3話 緋紙の死
また時間が飛んだ。
そう感じたのは、青ざめた顔をしてベッドに横たわっている緋紙が目の前にいる為。
どうやらここは薬華の診療所らしい。
視界の中の緋媛の手は現在と大差ないが、龍族は一定の年齢になると成長が止まる為にこの時の年齢は不明。
その彼は、母親である緋紙の額の汗を拭っていた。
薄く微笑む緋紙の顔から生気がないようにも思える。その声も、か細い。
「ありがとう、緋媛」
「……俺、こんな事しかできねえから」
いつになく落ち着いた声をしている緋媛だが、心の中ではいつ緋紙が亡くなってもおかしくないという覚悟がある。
「緋刃の面倒も見てくれてるじゃない。緋倉は里の見回りと森番をして、司は……」
司の名を出した途端、悲し気でもどこか安堵しているような、複雑な表情を見せる緋紙。
こんな顔をさせる父を恨む緋媛は、唇を噛み締めるように、憎むようにこう言った。
「黙って里から出た親父のせいで、母さんも兄貴も苦労してんじゃねえか。イゼル様も何故か何も言わねえし、緋刃が生まれたって一度も顔すら出さねえ」
何となくだがマナは、過去へ来たばかりの頃に緋媛が司に言った「母さんをほったらかしたあんたとは大違いだ」という言葉は、この時のものだと悟る。
そういえば緋刃はどこだろうと思うマナ。
すると、ぴょこっとベッドの側から頭を出し、もぞもぞとよじ登り始めた小さい龍がいる。これが緋刃だ。緋紙の腕の中へ行きたいらしい。
気付いた緋紙は重そうに体を起こし、幼い緋刃を抱き上げて腕の中に納めた。緋刃の頭を撫でながら緋紙は「緋媛」と静かに言う。
「司はね、昔から里の為に生きているの。里を護る為に、一族を護る為に。ねえ緋媛、龍の里が昔どこにあったか知ってる?」
「ミッテ大陸だろ? 里の連中が話してて、兄貴に聞いたらそこだって。ナン大陸とは比べ物にならない程、生命力に溢れてる美しい森だったんだってな」
「そうよ。今は神殿にいる他の異種族達、中でも妖精はミッテ大陸でしか生きられない。その大陸を、里を護る為に、争いを望まず戦わない、戦えない私たちの代わりに司とイゼル様で人間を退いていたの。でも、それも限界だった。増えすぎた人間が一気に里を襲ってきて、……大陸も無くなってしまったの。それでも司は、今でもずっと戦い続けているのよ。――里の為に」
緋媛の心は納得出来ず、もやもやとしている。
ミッテ大陸で住めなくなり、ナン大陸に移住してからも緋倉やフォルトア、ルティスとゼネリアがたまに来る人間を退いてるだけ。里の為にやってるのは兄達であり、親父はどっかでふらふらしてるだけだろう。
なのに何故、里の為って言えのかが不思議でならない。
「……いつかきっと、貴方にも、緋刃にも分かるわ」
にこっとほほ笑む緋紙のその言葉でも、緋媛は納得出来なかった。
緋倉も緋紙も、父は、司は里の為に動いていると口にする。だが緋媛は司が何をしているのか知らない。
昔一度、父に問うたことがあったが「お前は知らなくていい」と言われ、それっきりだ。
(現代で、司に攫われてダリス城へ行った時、彼が何をしているか知った。でも、決して誰にも言わぬよう暗示を掛けられて……。本当は緋媛に言いたい。司のしている事を……)
何故ダリス側に、ケリンの右腕として付いているのか、話せば緋媛も分かってくれるだろう。
いや、頭で理解しても気持ちが追い付かない可能性がある。最初からそう言ってくれとも言いそうだ。
司曰く緋媛はまだ未熟者で、精神的に余裕がない。裏を返せば伸びしろがあるという事だが、その時点では伸び悩んでいる頃だという。
素直に本能に従えば、余裕も出て司を超える程に伸びるはずだと見込んでいた。
(緋媛、貴方のお父様は、司は、本当に里の事と貴方達の事を考えているんです!)
