私の死を待つ皆様へ【連載開始/短編版】
「——お労しいことですが、ご令嬢のお身体は、もって半年にございます」
王宮医務局、第三診察室。白髭の侍医モルガン先生は、それはもう沈痛な面持ちでそう言った。
隣で椅子の倒れる音がした。父が立ち上がって、何かを叫んでいる。
私はと言えば、診察台の上で、まったく別のことを考えていた。
(——は?)
(ふざけないで。私の二度目を、何だと思ってるの)
前世の話をすると、私は医者だった。
36時間の予定だった連続勤務が42時間目に入った夜、当直室の固いソファで横になって、そのまま起きなかった。死因はたぶん過労。享年29。人の命を守る仕事をして、自分の命の管理だけ、最後まで杜撰だった。
だから今世は決めている。
生き切る。絶対に。お茶会もドレスも恋も美食も、前世で「いつか」の箱に放り込んだまま腐らせたもの全部、今度は期限内に消化する。侯爵令嬢という当たり枠に生まれた幸運を、一日だって無駄にしない。
それが、余命半年?
冗談でしょう。
「心臓の音に、濁りがございました」
モルガン先生は目を伏せた。
「お労しいことながら、この病は進行を止める術がなく——」
(心音の「濁り」。ずいぶん文学的な所見ね。病名は? 病名を言いなさいよ)
私は静かに、自分の身体へ意識を向けた。
——何も、視えない。
私には妙な力がある。身体のどこかが正常から外れると、頼んでもいないのに視界へ報せてくるのだ。16の熱の夜は【肺——炎症。軽微】と浮かんだし、夜会で飲みすぎた朝は肝臓が小言を言ってくる。異常だけは必ず報告してくる、生真面目で口の悪い同僚みたいな力。
その同僚が、今、完全に沈黙している。
(半年で止まる心臓が、無音なわけないでしょう)
異常がないから、何も視えない。沈黙こそが、健康の証明。
つまり。
(この人は、嘘をついている)
「……先生」
父の悲嘆の隙間に、私は声を差し込んだ。
「もう一度、聴いていただけますか。心音」
白髭が、ぴくりと動いた。
「お辛いでしょうが、何度聴いても結果は」
「私は構いません。どうぞ」
「————診断は、確定しております」
拒否。再診の、拒否。患者本人が求めているのに。
(あらあら)
誤診を恐れる医者は、何度でも聴く。聴かない医者は——結果がもう決まっている医者だけよ。
怒りが、すっと温度を変えた。沸騰から、冷たい方へ。
いいわ。あなたが嘘をつくのは、あなたの事情。
でも、私の二度目の人生を経費で落とそうとしたこと。それは診察代より、ずっと高くつくと知るべきよ。
——さて。
私が死ぬと、誰が儲かるのかしら。
*
医務局の長い廊下は、消毒草の匂いがした。
泣き腫らした父を先に馬車へ向かわせて、私は一人、ゆっくり歩いた。考え事には歩幅が要る。
「——失礼」
低い声に呼び止められた。
振り返ると、軍服の男が立っていた。背が高い。さっき診察室の隅で書類仕事をしていた男だ。国境から戻った軍医が医務局に出向している、と誰かが噂していた。
男は一拍黙って、それから、迷いを置き去りにした顔で言った。
「さっきの診断ですが。心音の濁り——そこまでは、聴診の所見としてあり得る。だが、濁りひとつを根拠に、病名も告げず、進行も止められず、余命半年と断定できる病を、私は寡聞にして知らない」
(あら)
王宮で、二人目の正気を見つけた。
*
屋敷に着く頃には、母も知っていた。悪い報せは、早馬より足が速い。
「セレナ……!」
玄関広間で抱きしめられる。
「お母様、苦しい」
「ごめんなさい、ごめんなさいね……どこか痛むの?」
「健康そのものよ」
事実を言ったのに、母はもっと泣いた。
夕食は、葬式の予行演習みたいだった。母は私の皿にばかり料理を取り分けて、自分はほとんど手をつけない。
(この涙は本物ね。……まあ、私が消えたら従妹のリディが侯爵家に繰り上がる家系図では、あるけれど)
(ないわ。お母様、先週も私への誕生日プレゼントの隠し場所を自分で忘れてた人よ。半年がかりの企みができる頭なら、まずあれを何とかしてる)
