2話 司の暗示
緋媛は近くの木の上まで降りると人型に戻り、マナを抱いて木の上、そして地面に降り立つ。
地に足を付けたマナは、遠くに見える光に気付く。
「あの光は一体何でしょう。江の川のある方角ですね」
「ああ、満月の夜は江の川で異種族達が宴をするらしいんだ。満月に照らされた江の川は美しいとか何とか……」
「満月の川……。素敵です! 行ってみましょう!」
ぱっと喜んだマナは、緋媛と共にまっすぐ江の川へと向かって行く。光は徐々に強くなり、輝きを増す。その輝きの色はがはっきりとしてきた。
森を出ると、目の前に広がるは金色に輝く大運河の前の原っぱで異種族達が集い、飲食を楽しんでいる光景。とりわけ目に付いたのは、やはり金色に輝く江の川。
「お、おい、姫!」
駆け出したマナは、異種族達の間を縫うようにするすると抜けていき、川の前に座り込む。川を覗き込むと、水が金色に見える。そっと冷たい川へ両手を入れて水をすくうが、やはりただの水のようだ。
左側を見上げると、大きな月明かりが川を真っ直ぐに照らしている。
「これが満月に照らされた江の川……。なんて綺麗なの……! こんなに美しい光景がこの世界にあるなんて……。この大陸は、絶対に失ってはいけない……!」
異種族達への挨拶がてら川の近くまでやってきたイゼルは、うっとりと川を眺めるマナを見つけた。
彼女が生きていた事で一つの重荷が降り、未来のレイトーマの王女を護れなかった謝罪をと歩を進めようとした時だった。
「ねーお母さん、人間がいるよ!」
人型もままならぬ一体の龍の子がマナを指さして叫んだ。
周りは騒めきと動揺が走る。
反射的に振り返ったマナは、自身が疑いと警戒の眼差しで注目されていると気付く。
異種族達は次々にこう口にしていく。
「どうして人間がこの宴にいるです」
「まさか宴に紛れて子供を攫おうと?」
「大変だー! 大変だ―!」
この異様な光景にマナは曇った表情を浮かべてきょろきょろと見渡す。
頬張るように料理を食べていた緋刃と、緋紙と共に異種族と交流を図っていた司もこの空気に気付いた。
すぐさまマナに駆け寄った緋媛は、彼女の盾になるように異種族達の前に立つ。
「姫はそんな事しねえ。この人間はレイトーマ人だ。野蛮なダリス人とは違う。それにこんな小せえ体でガキを攫えるかよ」
言われてみればそうだ、丸腰のようだし、等、緋媛の言葉に反応してマナを善人かと探るような声が聞こえてくる。
ところが、ある一体の龍族の雄はこう発言した。
「お前、その人間と一緒に最近里に来た同族だな。まさかその人間に唆されて、俺達を捕らえようとしてんじゃないだろうな」
これに緋媛は思わず「は?」と声を上げる。
「そうでなけりゃ、この大切な宴に人間を連れてくるもんか」
「もしかして、その人間と共謀して私たちをダリス人に売ろうとしたの?」
と、雌の龍族は雄の子供を奪われぬよう、ぎゅっと抱きしめる。
その子はマナを見て「あの人間、僕が追い払ったのに……」と呟いた。
マナはその子供をはっきりと覚えている。ダリス人に攫われる前、龍の里の中でマナとゼネリアに向けて石を投げた子供なのだ。
「私は……、そんな愚かな事……」
声を震わせながらも愚かな事はしないと言いかけたが、異種族達はまるで陰口のように次々をあらぬ疑いをかけていく。
(いかん、皆を説得しなくては……!)
