初夜に夫から、「好きに生きろ」と言われました。
「オレが君を愛することはない」
夫にそう告げられたのは、初夜のベッドの上だった。
ベッドは青や白の花でデコレーションされていて、夫婦の最初の営みを祝福していた。だから、いくら政略結婚でも夫婦としての義務は果たすものだと思っていただけに、アネットは驚きとともに紫の双眸を開いた。
目の前にいるのは、白い雪のような肌をした男だった。髪も肌に劣らずの白銀で燭台の明かりで淡く光っている。深い海のような青い瞳はまるで無機物のように、アネットに向けられていた。
顔を合わせたときは雪の精霊のようだと思ったが、いまは冷たい雪そのもののようにも思える。
その唇が、ゆっくりと開いた。
「君は好きに生きろ」
セザール・ドルネージュはそう吐き捨てると、もうすっかりアネットに興味を失ったかのように寝室から出て行ってしまった。
その後ろ姿を眺めて、アネットはやはり呆然としたままつぶやいた。
「好きに生きろって、どういうことかしら?」
◇◆◇
アンクルール公爵家の長女として生まれたアネットの未来は、幼いころから決められていた。
王太子の婚約者になり、次期王妃になる。そのための厳しい教育にも日々耐えていたアネットが、どうして辺境伯家に嫁ぐことになったのか。
それは、アネット自身の過ちのせいだった。
婚約者として、王太子に寄り添うことができなかった。
いつも人形のような張り付いた笑みを浮かべていて、不気味。
愛想がない、冗談が通じない、真面目すぎる。
人が少し間違ったことをすれば、ネチネチ文句を言う。
なかには言いがかりのようなものもあったけれど、ほとんどはアネット自身も身に覚えのあるものだった。
そして王太子はそんなアネットに対抗するように、いつも太陽のような笑みを浮かべている男爵令嬢に夢中になり、彼女を未来の王妃にするために婚約破棄を突き付けてきた。
アンクルール公爵家は抗議したものの、国王が男爵令嬢のことを認めたため、それ以上食い下がることもできなかった。
婚約は不名誉なまま破棄されて、公爵家はアネットを見限ることにした。
もともと政略結婚のための道具に過ぎなかったというのもある。
そしてアネットは、せめて貴族令嬢としての義務を果たせと、政略結婚としてドルネージュ辺境伯に嫁がされることになったのだった。
(でも、ここでも同じなのね)
自分はただのコマでしかない。意思なんて、必要とされていない。
公爵家はアネットを政治の道具としてしか見ていなかったし、辺境伯家はお飾りの妻程度にしか考えていないのだろう。
(白い結婚ね。……これで数年間子供ができなかったら、私は他の貴族たちから笑われるわ)
まだ追いだされないだけマシかもしれない。
それに辺境にいる限り、王都の社交界に顔を出す必要もない。
(好きに生きろと言われたけれど、どうすればいいのかしら。夫婦の務め以外だったら、使用人の管理や領地運営の手伝いなどをすればいいのかしら)
貴族夫人としての業務は把握しているが、ドルネージュ辺境伯家で求められていることまではわからない。
そう思って、翌日に使用人に声を掛けたのだけれど――。
「奥様にやっていただくことはありません」
「奥様は好きなことをなさってください」
「領地運営はいままでも滞りなく進んでいますので、奥様の手伝いは必要ありませんよ」
「使用人の管理は家令である私の仕事です。奥様は、好きなことをやってもいいんですよ」
「お茶を飲みますか? 好きな食べ物はありますか?」
などなど。
みんな一様に、アネットに仕事をさせようとしてくれなかった。
それでも公爵家の使用人と違って、みんな朗らかな笑みを浮かべていて、なぜか温かい気持ちになったりした。
そのまま一週間はなにをすればいいのかわからなくて、毎日何かやることはないかと訊ね歩いていたが、帰ってくるのは「好きなことをしてください」という言葉だけ。
(好きなことってなにかしら)
思い浮かべるのは子供の頃のことだ。
まだ王太子の婚約者になる前、アネットは庭で木登りをすることに夢中になっていた。