「セレナ。明日、別の医者を呼ぶ」
父が口を開いた。帰宅してから、初めての長い文章だった。
「王宮侍医の診立てに異を唱えるのは不敬にあたる。だが構わん。何人でも呼ぶ」
(……お父様は、論外)
(私が死んで侯爵家が得るものは何もない。婚約は飛ぶ、跡継ぎ問題は再燃する。それに——不敬を承知で再診させようとする人が、再診を拒んだ側のはずがない)
「ありがとう、お父様」
これは、本心から言った。
その書状が届いたのは、夕食が終わる前だった。
執事が銀盆に載せてきた封筒。公子家の、見事な封蝋。
父が開いて、読んで、何も言わずに私へ寄越した。要約すると、こうだ。
——ご令嬢のご容態を思えば、婚約の継続は却ってご負担となろう。両家の友誼に鑑み、白紙とさせていただきたい。
文面は丁寧で、思いやりに満ちていて、署名の上にはインクの染みひとつない。
(診断が出たのは、今日の昼。いまは夜)
(半日で、当主の決裁と清書と封蝋まで終わる家が、あるかしら)
母が泣き崩れ、父が何かを激しく言っている。その横で、私は封蝋の家紋を眺めていた。
慌てて書いた手紙は、誠意があっても粗が出る。
用意のいい手紙は、丁寧であるほど——準備の長さが透ける。
(見つけた)
(私の死で儲かる人、第一号)
*
翌日の昼、私は医務局に舞い戻った。
「経過観察をお願いしたいの。余命半年ですもの、丁寧に診ていただかないと」
受付にそう告げれば、死にゆく侯爵令嬢を追い返せる職員はいない。指定した担当医の名前に、受付は少しだけ眉を上げた。
軍医殿は、書類の山の向こうで顔を上げた。
「……昨日の」
「ええ、昨日の余命半年です。ああ、扉は開けておいて。密室は外聞が悪いから——その代わり、小さな声で話しましょう」
彼は一拍私を見て、それから椅子を勧めた。
「単刀直入に聞くわ。あなた、昨日わざわざ私を呼び止めた。王宮侍医の診断に異を唱えるなんて、出世に響くどころの話じゃないでしょう。なぜ?」
「間違った所見を聞き流すと、夜眠れないからです」
「……それだけ?」
「それだけ、というのは正確ではありません。平均して2時間ほどは眠れます」
(あ、これ、冗談じゃないわ。本気の申告だわ)
よし、と思った。この男、嘘がつけない。つまり——使える。
「では私も単刀直入に。あの診断は嘘よ。私は健康なの。それも、とびきり」
「根拠は」
疑うより先に、根拠と来た。ますますいい。
「笑わずに聞いてくれる? 私、自分の身体の異常だけは、視えるの。生まれつき。熱も、傷も、酒の飲みすぎも、向こうから勝手に報せてくる。——その力が、昨日からずっと沈黙してる」
「検証は可能ですか」
「いくらでも。何なら今、私に気づかれないように針でも刺してみる?」
「結構です。再現性があるなら、所見として扱います」
疑いもせず、騒ぎもしない。確認したのは、検証できるかどうかだけ。
(……この人、どこまでもこの調子なのね)
「なら話が早いわ。存在しない断定で、王宮侍医が私に死刑宣告をした。理由が知りたい。あなたの協力が要るの」
彼はすぐには答えず、机の引き出しから紙の束を出した。
診断書だった。十数枚。全部、書式が同じ。署名が、同じ。
「国境の部隊で6年、軍医をしていました。戦場では人が死ぬ。それは仕事の内です。だが——」
彼は一番上の一枚を、私の前に置いた。
「ガレン准将。2年前に王都へ帰還。健康そのものだった。帰還の半年後に『心臓の病、余命半年』と診断され——その通りに、半年後に死んだ」
「……書式だけじゃなく、余命までお揃いなのね、私と」
「ええ。彼だけではありません」
束がめくられていく。名前、名前、名前。階級持ちの軍人。引退した文官。どこかの未亡人。
「最期に立ち会った者から、経過を聞きました。あの病の死に方では、なかったように思う。確証はない。だから調べに来ました。この出向は志願です」