マナがそう叫んでも、ここは彼の過去の記憶の中。それが緋媛に届くことはない。
過去の記憶の緋媛に届くのは、記憶の中に住む者の言葉だけ――。
記憶の中で「母さん」と緋紙を呼ぶ声が聞こえた。
その声の方へ顔を向けると、緋倉が歩み寄って来る。この部屋の扉の前に誰かがいるようだが、入ってくる気配はない。――それが誰か、検討は付いているが。
ベッドの側に寄った緋倉が、穏やかに口を開く。
「具合は?」
「……平気よ。今朝もお薬飲んだし」
「嘘つけ。さっきまでひでえ汗流してたじゃねえか。今だって顔色悪いし、呼吸が浅くなってきてる」
汗を拭った時からほんの数分しか経っていないというのに、緋媛は僅かな変化も見逃さなかった。
何となくだがもうすぐ……という戸惑いがある緋媛の心臓はバクバクと音を立てている。
どうにかならないだろうかと焦るが、何もできない。傍にいる事しか――。
すると緋紙は、突如昔話を始めた。
「私が生まれた頃は、ミッテ大陸の緑もそれは美しいもので、人間とも良好な関係を築き上げていたの。エルフは畑仕事を手伝い、ドワーフはその技術を教えながら宝石を掘り起こしてはレイトーマ王室に献上し、満月になると妖精たちと江の川で宴をする……。とても楽しい時代だったわ。でもね、突然その時代は終わったの。ダリス人が始めた異種族狩り……、あれさえなければ今もきっと……。私の心残りはね、貴方達可愛い息子と娘に、あの頃の美しい世界を見せられなかった事。特に緋媛と緋刃は江の川すら知らない。もう一度、あの場所へ還りたい……」
「な、なんだよ母さん、急に……。二百年もすりゃあ緑は蘇るって、きっと」
これに緋媛の心の徐々に焦りの色が伺える。
マナ自身も嫌な予感がし、視たくない、聞きたくないと目と耳を塞ぐ。それでも視えて聞こえてしまうこの過去は、目を逸らすなと言っているようだ。
緋紙はいつの間にか寝てしまった緋刃の頭を撫で、緋倉に預ける。呼吸がどんどん浅くなっていくと同時に、顔が土気色になってゆく――。
「もう一つ心残りがあるわね。この子の……、緋刃の成長を見届けられない事」
「何言ってんだよ! 何を言い出すかと思えば……まるで、まるで……! 遺言じゃねえか……っ!」
緋媛の心が痛い。心の奥底では分かっていても、いざ現実が近づくと拒絶したくなる。
小さく息を吐いている緋紙は、ふらり、とベッドに横たわった。
「そう、遺言……。言いたいことは、言っ……た。けど、最後に、謝らな、い、と……!」
「母さん!」
「母さん……」
金色のになっているマナの瞳からは涙が滲み出ている。それは緋媛も同じ。
拒否したい現実の、痛い心が伝わってくる。どうしてこんなに急に呼吸が消えていくのだろう――。
混乱している緋媛に対し緋倉は、もう悟っているように落ち着いていた。
「薬、飲んでな、い……。ルフト草、採れなかったって……、焼き払われ……、ごめん、ね……!」
紙音は薬を飲んだと嘘をついた事に謝罪したのだ。息子に心配をかけまいと。
だが緋媛はそうは捉えず、人間のせいで薬が飲めなかったと、その意味で解釈したのだった。
人間が、ルフト草のある場所を焼き払ったのだと――。
緋媛に人間に対する怒りの感情が湧き上がってくる。
緋紙は天を仰ぐように右手を伸ばし、「司……」と絞り出したような細い声でそう言うと、そのままこと切れてしまった――。
「母さん! 母さん!」
ぱたりと落ちてきた手を握り、叫ぶ緋媛の声に反応しない。まだ暖かい手に脈がない。
「薬華! 薬華は何してんだよ! あのババア!!」
「誰がババアだ、クソガキ!」
