兄として
私はヘニング・イスフィールド。イスフィールド家の次男だ。
私には妹が居る。コゼット・イスフィールドという名だ。頭も良く、習い事もそつなくこなし、体力作りと称された地獄のように辛い鍛錬にも平気でついて行く。
父上と母上から受け継いだクリーム色の髪に、透き通るような青い瞳。
いつからだろう。私はその瞳がどうにも苦手になった。
小さい頃から苦手ではあった。
物心がついた私からは、自身より小さな子供というのは、単純に言ってしまえば未知であった。
よくわからないことで笑い、よくわからないことで怒る。
安易に触れてしまえば、その未知に取り込まれてしまいそうで、私はコゼットを避けていた。
……いや、これもまた言い訳だろう。
私とコゼットには少し年の離れた兄がいる。
今は魔の森に居るが、兄上もまたコゼットと同じく未知である。思えば、兄上が未知だからこそ、私はその片鱗をコゼットからも、どうしても感じてしまうのであろう。
自身を分析するに、私は兄上が怖いのだ。
正確にはその才が恐ろしい。
父上からはその剛力を、母上からはその冷徹さを。
親からそれらを十全に引き継いだ兄上はまさに、暴力の権化。その体に持つ力を正確に把握し、笑顔を元に行使する。
兄上に敵への配慮は一切無く、一度敵だと認識されると、その力でもって完膚なきまでに消し去られてしまう。
兄上が目をつけた者が私の周りから居なくなっていった。最初は乳母だったか、次は一番顔を出すメイドだったか。もはや何人いたのかもわからない。
私は兄上を恐れた。誰か彼かを消した手で、私を撫でる。
笑顔で語りかけてくる。
兄上、その次は私なのでしょうかと、何度心の中で問いかけたであろうか。
今思えば、彼ら、彼女らは私に甘い言葉を注ぎ、どうにかしようとしていたのであろう。
それがわかるくらいには、私は必死に学び、必死に体を鍛えた。
どうやら兄上は、私を守っていたようだということを後に理解した。ただ、それらがわかる頃には、もはや私は兄上を恐れすぎていた。
どうやらこの体は、才能にあまり恵まれなかったらしい。それらは全て兄上に偏ったようだ。
自身の才を確かめる度に、兄上と比べる日々。
辛うじて学だけは勝てそうであるが、それがどうしたというのだろう。
兄への恐怖が薄まることはない。
魔の森を抱えるこの領では、力が優先されるのが実情だ。
恨み、妬み、そして羨ましく思いもしたが、それらの感情が大きくなる前に、全てしぼんでいった。
私は諦めたのだ。
我ながら、あまりにも早い挫折であろうと思う。
そして、ある時から、そんな兄上から受ける感覚を、コゼットからも感じるようになった。
常に遠くを見ており、感情を見せない瞳。
兄上が動で全てを破壊して進むのなら、コゼットは静だろう。
どこか物事を常に俯瞰して見る、無機質の静。
時折、子供らしい癇癪を起こしていたが、それも最近はめっきりと見せなくなり、貴族としては素朴なものを好み、自分からは望みをあまり言わなくなり。
つまり、ひどく禁欲的になったと話に聞いた。
ああ、妹もまた、才を持っているらしい。
何を考えそうしているのかわからないが、少なくとも私にはできない行動理念で動いている。習い事の成績も悪くなく、熱心に取り組んでいるようだ。
私はつまり、兄上に感じていた醜い感情を妹へと向け始めたのだ。兄には敵わないが、年も下で、それも女である妹ならまだ憎らしく思える程度には、私はまだ乱せる感情というものを持っていたらしい。
だからといって何かすることもない。平凡たる私は、平凡らしく、妹になにかをする気概すらなかったのだ。下手につついて、何か、致命的な何かが飛び出してくる”未知”を恐れた。
自らは関わらず、数年先んじているだけの己と妹の差を感じながら、薄暗い悦を感じるだけだ。
まだいける、まだ勝っていると。
なんともまあ、あまりにも薄汚くも浅はかなこの身の中身よ。周りを憎らしくも思いながら、それを発露させることもできない”真面目”で”良い子”な自分が最も恨めしい。
そんな日々が、あの職能を授かった件で崩れた。
食堂で見たコゼットは、まるで、それまでの努力が全て無駄になったかのような落ち込みようだった。
それも無理もないと言える。職能はそれ自体が全てでないものの、強く人生に影響を与えるのは間違いない。
スライムなど、どう使おうとて大したものになりはしない。率直に私はそう思った。
操った所で何になるというのか。
ましてや貴族の身でどう生かせばよいのか? そんなところだ。私は早々に<スライム使い>という職能についての考えを放棄した。
正直なところ、私はひどく安堵した。
平凡たる私は、自分より下を見つけることで自身の今後の安寧を見つけた気になったのだ。
そして、それを確かめるために私は執務室でコゼットを見た。
見てしまった。
彼女は私たちを前にして、あまりにも堂々として、自身の考えを語ってみせた。
あれだけの表情を見せながらも、次の日にはこうして立っている。
その姿はあまりにも凜としており、美しかった。