(半年も先の死を、診断書が先に知ってる)
背中が、すっと冷えた。
「ひとつ訂正があるわ、軍医殿。あなたはいま『予言どおりに死んだ』と言いかけた。順番が逆よ」
「どこがです」
「死なせ方が先に決まってるから、診断書が書けるの。予言が当たるんじゃない。——予定を、こなしてるのよ」
彼は黙った。同じ仮説を半年抱えて、口に出す相手がいなかった、という顔だった。
「……それを前提にすると、申し上げにくい帰結がひとつ」
「どうぞ。私、頑丈なの」
「あなたの死は、予定されている。診断書が出た以上——もう」
「ええ。始まってるでしょうね」
言いながら、私は考えていた。今朝の紅茶。昨夜のスープ。給仕の顔ぶれ。
同僚は、まだ静かだ。でも時間の問題。予定は、こなされる。
「最後にひとつだけ。あなた、敵を作るのは平気?」
「平気ではありません。ただ、慣れてはいます」
「結構」
私は診断書の束を、とん、と揃えて彼に返した。
「では始めましょう、軍医殿。私、死ぬ予定は崩す主義なの」
——前世からね。
最後のは胸の内の独り言だったけれど、彼は私の顔を見て、何も聞き返さなかった。聞き返さないところが、いっそう気に入った。
*
三日目の夜に、来た。
夕食はキジ肉のローストと、豆のスープ。スープを二匙飲んだところで、視界の端が灯った。
【肝臓——異物の代謝。軽微】
(……来た)
匙が止まりかけるのを、意志の力で動かし続けた。三匙目は、飲むふりをして戻す。
(異物。健康な18の娘の肝臓が、夕食どきにわざわざ処理するもの)
(薬は飲んでない。お酒もまだ。なら——盛られた、と考えるのが早い)
「セレナ? お口に合わない?」
「ううん、美味しい。少し、胸がつかえるだけ」
嘘は言ってない。つかえてるのは胸というか、感情だけど。
(眩暈なし、痺れなし、表示は軽微。即効の毒なら、もう何か出てるはず。少しずつ効かせる類——かもしれない。決めつけはしないけど、もしそうなら診断書と辻褄が合うのよね。余命半年の患者に、今夜ころっと死なれたら台無しですもの)
父が私を見ていた。心配の目で。母も見ていた。泣きそうな目で。
この食卓の、どこかから来てる。
(落ち着け。考えるのは犯人じゃない。まず、経路)
私は微笑んで、空になりかけた器を掲げた。
「お母様、このスープ美味しいわ。お代わりをいただける?」
「まあ……! ええ、ええ、いっぱい召し上がれ」
お代わりは鍋から直接よそわれ、誰の手も寄り道せずに私の前へ来た。一匙。二匙。
——同僚は、黙っている。
(一杯目のときは即座に騒いだくせに、今度は何も言わない。十中八九、この杯は綺麗。鍋は無事)
(仕込まれたのは、私の「一杯目」だけ。配膳の通り道に、誰かいる)
では、スープ以外は?
キジ肉は。付け合わせは。パンは。今夜の毒がスープ一杯だけだという保証は、どこにもない。
(……確かめる方法、ひとつしかないじゃない)
食べた。
キジ肉のロースト。皮の焦げたところが香ばしい。付け合わせの根菜。バターが惜しみなく効いてる。パンを二つ。木苺の焼き菓子まで。同僚は、どの皿にも沈黙を守った。
「セレナ、あなた……」
母が口元を押さえていた。泣き笑いの顔だった。
「食欲が、あるのね……よかった……」
「ええ。今夜はなんだか、いただける気がするの」
検証だもの。仕方ないわ。誰かが食卓の安全を確かめないと。
焼き菓子の最後のひとかけを飲み込んだとき——視界の端が、灯った。
【胃——過負荷】
(——!?)
一瞬、本気で背筋が凍った。まさか、別の皿にも——
……いえ。違う。違うわね、これ。
(食べすぎよ、ただの)
毒を検知する力に、暴食を叱られた18の秋。同僚、あなた、本当にそういうところよ。
(でも収穫。主菜も付け合わせも菓子も、綺麗。今夜の仕込みは、一杯目のスープだけ)
私はお茶を一口飲んで、胃のあたりを撫でた。給仕はいつもの二人。今夜は母付きの侍女のハンナが、珍しく配膳を手伝っていた。
(……珍しく?)
