無垢
檜の匂いが香るベッドで寝ていると、ある少女が過去から私の名前を呼んでくる。
恥ずかしがり屋の小学生が、少女を彼の家に招いたのは、薄紫のあじさいが咲く雨季あった。
雨に打たれ後の山々は、清らかな雨水を被った木が光を反射させていた。太陽が雲間から恥ずかしげに地上を覗くと、そこに虹がかかっていた。
その虹の向こう側から来る少女を、少年は大きな喜びを胸に見ていた。雨が止んだね、と少女が言った。彼は何も言わず、だまって頷いた。
「まずは算数の宿題をおわらせよう。」と彼は言った。
少女は唇にえんぴつを当てながら、長い髪がノートの上につくまで前かがみになっていた。これが彼女が考えるときの習わしであった。
数では表せられない甘い時間が静寂を包み込んでいた。
「これってどうやって解くの?」
甘美な静けさをやぶったのは、彼女の美しい声であった。
彼は得意げに、自分の答案を見せながら問題の解き方を話した。大きく無垢な彼女の目にみつめられて、彼は外に駆け出したい欲求に襲われた。
宿題を終えると、彼らは家の中を歩き回りながら、たわいも無い話をしていた。親戚が何十人も集まって宴会が開けるような、広い家だった。
その家の片隅にある寝室で檜のベッドを見つけた時、彼女は「いい匂い」と言いながらそこに寝転がって、けらけらと笑った。無邪気にベッドに転がる彼女を見て、彼は心の底から温かい気持ちになった。
「君はいつもこの匂いの中で寝ているんだね。羨ましい。」
「そうだね、でも僕は毎日ここで寝ているから匂いなんて気にしていなかったよ。」
彼は檜の匂いを嗅ごうとベッドに近づいた時、彼女の大きな目が彼の光景の全てを覆った。何も言わずに、ただ彼女の隣で寝転がった。
檜の香りの奥から、彼女の甘い香りが漂ったかと思うと、もう檜の香りを感じることは出来なくなってしまっていた。只々、そこには無垢で優しい時間が流れていた。彼らをひだまりが包み込んでいた。