20話 似てる匂い
日が落ち、真っ暗な夜にパラパラと散りばめた星が映えている。イゼルの屋敷にある太めの木の枝に腰を落としている緋媛は、その空をぼーっと眺めながら林檎を放り投げては掴んでいた。
とそこへやってきた気ままな影――
「媛兄ー、いつまでそんな間の抜けた顔してんだよー!」
「緋刃……」
ゆらりと視線を木の下の弟へと落とす緋媛。
やや不機嫌そうに緋刃が上を見上げながら続ける。
「姫様といろいろあったらしいけどさー、こっちの調子も狂うんだよねー! なーんか倉兄に色目使うような里の雌みたいで、気持ち悪いんだよー! ま、この時代じゃ姫様と距離とった方が良さそ――うだっ!?」
ゴンと緋刃の額に林檎がぶつかる果汁が飛び散った。
苛立ちの表情を浮かべる緋媛が全力で投げ、「うるせえな」と呟く。
するとその先に屋敷を出ていこうとするイゼルの姿が視界に入り、何処へ行くのかと、何となく気になった緋媛はこっそり後を付いていく事にした。
真夜中で里の皆が寝静まったであろう静けさがある。聞こえるのは虫の音や草花が擦れる音だけ。
(気づいてるよな、イゼル様……)
そんな冷や汗も流しながらも、緋媛は後を追っていく。
そしてイゼルは緋媛に気付いているか気づいていないのか、目的地の中へと迷わず入っていった。
(……診療所? ここ、姫もいるよな)
里に戻ってから一度もイゼルの屋敷に戻る事がなかったマナ。彼女は間違いなくいるだろうと緋媛は察していた。ゼネリアに会いに行ったのだから。
(それにしてもイゼル様、何故こんな夜中に?)
マナに会いに行ったのか薬華に会いに行ったのか、どちらかだろうと緋媛は予想した。相手がマナだとしたら、何を話すかも気になる。
診療所に入ったとしても薬品の匂いで自分には気づかないだろう――。
そう考えた緋媛は足音や気配に気づかれないように、診療所の中へ入っていった。
イゼルはまっすぐ薬華の元へ行っていた。
診察室の椅子に座り、指を絡めるように手を組み、神妙な面持ちをしている。
「どうだ、ゼネリアの様子は」
「傷はだいぶ良くなってきたよ。……体の傷はね」
一瞬、目を見開くと、視線を下に落とすイゼルは「……そうか」とポツリと呟く。
窓の外をちらりと見、曇り空を確認した薬華は、「落ち着いて聞きな」と小さく息を吐きながら言葉を続ける。
「人間にあれだけの事をされたんだ。毎晩夜泣きをしてるから、夢に出てきてるらしい。今日の所は未来から来たお姫様があの子と一緒に寝てるけどね」
「マナ姫が? 人間だろう、あの娘は。ゼネリアが警戒しないわけがない」と半信半疑のイゼル。
「どうもあの小娘には心を開いているみたいでねぇ。今は一緒のベッドで寝てるよ。あの娘は娘で、自分のせいだって言っててさ、……詳しいことは聞かなかったけど」
とその時、遠くからわんわんという泣き声が聞こえてきた。
薬華は「始まった」と言いながら立ち上がり、イゼルとともにその泣き声の先へ向かう。
後をこっそりつけて立ち聞きをしていた緋媛も離れながらこそこそと後を追った。
イゼルと薬華が部屋に入った瞬間に飛び散る鮮血が視界に入ると、ガタガタと震えて泣きながら威嚇し、興奮状態の黒い生き物が部屋の隅に瞬く間に移動した。
「マナ姫!」
「イゼル様」と腕を斜めに腕が切り裂かれ、血をぼたぼたと垂らすマナが振り返ると、薬華が「見せな」と腕をつかむ。
「待ってください。私は何ともありませんから――」
「何ともない訳がない! 今すぐ手当するよ!」厳しい表情で薬華に言われたたマナだが、首を横に振った。
「もう少し待ってください。もう少しだけ……」
と視線を興奮したゼネリアにやたったマナ。宥めるつもりなのだろうと察した薬華は「まったく」とポツリと言うと腕を離した。
イゼルと薬華はマナが何をする気か、ごくりと息をのんで見守る。
マナは少しずつゼネリアに近づくが、今にも飛び掛かりそうな構えをしている彼女を見、「大丈夫ですよ」と声をかけると数歩離れたところで膝をつき、視線を合わせた。
「あの日の……、人間のにされた怖い夢を見たのですね。助けられなかった私のせい。すみません、すみません……! いくら恨まれても構いません。でも今は信じて。ここにはもうそんな怖い人間はいません。……ね?」
マナが小首を傾げてそっと手を差し伸べるが、興奮状態のままのゼネリアは、その左手を子供とは思えない牙をむき出しにして噛みついた。
一瞬顔を歪めたマナ。
イゼルと薬華もはっと息をのみ思わず手を出そうとしたその瞬間、後ろで隠れていた緋倉が「姫!」と声を荒げて飛び出してきた。
「来てはいけません!!」と反射的に声を張り上げるマナ。
一呼吸置いた彼女の手はまだギリギリとゼネリアに噛みつかれたままだったが――
「大丈夫。これはあなたの苦しみそのものですから、いくらでも噛んでください」
右手で小さな頭を撫で、にっこりと慈しむように微笑んだ。
すると、左手を噛んでいた口を緩めていくと同時に、髪の色が徐々に灰色に変化していき、うわああんと声を上げて泣き出した。
そして、ぱたぱたと――
「お母さああん!」
イゼルの足元へ駆けつけたのだった。
戸惑ったイゼルは薬華とゼネリアを交互に見つめ、戸惑う。
助け船が欲しいような視線を送られた薬華はこう言った。
「匂いがね、似てるんだよ。今日は子守りでもしてな。部屋は貸してやるよ」
「そんなに似てるのか……」
ぐすぐすと泣くゼネリアを抱き上げ、背中をぽんぽんと叩き、落ち着かせようとしたイゼルの脳裏に、息子のゼンの幼い頃が過った。
(怖い悪魔が襲ってきたと言って、泣きながら紙音と俺の布団に潜り込んできたな。俺も長という立場がなければ、この子を連れて里を抜けていただろうか……)
ぼうっと頭の中に浮かぶ、どこかで二人で暮らす光景。
里のはずれにある、倒壊したゼネリアと母親が住んでいたような家の中で、本を読んだり共に食事をする光景が――。