いえ。決めつけない。観察はしても、断定は証拠が出てから。診断を急ぐ医者から、患者は死ぬのよ。
*
それから11日、私は自分の身体を検査器にして、家の食卓を解剖した。
まず数日、徹底的に摂らない。飲んだふり、食べたふり——そんな患者は前世で山ほど見てきた。逆をやるだけ。体内が綺麗になったら、一品ずつ、最小の量で試す。同僚が鳴るのは、決まって「私の一皿目」。二皿目からは、何日続けても静かだった。
順調——と言いたいところだけど、四日目の朝、ひとつ冷や汗をかいた。
起き抜けの視界に、表示が残っていたのだ。【肝臓——異物の代謝。軽微】。前夜の検証で口にしたのは、匙に半分。それが、朝まで消えていなかった。
(……抜けるのが、遅い)
(蓄積するというのは、こういうこと。昨日の分が消える前に、今日の分が乗る。検証だからと油断して回数を重ねたら、塵も積もって——患者の出来上がり)
その朝から、検証の口数は半分に絞った。盛られていると知っていて口に運ぶのは、知らずに飲むよりずっと神経を使う。毒見役のお給金は、もっと上げるべきだと思う。
経路が割れてからは、毒の皿には口をつけたふりだけ。代わりに毎食、最初の一口を舌の先に触れさせる。いつもの量なら、舌先の一滴は同僚の検知に届かない。つまり普段、この検査は鳴らない。
鳴らないことを確かめるための検査。何かが変わった夜にだけ、鳴る警報。
週に二度の「経過観察」で、私はそれを軍医殿に報告した。
「検証結果よ。毒が混ざるのは料理そのものじゃなく、私の一皿目。配膳の最後の工程で、誰かの手が入ってる」
「配膳に立つのは何人です」
「配膳に関わるのは日によって二人から四人。死にかけの令嬢が全員の手元を毎食見張るのは、不自然すぎる仕事よ。だから特定はまだ……報告は以上。ああ、初日の胃の件は記録しなくていいから」
彼は頷いて、手元の紙に「被験者の健啖、検証精度に影響なし」と書いた。読めてるわよ、それ。
「で、ここからが本題。軍医殿——私たち、このまま行くと負けるの」
ペンが、止まった。
「毒は防げてる。摂らない技術はあるし、同僚もいる。守りは完璧。だからこそ、負けるのよ」
「論理が見えません。説明を」
「私が健康なまま半年経ったら、どうなる? 敵は計画を畳むだけよ。診断書は『奇跡のご快癒』で上書きされて、誰の罪も問えない。証拠はずっと向こうの手の中。私はずっと、いつかまた予約される患者のまま。次は毒じゃないかもしれない。馬車の車軸かもしれない」
「……守り切るには、終わりがない」
「そう。だから——予定どおり、死んであげようと思って」
彼は3秒、黙った。正確な人だから、たぶん本当に3秒だった。
「衰弱を、演じると」
「ええ。毒は効いてます、計画は順調です、と信じさせる。顔色は作れる。食は人前で細らせる。脈だけはごまかせないけど——私の脈を取りに来る医者は、あなただけよ」
「何故そこまで…目的はなんですか」
「死ぬ日取りを、私が決めること。蓄積の毒で弱らせる計画なら、最後には必ず『仕上げ』が要る。心臓の病の死に方に合わせて、一押しで止める瞬間が。その晩を、こちらで指定するの」
「指定?どういうことですか?」
私は持参した包みを机に置いた。中身は、彼が伝手で借り出した古い医学書。東方の症例集。
「これに、書き足してほしいの。私の病の『最終段階』を」
彼が本を開く。続きを促す顔。
「徴候はなんでもいいわ。例えば——末期には指先が黒く変じる、とか。ただし条件がひとつ。心臓の病では、絶対に出ない症状にすること」
数秒の沈黙。それから彼は、ゆっくりと瞬きをした。気づいた顔だった。
「……その症状が、出てしまえば」
「そう。誰が見ても『心臓の病ではなかった』ことになる。診断書が崩れて、何の病だったのかという話になって、検死だの再調査だのが始まる。——連中は、それだけは困る」
「だから、その段階に至る前に。仕上げを、急ぐ」