だけどある日、降りるときに足を滑らせて怪我をしてから、両親からはもう木に上るんじゃないと叱られてしまった。貴族の娘がはしたないとも言われた。
(でもいまさら木登りをしてもね)
あと好きなことと言えば、幼いころからよく食べていた甘いスイーツ。
口の中にとろけるようなクリームや甘酸っぱいいちご。
カラメルたっぷりのプリンに、夢中になってたいらげたチョコレートケーキ。
口の周りを汚して、よく怒られていたっけ。
その甘いスイーツも、太ってドレスが着られなくなるといけないからと制限されてしまった。
王太子の婚約者として常に美しくあらなければならなかったけれど、いまのアネットは辺境伯夫人だ。そして、夫からは好きなことをしろと言われている。
「それなら、甘いスイーツが食べたいわ」
「いま、なんて言った?」
アネットが呟いたのは、朝食の席でのことだった。
アネットの言葉に、机を挟んだ向かいの席で静かに食事をしていたセザールが顔を上げる。
そのドキッとするような鋭い青の瞳。ひんやりとするほど冷たくて、ゾクッと身が凍りそうだった。
「……なんでもないわ」
つい、嘘を吐いてしまう。
セザールは眉間に皺を寄せると、そばにいた使用人に声を掛けた。
「甘いスイーツだ」
「はい」
「いますぐ甘いスイーツを用意してくれ。できればたくさん」
「たくさんの甘いスイーツでございますね」
「ああ、すぐに用意しろ。夫人がご所望だ」
「かしこまりました、ご主人様」
使用人は一礼すると、きらりと鋭い視線をアネットに向けて、リビングから出て行った。
(余計なことを言ってしまったかしら)
もしかしたら迷惑をかけてしまったかもしれない。
そう思って断ろうとしたけれど、セザールが口を開くほうが早かった。
「あとで庭にくるんだ」
「庭に?」
「使用人に案内させる」
「……わかりました」
なぜ庭に呼ばれたかはわからないままティータイムの時間になると、アネットは使用人に案内されるがまま庭に出た。
(庭に出るのははじめてね)
辺境伯邸に来てから邸から出ることはなかった。
ドルネージュ辺境伯領は雪に覆われた地域にある。夏場は降らないらしいが、山には常に白い雪が積もっていて、気候も寒い。
それでも保温魔道具が普及しているため、屋敷内はどこにいても暖かかった。
(まあ、温室があったのね)
辺境伯邸に来るとき、庭が白い雪で覆われていることには気づいていた。こんな寒い地域だと花もまともに咲かないのだろうとそう思っていたのだけれど。
温室にはいろいろな花が咲いていた。季節関係なく咲く花は美しく、思わずうっとりとため息が漏れる。
温室の中心にはスペースがあり、机と椅子が用意されていた。
「こちらにどうぞ」
案内された椅子に座ると、すぐに机の上にスイーツが運ばれてきた。
いくつあるのだろうか。ショートケーキやモンブランケーキ、チョコケーキもある。マカロンやカラメルソースのかかったプリンまで。
机の上に所狭しと並べられた甘いスイーツの数々。
「どうぞ」
使用人に促されて、スプーンでプリンをすくう。カラメルソースをまとったそれは、口に入れるとすぐに甘くとろけてしまった。
「おいしい」
つい二口目、三口目と食べ進める。
器を空にすると、そこで声を掛けられた。
「まだたくさんあるから、食べろ」
いつの間に向かいの席についていたのか、セザールが鋭い青の瞳でアネットを見ていた。
「え、ええ」
せっかく用意してくれたものだ。
食べたいのだけれど、アネットはもう限界だった。
(お腹が苦しいわ。やっぱり、このままだとひとつしか食べられないのね)
アネットは腰を細く見せるためのコルセットをつけている。
これは王太子の婚約者だった頃からつけているものだ。立派な淑女になるためという意味もあったが、腰が細くくびれのある女性が好きな王太子のために両親から強制されてつけはじめたものだった。
もうすっかり習慣になっていて、いまでもアネットはコルセットを使用しているけれど、これがあるとどうしても食べる量が制限されてしまう。
(……せっかく用意してくれたのに)
せめてもう一つと、チョコレートケーキに手を伸ばす。
