5話 マーキング
ベッドに腰かけたゼンにはどの安定剤を与えればいいか、彼を見て薬を選んでいた。
(見たところ心が不安定になっているようだね。泣くほどの事があったとすれば紙音のことなんだろうけど、それならユキネの暗示を司に話して解いているだろうし)
薬を用意した薬華はコップに水を入れてゼンに渡すのだが――
「薬華姉さん、この髑髏は一体……」
「ん? ああ、ただの安定剤さ」
しれっと答える薬華にユキネも不安を覚えた。
「ヤッカさん、これ、紫色してて毒じゃ――」
「安定剤だよ。あん、てーーざい」
顔を見合わせたゼンとユキネは瞬時に真っ青になり薬華に振り替えると、薬を渡した主は口角を歪めて上げる。頭の上には「早く飲め実験台」という文字が浮かんでいるように見えた。
このまま死ぬかもしれない。早く飲めという視線が痛い。どうにでもなれと投げやりになり、ゼンは紫色の髑髏の薬を胃の中に収めた。
「お、おにい! 生きてる?」
「今は無事だけど、急に眠く……」
腰かけていたベッドにそのまま倒れ込むように横になったゼン。
「おにい! おにい、しっかり! ……あれ?」
慌てたユキネだったが、すやすやと気持ちよさそうな寝息が聞こえてきた。
薬華に振り向くと彼女は答える。
「その安定剤、強力な睡魔が襲ってくるのが難点でねぇ。数時間はいい夢を見てぐっすりさ」
「それ睡眠剤じゃない?」
「……安定剤さ。ちょーっとだけ睡眠要素が高いだけのね」
薬華の笑みがとても濁っているように見えたユキネの顔色がみるみる青ざめていく。兄はやはりただの実験台にされただけなのかもしれないと。
「んー? 外の雨止んだね」
窓の外を見た薬華の言葉に反応したユキネもそれを見るど、嘘のようにぱたっと雨が止んでいた。
(もしかして、おにいが寝たから?)
穏やかな表情で寝ているゼンにそっと布団をかけた彼女は、交互に空とゼンを交互に見る。
空と感情の繋がりが分からない。なぜ繋がったとはっきりわかるのだろう。疑問が浮かぶ。
「……ユキネ、ちょうどアンタに話したい方があったんだ」
軋む椅子に腰掛けた薬華は、目の前の椅子に座るようにユキネを手招きする。
腰掛けながら彼女に向かって薬華が口を開いた。
「緋倉の事は諦めた方がいい」
「え? どうして」
つい拳に力が入ってしまう。急に何を言うのかと思えば、心が動揺する。薬華は続けた。
「惚れてるんだろう? 緋倉に」
知られていたと、文字通りぎくりとするユキネに、
薬華は「分かりやすいんだよ」と答える。さらに薬華は続ける。
「これはあたしと雄にしか分からないんだけど、緋倉のやつ特定の雌をマーキングしたんだよ。発情期を迎えると必然的に順位が上に来る。他の雌に発情することはほぼなくなる。だからーー」
「マーキングって誰に?」
ユキネの声が低くなる。観察するように薬華は答えた。
「さあね」
「ゼネリアでしょ? どうせ」
眉を寄せ、唇を噛み締めながら苛立ちを吐き出すユキネ。
「だって緋倉、いっつもあの子の側にいるんだもん。年明けだってイゼル様の命令だったかもしれないけど、二人きりでレイトーマに泊まって。あたしだって緋倉と一緒に居たいのに、ずっとゼネ、ゼネって」
彼女の拳がふるふると震えだす。
「……諦めた方がいいって、何で今言うの? 何であたしに言うの? 里の子達も緋倉が好きなのに」
「ユキネ」
「諦められないよ! だってあんな気味の悪い異界の混血より人間との混血の私の方がマシだもん!」
その時、ユキネの頬から鈍い音が鳴り響いた。
「緋紙、あんたいつの間に」
興奮している彼女の牙があらわになり、獣の瞳をしている。怒りの形相だ。
