そうだったと落ち込んだ。
国王の立場が一番強く、兄の命令を聞かなくてはならない彼女は、その後一週間、退屈な日々を過ごす事になる。
そして閉鎖された国と言われている江月では――
「一週間後にはレイトーマか。久しぶりだな、お前との旅行♪」
「旅行じゃない。くっつくな!」
とある屋敷の庭で、緋色の髪で長身の男が灰色の髪で小さい女に後ろから抱きついていた。が、嫌がられて殴られそうになると、ひょいと離れて躱す。
彼らは今回、江月の使者としてレイトーマに向かうのであった。
「久々に猫被ってる弟の様子が楽しみだぜ」
その男はどこか、緋媛に似てる――。