「ご名答。私は順調に衰弱して、死を悟った哀れな令嬢らしく自分の病を調べて、その頁に栞まで挟んであげる。家の中の目は、必ずあれを読む。読んで、雇い主に報せる。『お嬢様の病には最終段階がございます。指先が黒くなる前に』——はい、締切の出来上がり」
彼は医学書の頁を一枚、二枚めくり、本を閉じて、静かに言った。
「……不謹慎を承知で、言いますが」
「何かしら」
「見事だ」
直球だった。社交辞令の混ざりようのない、診断と同じ声。
不覚にも、返事まで少し間が空いた。
「……ど、うも。では、細部を詰めるわよ」
「その前に、一点。修正の要求があります」
彼は本の上に手を置いた。
「仕上げの晩、あなたは一人で受けるつもりでいる。顔に書いてある。却下です。私を屋敷に入れる算段も、計画に含めてください」
「……あら、未婚の令嬢の部屋に? 醜聞になるわよ」
「醜聞では、人は死にません」
(——この男、たまに、ものすごく正しいことを言う)
*
それから私は、丁寧に死んでいった。
宣告は、夏の終わりだった。私の「病状」は、秋とともに深まっていくことになった。
白粉をやめ、頬に薄く青を仕込み、紅を一段沈ませる。ドレスは詰めずにあえて緩く——痩せた、と人の目が勝手に補ってくれる。食事は人前で三口。給仕が泣くので、二口目をことさら長く噛んだ。
毒の皿には、口をつけたふりだけ。検査の舌先一滴は毎食欠かさず——同僚は、鳴らない。鳴らないことを毎晩確かめて、夜中に毛布の中で、彼の手配した干し肉を齧る。これがね、悔しいことに、悪くないのよ。死にゆく令嬢の夜食にしては快活すぎる音がするので、毛布は必須だけど。
ひと月もすると、社交界が私を殺し始めた。
いわく、アルディスの令嬢はもう寝台から起きられない——起きてます。いわく、お顔の色が土気色——青よ。調合を間違えないで。いわく、元婚約者のユリアン様は健気にもお見舞いの品を——ええ、来たわ。美しい砂糖菓子が。
同僚は、菓子に沈黙した。
(あら、綺麗なものね)
(そうよね。婚約を白紙にした相手からの見舞い品で死なれたら、真っ先に疑われるもの。……綺麗すぎて、わかってる感じがするわ)
医学書は、よく働いた。
寝台の脇に置いて、毎日読む。死を悟った令嬢が自分の病を調べる——絵としては満点だし、実際わりと面白い本だった。彼が書き足した頁には、几帳面な字でこうある。
『末期に至りて、指先より黒変す。黒変の現れたる後は、半月を保たず』
その頁に栞を挟み、読んだ形跡を重ね、指先を眺めて溜息をつく。部屋に人の気配があるときだけ、念入りに。
ハンナは週に三度、私の部屋の掃除に入る。栞の位置が、二度、わずかに動いていた。
(読んでるわね)
(いいのよ。ちゃんと、雇い主に報せなさい)
季節がすっかり秋になった頃、医務局通いをやめた。歩けない、という設定になったからだ。代わりに彼が来る。週に二度の往診。父が頭を下げて頼んだ形になっているが、頼まれる側の手筈を整えたのは私たちだ。
「容態は」
「順調に悪化中よ。社交界では先月から寝たきりなの」
「実際の数値を聞いています」
「健康。同僚は静か。……ねえ、夜食の干し肉、もう少し塩気の薄いものにできない?」
「できます。——カルテに書けない診察だ」
脈を取る指は、いつも正確に30秒だった。
罠は、仕掛け終えた。
あとは敵が、自分の都合で踏むのを待つだけ。
*
宣告から、三月あまりが過ぎた夜。
スープは、湯気まで静かだった。給仕が下がる。母が私の皿を見て、何か言いかけて、やめる。死にゆく娘との夕食に慣れる家族は、いない。最近の食卓は口数が少なかった。
一皿目。いつも通り、匙の先を舌に。
【肝臓——異物の代謝。中等】
(——鳴った)
ふた月あまり、無音だった検査が、鳴った。
(舌先の一滴は、いつもなら検知の下。それが今夜は、一滴で中等)
(濃さが桁で違う。この一皿、まともに飲んだら——止まるわね。心臓)
予定では、私の余命はまだ三月近く残っているはずなのに。ごめんなさいね、急がせて。あなたたちの大事な診断書に、傷がつく前に終わらせたいものね。
それに——皿が下げられたら、この致死量ごと洗い流されてしまう。証拠は、卓の上にあるうちに。