一口食べると、チョコの豊潤な甘さが口の中に広がって、舌が喜んだ。
(これも美味しいわ)
食べると幸せな気持ちになれる。知らずの内に頬がほころぶが、同時にお腹の苦しさが増していく。
(もうこれ以上は無理だわ)
冷たい青の瞳はなにを考えているのかわからないけれど、アネットの様子をずっと監視しているようだった。
もし出された食事を残したら、馬鹿にされてしまうかもしれない。お茶会の席で、男爵令嬢からよくされていたように。
でも、さすがにもう限界だった。
「……ごめんなさい。もうお腹いっぱいで、これ以上食べられないわ」
青い瞳が大きく開いた。
(怒られる)
そう思ったけれど、聞こえてきたのは淡々とした声だった。
「そうか。それなら下げさせよう」
セザールは無表情だけれど、特に咎める様子もなかった。
「……夕飯にも食べるか?」
「え?」
「甘いものを、夕飯の後のデザートにもどうかと思ってな」
「……えっと、食べてもいいの?」
もうすでに二つも甘いものを食べてしまっている。それなのにもう一つ食べたら、すぐに太ってしまうのではないだろうか。
「好きなのだろう? それなら、好きなだけ食べるといい」
無表情だけれど、セザールの言葉からは険を感じなかった。
「……なら、食べたいわ」
「わかった。料理長に伝えておく」
そう言ってセザールが立ち上がった。
アネットも立ち上がろうとして、ふと足元がふらついた。
(お腹が苦しいわ)
締め付けてくるコルセットのせいだろうか。
ふらついたアネットはそのまま床に倒れそうになった。
(ぶつかったら、痛そう)
床にぶつかる自分を想像したが、不思議と痛みは感じなかった。何か柔らかいものに抱き留められた気がしながらも、アネットの意識は深く沈んでいった。
そして目を覚ますと、アネットは寝室のベッドの上にいた。
「目を覚ましたか?」
「……あ、セザール様」
ベッド脇にいたセザールは険しい顔をしていた。
上半身を起こしたアネットは、ふとお腹が軽くなっていることに気づく。
(コルセットがないわ。あれがないと、だらしないと思われてしまうのに)
焦ったアネットを見たセザールが、冷たく告げてくる。
「君が腰にしていたあれは、なんのためにしているものなんだ?」
「……男性はくびれのある細い女性が好きだと聞きましたので、両親から言われてつけています」
「つまり、好きでしているわけではないのだな?」
セザールの言葉に、アネットはうなずく。
できればコルセットはつけたくない。だけど、アネットの持っている服はほとんどがコルセットを使うことを前提として作られている。
「……そうか」
もしかして呆れられたのだろうか。
そう思ったアネットの気持ちとは裏腹に、セザールは真剣な顔をして言った。
「明日は仕立て屋を呼んでやる。新しいドレスを買えばいい」
「え、ドレスをですか?」
「君は好きでもないのにあれをつけているのだろう。それならあんなもの不要だ。あれを使わずに済むような、ゆったりとしたドレスをいくらでも仕立ててやろう」
「……よろしいのですか?」
両親からはだらしないと言われて、あれがあると思うように食べられずに他の令嬢から食事を残してみっともないと馬鹿にされた。
あの忌々しいコルセットを使わなくてすむのなら、それは願ってもないことだった。
「ありがとうございます、セザール様」
「お礼は言わなくてもいい。これは夫として当たり前のことだ。君は好きなことをして生きればいいのだから」
表情を変えることなく、セザールはそう言い切った。
最初は冷淡にも思えたその姿だけれど、なぜか優しさを感じるのは気のせいだろうか。
そして翌日、何着ものドレスを注文することになった。
流行りとか関係ないデザインの、好きな柄のドレスだ。
好きな柄を聞かれて、咄嗟に思い浮かべたのが温室の花やセザールの青い瞳だった。
冷たいけれど、どこか真っ直ぐなあの瞳の色に、知らずの内に魅せられてしまっているようだ。
◇
それからもアネットは、ドルネージュ辺境伯邸で、好きに過ごすことができた。
