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弟が三歳を過ぎると、王都の家に行くことが増えた。
それまでは領の家で割と自由に暮らしていたせいか、お祖母様には「私」の所作が気に入らなかった。
「立ち姿も、挨拶もまるでなってないわね。これでは子爵家の娘として恥ずかしいわ。やはり平民育ちの親では充分なしつけはできないのね」
お祖母様の言葉を受けて、「私」に礼儀作法の先生がつくことになった。
でも先生は、基礎はできています、と言ってくれた。領でも時々お母様やリタからマナーのレッスンを受けていたもの。だけどお祖母様の満足いく出来ではなかったみたい。
今見ても、そんなにひどい作法ではないと思うのだけど。
「私」や弟が王都に住む時間が長くなるだけ、お母様の移動距離は増えていた。時には私達を王都に残してお母様だけ領に戻ることもあった。
そうなると何故かお父様やお祖母様は機嫌が良く、「私」達がいると嬉しいのかしら、そう思っていた。
お母様がいない間、時々お父様やお祖母様と王都の街にお出かけした。
一度目のお出かけで、お父様にクマのぬいぐるみと王家御用達のお菓子を買っていただいた。
二度目のお出かけからは、お祖母様も同行した。
ある日のお出かけで、お父様はきれいな金色の刺繍がしてある大きな赤いリボンを「私」に買ってくださった。「私」はとてもうれしくて、お父様にお礼を言うと、
「かわいいお前に、これくらい安いもんだ」
と言ってくださった。
その後、今まで行ったことのないキラキラ光る石がたくさん置いてあるお店に行き、弟に素敵なカフスボタンを選んでいたのだけれど、侍女のアンナが
「そのような小さなものは、間違えてお口に入れられると大変です」
と声をかけた。するとお祖母様は、
「そうね、危ないからやめておきましょう」
と言って笑顔を向けた。
「それはキャンセルね。今日はこちらだけでいいわ」
お祖母様も気に入った物があったみたいで、いつになくにこにこしていたけれど、アンナが顔色を変えてお祖母様を止めようとした。
「大奥様、それは…」
だけどお祖母様は
「侍女の分際で何か文句があるの?」
と笑顔を消して睨みつけ、扇で追い払うように下がらせた。
その後、お菓子やお父様のお酒も買って家に戻った。みんな笑顔だった。
数日後、お母様が戻ってきた時、弟は熱を出して寝ていた。
「お医者様は何と? お薬は出てるの?」
「い、いえ、お呼びしていません」
アンナの答えに、お母様は驚き、声を荒げた。
「何ですって! 早くお呼びして!」
「で、ですが大奥様が、子供はよく熱を出すものだから、わざわざお医者様を呼ばなくても寝かせておけば明日には熱は引くと…」
それを聞いたお母様は、いつになくきつい口調でアンナを叱りつけ、すぐにお医者様を呼びに行かせた。
お医者様の診察が終わると、お母様はお祖母様の部屋に向かった。
お祖母様は優雅にお茶を楽しんでいた
「あらまあ、お茶の時間を邪魔するなんて、無粋な人ね」
机の上には一人では食べきれない量のお菓子があった。弟が食べられないのだから「私」も我慢しなさいと言って、その日もらえなかったお菓子だった。
真新しい髪飾りには真っ赤なルビーと思われる石がついていて、優雅に、見本のように美しい姿でお茶を楽しんでいる。幼い孫が熱で寝ているのに、何事もないかのように。
【そうだ。この人は子供を産んだことはあるけれど、育てたことはないんだったわ。子供を育てるのは下品なこと。そう言っていた。だけど…】
「ギルバートが熱があるのに、お医者様を呼ぶのを止めたのはなぜですか?」
「止めてはいないわ。子供の熱なんて休ませておけば次の日には下がるものだと言っただけよ」
「侍女にそう言えば、お医者様を呼べなくなるでしょう」
「何を大騒ぎしてるの。たかが…」
お母様を見たお祖母様は、びくりと身を震わせた。
お母様は怒りを顔に顕わにし、お祖母様を睨みつけていた。
「ライリー様もそうやって育てたんですか? 熱が出ても寝ていれば治るとお医者様も呼ばず?」
お祖母様はすました顔のまま答えなかった。よほどお金がないならともかく、子爵家嫡男が病気になって放置する訳がない。それはお父様もギルも同じなはず。それなのに。
お母様は、お祖母様が身につけている髪飾りに目をやった。
「その髪飾り、また新調されたんですか? ずいぶんお高そうですけど、子供達のためのお金を使い込んでお医者様を呼ばなかったなんてこと、ないですよね?」
お祖母様の顔が赤くなった。
「私」たちが王都の家に長くいるようになり、お母様は領の家の運営費をいくらか王都の家に融通して私達に不足がないようにしていた。そのお金を支払いに使って…?