私は匙を置いた。胸元の布を、掴む。
「……お母、様」
声は小さく、掠れさせて。
「セレナ?」
「むね、が——」
椅子から崩れた。膝から落ちると痛いので、肘掛けに体重を逃がしながら。左胸を押さえ、呼吸は浅く、短く。床は間近で見ると埃ひとつなくて、うちの使用人は優秀だと思った。
母の悲鳴。父の怒号。駆ける足音。誰かが「先生を! 離れの先生をお呼びして!」と叫んでいる。
そう。呼んで。今夜のために泊まり込ませてある、私の主治医を。
駆けつけた彼の仕事は、完璧だった。脈を取り、瞳孔を覗き、低い声で「今夜が山です」と告げる。母がその場に崩れるのが、薄目の視界の端に映った。
(……ごめんなさい、お母様。朝には全部、謝るから)
「皿には誰も触れないように。死因の特定に要る——全て、このままで」
卓上の皿が、彼の手で封じられていく。私の一皿目は、ほぼ手つかずのまま。致死量が丸ごと、物証になった。
寝室に運ばれる。医師の指示で、人払い。蝋燭は一本。
布団の中で、私は死にかけている。呼吸は浅く長く、顔には今朝より濃い青。役作りは、本職の監修付きだ。
体の内側では、舌先の一滴ぶんの「中等」が、ゆっくり下がっていくのを待っている。微量とはいえ、本物の毒。芝居の裏側で、本物の時間が流れている。
「……来ると思う?」
囁くと、衝立の陰から囁きが返った。
「来ます。雇い主への報告には、死亡の確認が要る。伝聞では金が出ない」
「詳しいのね、悪事に」
「軍にいると、人間の底を見る機会には事欠きません」
それきり、二人とも黙った。
来るのは、ハンナのはずだった。息を確かめて、報せに走る。それで終わり。震える小娘の役目なんて、その程度——私たちは、そう読んでいた。
蝋燭が三分の一になった頃、扉が、軋まずに開いた。
軋まないように、開けられた。
薄目に映った輪郭に、私は呼吸の芝居を一拍、忘れかけた。
(——誰)
知らない男だった。
使用人のお仕着せを着ている。でも、うちの人間じゃない。屋敷の顔ぶれは、この三月で配膳の並び順まで頭に入っている。その中に、この背格好はない。
(ハンナじゃない。話が、違う)
心臓が、芝居じゃなく跳ねた。落ち着け。考えろ。何者であれ、することは決まってる。死の確認か——仕上げの、続きか。
男は足音もなく枕元へ来た。手際が違う。覗き込む目に、ハンナのような震えはない。呼吸も乱れていない。仕事の目だった。
男の手が、懐から平たい革の道具入れを出した。開く。並んだ小瓶。迷いなく、その一本に指がかかる。
(飲ませる気ね。死に損ないへの、追加の処方)
悪いけど。
処方箋を書くのは、こっちなのよ。
「——それ、何の調合?」
死人が、口をきいた。
男の指が、瓶の上で止まった。完璧だった手際が、初めて凍った。その隙は一瞬だったけれど、軍人には十分すぎた。
「動くな」
衝立の陰から出たギデオンが男の腕を背中へ極めて、同時に続き部屋の扉が開き、灯りと一緒に父と、父が選んだ屈強な従者が二人。今夜だけは芝居の全てを知っている、昼のうちに私が打ち明けて頭を下げた、お父様が。
男は暴れなかった。状況を数えて、即座に諦めた。最後まで、仕事の目のままだった。
私は寝台に身を起こした。男の道具入れを取り上げて、蝋燭の灯りに小瓶を透かす。
ギデオンが、私の手元を覗いて、低く言った。
「……スープのものとは、調合が違う。こちらは精製が深い。——素人の手配じゃ、ありませんね」
「ええ」
誰の手配かは、この男は吐かないでしょうね。そういう顔だもの。
でも、いいの。糸口なら、もう一本ある。
*
ハンナは、その夜のうちに見つかった。自室で荷物をまとめている最中に。
取り調べで、彼女は全部吐いた。お嬢様の様子を報せたこと。配膳に細工をしたこと。医学書の頁のこと。そして今夜——「裏口の閂を外しておけ」とだけ命じられて、何のためかは、聞かされていなかったこと。
