01 便利な婚約者
01 便利な婚約者
日はすっかり暮れ、通りには家々の窓から漏れる明かりだけが浮かんでいた。
マリサは、鈍く痛む腰をかばいながら、重い足取りで家へ向かっていた。一歩進むたびに、腰の奥へじわりと痛みが広がる。昨日から痛んでいたが、今日は店に届いた商品を運び、棚へ並べる作業まで手伝ったため、さらに悪化していた。
遅くなれば家族から嫌みを言われる。そう思いながら、ようやく家にたどり着いた。
食堂には夕食の匂いだけが残っていた。両親も妹のメラニーも、すでに食事を終えている。卓上には使い終わった皿やカップが放置され、台所の鍋には底が見えるほどのスープが残されているだけだった。
マリサの分は、それだけだった。
「……まだ残っていただけ、ありがたいわね」
誰に聞かせるでもなく呟き、冷えたスープを器によそう。具はほとんど入っていなかった。薄いスープを飲み干してから、マリサは家族が使った食器を洗い始めた。腰を曲げるたびに激痛が走る。
「うっ……」
小さく息を詰め、流し台に手をついて痛みが引くのを待つ。洗い物を終えて自室へ戻るころには、指一本動かすのさえ億劫になっていた。着替える気力もなく、マリサはベッドに倒れ込んだ。
(少しだけ……休もう)
そう思って目を閉じると、いつの間にか朝になっていた。眠ったという実感すらない。それでも今日は、シリアス家のおじい様――実の祖父ではないが、昔からそう呼んでいる――の世話をする当番ではない。久しぶりに朝から休めるはずだった。
(どうせ代わってくれと言ってくるでしょうけれど……今日はデイジーの当番だもの。もう少しだけ、寝ていてもいいわよね)
マリサは毛布を引き上げ、もう一度目を閉じた。
しかし、眠りに落ちかけたところで、激しく扉を叩く音が響いた。ドンドンドンと、遠慮のない音が部屋中に重く響き渡る。
「マリサ、いるんでしょう?」
扉の向こうから聞こえたのは、シリウス家の長女デイジーの声だった。マリサの婚約者ライリーの姉でもある。
「悪いけれど、今日、代わってくれない? どうしても外せない用事があるの」
マリサは答えなかった。起き上がろうとしただけで、腰に重い激痛が走ったからだ。
(無理よ。今日は休みたい)
昨日も、一昨日も、その前の日も、マリサが当番を代わっておじい様の世話をした。当番ではない日でも、誰かが用事を作っては押しつけてきたからだ。
今日はようやく休める。いや、休みたい。身体はもう限界だった。しかし、ノックの音は止まなかった。
「マリサ、聞こえているんでしょう? たまにはいいじゃない、代わってよ。次は私があなたの当番を引き受けるから」
(そんな約束、一度だって守ったことがないじゃない……)
マリサは毛布の中で唇を噛みしめた。以前も同じことを言われたのだ。次は代わる、今度は手伝う、必ず埋め合わせをする――デイジーはそう言うだけで、実際にマリサの代わりを務めたことなど一度もない。
それを言えば、デイジーだけでなく、他の者も同じだったのだが……。
「お姉さま、起きているんでしょう? 返事くらいしたらどうなの?」
今度は妹のメラニーの声まで重なった。
「早く出てきてよ。デイジーさんが困っているでしょう?」
(どうしてメラニーまで……)
メラニーはおじい様の介護には何の関係もない。もちろん、マリサの代わりに手伝ったことなど一度もなかった。それなのに、こういうときだけは決まって他人と一緒になってマリサを責めるのだ。
「もう時間がないのよ。私、行くからね!」
デイジーが苛立った声を上げた。このまま無視を続ければ、本当に何もせずに出かけてしまうだろう。そうなれば、誰もおじい様のもとへ行かなくなってしまう。
マリサは諦めて身体を起こした。
「……待って」
壁に手をつきながら立ち上がり、ゆっくりと扉を開ける。廊下には、すでに外出着に着替えたデイジーと、寝間着の上からガウンを羽織ったメラニーが立っていた。
「無理よ……」
マリサは掠れた声で言った。
「昨日も、一昨日も、その前の日も私が行ったの。今日は休みたいわ。腰も痛くて……まともに動けないのよ」
デイジーはマリサの顔も見ず、壁の時計へ視線を向けた。
「それ、私が頼んだことじゃないでしょう?」
「でも、今日があなたの当番なのは変わらないわ」
「私が代わってほしいと頼んでいるのは『今日』のことよ。昨日まで誰の代わりをしたかなんて、私には関係ないわ」
「関係ないって……」
マリサが言葉を失うと、デイジーは大げさにため息をついた。
「おじい様を放っておくつもり? 身体の不自由なお年寄りを見捨てるなんて、ひどい人ね」
「見捨てるんじゃないわ。あなたが行けばいいだけでしょう?」
「だから、私には外せない用事があるの!」
「何の用事なの?」
「あなたに説明する必要があるかしら?」
デイジーはつんと顎を上げた。
「事情も知らないで責めないでほしいわ。それに、あなたはライリーの婚約者でしょう? いずれシリアス家に入るのだから、家族を助けるのは当然じゃない」
「そうよ、お姉さま」
メラニーもすぐに同意した。
「おじい様を見捨てるなんてひどいわ」
何もしない二人から責め立てられ、マリサは胸の内に重い塊が沈んでいくのを感じた。
(どうして責められるのが、私になるの……?)
「それじゃあ、お願いね」
デイジーはマリサの返事を待たず、身を翻した。
「待って、まだ引き受けるなんて――」
「もう時間がないから行くわ。マリサなら大丈夫よ、いつもきちんとやってくれるもの」
それは信頼などではない。マリサなら最後には断れないと分かっているだけだ。
「大丈夫よ、デイジーさん」
メラニーが明るく手を振った。
「私がお姉さまを行かせますから」
「ありがとう、メラニー。助かるわ」
デイジーはメラニーにだけ笑顔を返すと、足早に階段を下りていった。やがて玄関の扉が閉まる重い音が、家中に響いた。
マリサは痛みを増した腰を押さえながら、その場に立ち尽くした。
「さあ、お姉さま。早く着替えないと」
メラニーが急かす。
「少し休ませて……腰が本当に痛つのよ」
「またそんなことを言って。お姉さまはライリーさんの婚約者でしょう? 婚家を助けるのは当然ですわ」
「当然って……私はもう何日も休んでいないのよ」
「結婚する前から婚家の役に立てるのですもの。そんな機会を与えてもらえることに感謝しないといけませんわ」
メラニーは母親の口調を真似るように言い、マリサの背後へ回った。
「さあ、ぐずぐずしないで」
パン、と腰を叩かれる。
「――っ!」
声にもならない激痛が全身を突き抜けた。マリサはその場にうずくまり、両手で腰を押さえた。息ができない。視界の端が白く霞み、冷や汗が額に浮かぶ。
「お姉さま?」
メラニーは心配するどころか、くすくすと笑った。
「大げさですわね。少し叩いただけではありませんか」
「メラニー……本当に、痛いの……」
「はいはい。そうやって具合の悪いふりをすれば、面倒なことから逃げられると思っているのでしょう?」
「ふりじゃないわ……」
「私、今日は友人と約束がありますから。帰ったら、おじい様の様子を聞かせてくださいね」
メラニーはしゃがみ込んだ姉を置き去りにして、自分の部屋へ戻っていった。しばらくすると、楽しそうに鼻歌を歌いながら身支度をする音が聞こえてきた。
マリサは床にうずくまったまま、痛みが引くのをじっと耐えた。
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