侵食
未確認巨大物体の出現から二週間後。ようやく由紀達も、その存在に接近する事が出来た。
ここまで時間が掛かった理由は、勿論準備に時間が掛かったのもあるが……やはり位置の問題が大きい。陸地から遠く離れた太平洋上にいるため、航空機では燃料が持たず、接近・調査するには船が向かうしかない。だが船の最高速度は、現代の駆逐艦でも時速五十〜六十キロ程度。三千キロにもなる大海原を渡るには、相応の時間が必要である。
今頃日本政府は、マスコミや市民からの「早く正体を突き止めろ」という無茶な要求を受けているのだろうか。
「世間の目がそっちを向いてる間に、私らはなんとか答えを見付けないとね」
由紀は船の上から、巨大物体を眺める。
既に『調査』は終え、今は撤収の準備中だ。一足先に機材を片付け、手持ち無沙汰になった由紀は改めて未確認巨大物体を見つめる。
距離にして数キロは離れているが、それでもハッキリその姿を確認出来る。途方もない大きさなのはデータ上知っていたが、自分の目で見れば更なる衝撃を受けた。
相変わらず未確認巨大物体は角を海面に向けた、一見して不安定な姿で浮かんでいる。未確認巨大物体にとっては、それが安定した姿勢なのだろうか。微動だにせず、二週間以上同じ体勢を維持していた。
空には暗雲が漂い、豪雨を降らしている。由紀がいる場所も土砂降りであり、おまけに暴風も吹き荒れていた。雨合羽を着込んでいなければ、傘を握り締めるのに手いっぱいで何も出来なかっただろう。それ以前に船の揺れを考えると、甲板に出てくる事自体が危険だ。同乗している他の研究メンバーも雨と風には参っている様子だった。
船を操る自衛隊員達も、決して楽ではない。荒れる海の中、少しでも船を安定させようと苦労している筈だ。
優雅に浮かぶのは、未確認巨大物体だけ。
「(この二週間での移動距離は、凡そ百五十キロ。ルートは不規則でランダム性が強い。多分、流されているだけ)」
現時点で未確認巨大物体の自発的な行動は、ほぼ確認されていない。この嵐も、未確認巨大物体にとっては微風のようなものかも知れない。
……周囲の環境を『改変』している当事者が、その嵐に流されるというのは間抜けにも思えるが。
「(今のところ確証はないけど、見た目だけなら間違いなく犯人よねぇ……)」
未確認巨大物体は全身から大量の白い煙……蒸気と思われるものを噴出している。
もしも本当に蒸気であれば、見た目からして雨雲の一つ二つは出来そうだ。確たる証拠はないが、目に見えるものから推測すればそうとしか思えない。例えるなら血塗れの包丁を握り締めた輩が、殺人犯かどうか判断するぐらい明白だ。
直感的にはどう考えても有罪である。とはいえ科学文明に生きる身としては、科学的証拠なしに断じる訳にもいかない。せめて包丁に付着した血液の鑑定ぐらいはすべきだろう。
その鑑定結果だが、簡易なものなら間もなく出る筈。
「雨宮さん、簡易結果が出ました」
それを伝えに来てくれたのは、由紀より年下の若い女性研究員だった。
「あら、わざわざ来てくれたの? 有り難いけど、後でも良かったのに」
「いえ! 雨宮さんにはすぐ報告した方が良いと思いまして!」
この若い研究員は、由紀の事をかなり尊敬してくれている。
憧れの対象として見てくれているようだ。嬉しい反面、あまり心酔されてもそんな立派な人物でもないんだけど……と謙遜の気持ちもある。
ただ、今聞きたかった情報を教えてくれるのは助かる。暴風雨の中での立ち話も難なので船内に戻りつつ、その話に耳を傾ける事にした。
「まず、周辺湿度は九十九パーセントの飽和状態になっています。それから気温も、周囲と比べてかなり高いです。未確認巨大物体に近付くほど高温化していて、サーモグラフィーによる観測では、未確認巨大物体から五百メートル圏内では気温が五十度を超えています」