「ご自身の予算も管理できないのに、注文できてしまうのがいけないのでしょう。お母様のお気に入りのお店には、今後お母様からの注文を受けても当家は支払わないと通告させていただきますね」
「…あなた何様なの? 私はこの家の主の母、領主の母親よ。この家の物は全て私の物なの。あなたの指図など受けないわ!」
お祖母様の甲高い怒鳴り声にも、お母様は全く動じていなかった。
「今後、子供をおろそかにする行為は慎んでください。このことは旦那様にも報告しておきます」
お母様が立ち去った後、お祖母様はクッションやカップをドアにぶつけていた。その姿はとても淑女とは思えなかった。
お医者様の診察の結果、ギルは風邪で、二日ほどで熱は引いてくれた。
お医者様がよく効くと言って出してくださった薬はうちの領の瓶に入っていた。お母様はそれを見て少し笑みを見せた。
その夜、お母様はギルに付き添っていた。忙しく仕事に追われながらも子供の世話もきちんとこなそうとするお母様。だけどリタに
「何でもお一人でしようとされなくていいのです!」
と叱られ、侍女と交代し自室で眠りについた。
翌朝お父様にお祖母様のことを相談に行ったお母様は、先に小言を聞かされていたお父様にこう言われた。
「何か知らないが、髪飾りぐらいのことで面倒をおこさないでくれよ」
お母様は口元は緩めていたけれど、目は笑っていなかった。
【髪飾りぐらい、ね】
「ええ、本当に。髪飾りぐらいで子供の命に何かあったら大変ですもの」
昨日お医者様が来ていたことを思い出した父は、子供のためのお金がほとんどなくなっているのを気付かれたと察し、顔を青くした。だけどそのためにお祖母様がギルのお医者様を呼ぼうとしなかったことには、お父様は気付いてさえいなかった。
「お母様の浪費を抑えるために、今後お母様の買物はあなたのサインなしでは支払いできないように手配しました。お母様のためのお金、少し用立てますけど、お母様にはお渡しにならないでくださいね」
お父様は自分が便乗した分はばれていないとわかって安心し、新たにお金が入ると聞いて喜んで引き受けた。
以来、お祖母様がお店に発注する時にはお父様のサインが必要になった。自分一人では注文できなくなったけれどお父様のサインの入った注文書があれば支払ってもらえるとわかると、お祖母様はお父様のいい加減さを利用してサインを書かせ、変わることなくあれやこれやと買物をした。
お父様は執事から何度か注意されても聞き流していたけれど、その月の合計額からお祖母様がもらったお金を三倍も越えた買物をしているのを知ると、
「何故もっと早く言わない!」
と執事に八つ当たりした。
何度も同じことを繰り返しているのに、まだお祖母様のことをわかっていないお父様。お母様の予想したとおりの展開になった。
このことをお母様に話し、愚痴がてらさらにお金を工面してもらおうとしたものの、
「あなたが発注なさったのよね? あなたがお金を出して差し上げるなんて、お優しいですわね」
と軽くあしらわれた。
お父様は次の注文書を持ってきたお祖母様に
「もうお金はありませんよ」
と告げると烈火のごとく怒られたけれど、お祖母様からの注文書に警戒することを覚えたお父様ののらりくらり作戦にはお祖母様も勝てなかった。
お父様の買ってくださったリボンは大人の女性が夜会につけていくような物で、子供がつけるには大きすぎ、デザインも派手だった。今思えば「私」の髪につけてみることもなく、思いつくままに購入していた。金糸で刺繍が施され決して安い物ではなかったけれど、当時の「私」はその価値を知らず、大きくなった頃にはそのデザインは流行遅れになっていた。
キラキラ光るリボンはお父様に愛されている証拠だと思っていた私は、今でも大事にそのリボンをしまっている。お父様には少しも懐の痛まない、気まぐれな買物だったけれど…。




