4話 緋媛の左腕
龍の里へ戻ってから一週間が経過した。
緋媛、司、フォルトア、緋刃は、変わらず毎日里の外でダリス人を追い払う任に付いている。人を殺すことはなく、ただただ追い払っているという。
大陸に上陸する人間には何ら変化はないが、あるとすれば日によって人数や組数が違うぐらい。
変化、と言えば、マナとゼネリアが誘拐される前、大陸に侵入してきた人間を殺したとゼネリアを責めたイゼルに、緋媛が自分がやったと自白したのだ。
これに対しイゼルの怒る気はすっかり失せ――
「そうか、お前だったのか……。今の俺に誰かを咎める資格などない。これ以上人間を殺めて、俺達異種族を虐げるような人間と同じになりたくないものだな」
自らを戒めるような、悲しそうな表情を浮かべていた。
その表情の意味が、船の上でダリス人を殺めた事にあると緋媛は察し、丁寧に頭を下げてその場を後にしようとすると、イゼルに呼び止められる。
「緋媛、その腕、早く薬華に診せる事だ。俺のせいなんだろう、それも……。すまない」
そう言うとイゼルは踵を返して歩み去った。
外はそんな一族の長の感情を示し、曇り空となっている――。
***
イゼルに腕の事を気付かれていた緋媛は、なかなか治らない抉れたままの左腕について薬華に相談しに行ったのだった。森番に行く前の早朝に。
ほんの少しだけ回復したものの、このままでは皆に迷惑をかけてしまう。
特にマナには言えない。ミッテ大陸で空腹だった彼女の腹を満たすために身を削ったものなど、墓場まで持っていかなくてはならない事なのだ。
診療所に入るなり薬華が出迎え、緋媛の顔を見るなり「やっと来たね」と呆れ顔をする。
血の匂いで気付いていたのだが、あえて言わなかったのだ。人間のマナに隠すようにしていた為に。
診察室に入るなり左腕を出し、診てもらう緋媛。
骨まで見えていないが、ごっそりと円形状に肉が見えている。
これに薬華は怪訝そうに眉を寄せた。
「俺の腕、いつ治る。傷は塞がってきてるが、これ以上姫を心配させたくねえ」
「んー……、あたし達の傷の治りは速いとはいえ、何とも言えないねえ。多分、あと二週間ぐらいじゃないかい? 多分ね。で、どうしたらそうなるんだい」
じろり、と睨む薬華。
嘘は付けそうにないと冷や汗を流す緋媛だが、この一週間フォルトアにも緋刃にも腕の事を聞かれ、その度にこの回答をしていた。
「浜に打ち上げられた時にもっていかれたんだよ」
しかし薬華は騙されず、「嘘つけ! 本当の事を話しな!」と怒鳴る。
その程度で腕だけ抉れる筈がない。薬華の目は誤魔化せなかった。
渋々本当の事を話し出した緋媛だったが、まさかこの診療所内にマナがいるとは思いもしなかった。
***
時は少しだけ戻る。緋媛がやって来る十五分前だろうか。
マナはゼネリアの様子を見る為に診療所にやって来ていたのだった。
龍の里に戻ってから、ゼネリアが診療所にいると知るなりすぐに彼女の元へ向かい、包帯でぐるぐる巻きにされてぐったりと寝ている事に心を痛めていた。
その後何度か見舞いに行くが、起きている時は警戒して威嚇されてしまう。
――助けられなかった事を恨んでいるのかもしれない。
それでもマナは心配なので病室にひょっこりと顔を出し、そっと中に入った。
そこには緋倉もいて、窓の方を向いて何やらゼネリアとマナの事を話している。
びくりと気まずくなったマナは、咄嗟に入口側にあるベッドに隠れるようにしゃがみ、聞き耳だけ立てた。
「ゼネリアちゃん、見て見て外。晴れてきたよ」
外に向かって指をさす緋倉は、少しでもゼネリアが元気になるようにと励ましている。
ただ、これにゼネリアが答える事はほとんどない。
これがずっと続いているので通常の大人は困ってしまうだろうが、緋倉は違う。