「それはまた、凄まじい温度ね」
当然ながら由紀達のいる場所は、明らかに五十度もない。
少々暑いとは思うが、全身を覆う雨合羽を着ているのだから多少蒸れるのは当然だろう。恐らく外気は三十度もない。つまり未確認巨大物体周辺とは二十度以上の差がある。これは日当たりや南風程度で説明出来る温度差ではない。
「サーモグラフィーでアイツの身体からの発熱は確認出来た?」
「いえ、全く。あまりにも発熱がなくて、サーモグラフィーだと真っ黒らしいです」
「体表面からの放熱はなし、と」
与えられた情報から、由紀は少し考え込む。
この辺りが暴風雨になっている理由は、ほぼ確定した答えが得られたと言って良いだろう。
予想通り、未確認巨大物体が噴出している蒸気の仕業だ。蒸気という事は、最低でもその温度は百度以上あるだろう。温度の高い気体は上へと昇る性質があるため、これらの蒸気も高い位置へと急上昇。この流れにより、所謂上昇気流が発生する。
上昇気流というのは、単に空気が上に昇るというだけの事象ではない。巻き込まれた空気が一緒に移動する事で、風も起きる。周囲に吹き荒れる暴風の正体がこれだ。
そうして浮上した蒸気は、段々と冷えて水滴化。大気中の塵などを核にして集まり、雨粒となって落ちてくる。即ち降雨である。蒸気の量が膨大なため、豪雨と呼べるほどの激しさで振っているのだろう。
五百メートルもの巨体とはいえ、単独で気象を操っている。今の人類では到底成し得ない、恐るべき力の持ち主と言えるだろう。しかし現象としては、既知の気象学の範疇で説明出来る。魔法のような不思議な力の効果ではない。
だからこそ由紀は安堵を覚えた。
「(現代の科学は、この法則が宇宙全てで通用する事を前提にしている。それが確認出来たのは、一応安心要素ね)」
ニュートンの万有引力はどの辺りが偉大なのか。
そう問われた時、少々偏屈な回答するなら――――神のいる天上さえも科学の手が及んだ事だと由紀は思う。
かつて人類は、天上と地上は異なる世界だと信じていた。神の世界たる天は、人間の世である地上とは全くの別物。だから何が起きても不思議はない、という考えだ。
ニュートンはその考えに対し、天の星さえも地上と同じルール……万有引力がある事を示した。天は特別ではない、人間の世界と『同じ』だと証明したのだ。ニュートンがそれを意識したかは分からないが、神秘の失墜であり、幻想の終焉の始まりだった。
以来人類は地球上で発見した物理法則を、宇宙全てに適応している。この宇宙には特別など存在せず、一つの共通ルールによって動いていると考えて、世界を読み解いていた。
しかし当然ながら、人類は宇宙全てを、素粒子一つ分の隙間もなく観測した訳ではない。
つまり宇宙の何処かでは、人類が発見した物理法則とは異なるルールの領域があるかも知れない。事実ブラックホールの『内側』にある特異点では、物理法則が破綻する事を現代科学は許している。人類は、自分達の築いたルールが絶対ではないと既に知っているのだ。
未確認巨大物体がなんらかの特異点、未知の物理法則の使い手だった場合、人類の科学ではお手上げになっていただろう。土台が異なる物理法則を読み解くのは、石器時代から学問を始めるようなものであり、生態を読み解くだけで何百年掛かるか分かったものではない。
どれだけ異常に見えても『同質』の存在だと分かったのは、今後謎を解き明かす上で心強い情報だ。尤も、そこを疑う科学者は由紀含めて殆どいなかっただろうが。
「しかし、そうなるとあの蒸気はなんなのかしらね……」
蒸気の『供給源』は既に判明している。