自分の代わりに知らない男が入り、自分は何も知らされていなかったと理解したとき、ハンナは取調べの席で、長いこと泣いたそうだ。駒は、使い潰される前に切り離される。彼女が仕えていたのは、そういう雇い主だった。
彼女の証言した雇い主の名は——公爵家の、家令だった。
(……ええ、知ってる)
(あの綺麗な封蝋の、お家の人ね)
証言、封をした皿、男の道具入れ。三つが揃うと、あとは雪崩だった。王宮の調べが金の流れを遡り、家令に届くまで三日。
そして五日目に、ユリアン様がアルディス家においでになった。
応接間に通された彼は、見事だった。打ちひしがれた顔。選び抜かれた花束。震える声。
「セレナ嬢、ご無事で本当に……僕が、どれほど自分を責めたか」
「あら。何について?」
「家令のことです。あの男が忠義を履き違えて、まさか、あんな……僕は何も知らなかった。信じてほしい」
知らなかった、ね。
私は椅子を勧め、お茶も出した。毒見はご自由に、と言いかけて、やめておいた。まだ早い。
「それで、本日のご用向きは」
「……婚約のことです。あんな形で白紙にすべきではなかった。診断が誤りだったと分かった今、僕たちは、元の鞘に」
「ああ。お手紙の」
私は袂から一通の書状を出した。公子家の封蝋。彼の署名。
彼の目がそれを認めて、ほんの少し、細くなった。
「拝見するたび感心するの。診断が出たのが、あの日の昼。このお手紙が届いたのが、同じ日の夜。婚約の解消というのは、両家の友誼に関わる重いお話でしょう? それを当主様のご決裁から清書、封蝋まで——半日で」
「……父が、急がせたのです。君の容態を思えば、一日も早く婚約の重圧から解放すべきだと」
「まあ、お優しい。では伺うけれど——私の容態を、診断が下りる前から、どうしてご存知でしたの?」
彼の手が、膝の上で止まった。
「……何の、話です」
「この紙、書かれてから日数が経っているのよ。インクの沈み、折り目の馴染み、蝋の縮み。古い書状を山ほど検めてきた人間には、視えるの」
嘘である。紙からそんなことは分からない。
でも、彼はそれを知らない。彼が知っているのは——私が毒の経路を自分の舌で特定して、死んでみせて、送り込まれた始末役を寝室で釣り上げた女だ、ということだけ。
「ち、違う。あれは、本当に父が……いや、家令が、先走って書面を整えていて、僕はただ署名を」
「あら。さっきは『お父様が急がせた』で、今は『家令が先走った』。どちらかに揃えてくださる? お話が記録できないわ」
「ぼ、僕は……僕は君のためを思って……!」
「私のため」
静かに繰り返すと、彼は口をつぐんだ。額に汗が浮いていた。
「ねえ、ユリアン様。難しい話ではないのよ。あなたには次の縁談があった。侯爵家との婚約を、こちらに非を残さず畳む方法を探した。——死んでくれるのが、一番きれいだった。それだけのこと」
「違う……違う、僕は、ただ……」
彼の視線が泳いで、テーブルの書状に落ちて、また泳いで。
そして、口が、勝手に滑った。
「……あの診断は、完璧だった、はずだ……」
応接間が、静かになった。
彼が自分の言葉に気づくまで、二拍。みるみる顔から血の気が引いて、慌てて何かを言い足そうと口を開いて——もう、出る言葉はなかった。
完璧だったはず。ええ、そうね。診断書も、お手紙も、毒の手配も、何もかも完璧だった。
たったひとつ、患者が健康だったことを除けば。
私は立ち上がった。そして医者の声で、あの日モルガン先生が私にくれたのと同じ文型を、お返しした。
「ユリアン様。お労しいことですが——あなたの企ては、破綻しています。進行を止める術は、ございません」
彼は花束を抱えたまま、しばらく立ち上がれなかった。退出のとき、その花束を自分で踏んでいった。
*
それからのことは、早かった。
家令は主を売り、公爵家は息子を売った。家を守るために、全ての筋書きは「ユリアンの暴走」へ書き換えられて、彼は廃嫡のうえ北の僻地へ。最後まで「自分は悪くない」と言い続けているらしい。それでいいわ。婚約者を用済みにした男が、今度は実家から用済みにされた。処方として、よく効いたと思う。
