3話 緋媛VSシドロ
旧サブタイ「緋媛の本性」
アックスの涙と鼻水で緋媛の隊服が汚れてしまった。匂う、非常に臭い。
私室に戻った緋媛は、クローゼットを開けて数少ない私服を手に取る。江月の民ではないかと怪しまれないよう和服は一切なく、洋服しか持っていない。
洗濯は江月にいればリーリに頼めるのだが、ここはレイトーマ城。メイドに掃除も頼んでいる。
他の隊士達の部屋はブツブツ文句を言いながら作業をするメイドだが、緋媛相手の場合は違う。大抵喧嘩になるのだ。
「誰かこれ洗ってくれるか?」
と、洗濯物を畳んでいるメイド達のいる部屋に行って頼むと、我先にと手を伸ばしてくる。
そして取り合いになるのだ。
「私が洗います」
「いえいえ、アタシよ! 汚れという汚れを落としてみせます!」
「あんたもう一着洗ってるじゃないの!」
キーキーキーキー騒ぎながら服を取り合うメイド達。
城内で数多いレイトーマ兵の中でも人気の緋媛を獲得する為、自分は出来る女だとアピールするのが狙いなのだ。
(人間の雌って、雄には色目を使うくせに雌同士は何でこんなに喧嘩になるんだよ)
ユウとカレンのせいで広められた噂のせいで疲れた緋媛の神経が、更に磨り減る。
城の中で何人かのメイドに好きだと告白された事があったが、彼は常に断ってきた。
興味がない、と口では言っているが、本音は違う。本能で一生を共にしたいと思う女性がいないのだ。
いつかそんな女性が出るかもしれないが、人間はないと思っている。
取り合いになっていた服をメイドの一人が勝ち取り、ベタベタした鼻水と涙がアックスのものだと気付いたところで緋媛は踵を返した。
シドロのいる牢屋に行かなくてはならない。
するとメイドの一人が緋媛を引き留め、噂の真相を訪ねた。
「あのっ、緋媛たいちょっ、姫様とお付き合いされているんですかっ?」
おどおどもじもじした小柄なメイドは、上目使いで頬を赤くして緋媛を見る。
鼻で笑った緋媛は若干笑みを浮かべ、「ただの噂だ。んな事ねえよ」と言う。
そしてこのメイドはほっと安心し、ずっと閉じ込めていた想いをぶつけたのだが――
「それじゃ、私にもその……希望はありますかっ!? 私、隊長の事――」
「もっとねえよ」
緋媛の態度は素っ気ない。それどころか冷たい。
泣き始めたメイドに見向きもせず部屋から出た緋媛にとって、告白などどうでもいい事。
人間の雌が泣こうが喚こうが知った事ではない。
そんな事より緋媛は地下牢に用がある。シドロが捕えられている、城の端にある地下牢に。
地下に繋がる階段があるので、そこから降りると牢屋に繋がっている入口がある。そこには見張りが常に二人いる。
二人の見張りは緋媛の姿を見るなりすぐも敬礼をした。
「変わりはないか?」
「はい。シドロ師団ちょ……いえ、罪人も大人しくしております」
見張りはまだ言い慣れないようで、罪人の事を師団長と呼びそうになる。
つい先日まで師団長だった人間を、いきなり罪人と呼ぶには抵抗があるのだろう。それが例え国王殺しに関わった人間だとしても。
「大人しく、ね」
見張りは緋媛をジロジロとよく見る。何故私服なのか気になっているようだ。
アックスの鼻水と涙で汚れたなどとは言えない緋媛は見張りの間に入り、ドアノブに手を掛ける。
「奴の処遇が決まったから伝えに行く。入るぞ」
「は」
扉の中に入ると幾つが牢屋がある。
シドロがいるのはその奥の牢の中。手足を拘束されたまま身動きは取れないようだ。
シドロは緋媛の歩く足音が聞こえてくると、牢の前に着く前に口を開いた。
「来るのはツヅガだと思っていたが、お主か、緋媛。」
「新しい国王の指名なんだよ。――国外追放だ。先代、いや、先々代国王マクトル殺しの大罪人」
シドロの不気味な笑いが地下牢に響く。それが下された審判に対してか、大罪人という響きに対してかは分からない。
緋媛からビリビリとした空気が流れる。幸いにも他の牢には誰もいない為、ようやくシドロとゆっくり話が出来るのだから。
「一応聞いてやるが、この国に潜入した目的は何だ。マライアのバカを煽ったのはてめえだろ。十一年前、俺のいない時を狙ってこの国を壊す基盤を作るために」