此処ら一帯にいくらでもある、海水だ。実際浮遊している未確認巨大物体が時折管を伸ばし、海水を『吸引』しているところが確認されている。
当然ながら、海水というのは液体だ。周囲の気温によって多少温められているだろうが、精々三十度程度だろう。そして水が水蒸気となるには、百度に達しなければならない。
単に蒸発させるだけなら、待つというのも一つの手だが……もくもくと煙のように見えるぐらい大量の蒸気を発生させるには、加熱して沸騰させる必要がある。未確認巨大物体の中では、とても大きな熱が発生しているのだろう。
さて。そうなると二つの疑問が湧く。
一つは何故蒸気を生み出しているのか。
もう一つは、何処からそのエネルギーを捻出しているのか。
「(アイツが人類と同じ物理法則に縛られているなら、エネルギー保存則からは逃れられない)」
エネルギーは外から出し入れしない限り、反応の中での総量は増減しない。
現代科学の基礎だ。言い換えればエネルギーを外に出せば段々と反応内の総エネルギー量は減っていくため、なんらかの方法で補給しなければならない。
蒸気を生み出すには、エネルギーを投じる必要がある。お湯を沸かし続けるには、火を焚き続ける必要があるのと同じだ。そして火を焚き続けるには、薪なりガスなりを供給し続ける必要があるだろう。
局所的とはいえ暴風雨を引き起こすほどのエネルギーだ。膨大な量のエネルギーを投じている筈であり、そのエネルギーを生み出すための『燃料』も大量に消費していなければおかしい。
参考までに半径百キロ程度の小型台風でも、そのエネルギー量は原爆二〜三万発分もある。未確認巨大物体の周囲にある悪天候は台風ほど広くはなく、形成に何日も費やしているとはいえ、相当に大きなエネルギーの塊なのは間違いない。
どうやってこのエネルギーを捻出しているのか。
「(あと、それだけのエネルギーを消費しているんだから、つまらない理由で出してる訳ではないと思うんだけど)」
無からエネルギーが湧かない以上、未確認巨大物体は何かを消費している筈だ。しかし、仮に生命であるとすれば、エネルギーの枯渇は生命活動の停止を意味する。人間が運動すればカロリーを消費するが、そのカロリーが尽きれば餓死するのと同じだ。
命に関わる大事なエネルギーを大量消費してまで生み出した蒸気。伊達や酔狂で作った訳ではあるまい。何かしらの目的があると考えるのが自然だ。
「……あの、その」
そこで考え込んでいたところ、若い研究員が声を掛けてきた。
何かを言いたそうな顔だと、由紀は思った。
「ん。何かしら? もしかして、未確認巨大物体が何故蒸気を出しているのか、推測してみたとか?」
「えっ!? あ、はい、その、その通りですけど……い、いえ! やっぱり私の考えなんて外れてるに決まってます! 雨宮さんでも分からない事なのに!」
「私だって、地球外生命体についてはド素人よ。というかアレが本当に生物なのかも分からないし。あと仮に間違っていても、自分にはない発想が刺激になって、新たな考えが浮かぶかも知れない。だから聞かせてほしいわ」
由紀が背中を押すと、若い研究員は照れたように笑う。それでも少しの間口ごもっていたが、やがて拙い口調で仮説を言葉にした。
「そ、その、アイツは、地球の環境を変えようとしているんじゃないか、って思ったり……」
「……ふむ?」
「あ、あの! その、漫画とかゲームで、そういう敵がいたと言いますか」
言ってから恥ずかしくなったのか、今にも発言を撤回したそうに言い訳をする研究員。
だがその可能性は、由紀も考慮している。
「恥ずかしがる事はないわ。地球外生命体について真面目に考えた時間は、私よりも漫画家の方が長い筈。彼等のアイディアは馬鹿に出来たものじゃないわ。それにこの調子なら、確かに環境は変わるでしょうね」