セザールの態度は変わらずに冷たいままだけれど、毎日朝食と夕食は一緒に食べて、ティータイムもなぜかよく一緒になることがある。
愛されていないのはわかっていても、彼と過ごす時間は嫌いではなかった。
むしろ、その時間が毎日の楽しみになっていた。
「他に好きなことはあるか?」
甘いスイーツにコルセットのいらないゆったりとしたドレス。
それだけでも充分なのに、彼は事あるごとにそんなことを聞いてくる。
好きな花を口にしたら、すぐに花束が贈られてきた。
好きな色を聞かれて咄嗟に「青」と答えると、なぜか少し狼狽えた顔をした。
好きな物語を聞かれて、幼いころに読んだ童話を答えたら、夜に珍しく夫婦の寝室にやってきたセザールが、絵本を片手に音読してくれたこともある。棒読みだったけれど、一生懸命楽しませようとしている姿が微笑ましく、幸せな気持ちになった。
(彼はいろいろなことをしてくれたわ)
王太子の婚約者だった頃は毎日が張りつめていた。少しでもミスをしたら、すぐに両親からも王太子からも見限られると思っていたから、自分にも他者にも厳しく振舞うようにしていた。
あの頃は毎日が苦しかったけれど、いまは毎日気楽だ。
(でも、このままでもいいのかしら)
貴族の娘としての義務を果たすために辺境伯家に嫁いできたのに、ここに来てから夫人らしいことは何もできていない。
それに毎日なにもしないで、ずっと好きなことをしているのも変な感じだ。
「セザール。私にも、できる仕事はないかしら?」
「……なんだと?」
朝食のあとに訊ねると、セザールは眉間に深い皺を作った。
「君が仕事をする必要はない。好きなことだけしていればいい」
「……つまり、私に辺境伯夫人としての務めを求めていないということよね?」
「そうは言っていない。……でも、君は王都で、大変だったのだろう?」
「え?」
セザールはなぜかもごもごと言葉を濁している。
彼は言いにくそうにしながらも、青い瞳を少し逸らしながら呟くような声を出した。
「オレは、王都で君の姿を一度だけ見たことがある」
「そうだったのね」
あの頃のアネットは自分のことにいっぱいいっぱいで、セザールと顔を合わせたことを覚えていない。
ドルネージュ辺境伯家は、王都に出てくることはほとんどない。
だから結婚式がほぼ初対面みたいなものだった。
「そのとき見た君は、まるで縛り付けられてまともに動けない人形劇の人形に見えた。周りに操られるだけで、自分の意志を感じない。疲れていて、息苦しそうだった。――オレは、それをよく知っている」
セザールがつらつらと話したのは、彼の子供の頃のこと。
セザールの両親、先代の辺境伯夫婦は事故で亡くなっている。それは彼がまだ幼いときのことで、その事故によりセザールの人生は変わってしまった。
幼い辺境伯家当主として、彼は相当な努力を強いられることになった。
当主の座を狙っている親戚からこの座を奪われないように、彼は無表情の仮面で顔を被った。
彼が当主として認められたのは、隣国との国境を脅かしていた魔物の群れを退治したことだった。それにより、セザールは無事に地盤を固めることができた。
「君を見たとき、まるで昔のオレを見ているようだった。だから君が王太子から婚約破棄されたという話を聞いたとき、少し嬉しかったんだ。これで君も自由になれるんじゃないかと」
政略結婚でアネットが辺境伯に来ることになるとは、まさかセザールも思わなかったそうだ。
でも、その話を聞いたときに考えたんだという。
「ここで、君には好きなように生きてほしい。オレの嫁としてではなく、ひとりの君として」
「ひとりの、私?」
「ああ。だから、君は仕事をする必要はない。子供の頃に甘えられなかった分、ここでは好きに過ごしてほしい」
「……それなら、なぜ初夜にあんなことを言ったのですか?」
「あんなこと?」
「愛することはないと」
「オレから愛を向けられるのは負担だと思ったんだ」
セザールの青い視線がアネットと交わる。
冷たいと思っていたその瞳は、なぜか温かそうに思えた。
「オレは、それを無性に後悔している」
はっと紫の瞳で見返すと、セザールは恥ずかしそうに目を逸らしてしまう。
