はじまり
※※
生ぬるい風が吹いている。もう梅雨は目前だ。トキワは、短く切られた髪をかき上げた。
高校見学だなんて、これほど面倒なことはあるだろうか。自分の将来を決める大事なことに違いないが、トキワはどこか他人事のように感じていた。
既に担当教員による学校案内は終了しており、後は帰るだけ。しかし、まだ日は高い。普段の下校時間よりまだかなり早いのだ。家には帰りたくない。
トキワは他の見学者が帰るのを見送って、校舎の裏側にあるベンチに座っていた。
本当はさっさと出て行かなければまずいのだろう。先ほどの案内係も「速やかに帰るように」と言っていた。なにせこの高校、かなり治安が悪いのだ。地域でも荒れたバカ学校として有名で、ここに集まってくるのは問題児ばかり。
校舎を見て回っている際も、指定の制服を着ている者はほとんどいなかったし、その上授業中にも関わらず、廊下を歩いている生徒もいた。校則なんてあってないようなものである。
見学に来ていた人間も、如何にも不良ですと言わんばかりの格好で、制服を着崩しだらだら歩く者ばかりだった。そんな中見学者集団の先頭を歩いていたトキワはかなり浮いていたと思う。髪は真っ黒。制服は着崩しているといっても、ワイシャツのボタンを上まできちんと止めていないだけ。靴もかかとを踏みつぶすわけでもなく、きちんとはいている。この学校の基準からしてみれば、十分真面目に見える。
これだけでも目立つのに、さらに目を引いたのはその小柄な体系であった。男にしては、小さすぎるし、細すぎる。この無法地帯の高校に入学なんてしたら、真っ先にいじめられそうだ。
そんな理由で、途中ガラの悪い生徒に不躾にジロジロ見られたトキワは辟易していた。疲れた。座りたい。そんなことを考えながらぶらぶらしていると、ちょうど校舎の裏側にベンチがひっそり置かれているのを見つけたのだった。
校舎裏には煙草の吸殻や、空き缶などが転がっていて、いかにも不良高校らしい。そんな中に置かれていたベンチだったが、古ぼけて落書きだらけだったが損傷はなく、座るにはなんの問題もない。横には青々と葉を繁らせた大きな木がある。これがちょうどいい具合にベンチに木陰を作っており、一休みにはもってこいだ。幸いトキワ以外に人影はなかった。
ふー、と一息ついてベンチの背に寄り掛かる。遠くから人の声が聞こえる。生徒が騒いでいるのだろう。高校へ行って、自分はどうするのだろう。これといって夢もないし、そもそもこんなバカ学校に通っていても無駄な気もする。周りが進学するから自分も進学。そうしないと置いてきぼりだ。しかし、もう置いていかれているのかもしれない。クラスの中にはもうずっと前から「この学校に絶対行く」と目標を立てている人間も多くいる。それに比べ、自分はただなにかの義務のように進学を志望している。もう中学三年の五月だというのに、はっきりした進学先も決めていない。
それに加えて、トキワは頭がよくない。成績はクラスの底辺。だからこんな治安の悪そうな学校しか受験できそうにない。今から勉強すれば、もしかしたらもう少しましな高校を選択することもできるかもしれない。が、あまりにもスタートが遅いし、トキワ自身そんなことをするつもりはまったくなかった。
そこまで考えて、嘲笑が漏れた。
「ま、なるようになるか……」
ため息まじりに呟いて、足を投げ出した。その拍子にズボンの裾がほつれているのを発見して、ますます気が滅入る。
取り敢えず、これ以上ほつれが広がるのは防ぐべきだろう。飛び出ている糸をどうにかしようとしていたら、頭上にガサガサという音と主に葉やら木くずが振ってくる。
「うわ、なんだこれ……猫でもいるのか?」
次々降ってくるのでかなりうっとうしい。頭の上を掃いながら上を見ると、
「え、」
――人が降ってきた。
「えっちょっと、」
落ちてくる人間に何かできるわけでもないのに、トキワは思わず立ち上がって身を乗り出していた。
ストン。それはトキワの目の前に、軽やかに着地した。ふわりと風が舞う。そしてそのまま何事もなかったように立ち上がり、目が会った。
「ああ、コンニチハ」
男は、にこやかにトキワに笑いかけた。
「こ、こんにちは」
降ってきたのはどうやら、この高校の生徒らしかった。適当に着崩された制服を身に纏っている。ひょろりと高い背。茶色いふんわりした髪をしており、それが彼の温厚そうな顔をさらに優しげに見せている。人のことは言えないが、この学校には場違いな雰囲気をしていた。
「あ、ねぇ、これちょっと持ってて」
返事をする前に、ぽいっとA4サイズの茶封筒が渡された。
「すぐ戻ってくるから」
「あ!ちょっと!」
トキワが呼びかけるが、振り返りもせずにさっさと走り去ってしまう。あまりにも唐突すぎて、思わずトキワはぽかんとしたまま立ち尽くしてしまった。しばらくそうしていると、
「おい!」
怒鳴り声とともに、息を切らした教員が駆け込んできた。歳は五〇にはまだ届いていないだろう、かなり厳つい顔をした、まさに体育会系といった教師だった。