「知らんな。拙者はマライアの命令通り動いただけだ」
あくまでマライアの命令だと言い張り、白を切るシドロ。
緋媛はそうは思っていない。その理由はシドロの出身にある。
「ダリスの人間が、何の企みもなくレイトーマの中枢に食い込む訳がねえ」
シドロは軍事国家であるダリス帝国の密偵であったのだ。
彼の目的はマナの捕獲。
しかし、潜入した頃には既に緋媛が護衛として付いており、レイトーマ城を縄張りとしていた為、動く事が出来なかった。隙を見つけて彼女の私室に近づいたが、扉に触れようとした瞬間に獲物を狩られるような恐怖に襲われ、任務を実行出来ない。
その為、普段からメイドや兵士を私物のように扱うマライアに目を付けたのだ。この国が崩れれば護衛の任を解かれた緋媛が離れ、マナも手に入りやすくなるだろうと――
「ふっ、くくく……。そういう貴様らはどうだ。姫の能力が覚醒する前に手に入れたい、といったところだろう? 龍族、片桐緋媛!」
緋媛の眉がわずかに動く。
彼らの間に緊迫した空気が流れる――
「婚期も過ぎた人間の女に縁談という不自然な書状。我らの邪魔をするあのゼネリアを寄越したのは拙者とダリスへの牽制が目的だろう。マトが城に侵入する時に連れたあの男も龍族なのだろうな。イゼル・メガルタめ、どこまでも邪魔をしおるわ!」
その瞬間、緋媛が牢を拳で殴った。格子が凹む。
「ごちゃごちゃ煩えよ……!」
緋媛の瞳が獣のようになり、怒りを露わになった。
「てめえがイゼル様の事を悪く言うんじゃねえ。あの方は平和を望むお方だ。邪魔しようとしてんのはてめえらダリスだろうが!」
「ふははは! ついに本性を現したか! 貴様らは興奮すると本性を見せるからな! 丁度いい。ここで貴様を始末し、その亡骸を手土産にしてやろう!」
その瞬間、仕込んでた短刀で縄を斬り、そのまま緋媛に向けて投げた。
避けた緋媛は剣を抜いて牢の格子ごとシドロを斬りつける。
もう一つ仕込んでいた短刀で緋媛の心臓を貫こうとしたシドロだが、刀を仕込んでいる腕を切り落とされた。
「おのれ、家畜の分際で……! 人間に楯つくな、異種ぞ――」
「師団長! 何事ですか!」
鉄格子を斬った時の音が聞こえたのだろう。見張りの一人が二人の元へ駆けつけてくる。
一瞬、その見張りに気を取られたシドロ。
緋媛はその一瞬を見逃さず、罪人の首を斬り落としたのだった。
駆けつけた見張りは、体と首が離れたシドロと剣を持っている緋媛を見て言う。
「こ、これは一体……!」
その表情は青ざめ、腰が引けているようだ。
緋媛は淡々と状況を説明する。
「――刀を仕込んでいた。俺を殺してまで出ようとしてな。加減できずに殺っちまったよ。後始末頼む」
くるりと踵を返した緋媛の瞳は人間のものであり、声色は冷徹だ。
彼の後姿を見送った見張りは格子の凹みには気づかず、転がるシドロの斬り離された首と胴体を見て固唾を飲んだ。言葉は何も出ない――。
私室へ戻り、返り血を浴びた私服から着替えた緋媛は、国王の私室に向かった。
マトにシドロの処理報告をする為に。
そういえばマトはマナとミルクティーを飲んでいるはず。まだ二人で話しているだろうか。十一年もの年月ならば話す事は山のようにありそうだが、マトはそんなに話す事は出来ないはず。
マナが居たら報告は後にしようと考えながら歩を進める緋媛。
私室の扉が見えると勢いよくその扉が開き、中からマナが飛び出して来た。
「緋媛!」と彼に抱きつくマナ。
一瞬思考が停止した緋媛は慌てて離れるよう言うが、彼女の顔を見て言葉を止めた。
青色が混じった灰色の瞳のまま、胸の中で泣いているのだから――。
「マトが! ……マトが私に、この国から出て行けと、言うんです……!」
ふと国王の私室の中にいるマトを見やった緋媛。
マトはこくりと頷く。
彼は約束を果たそうとしているのだ。
せっかく着替えた緋媛の服は、今度はマナの涙で汚れる。
それより気になったのは、触れているのに彼女の瞳が変わらなかった事だった。