会話がなくても傍にいて、共に昼寝をして励ましながら一日を過ごしているのだった。
「元気になったらまた一緒に遊ぼ。また動物いっぱい呼んで、里の中でかけっこしようよ」
動物、というと、ゼネリアが猫と一緒にいるところは現代でもよく見ていた。
クロという名の黒猫は良く懐いていた事を思い出すマナ。この時代でも確かに猫と一緒にいた覚えがある。人や龍族は好かなくても、動物は好きらしい。
ここでようやくゼネリアが口を開いた。
「……あのね、緋倉みたいな子と遊んだよ。ゼネの事怖がらないの」
「ほんと!? 一緒に遊ぼうよ!」
「どこいるか分かんない。また一緒に遊びたいけど、緋倉が一緒じゃなきゃイヤ。里の中も外も怖いよ……。人間も龍族もみんな怖いよぉ」
「ゼネリアちゃん……」
ぐすぐすと泣く人型になれないゼネリア。
彼女のいるベッドの中に入った緋倉は、小さい手でそっとゼネリアの体を撫でる。
「大丈夫だよ。ずーっと一緒にいるから、怖い思いなんてさせないよ。もう独りにしないからね。ずーっとずっと、ずぅっと一緒だよ」
「……ほんと?」
「うん、約束」
この会話をずっと聞いていたマナは、二人の絆がこんなにも幼い頃から続いていたのだと知る。
現代で初めて会った頃から緋倉がゼネリアと共にいたのも、抱きしめていた事も、全てこの頃からの約束でもあり愛情でもあるのだろう。ただの幼馴染ではないのだ。
人間も龍族も怖いと言うのだから、この日は顔を見せない方がいいと思い、マナは音を立てないようにそっと部屋を出た。
緋媛が薬華に抉れた左腕を見せたのは、丁度その頃であった。
診療所から出る前に薬華に一言挨拶をてから去ろうと考えたマナの耳に、薬華の怒鳴り声「嘘つけ! 本当の事を話しな!」の言葉が入ってきたのだ。
ただならぬ空気に驚いたマナは、部屋の前の廊下で隠れるように立ちすくんでしまう。
(私ったらさっきから隠れてばかり……。薬華は一体誰に怒っているの?)
と考えた矢先に、緋媛の声が聞こえてくる。
「……俺らの肉、人間の口に合うらしいんだ。だから……喰わせるしかなかった」
「誰に」
薬華の問い詰めるような低い声。
何やら嫌な予感がするマナは、ぎゅっと胸の前で両手を握りしめた。
緋倉は遠回しに答える。
「腹を空かせて、苦しそうにしていた。周りに動物の肉なんてねえ。そう思ったら……」
「だから誰に喰わせたんだい!?」
「……姫がこれを知ったら、自分を責める。あいつには鹿肉だとしか言ってねえ、まさか俺の喰わせたなんて! ……言えねえだろ」
この緋媛の苦痛の吐き出しに、マナの頭が真っ白になった。
やむを得なかった、という言葉が聞こえても耳に入らず、頭の中がぐるぐると回り混乱する。
(私が、緋媛を食べた!? いつ……! あの時、緋媛は確かに鹿肉って、あの口の中ですっと溶けるお肉、あの食感どこかで……)
ふと思い出す。現代で司に攫われ、ダリス城にいた時に食した肉の事を。
その時に食べた肉は確かに口の中ですっと溶けた美味な肉であったことを――。
(私、まさか本当にあの時、ホク大陸で緋媛が食べさせてくれたあの時……! 嘘、嘘よ!!)
青ざめてよろめくマナ。
彼女に気付かない緋媛は、薬華に頼みごとをしていた。
「この事は姫には絶対に言わないでくれ。ずっと城の中で閉じ込められていた世間知らずな人間だが、随分と繊細な心を持ってんだよ……」
マナは口に手を当てて込み上げる吐き気を抑え込みながら、診療所の壁にドンと背中を預ける。
その音で緋媛と薬華は、ようやくマナの存在に気付いた。周りの薬草や薬品で彼女の匂いに気付かなかったのだ。
焦る緋媛は、診察室から飛び出してマナの姿を確認すると目を見開く。
「まさかお前、今の話聞いて……!」
「私、私……!」
左右に目を泳がせたマナは、緋媛の左腕を見るなり泣きながら逃げるように消え去って行った。