留加人の少女
7月9日。
ニュースでは、国防隊の攻勢が最終段階を迎えたと報じられていた。
蒸し暑く、今日も熱帯夜になりそうだった。登は、制服のポロシャツをぱたぱたとはたいた。その手にじっとりと汗が染み出して来る。
だが、家の前まで来て、体が思わず固まった。
家の玄関前に、黒のセダンが停車していたからだ。コーナーポールに黄色のペナントが立てられているから、佐官の公用車だ。誰が来たか、登には察しがついた。今は、できれば来てほしくない相手だった。
「登君、久しぶりだね」
登が、2階の部屋に入るのを阻止する格好で、林健作一佐が階段の前に立っていた。
やっぱり、“林のおじさん”だった。
思わず、登は心の中でぼやいた。林は親父の副官だった。親父が十字台補給司令部付一佐として燻っていた時からの部下で、親父とは公私のつきあいがある。もちろん登とも何度か会ったことがある。
「いそがしいところ、悪いけど。……ちょっといいかな。前に会った時は中学校3年生だったね。あのときは野球部にいて、ライトを担当していたね。今は高校2年生か。受験勉強の準備とかどうだい?」
「まあ、大丈夫です」
「確かに、僕も高校2年生の時は遊んでばっかりだったな。僕はサッカー部でね、なかなかの強豪校に入ったから、コーチも鬼で。でも、これが入隊後に役立ったもんだ」
林一佐は、セールスマンのように物腰が柔らかい。
油断できないぞ、と登は心を引き締めた。林は兵庫県地方協力本部勤務(三佐)時代には志願兵のリクルートを担当していた。卓越した交渉術を武器に、リクルート数・日本一を叩き出して、国防大臣賞を授与されている。
「僕は入隊しません。親父から何と言われているかは知りませんが、決して、断じて……」
当然ではないか。あんな汗臭くて、下ネタが蔓延する男社会など地獄である。誰が好き好んで選ぶか。
「分かってるよ。そのことではないんだ。紹介したい人がいるんだ」
林はリビングの扉を開けて、登を手招きした。
ゆったりとしつらえられたリビングには、クリーム色のロングソファとオットマンが備えられている。義母と、そして17歳ぐらいの少女がいた。
義母は青ざめた表情をして、ソファに座っていた。落ち着きなく、少女の顔を窺っている。少女は舞台役者のように、背筋をまっすぐ伸ばして立っている。胸に真っ白な札が下がっていた。留加人だとすぐにわかり、登の顔が強張った。
2年前から、中村政権により「国民純化計画」が推進されている。「誇りある日本人」をスローガンに教育や政治の面から、戦後の「敗北主義」を一掃することを目指している。その過程でやり玉に挙げられたのが、留加人であった。極右政権である中村内閣は、「留加人」を「邪教を信奉する疑似日本人」と定義して、留加人に「白札」の装着を強制した。「白札」は留加人を示すマークであり、装着していなければ、警察による罰金刑が課せられた。最近では、留加人の公民権剝奪、投票権剝奪などの措置も検討中という噂が流れている。
留加人とは、日本最北端の留加県で生まれ、住んでいる人々(約10万人)を指す。しかし本土とは全く異なる、独自の文化を育んできたことでも有名であった。さしずめ、北海道のアイヌや琉球王国に匹敵する人々である。
とりわけ本土の文化と異なる点は、留加大社を崇拝の対象とし、全留加人が信仰を軸に結束していることであった。留加大社は、天皇や人を祀る本土の国家神道とは異なり、「鏡の世」と呼ばれる異世界を神とし、超能力を持った巫女が予言や祈禱を行う。
このため、本土からは常に異端と扱われ、レイシズム団体が行うヘイト・スピーチでは「留加人を殺せ」「皆殺し」と迫害されてきた。
リビングにいる白札の少女を目にした時、片付けていなかった自分の部屋を改めて見た時のような嫌な気持ちで、登の胸はざわついた。
林は、つとめて気楽な口調で、彼女の人物紹介を行った。
「登君。こちらは留加めぐみさんだ。統合幕僚長、つまり君の御父上の意向でこの子を引き取ることになった。これからは君のお世話や家のことを何でもやってくれる。よろしく頼む」
「なぜ?」敵の娘、という言葉が喉元まで達していた。
「詳しいことは防衛機密だから、お教えすることはできない。だが彼女は留加の名家出身の令嬢で君に向いているだろうと幕僚長はおっしゃっている」
「いや、でも」
林は厳しい目つきをして、顔を寄せた。
「統合幕僚長は書類を自宅に持ち帰ったりはされない。彼女から機密漏洩するようなことはまずない。だからその点は安心してくれ」
「そういうことではなくて」
「申し訳ないが、私はすぐに市ヶ谷へ戻らないといけない。失礼する」
義母は言った。
「彼女には、あなたの隣の空き部屋に寝てもらう予定です」
そして、林を見送るためにリビングから立ち去った。
登と、少女の二人だけがリビングに残された。登は、そっと彼女の横顔を覗いた。留加人特有の雪に磨かれたような白肌。顔は細面だ。聡明な感じを与える切れ長の瞳だが、目尻が吊り上がっている。登が覗き込んでいることを知ると、彼女は登の方に体を向け、丁重なお辞儀をした。
「留加めぐみと申します。何卒よろしくお願い申し上げます」
その所作は、実に上品であった。