せっかくの宴だというのに状況が悪化してしまったことで動き出そうとしたイゼル。
一歩歩み出そうとすると、司に肩を掴まれて止められた。
そして司はイゼルの耳元で囁く。
「ここは俺に任せて、お前は緋紙と緋刃連れて里に戻ってろ」
「だが……!」
「俺がこいつら全員に暗示をかけて、この宴にあの人間の小娘が来なかった事にする」
強力で広範囲に暗示をかけられる司は頼りになるが、本当はその術に頼りたくはない。
だが、この場はそうでなければ収まらないだろう。
やむを得ずイゼルは「頼む」と頷き、すぐに司の言う通りに動いた。
司がマナ達の方を見やると、丁度緋媛が声を張り上げたところだった。
「てめえら全員頭おかしいぞ! 姫が何したってんだよ! こいつは自分より他人の幸せを考える人間だ! その姫がそんな事出来る筈がねえだろ!」
「姫姫って、レイトーマには王子しかいない! 騙されてんのよ、あんたは!」
「何よ、ちょっと司に似てるからっていい気になって!」
と、主に緋媛に反論するのは龍族の雌達である。
論点がズレていきそうだと思う司は、異種族達を押しのけてマナ達のいる河原へと歩を進めた。
歩んでくる司の姿を確認した緋媛は、「親父」とぽつりと呟く。
司が前に出てくると異種族達は静まり返った。
皆が見守る中、司は緋媛を見下すように見るなり将来の息子の胸倉を掴んで地面に叩きつける。
背中を打ち、仰向けになった緋媛を庇うようにマナが覆い被さった。
「緋媛! 何をするのです、司!」
「人間が司を呼び捨てにするなんて……!」
周りの異種族の騒めく。
司はそんな事は気にも留めずに跪くと、背中の痛みで顔を歪める緋媛と不安で眉を寄せるマナ小言を言う。
「ったくこの馬鹿。この小娘、レイトーマの姫だとしてもこの時代じゃただの人間だって分かんだろ。余計な事言ってんじゃねえよ。あんたも先にイゼルか俺の所に来るべきだったな」
「……うるせえな」
反発する緋媛に対し、マナは確かにそうだと反省する。川の美しさに駆けていかなければ、この騒ぎは起きなかったのだと。
司はそのマナの表情をチラリと見ると、「お前らはさっさと里に戻れ。この場は俺が収める」と言い、すくっと立ち上がった。
体を起こし、立ち上がった緋媛とマナ。
司の背中が大きく見えた緋媛は、過去の父親に任せたくない悔しさに唇を噛み締める。
マナは騒ぎをこれ以上大きくしない為にもすぐに立ち去ろうとする為、「緋媛」と声を掛け、彼と共に里へと向かった。
すると、ある一体の龍族の雌が「ちょっと逃げる気!?」とマナに向かい、術で川の水を持ち上げて投げつけたのだが――、びしゃりと水が地面に垂直に落ちたのだ。
司が得意とする術の一つ、重力の術で阻まれる。
邪魔をされたと悔しがる雌の龍族は、司に怒鳴った。
「どうして邪魔をするの司! 里がどうなってもいいの!?」
「どうなってもいいかだと? てめえが争いの火種巻こうとしたんだろ。あの小娘は確かにレイトーマ人だ。あの目の色と茶色の髪、どう考えてもそうだろう。今はダリス人だけで済んでるが、これが原因でレイトーマとも戦争になったらどうしてくれんだ!!」
司の怒声に、誰もがびくっと体を震わせた。
「そんな事も判らん奴が、里がどうなってもいいかだと? 笑わせる」
しんと静まり返る江の川では、金色に光る美しい川に相対して場の空気は重い。
次に口を開いた司は落ち着いた声で手を前に出しながら言う。
「さて、宴が台無しになるのは良くない。この先百年の安寧を祈る伝統的な宴だ。人間はこの場に来なかった。お前たちは最後まで宴を楽しむんだ。何事もなくな……」
これにより、宴に参加した異種族全員の記憶が書き換えられ、文字通り何事もなかったかのように無事に宴は終了した。
強力な司の暗示は、彼自身が解くか死ななければ解ける事はない。
少なくとも向こう二百年先までは、確実にこの件は記憶の奥底に眠る事になるのだった。