夫婦になってから初めて感じる、彼の人間らしい表情。
「すまない。忘れてくれ。君はただ、ここでは好きなように過ごしてくれていい。夫婦の務めなんてしなくてもいい。オレのことを愛する必要もない。だから」
いまにも逃げ出しそうなセザールを見て、アネットは衝動的に右手を上げた。
「私、好きなものがあります!」
「なんだ。なんでも言ってみろ」
ギラリと向けられた鋭い青の瞳に向かって、アネットは掌を上に向けた手を腕ごとセザールに向けた。
「あなたです、セザール様」
セザールの青い瞳がこぼれそうなほど大きく見開かれた。
「――っ、な、何を言っているっ」
「私は青い瞳が好きです。雪よりも眩しい白銀の長い髪も。私のことを心配するときに鋭くなる瞳も。気遣ってくれる大きな手のひらも――」
辺境伯家に来るまでは、好きなことを好きだとは言えなかった。
だけど、いまはこんなにもつらつらと言える。
「私が甘いものを食べているときに優しくなる瞳も。興味がないように見えて、きちんと私の言葉を聞いてくれるその耳も。淡々と話す温かみのあるその声も。つまり私は――」
ずっと感じていたこの気持ちをやっと言葉にできる。
「セザール様、あなたのことを愛しているのです」
セザールの雪のように白い肌が一瞬で色づいた。
「セザール様はどうですか?」
耳まで真っ赤にした彼は、そっぽを向きながらも答えた。
「……き、君を愛することがないと言ったのは嘘だ」
「つまり?」
「私は、君を、あ、あ、あ、あ…………愛しているんだよ」
吐き捨てる言葉遣いだったけれど、セザールの行動がすべてを物語っていた。
真っ赤になった彼の姿を見て、その意味に気づかない人なんていない。
「はい。私もです、セザール様」
アネットの心まで温かくなるようだった。
◇
それから、アネットは辺境伯夫人として好きなように生きることにした。
領地運営に関わりたいと言ったときはさすがのセザールもいい顔をしなかったけれど、少しでも自分に優しくしてくれた人に恩返しをするためだと言ったら、「少しだけだぞ」と手伝うことを許可してくれた。
「今日は休みのはずだぞ」
「あ、そうでしたね。でも、これだけでも確認して……」
「約束の日だ」
「……あ! そうでしたね、セザール様。ごめんなさい!」
アネットは慌てて持っていた書類を置く。
今日は彼と初めてのデートの日だった。
春ごろに嫁いできてから、季節はもうすっかり冬になっている。
毎日降り続く雪にも慣れてきた今日この頃だけれど、実は今日から一週間、ドルネージュ辺境伯領では盛大な祭りが開かれることになっている。
その祭りに、セザールと一緒に行く約束をしていたのだ。
慌てて準備をしたアネットが邸の外に出ると、すでに馬車は待機していた。
「手を」
乗ろうとしたアネットに向かって、セザールが手を差し出してくる。
「ありがとうございます」
「当然のことだ。少しでも、君に負担はかけさせたくないからな」
いまだにぶっきらぼうな物言いをしているけれど、青い瞳からはもうすでに冷たさは消えている。
彼の瞳は温かく、こんな寒い日なのになぜか心まで温かくなるようだった。
手を取って、馬車に乗る。
向かい合って座るこの時間も、アネットにとってはもうかけがえのない時間になっていた。
(嫁ぐまでは思ってもみなかったわ)
王太子の婚約者だった頃と同じで、ここでも窮屈な思いをすると思っていた。
でも、違った。
忘れていた好きなことを思い出すことができた。
雪のように冷たい人だと思っていたセザールは優しく、使用人たちも快く受け入れてくれた。
(これからも彼がいれば、私は十分に幸せだわ)
「どうした? 何かあったのか?」
「……ふふ、いいえ。好きなあなたと一緒に居られるなんて、私は幸せ者だなと思いまして」
「それは、オレもだ」
「ええ、存じてます」
白い肌を赤くしながらも、自分の気持ちを素直に伝えようとしてくれる夫。
その姿を見ているだけでアネットの心は常に温かくなる。
もう、この気持ちを隠す必要もなかった。
「大好きですわ、セザール様」




