浮上
地平線の彼方まで続く、大海原。
普段は風と波の音しかしない、平穏な環境で、奇妙な音が鳴り響いている。ゴウン、ゴウンと、さながら工場での機械が稼働するような音だ。
音は凄まじい大きさで、ビリビリと響く余韻は雷鳴を彷彿とさせる。空を見ればどす黒い雲が流れていて、一見してその雨雲が音の発生源に思えるだろう。
だが、真の『元凶』を目にすれば、雲なんてどうでもよくなる。
――――それは、海上に浮かんでいた。
浮かぶといっても、水面をぷかぷかと漂っているのではない。海面から数十メートルの位置を、明らかに浮遊しているのだ。
無論、ただ浮かぶだけならわーわー騒ぐ必要もない。人間が作り上げた気球や飛行機だって、空を飛ぶぐらいは難なく出来るのだから。
しかし浮かんでいるものが、大きさ五百メートルもあれば、話は別だろう。
それの形は、巨大な正六面体……真四角をしている。あくまでも目視だとそう見えるだけで、厳密に正六面体とは限らないが、そう感じさせる程度には整った形をしていた。角の一つを海面側に向けており、一見して不安定な立ち方だが、左右に揺れる素振りは一切ない。色彩は透き通った青色をしていて、地球の生物から見れば不自然な色合いだ。
だが人工物ではない。何故ならその表面は魚の表皮を思わせるぬらぬらとした光沢を纏い、硬さよりも柔らかさを感じさせる材質だからだ。よく見れば六面体の角部分は丸みを帯び、表面には無数の『毛』が生えている。毛の長さは一メートルほどの長大だが、五百メートルもある六面体からすれば細くしなやかなものと言えるだろう。そして海面に向けている角部分からは時折肉々しい……血管が浮き出たソーセージのような……筒状のものを伸ばし、海中へと浸水している。
身体の作りは、如何にも生物的だ。
と、そこまで思わせておかながら、全身から白い煙が噴出するという『機械的』な行動を見せる。普段はたらたらと漏れ出すように、けれども時折雷鳴と間違うほどの轟音を響かせながら。白い煙が穴から溢れ出す。強く噴出する時は、まるでジェット噴射かの如く勢いで白い煙が出て、五百メートルもある巨躯さえも覆い隠さんばかりに周囲を漂う。
やがて白い煙は空高く昇っていき、巨大な暗雲を作り上げる。暗雲では雷鳴が飛び交う。巨大なエネルギーが溜め込まれている事が、一目で窺えた。溜めきれなくなったのか、雨まで降り出す。ゲリラ豪雨を思わせる大雨だったが、雨雲の成長はまだ止まらない。
これ以上の『接近』は危険だ。
誰もがそう思ったであろうところで、映像は途絶えた。
「これが先日、太平洋上で自衛隊が撮影した映像です」
そう言ってテレビモニターを消したのは、迷彩服を着た自衛隊員。
由紀達ミクリア研究チームのメンバーが勢揃いした一室でお披露目された映像は、由紀達から言葉を奪うのに十分なものだった。
――――この巨大物体は、先週太平洋上で確認されたという。
日本の衛星が捉えた姿であったが、その後発生した雨雲により衛星からの撮影が不可能になった。このため海上自衛隊が緊急出動を行い、二日もの時間を掛けてようやく辿り着いて撮影したという。
撮影地点はかなり日本寄りの位置であるため、米軍はまだ到達していないらしい。ここで流された映像は、アメリカ政府に連携予定との事だ。
「……念のため聞くが、撮影者は無事か?」
「はい。撮影は自衛隊の所有する護衛艦にて行われましたが、無事全員が帰還しています。健康診断も行われましたが、現時点で異常は見られません。この映像はここで途切れていますが、これは今回の説明用に加工したためです。実データでは三時間以上続いています」
「そうか。誰も死んでいないなら、それで良い」
撮影した自衛隊の安否を確認した勇也は、ほっと一息吐く。研究メンバー最高齢である彼にとって、『若者』の生死には思うところがあるのかも知れない。
由紀としても、被害者が出ていないのは喜ばしく思う。しかしその事に喜んでばかりもいられない。
明らかに異常な、地球由来のものではない存在が、堂々と現れたのだから。
「本日確認したいのは、この存在がミクリアであるかどうかです。その事について、研究チームとしての意見を窺いたい」
そして自衛隊員から問われたのは、この難問。
コイツが地球に降下してから一年間消息不明だったミクリアだと、確証を示してほしいという事だ。
研究チームのメンバーは、誰一人即答しない。勇也も光一も、由紀も口を閉ざす。
「(そりゃあ、感覚的にはそうですって言いたいけどね……)」
由紀の直感で言うなら、間違いなく撮影された対象はミクリアだろう。それ以外のものであって堪るか、とさえ思う。
しかし、それは根拠ではない。
人類がミクリア探しに夢中な間、外宇宙から更なる侵入者が来たのではないか? そもそもミクリアも、国際宇宙ステーションを破壊し、更に地球の上空を何度も周回していたから気付けた。一直線に海へと向かわれたなら、きっと発見は地球到達後になっていただろう。
宇宙からやってくる『何か』を、今の人類は十分警戒出来ている訳ではない。未知の侵入者がいてもおかしくないのだ。
