5th Attack: 父親
輪太郎は、意識がもうろうとしている野々花を抱えて、急いで保健室へ向かった。
「山城、大丈夫か! おいっ!」
幸い、保健室は数学準備室と同じく校舎の一階に位置しているので、野々香を運ぶのに苦労はしなかった。
両手が塞がっていて、保健室の扉を開けることが出来ない。
ドンドンドン!
輪太郎は仕方なく、足で扉を激しく蹴った。
間もなく、白衣をまとった妖艶な女性が顔を出した。保健の茂手木沙希だ。
「あら、鈴原さん」
「茂手木先生! 山城さんが突然倒れて――」
「早く中へ」
茂手木の顔から笑みがさっと消え、保健室の一番奥にあるベッドを指さした。輪太郎は言われたとおり、野々香をベッドへそっと下ろす。その間、茂手木は棚から何かを探して取り出しているようだった。
茂手木は、カーテンで野々香のベッドを覆い隠すと、輪太郎に告げた。
「ちょっと治療をするので、一旦保健室の外に出ておいて貰えますか」
「あの、山城さんは大丈夫なんでしょうか」
「あなた、彼女については何かご存じ?」
「――? なんのことでしょう」
「いえ、なんでもないわ。軽い貧血だと思うから心配しないで」
「分かりました」
どうやら男子禁制らしい。輪太郎は保健室から追い出された。
輪太郎は酷く後悔した。
なんであんなに強い口調で否定してしまったのだろう? 倒れてしまったのは、それだけショックが大きかったと言うことだ。「自転車は訳あって辞めたんだ」とか「僕なんかより他の先生に頼んでみたら?」とか、もっと言い様があっただろうに。
僕はなんてダメな教師なんだ。
新人だから失敗して当然かもしれない。だけど、親はどう思うだろう? 先生は先生だ。経験など関係ない。結果が全てだ。
とにかく校長室へ行こう。全てを話さなければ。
輪太郎は、校長室のドアをノックして部屋に入った。
「失礼します」
「鈴原先生、丁度いいところに来てくれましたな」
校長室には、安中校長ともう一人の男性が立っていた。柄付きシャツにジーパンというとてもラフな格好をしている。
「鈴原先生、紹介しましょうかな。この方は山城野々香さんの父親で、山城桂太さんです。で、山城さん。こちらが例の鈴原輪太郎先生です。先ほどお話ししたように、今年から新に野々香さんの担任をして頂くことになってますな」
「これはこれは。野々香の父親をしている山城桂太です。これからお世話になります」
少し軽薄な口調だがどこか親しみの感じられる声で、桂太は輪太郎に握手を求めてきた。
「山城さんの……父親……」
今日は何もかもが突然だ。
山城野々香と用務員室で鉢合わせてまだ半日も経っていない。もう親御さんが呼び出されて、しかもすでに来ているなんて――あまりにも早すぎる。
「あ、あの、大変なんです。山城さんが、あなたの娘さんが倒れました!」
「倒れた?」
「そうなんです。興奮したと思ったら急に――」
「いつ? 娘は今どこに?」
「ついさっきです。僕が保健室まで運びました。今、茂手木先生が治療しています」
「そうですか……。それを聞いて安心しました」
「今すぐ保健室へ行きましょう!」
「いえ、ここは茂手木先生にお任せすることにします。どうせしばらくはいれてもらえませんよ」
桂太があまりにも落ち着いているので、輪太郎はいても立っても居られなくなった。
輪太郎は、何の前触れも無く唐突に叫んだ。
「大変申し訳ありませんでした!!」
「ど、どうしたんですか急に」
「僕……山城さんのことを傷つけてしまいました。本当になんてお詫びを申し上げたらいいのか……」
そこで輪太郎はまだ何の事情も説明していないことに気がついた。しかし、桂太はそれを察したようで「あぁ、用務員室の一件ですね」と、話し始めた。
「今し方校長先生からお話を伺いましたよ。いやぁ、娘がご迷惑をおかけしました」
怒鳴られることを覚悟していた輪太郎は、予想外の反応に戸惑った。
「娘はロードバイクで通学してまして、用務員室でシャワーを浴びてたんだと思います。用務員さんのご厚意で使わせて貰ってるようです。カギもかけずに不用心だぞと、後でしかっておきますのでご容赦ください」
「あの……その……」
「校長先生から聞いた限りでは、あなたは一言も言い訳をしなかったそうじゃないですか。
普通の人間なら、まずどう事実を隠蔽するか考えそうなものですし、自分にとって都合のいい風に解釈して報告するものです。でも、あなたはそれを一切しなかった。現に今もしていない。
それで十分、誠意は伝わりました。後は娘次第です」
「……本当にすみませんでした」
「あなたは十分信用に足る人物のようです。それに、あなたのことは存じ上げてますよ」
「なんですって?」
「いやぁ、本物の鈴原さんにお会いできるとは光栄です。しかも高校の先生になってるなんてびっくりです。
ツール・ド・おきなわ二連覇、ジャパンカップ優勝、その他数々のアマチュアレースで優勝を収めた、プロすら恐れる史上最強のホビーサイクリスト。人呼んで『ミスター・おきなわ』。ロードバイクをやっていて知らない人はいないですよ」
ツール・ド・おきなわとは、例年十一月の中旬に沖縄本島北部で開催される自転車レースである。別名『ホビーレーサーの甲子園』と呼ばれており、ここで優勝することは日本アマチュアロードサイクリスト史上最高の名誉とされる。
「もう――昔の話です」
「あなたは覚えてないでしょうけど、私もレースで一緒に走ったことがあるんですよ。十年近く前の話です」
「はあ……」
山城野々香の自転車好きは父親の影響だろう。この親にしてこの子あり、ということか。
それにしてもこの人は自分のことをよく知っているな、と輪太郎は思った。こころなしか話していてとても嬉しそうだ。
しかし、輪太郎にとって自転車の話は苦痛の種でしか無かった。これ以上自転車の会話が続かないよう、輪太郎はさりげなく話題を変えた。
「あの、つかぬ事を伺いますが、今日はいつ呼び出されたんですか」
「今日ではありません。校長先生からは元々この時間に来てくださいって、数日前に言われてましたよ」
「数日前から?」
「えぇ。とは言え、私は裁量労働制でしてね。絶対に抜けてはいけない用件が無ければ、当日に呼び出されたとしてもフレキシブルに対応できますよ。むしろうちのかかぁの方が大変です。ハハハ」
そうか。だから山城野々香が倒れて間もないのに、この人は現れたのか。
彼女が倒れたからやって来たのではなく、やって来たらたまたまそのタイミングで倒れたのだ。
もっと言えば、用務員室の出来事も全くの無関係ということになる。
谷村先生、校長は確かに策士だ。何かを企んでる。この僕に何かをさせようとしている。
そのとき、扉が開いて保健の茂手木が校長室に入ってきた。
「あ、山城さん。いらしてたんですね」
「これはこれは茂手木先生。娘がまた倒れたと聞きました。元気になりましたか?」
「えぇ、体調は戻りました。その報告を校長にしようと思って来たところです」
「そうですか。それはよかったです」
「山城さん、保健室に行ってはいかがですかな?」
「分かりました。ちょっと失礼して、娘のところへ行ってきます」
そう言って、桂太は校長室から出て行った。続いて、安中校長も少し野暮用があると言って席を外した。
校長室には、輪太郎と茂手木が残された。