「薬華にお薬貰おうと思って来てみたら……、気味の悪い異界の混血ですって? あの子が一番気にしているって知って、よくそんな言葉が口に出るわね。とてもお姉ちゃんの子供とは思えない」
「緋紙、落ち着いて……」
「薬華は黙ってて! 貴女だってダリスとの混血だって冷遇されているから気持ちが分かると思ってたのに、姉さんが知ったらくどくどネチネチ怒ってるわよ!」
興奮した緋紙は大きく深呼吸を二度程すると落ち着いて決定的な一言を言い放った。
「それに緋倉は私の息子で貴女からは従弟なの。惚れるなんて許さない」
叩かれた頬をさすりながら涙目になるユキネは、駆け出して診察室から出て行った。
その扉の角でイゼルとマナに鉢合わせになり、勢いでマナにぶつかってしまう。尻もちをついたマナに見向きもせずユキネは走り去ってしまった。
尻を痛そうにさすっているマナに手を指し伸ばしたイゼルは、不慣れな着物を着ているマナを起き上がらせると診察室の中に顔を出した。
「緋紙も来ていたのか。ユキネが泣いていたようだったが、何かあったのか」
「はぁ? 何かですって? 何でもないわよ!」
(随分と機嫌が悪いようだ)
じろりとイゼルを睨みつける緋紙は、イゼルの隣のマナを見ると眉を吊り上げる。
「誰よそれ。人間じゃないの。見たところレイトーマ人みたいだけど」
司が記憶を消して回ったのだから、緋紙も例外ではない。人間であるマナに敵対心を向けるように冷ややかな目をしている。十年前の初対面の時も人間を嫌っているようだったが、今はそれ以上に見えた。
「私、マナ・フール・レイトーマと申します。二百年後の未来から参りました」
ドレスではなく着物であるため、首を下げるマナ。
その態度や未来という単語より、レイトーマ、その言葉にイゼルら皆が口をそろえて呟いた。
「まさかレイトーマの王族か? 通りでドレスの品も良い訳だ」
「そういえば緋媛が一日一回は姫って言って枕を抱き寄せていたわ。それをからかった緋刃は毎度殴られているけど。あなたがその番なの?」
「未来のレイトーマとは関係も良好ってことかい? それはそうとして確かに緋媛の匂いがぷんぷんするねぇ」
揃っての感想にマナはどこから反応すればいいのか分からず、苦笑いを浮かべる。
まさか緋媛が枕を自分の代わりにしていたとも思いもしない。緋媛の口づけで匂いがついたのかと、行為を思い出したマナは真っ赤に顔を染めていった。
「その様子じゃそうみたいね。まさか緋媛が人間に発情してたなんて思いもしなかったわ。てっきりドワーフとかエルフかなって思っていたけど」
「族長一族の娘たちはもう嫁に出ているらしいからねぇ。しかし未来から来て十数年間、よく我慢してるもんだ。あの司の血を引いているってのに」
恥ずかしくなったマナは大きな声で「あ、あの!」と盛り上がりかけた緋紙と薬華を制止した。
「そういう話は……、恥ずかしいです」
龍族と人間では勝手が違うと悟った緋紙と薬華はくるっとイゼルに振り返ったのだが、緋紙はここでようやくベッドに横たわる龍族に気付いた。
「えっ、この子、ゼン……よね? どうして?」
「あたしもびっくりしたよ。イゼルもわざわざ人間の小娘をここまで連れてきて、何があったか説明してもらうよ」
外の天候は終始曇り空。
結局彼女らにも司いも説明する必要があるので、戻る夕方に屋敷で話す事を告げた。
今はぐっすり眠る息子に安堵すると、マナと共に診療所から出て行こうとしたのだが――
「その人間の小娘に緋媛が発情したんだろう? された時のこと、根掘り葉掘り聞かせてもらうよ」
目を血走らせ涎を拭いながら興奮する薬華につかまりかけ、危険を察したイゼルが彼女を抱きかかけると一目散に屋敷へ飛びだったのだった。