どこからか現れた薬華が緋媛の頭上に拳骨を落とす。
割れるような痛みに頭を両手で抑える緋媛を余所に、薬華は冷静に緋紙を診察した。
結論は、こうだ。
「……もう手遅れさ。ルフト草で作った薬が飲めないという事は、死ぬという事。空気毒はその名の通り空気が毒。日々取り込んでいる以上、当然死期はあっという間だ。アタシでもどうしようもない、何をしても無駄なのさ……」
無駄という言葉に怒りを覚えた緋媛は、薬華の胸倉を掴む。
「無駄、だと……!? あんたそうやって、母さんを放置してたのか!」
「言っただろう、どうしようもないって。それに緋紙だって解っていたんだ。もうじき死ぬって」
胸倉を掴まれている緋媛の腕に爪を立てるようにギリッと握る薬華。
彼女は涙を浮かべながら悔しさを吐露しする。
「……どうにか出来たらしてたさ! アタシだって、何もしなかった訳じゃない! 前回のルフト草の収穫は悪かった! だからそれに代わる何かがないかって試行錯誤してた! でも駄目だったんだよ……! 空気毒の症状は、ルフト草でないと抑えられない……。緋紙は貴重なルフト草で作られた薬を、それ以上自分の為に使うなって、今後現れるかもしれない同じ症状の同族の為にって、飲むのを止めたんだ……」
崩れるように床に手を付いて涙する薬華。
足元にいる彼女に、緋媛は声を震わせるように言う。
「……何で無理やりにでも飲ませなかった。あんたが飲ませていれば、少しでも長く生きられたはずだろ! それとゼネリア! てめえの事を娘っつった母さんが亡くなったのに、いつまでそこに隠れてんだ!」
薬華から視線を部屋の扉の前に移した緋媛。
言われてようやくゆっくりと姿を見せたゼネリアは、全くの無表情だった。
それにさえも、腹が立つ。
「はっ、しおらしく泣きもしねえ、心ってのがねえのかよあんたは」
緋媛の後ろから低いトーンの声で「緋媛」と呼ぶ緋倉の声が聞こえる。
うっとおしいその声を無視し、八つ当たりをし続けた。
「……空気毒の症状は、この里の中じゃ母さんしかいねえ。死んだあんたの両親も空気に侵される体質だったんだってな。里の連中が噂してたんだ。今後現れるかもしれない同じ症状の奴って、あんたの事言ってたんだよきっと。同じ体質が遺伝で受け継いでいるかもしれないあんたの事を!」
「おい緋媛、それ以上は――」
「あんたさえいなければ、母さんは大人しく薬を飲んでたんだ!あんたみたいな……異界の化け物さえいなければ!!」
――瞬間、部屋中、いやそれ以上の範囲が氷で覆われた。
急な冷え込みに緋刃は泣き出し、目の前にいたゼネリアは姿を消し、ただただ氷が残る。
考える間もなく、緋媛は後ろから肩を掴まれ、振り向きかけるなりその掴まれた拳で頬を殴られた。
殴ったのは兄の緋倉。いつものような軽い笑みは消え、怒りを浮かべて緋媛を睨みつけている。
「てめえ、母さんが亡くなったばかりだったのに、餓鬼みたく八つ当たりしてんじゃねえよ!! ヤッカは手を尽くした! ゼネリアだって母さんが心配じゃなきゃここまで来てねえ! そのヤッカに、ゼネに……、言っちゃいけねえ言葉までぶつけやがって……!!」
声と拳を震わせている緋倉は、「頭冷やせ! 未熟者!」と吐き捨てると緋刃を連れて緋媛の横を通り過ぎる。
「緋倉……」と薬華が言うと、彼はすぐ戻ると言って部屋を出ていってしまった。
残された緋媛の心の中はぽっかりと穴が開いている。彼はまだ温かい緋紙の側へ行きじっと見つめると、瞳から一筋の涙が流れてた。
この時代の緋媛の記憶はここで終わっている。
マナは流れてくる緋媛の複雑な感情に、酷く心を痛めたのだった。