30話 束の間の幸せ
緋媛が残る――。
共に現代に戻れないと悟ったマナは、心の奥の痛みを感じた。
ズキンズキンという音が立っているような痛みを。
「姫様には媛兄がついてないといけないでしょ! 俺だけじゃダメなの!?」
緋刃がそう声を張り上げたが「お前はまだまだ弱すぎる」と司が一刀両断した。
ちぇーと不貞腐れる緋刃。
フォルトアは再び緋媛に問うた。
「僕の我儘でこの時代に残ってくれるんだね? 本当にいいの? 緋媛」
緋媛はうるうると不安と悲しみの入り混じった瞳で見つめるマナを横目で見、やや視線を下にやると口を開いた。
「……はい。ただ一つ頼みがあります」と、緋媛はリズリンの方を見る。
彼女はやや目を見開き、首を右に傾げた。
「一晩でいいから、姫と過ごさせて欲しい」
「ダメ」と間髪入れずにゼネリアが即答し、険しい表情をしてじろりと緋媛を見る。
うーん、と頬を右の人差し指でポリポリと掻きながら、リズリンも「同意っす」と呟くと言葉を続けた。
「さっきも言ったけど、人柱がこの時代にいるだけで悪影響なんすよ。だから一刻も早く戻ってほしいんす」
ぎゅっと拳を握る緋媛は顔を強張らせた。ほんの少しの時間さえも許されないのかと悔やむ想いが込み上げてくる――。
その様子を見たリズリンは、小さくため息をついた。
「……なぜ過去と未来の人柱が流王と破王って呼ばれるか、知ってるすか?」
何の疑問にも思わなかった緋媛は「いや」と呟いた。
「過去を見る流王は時の流れに身をまかせるから。未来を見る破王は介入すると未来を壊しかねないから。これは何百年か前の当時の国王たちでそう話してから、人柱の事を流王、破王と呼ぶことにしたそうなんす。それにその方が、神殿へ入るのに人々にはまだ印象がいいすからね。国王より上の王となるって。ね、リアちゃん」
にっこりと満面の笑みを浮かべてゼネリアの方を向いたリズリンに、彼女はむっとした表情を浮かべる。
「まあそんな訳で、過去の流れに身をまかせている存在が、過去を荒らしに来るような事をしているんす。これ以上は同じ流王として看過できないんすよ」
ずっと話を聞いていたイゼルと司は緋媛の気持ちが分からない訳ではない。
発情した相手――生涯を共にしたい相手と離れることがどんなに引き裂かれる想いでいるか――。
ちらり、と二人が視線を合わせると、口を開いたのは司だった。
「なあ、リズリン。今日が沈みかけているだろ? 日が沈むまで待ってやってくれねえか。この何週間かいて今更だしよ、それぐらいの温情ってもんあっていいんじゃねえか?」
腕を組んで「確かに」と悩むリズリン。司はゼネリアにも口元だけ笑いながら言う。
「ゼネリア、お前もだ。その小娘、散々お前を気にかけていただろ。感謝の気持ちがあるなら、恩返ししねえとな」
これにゼネリアは黙ってしまった。
――決まりだ。日が沈む僅かな時間まで、緋媛とマナが二人きりでいられる事になった。
折れたリズリンは深いため息を付きながら「しょうがないっすね」と漏らすと腰を上げた。
「では邪魔者は退散しよう」とイゼルが言うと、マナと緋媛を残して皆が立ち上がって部屋を出ていく。最後に去ろうとした手前で止まった司は、からかうように緋媛にこう言った。
「どうだ、多少は父親らしいことが出来たか? 未来の息子」
「う、うるせえよ!!」と図星を突かれたかのように反発する緋媛に、笑い飛ばしながら司は去っていった。
二人きりになったマナと緋媛の間には、何とも言えない奇妙な空気が流れた。
――先に口を開いたのはマナだった。
「……結局私は、過去でも現代でも迷惑をかけてしまったのですね。跡継ぎよりあなたの側にいたくて過去へ来たのが、存在だけで影響があるなんて……!」
「知らなかったんだろ? だったら仕方ねえよ。それに俺はお前が来てくれて良かったと思ってんだよ」
「どうしてです?」
「そりゃあ……」と緋媛は言葉を詰まらせると誤魔化すように目の前にある茶をごくりと飲んだ。
(発情期に入って発散出来て良かったなんて言えねえ! それにしばらく姫と離れていたらどうなるかなんて知ったもんじゃねえ。姫に言えるか、そんなこと)
「それより時間がねえ。日が沈むまでなんて、一時間あるかないかだしな」
はっと気づいたマナは思わず空を見上げた。日が落ちてきて徐々に月や星がはっきりと姿を見せてきている。
「姫」と緋媛がずいとマナの眼前まで近寄った。
ぼっと真っ赤になったマナは視線を上下に泳がせる。
ふっと笑う緋媛は彼女の頬に指を添えるとそのまま肩をつかみ、ぐいっと自身に引き寄せた。
マナはすっぽりと緋媛の懐に収まったのだ。
「らしくねえこと言うけど俺、もっと早く本能に従っていればよかったって思ったんだ。それなら最初から俺が姫の婚約者になって時間を一緒に過ごせたはずだって。あの時、フォルトアさんでいいなんて言ったこと、今更後悔してんだよ」
マナは現代の龍の里――江月――へ行ったときに上がった縁談の話を思い出した。
彼は確かに言ったのだ、フォルトアさんでいいというならそれでいいと――。
緋媛の後ろに腕を回したマナは「後悔なんて誰でもあります」とぎゅっと抱きしめる。
「でも今は、こうしていることが幸せです。……緋媛は?」
「聞かなくても分かるだろ? 日が落ちるまでずっと……な?」と離さないように、さらに包むようにマナを抱きしめたのだった。
そして、気づいたら日が落ちて真っ暗になっていた。