モルガン先生は医師の資格と王宮の職を失い、診断書の束は王宮の然るべき場所へ渡った。ハンナは取り調べのあと、領地の北の修道院へ。弟の薬代は、父が黙って医者を手配した。甘いと言う人もいるでしょうけど、うちの家風なの。
あの晩の男だけは、最後まで名も雇い主も吐かなかったそうだ。職人ね。
社交界は「奇跡のご快癒」で持ちきりだという。神のご加護。違うわよ。最初から健康なの。
私はといえば、人生でいちばんよく食べた一週間を過ごした。毒見の要らない食事は、それだけでご馳走だった。
*
彼が暇乞いに来たのは、八日目の午後だった。
経過観察すべき病人が、この屋敷にはもういない。往診の口実は、めでたく消滅した。
「最後に、診察を」
「健康よ?」
「知っています。手順なので」
脈を取る指は、いつも通り正確に——30秒、のはずが、今日は長かった。
「……30秒、過ぎてるわよ」
「結婚を、申し込みたい」
脈が跳ねたのが、指先から彼に伝わったと思う。最悪だわ。この男、いま世界一正確な嘘発見器に指を置いてる。
「……り、理由は?」
「3点あります」
「言うと思った」
「第一に、あなたの観察眼と判断力は得がたい。私の調査は終わっていない。あの束の死者たちの背後は、未解明のままです。あなたと組まない選択は、非効率だ」
「求婚に非効率って言葉を使う人、初めて見たわ」
「第二に。国境へ戻れば、管轄に診療所があります。あなたは、医学の話ができる唯一の——いえ」
彼は、少しだけ言い直した。
「医学の話が、したい唯一の相手です」
「……第三は?」
彼は、黙った。
嘘のつけない男が、正確に言おうとして、言葉を探して、見つからなくて、それでも誤魔化さずに黙っている。長い、長い30秒だった。
「……第三は、所見のみ申し上げます。あなたが死んだことにされた夜——芝居と知っていて、知っていてなお、私はあの衝立の陰で、生涯でいちばん長い夜を過ごした。この症状に付ける病名が、まだ見つかっていません」
(——ああ、もう)
(この人、ずるいわ)
「……処方箋は出せそうにないわね。それ、治らないやつだもの」
「同感です。それで、お返事を伺いたい」
私は窓の外を見た。よく晴れていた。国境は遠くて、社交界からは僻地と呼ばれて、きっと冬は寒い。
でも、美味しいものはどこの土地にもある。診療所には患者がいて、隣には医学の話の通じる男がいる。
二度目の人生の使い道として——悪くないどころじゃ、ないわね。
「ひとつ、条件があるわ。ギデオン」
初めて名前を呼んだら、彼の耳が赤くなった。嘘発見器は、お互い様らしい。
「私を診ていいのは、あなただけよ。私の余命は——あなたが診て」
「承知しました。では早速、所見を申し上げる」
彼は私の手を取って、何の冗談もない声で言った。
「健康そのもの。余命、あと70年というところです」
*
後日。嫁入り支度の合間に、王宮から写しの下りた例の診断書の束を、もう一度めくった。
ガレン准将。引退した文官。どこかの未亡人。同じ書式、同じ署名。
それにしても——白髭の独断にしては、お客が良すぎるのよね。軍の階級持ちが、こんなに。
(……ま。それは嫁ぎ先で考えましょう。国境、近いことだし)
束を仕舞って、窓を開けた。北の方角は、よく晴れていた。
最後に、ご挨拶を。
私の死を待っていた皆様へ。
大変お待たせしました。ご覧の通り、健康です。
お返しはこれから、利息をつけて、長生きという形で差し上げます。
なにせ余命は——あと70年も、あるそうですから。
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※6/14追記
本作連載開始しました!
https://ncode.syosetu.com/n3375mi/
短編では文字数の関係で削った部分を加筆修正し、お届けします。
そのため、短編の続きとして新しく動き出すのは第2章(13話開始予定)からになります。
短編の続きをお届けできるまでもう少しお時間をいただきますが、よろしくお願いします!