水蒸気には温室効果がある。
一般的に水蒸気を温室効果ガスと呼ぶ事はないが、温室効果があるのは事実だ。人類の活動で直接的に増加する事はないとされているが……二酸化炭素など他の温室効果ガスによって気温が上がれば、その分川や海からの蒸発が増え、水蒸気も増えていく。
水蒸気が増えると気温が上がり、また水蒸気が増える。この繰り返しにより、急激に気温が上昇。地球全体が人類の手に負えない暑さへと到達してしまう――――破滅的な地球温暖化に至るシナリオの一つだ。
未確認巨大物体は大量の水蒸気を発生させる事で、地球環境を改変。自分にとって住みやすい環境に変えようとしているのではないか。
「ただ……ちょっと回りくどいとも思うけど」
未確認巨大物体が出している水蒸気は、間違いなく膨大だ。何しろ暴風雨が起きるほどなのだから。しかし地球に存在する水蒸気量は、比にならないほどずっと多い。未確認巨大物体が出している水蒸気ぐらいでは、地球環境は大して変化しないだろう。何かが変わるとしても、数百年後ではないだろうか。
未確認巨大物体の『寿命』が数千年もあるなら、それぐらいの時間を費やしても問題ないかも知れない。だがどうせ改変するなら、手早く完了させた方が良いに決まっている。
「(或いは何かのついでか。二酸化炭素やメタンとかの生成で出たものかも知れない)」
何かしら大気成分に変化があるかも知れない。そこから未確認巨大物体の思惑に迫れないだろうか。
……新たな、そして重大な疑問が生じたが、それはそれとして今回の目的も忘れてはならない。
即ち未確認巨大物体の正体は、一年前に姿を消したミクリアなのか、そうでないのか。確定させるための情報集めが、今回の調査の本命だ。
「ところで、あれがミクリアだって証明する情報は何かあったかしら?」
「あっ。それについては、海水成分で確認されたみたいです。水素イオン指数が、かなり高いようで」
その本命も、一応は達成出来ていたらしい。
一年間の研究では、『再出現』するまで ミクリアの居場所は分からなかった。だがこの一年の研究で、成果が何もなかった訳ではない。
ミクリアが落下した海域では、周辺よりも水素イオン指数……pHが低下している事が確認されていたのだ。
pHとは所謂酸性度の事。それが低下するという事は、つまり海が酸性化しているのである。一般的に海水はpH8と弱アルカリ性を示すが、ミクリア落下地点周辺ではpH7を記録。一月前のとある太平洋海域、未確認巨大物体が出現した付近の海域に至っては、pH6〜6・5程度の弱酸性になっている事が調査により明らかとなっていた。
僅かな違いに思えるかも知れないが、海洋生物的には大きな違いだ。事実甲殻類や貝類の幼生は殻が溶けるなどの被害により、大量死しているのが確認されている。魚も急激に減っており、狭い範囲での事とはいえ、生態系が破壊されている。
地球環境を破壊するおぞましい変化であるし、何故そうなるかも分からない。だがこれを使えばミクリアの位置を特定出来るのではないか……由紀達研究チームがそう考えていた矢先に、この未確認巨大物体が現れた。
そして未確認巨大物体が居座るこの海域でも、海水のpH低下が確認されている。ミクリアと同じ性質があるのだから、あれはミクリアと考えるのが妥当だ。
「(先手を取られた形だけど、どうにか追い付いた。これからアンタの秘密、解き明かしてやるわよ)」
ミクリアだと断定した未確認巨大物体――――それがどんな生物なのか。どんな生態をしているのか。進化生物学の知識を総動員し、必ず暴いてやる。
そう決意する由紀だったが、残念ながら謎解きはお預けとなった。
今回の調査結果を下に、軍事攻撃による駆除が正式に決定されたのだから。