「(それに、大きさの違いも気になる)」
地球上空を周回していた頃のミクリアは、大きさ三十メートル程度と推測されている。現代の人類の観測能力なら、恐らく誤差は数メートルもないだろう。
対して今回現れた存在は、大きさ五百メートルという途方もない巨体だ。一年前に観測されたミクリアよりも十六倍以上大きく、質量については四千六百倍以上あってもおかしくない。
ミクリアを見失っていた期間は約一年。いくら成長する時間があったとはいえ、ここまで巨大化しているのは異常ではないか。確かにアゲハチョウの幼虫などは、ほんの一ヶ月で体重が一千倍にもなるが、あれは小さな生き物だから可能な事だ。人間やウシ、ライオンなどの大型動物ではそこまで急激な成長はしない。巨大な宇宙生物が来訪した、と考えるのが自然だ。
形態も著しく変化している。あれが惑星上での活動形態、或いは繁殖に適した形態とも考えられるが、そもそも別種だという可能性も否定は出来ない。
「(どっちなの? 何か、ミクリアとの共通点があれば、同一個体と断言も出来るんだけど……)」
思考を巡らせてみるが、全く思い付かない。あまりにも映像の生物は、ミクリアと違い過ぎる。
先日になってようやくミクリアを追跡出来るかも知れない発見があったが、まだまだ追証段階で、確定したものではない。どうやって調査に活用するのかさえ、満足に決まっていない段階だ。現状、研究チームは『今』のミクリアに関する情報を殆ど持ち合わせていない。
研究メンバーの誰もが沈黙しているのも、断言するには証拠が何もないからだ。同時に、迷っているのは直感的にはミクリアだと思っているからだろう。そうでなければ今頃、あれは別種ですと誰かが言っている。
沈黙こそが、科学者達の答えだった。
「……研究が必要だ」
やがて口を開いたのは、勇也であった。
「研究、ですか?」
「外見的特徴からいえば、あれはミクリアとは全く違う。大きさも、行方不明だった一年で成長したにしては大き過ぎる。だが相手は地球外生命体だ。地球の常識が当て嵌まる相手ではない」
「現時点では断言出来ない、という事でしょうか」
「その通りだ。あなた達からすれば何故分からないのかと言いたくなるかも知れないが、こちらとしてもミクリアは全くの未知の存在。あらゆる可能性を検討しなければならない」
科学的に誠実な態度を取るならば、「分からない」が唯一の回答となる。
それは政治家や民衆には、不満のある回答かも知れない。彼等の中には「こんな事も分からないなんて」という者もいるだろう。
だが勇也が述べたように、あらゆる可能性が考えられるのだ。断言する証拠がないのに断じるものは、単なるギャンブラーでしかない。外れたなら見当違いの対策を取る事になり、当てたところでただの偶然なのだから教訓とはならない。
科学の道は地道に、一歩ずつの積み重ねによって成り立つ。だからこそ今の時点では研究が必要なのだ。
「……他の皆さんも同じ意見でしょうか」
自衛隊員に問われ、由紀達含めた他メンバーも頷く。今必要なのは、兎にも角にも研究だ。
由紀達の返事を聞いて、自衛隊員はどう思ったのか。小さく息を吐き、真剣な眼差しでこちらを見据えてくる。
「分かりました。ですが一つ注意すべき点があります」
「注意?」
「この巨大物体は、あまりにも大きく、そして地球上に長時間滞在しています。最早民衆にこの存在は隠し通せません……実際、日本の漁船がこの巨大存在を発見し、SNSへの投稿をしています」
国際宇宙ステーションを破壊したミクリア自体は、現在もその存在は公にされていない。宇宙空間を飛び回り、軍隊の追跡も振り切って今や行方不明。一般人では発見なんて出来ず、情報漏洩だけ気を付ければ秘匿は容易い。
だがこの巨大物体の隠蔽は、既に不可能な状況のようだ。
「政府としては、SNS上の出来事は感知していないとの回答をしています。とはいえ海上自衛隊や米軍艦隊の出航は、市民でも確認出来るのが今の時代です。いずれ公表する事は避けられません」
「それまでに、なんらかの回答を用意しろ、という事ですか」
「その通りです」
由紀の問いに、臆面もなく自衛隊員は答える。
なんとも無茶を言う。
研究というのは、何時までに成果を出してね! といって完成させられるものではない。ミクリアと巨大物体の関係性なんて、それこそ何ヶ月も研究してようやく突き止められるものだろう。それを短期間で……いずれ、なんて曖昧な言い方をしているが、恐らく一ヶ月が限度だろう……やれというのは、非常識極まりない。
だが悠長にしていられないのは、その通りである。情報統制が出来ていない事もそうだが、ミクリアかも知れない存在を何ヶ月も野放しにするなどあり得ない。本当にあれがミクリアならば、急激な成長速度は脅威でしかないのだから。仮にミクリアでなくとも、明らかな異物なのだから調査は必要である。
「分かりました。やりましょう、私達に出来る事を!」
気合いを入れるように、由紀は掛け声を一つ。
まずはどんな調査が必要かを纏めるため、研究メンバーとの打ち合わせに入るのだった。