19話 あの時の後悔
緋媛から逃げるように薬華の診療所に駆けこんだマナ。はぁはぁと息を切らしていながらも、その頬は桃色に染まっている。
(私ったら、緋媛に謝らなくてはいけないのに逃げてしまって……。でも顔も合わせづらい……)
両手で顔を覆うようにその頬を隠しているが、何とも言えぬ複雑な感情だけは隠しきれない。
――と、そこへ診療所の奥の部屋から子供の話し声が聞こえてくる。
緋倉やゼネリアがいるのだろう、そう思ったマナはその声の先へと足を運び、扉からこっそり中を覗いた。
「でね、でね、おにいと一緒におっきな雪だるま作ってね、おとうとおかあと――」
中にいたのは緋倉とゼネリアの他にもう一人いた。――ユキネである。
とても楽しそうに話すユキネを前に、緋倉は興味深そうに聞き入り、ゼネリアはそっぽを向くようにして寝ている。
(あの子、この里の子ね。よかった、他にもお友達が出来たみたいね)
安堵したマナは知らない。ユキネがダリス帝国のはずれで暮らしていた人間と龍族との混血だという事を。
するとそこへ薬華と緋紙がやって来て、後ろからマナに声を掛ける。――が、その声は獲物を狙うかのように不気味な笑みが込められていた。
「戻って来てたのかい。あたしの可愛い研究対象のお姫様」
びくっと驚いたマナは瞬間的に振り向き、目を見開いた。
薬華は忘れていなかった。マナが緋媛に抱かれたのではないかという問いの回答がなかった事を。
青ざめるマナを見る緋紙が薬華と彼女の顔と交互に見ると、気づいた薬華が捕捉した。
「ああ、この子の匂いが変わってるだろ? 龍族の雄が人間に発情するなんて聞いた事がないからさ」
「あらほんと! 匂いが変わってる。司に似てるけど違うわね、緋媛ね」と、緋紙がマナの匂いをクンクンと嗅ぐ。
反射的にマナの顔が恥ずかしさでカーっと赤くなった。
「……やっぱり片桐の家系のせいかしら。司ったらあちこちに手を出そうとするもの」
「何言ってんだい緋紙。前々からその兆候はあったよ。将来の緋媛の親なら複雑だろうね」
「そうだけど、緋媛の前に緋倉が誰に発情するか心配になってくるのよ‥…」
やはり幼い緋倉の将来の兄弟だけあって、どのような子に育つかが不安らしい。
恐る恐るマナが「あ……」と問い掛けると「そりゃその時さ」と言いながら彼女の横をすり抜けていく薬華。
薬華は部屋に入るなりユキネの前にしゃがみ込む。
どうやらユキネに用があったらしい。
「ねえ、ユキネ。後ろのお姉さんがね、お泊りにおいでって言うんだ。どうだい?」
優しい問いかけにユキネは後ろの緋紙をじっと見、ふわりと飛んでくる香りに誘導されるように彼女の元へ行くとクンクンと匂いを嗅いだ。
「……ちょっとだけ、おかあと同じ匂いがする」
うるっと涙目になるユキネを抱き上げた緋紙はにっこり微笑みながら言う。
「聞いたわ。ユキネちゃんのお母さんは、私のお姉ちゃんなの。私にとっては家族よ。だからユキネちゃん、お泊りにおいで」
ユキネはよく分からないといった戸惑いの表情を浮かべながら「……うん」と頷いた。
「じゃあ帰ってご飯食べましょうね。緋倉も帰るわよ!」
「えー! やだやだ! ゼネリアちゃんの側にずーっといるんだい!」と、緋倉が駄々をこねてゼネリアに掛かっている布団にしがみついている。
「わがまま言うんじゃないの! ずっといたら薬華に迷惑がかかるって、昨日も言ったでしょ! 明日また来ればいいじゃない。ほら、帰るよ!」
嫌がる緋倉を無理やり引っぺがした薬華は、プリプリしながら二人の子供を抱きかかえて診療所の部屋から出て行った。
放せ放せという緋倉の叫び声は、彼らが診療所を出た後も遠くから聞こえていたという。
「まったく、緋倉ときたら……。明日の朝にはまた来るだろうさ。ねぇ、ゼネリア」
仕方ない、といった少々困ったような表情をしつつ声を掛ける薬華にゼネリアは、横目でチラリと見るとすぐに視線を逸らす。
この態度が、マナの心に突き刺さった。槍で貫かれるように。
(あの時、私が助けなかったからこうなってしまったの? 誰も信用しないような目……。きっと私のせい……)
きゅっと胸の前で両手を絡めるように握ったマナは、「あの、薬華。お願いがあります」と真剣な眼差しを送る。
「今夜ここで過ごさせて下さい」
「あたしは構わないけど、その子が何て言うか……」
薬華が顎で示す先はゼネリア。
もぞもぞと布団の中に入ってしまった彼女を見たマナは、拒絶されてしまったと考えるがそれは違うようだ。
「……威嚇しないって事は、好きにしろって事だね。ただ、最近は夜泣きが酷くてね、あたしも手ぇ焼いてんだ。多分、人間にされた事が夢に出て来てるんだろうねぇ」
マナの脳裏に、船での出来事が浮かんだ。人間に道具同様に扱われた様や、花を咲かせる珍しい血と鱗を求める醜悪な人間の様が。
くるりと部屋から去ろうとする薬華に対し、マナはゼネリアの側にふらふらと寄るとぺたりと膝を付き、布団の上に両手をそっと乗せた。
「ごめんなさい、私があの時助けていればこんな事にはならなかったのに……」
ポタポタと涙を流すマナを尻目に薬華は去り、ゼネリアは布団の中から少しだけマナに近づいていたのだった。