薄暗い悦に浸る私とは、あまりにも違うではないか。
これが才なのだろうか。
持つものと持たざるものの違いなのであろうか。
いや、違うのであろう。少なくとも私は、そしておそらく父上と母上も、その職能については早々に考えを放棄していた。
私は打ちのめされつつも、コゼットに一種の、感銘のようなものを感じた。与えられた物がどのようなものでも、結局はそれを使い、どう活かすのかは自分だということなのであろう。
それに対して私はなんだろう。自身を見ずに、他者と比べてばかり。
「恥じ入る」とはまさにこのことなのだろう。
どこまで行っても、私は私にしかなれぬというのに。
コゼットはきっと、私にとっての天使なのだ。
そんな気持ちがはやり、思わず私は「コゼットは天使か」と口走ってしまった。
あまりにも筋の通らぬ意味不明な言葉だと、言ったあとに気づいた。
が、結果として父上と母上からは肯定が返ってきた。
なんとまぁ、あれだけ遠い存在だと思っていた親が、ひどく近しい存在に感じたものだ。
ああ、この人たちはここに、確かにいるのだと。
そして、コゼットはその言葉通り、一層訓練に力を入れ、その職能を使いこなさんと日々試行を繰り返していた。
畑の雑草処理ならまだしも、糞尿の処理すら自らやってみようと名乗り出たと聞いた時はひどく驚いた。
今のコゼットの話が外に漏れたら、風評に響くであろう。文字通り、人生に関わることになる。それでもやると言い、実際に何やら試行しているようだ。そして今のところ試みは成功していないとも。
私はそれを聞いたとき、父上と母上の時のように、コゼットがとても近くに感じた。あのどこか超然とし、天使の像にも見まごう彼女が、街民も憚られる仕事に取り組む。
ひどく人らしい。
――もしかすると、兄上もそうなのかもしれない。
私が知らないだけで、人のように考え、泣き、苦労していたのであろうか。
結局の所、距離を取っていたのは私だったのか。
それはとても大きな気づきであった。
コゼットは最初の落ち込みようを吹き飛ばし、聞くと眉をひそめてしまうような職能を携えながらも父上を動かし、館を動かし、そして今、街を動かそうとしている。
では、私がするべきことはなんだろうか。平凡たる私がするべきことは。
答えが出ないまま、コゼットに受けた仕事の話をするために会いに出向いた。
スライムを使った、街から出るゴミを処理する案の実行を私が任されたのだ。
見方によっては成果だけをかすめ取る所業に見える。
コゼットの今の状況からすると仕方がないことではある。
しかし、理がそうでも、感情がそれを是とするかは別の話だ。それは私自身が良く理解しているつもりだ。だからこそ話さなくてはならない。
まともに話す初めての話題がこんな事かと、鬱々としつつも歩を進める。せめて私自身は後ろめたく思っていると、伝える必要があるだろう。それが筋というものだ。
そこにいた彼女は、いつものように透き通る瞳で、どこか遠くを見ているようであった。
そしてその周囲にはおびただしい数のスライムたち。
朝日に煌めく体は数が揃い、それも整然と並べば中々に壮観であり、その中心にいる彼女の美しさを際立たせる舞台のようにも思えた。
スライムたちは何かを飛ばしていた。
聞けば土の塊であると。
本人は戯れだと言うが、私は軽い恐怖に似たものを感じていた。
一糸乱れず、ただただ与えられた指示をこなす存在。
主を得たスライムというのは、もはや私の知るスライムとは別物である。
コゼットがその職能を身につけまだ二週間ほどしか経っていない。その間でこれだけの数を増やし、今もなにやら訓練をしている。
その試みに成功しようが、失敗しようが、少なくとも指示を受け、それをこうやって繰り返す程度には知能があるということは今でもわかる。
これがもし成功し、1つの群から軍と呼べるようなものになれば……。果たしてその先にどういった結果が待つのであろうか。
彼女のその瞳は何を映しているのであろう。
私に推し測る術はない。
「お気になさらないで下さいまし。領のためです。わたくしの事は存分に使い潰しくださいませ」
そしてその本人は、成果を奪って悪いと謝る私に、その瞳を向けてそんなことを言ってのける。
子供とは言え、貴族が自身を使えとは、家族とはいえそうそう口に出すことではない。
感情を乗せないひどく冷たい瞳は、その言葉が本気のものであると雄弁に語っていた。
まるで、その背後で黙々と仕事をこなすスライムたちのようではないか。
「……どうやらお前は自己犠牲が過ぎるようだ。欲を持てとまでは言わないが。献身も過ぎると身を滅ぼすぞ」
私は結局、コゼットの言葉に辛うじて、そう、ほんの少し、辛うじて残った「兄」としての役割としての言葉を吐いた。
どうやら、私は自分の答えが見つかったようだ。
私は、妹には人であって欲しいと切に思う。
その瞳がさらに冷たく、さらに無機質なものにならないように。
その人生に立ち塞がる、煩わしい小石を取り除いてやること。
――それが私の仕事となるであろう。