「いま、ここに背の高い男子生徒が来ただろう!どっちにいった!?」
大きな声で急き立ててくる。そんな大声を出す必要ないだろうに。トキワは若干むっとしながら、男子生徒が指差した方を指差した。
「あっちだな!見学者は早く帰れよ!」
そう言うが早いか、男子生徒を追って行ってしまった。
思わず受け取ってしまった封筒を捨てるわけにもいかず、仕方がないのでまたベンチに腰を下ろした。男子生徒が降ってきた木を見上げると、校舎の一階部分の窓と枝が接触している。あそこを伝って降りてきたのだろうか。
茶封筒は中に冊子体の物が入っているらしく、それなりに分厚くなっている。表にも裏にも何も書いていない。封はされておらず、ベロの部分を捲れば中身が見えそうだ。
「………なにが入ってんだろ」
他人の持ち物を覗くのは行儀が悪い。が、見ず知らずの人間に預けるやつが悪いのだ。トキワはそう言い訳をして、袋を覗き込んだ。
「うっわ、エロ本じゃん……」
表紙には、全裸の女性が艶めかしい顔をして写っている。思わず汚いものを触るかのようにつまみなおしてしまった。
「だめだヨ、人のモノ勝手に見ちゃ」
背後から突然声をかけられ、つまみ上げていた本を袋ごと落としてしまった。振り返ると、いかがわしい本をトキワに預けた張本人がニコニコ顔で立っていた。
「アンタが勝手に投げてよこしたんだろうが!」
「いやー、ごめんね。よりにもよって一番貸し借りに煩いヤツに借りた本持ってる時に、一番うるさいセンセに見つかっちゃってさァ。君もこの高校入るんだったらあのセンセには気をつけなね」
言いながら、彼は地面に落ちた本を紙袋ごと拾い上げる。
先程見たときも大きいと感じたが、目の前に立たれるとさらに大きく思えた。おそらく一八〇センチは超えているだろう。背は高いが、威圧感はなかった。妙に間延びした喋り方をするのと、見た目が優男風なのとで、随分ふわふわした印象を受ける。
「他のセンセはみーんなやる気ないんだけど、あのセンセだけ妙に熱いんだよねー」
よっこいしょ。親父臭い掛け声を上げながら、青年はトキワの横に腰かけた。なんだか距離が近い。彼の横顔は―――トキワには人の顔の良し悪しはよくわからないが―――きれいな顔立ちをしていると思われた。ただ、目だけがどこかうつろだった。どこか遠くを見ているような、そんな目をしている、気がする。
「あー、そう、俺ね、笹川律って言うんだ。」
トキワを振り返って、青年、律はふっと微笑んだ。その表情を見て、不思議な感覚に陥った。初対面の人間に向けるには、あまりにも無防備な笑顔だった。
「君の名前は?」
真正面から見てみると、律は感じていた以上に色味に欠けていた。肌も白いし、髪も目も色素が薄い。それが彼をますますぼんやりと見せていた。整った顔立ちと相まって、まわりの風景とまぎれて掻き消えてしまいそうな、そんな危うさがあるように感じた。
ぼんやりした琥珀色の瞳がじっとトキワを見つめている。そこでようやっと自分が不躾にもじっと見ていたことに気が付いて、慌てて目を逸らした。
「トキワ!武藤トキワです」
ごまかすように名前を言って、咳払いを一つ。
「そ。トキワね。ねえ、トキワはここに入るの?」
いきなり下の名前で呼ばれたのには驚いたが、相手が先輩だということを思い出し、何も言わなかった。他人との距離感が近い人間なのだろう。
「そのつもりですが……」
トキワが答えると、律はまたにこりと微笑んだ。そっかそっかと独り言のように呟いて、右手で髪を掻き揚げる。そんな何気ない動作でさえ絵になっていた。そのまま、右手を流れるようにトキワの左頬に、左手はトキワの右手に重ね―――……
「ねぇ、俺と付き合わない?もちろん、結婚を前提に」
そっと囁きかけてきた。一瞬にして鳥肌が全身に広がった。
「はあ!?」
思わずトキワは耳を押さえてその場から飛びのいた。
「何、アンタ、男が好きなの!?」
「いやいや、だってさ、君そんなカッコしてるけど女の子デショ?」
コチン、と一瞬思考が停止した。そう、トキワは男の格好をしているし、よく男と間違われるが、れっきとした女なのだった。初対面の人間に「女の子」と気が付かれたのは生まれて初めてである。嬉しい気持ちと、気づかれたくなかったという気持ちがない交ぜになって、トキワの頭をぐるぐるまわっていた。
「どしたの?」
律の声がした。はっとして、トキワは再び眉を上げて律を見た。
「付き合うとかキョーミないし!!第一、おれはお前みたいな不良とは関わりたくない!」
思わず敬語が抜け落ちた。律はクスクス笑っている。馬鹿にされていることに気が付いて、トキワはかっと顔が熱くなった。
「ね、来年ここに入学するの?」
クスクス笑いをしたまま律はトキワに尋ねた。やはり先ほどの告白まがいの言葉はからかっていただけなのだ。怒りで頭の中が沸騰寸前だった。トキワは質問には答えず、回れ右して校門に向かった。
足音荒く校庭を横切りながら、絶対この学校には入学するまいと固く決意するのだった。