4th Attack: 脅迫
教師生活最初のホームルームが終わり、輪太郎は教室を出た。すれ違う生徒たちと作り笑顔で挨拶を交わしながら職員室へ向かう。
とにかく疲れた。研修、先輩教師の話、ネットに転がっているブログ情報でさんざん話は聞いたり見たりしてきたが、実際にやってみると想像以上に気を遣うことが多い。
それに加えて、山城野々香の一件もある。
彼女については、とにかく最悪の事態は避けられた。まずは校長先生に報告しよう。
「先生」
後ろから、輪太郎を呼び止める小さな声が聞こえた。
「山城さん」
「ちょっとこっちに来て」
不意を突かれ、輪太郎の思考は停止してしまった。言われるがまま野々香の後ろを追う。彼女が連れてきたのは、校舎一階の一番端っこに位置している数学準備室だった。
輪太郎は数学教師なので授業準備にこの部屋を使っている。いかにも普段人が行き交っていなさそうな場所で、案の定、今も人通りは皆無だ。
「先生、ここの鍵持ってますよね」
「あ、あぁ」
促されるままに輪太郎はドアの鍵を開けて中へ入った。野々香がぴしゃりとドアを閉め、鍵をかける。
しまった。
非常にまずい状況に陥ったことに輪太郎は気がついたが、後の祭りだった。
「私の下着見たの、先生でしょ」
「えっ?」
「とぼけたって無駄。用務員室で私の恥ずかしい姿を見たのは、先生だよね?」
野々香は語気を強め、すごい形相で輪太郎に詰め寄った。
嗚呼、二人きりになってしまった。こういう状況はトラブルになりやすいから絶対に避ける、生徒と話すときは周りに人がいるような場所――例えば職員室で話すようにと、研修のときに散々聞かされたのに。
しかし、もうどうすることもできない。どのみち言い逃れはできないし、するつもりもない。校長に報告する前にこんな事態になってしまったのは不覚だが、下手な言い訳をするより、きちんと謝罪をして相応の社会的制裁を自分は受けるべきだろう。
輪太郎は、野々香に向かって深々と頭を下げた。
「申し訳ない!」
「あんな姿を見られて……私……もうお嫁さんに行けない……」
野々香の声はかすれていて、今にも泣き出しそうといった雰囲気でうわずっていた。
「本当にごめん……。謝るだけで許されるとは思っていない。僕のことはどうなっても構わない。もちろん、警察も覚悟している」
「そ、そうなんだ……」
輪太郎の率直な態度に、野々香は少し気圧されているようだった。輪太郎は慎重に言葉を選びつつ、続けた。
「実は、このことはすでに校長先生に話してある。だから、次にするべきことはご両親に報告することだと思う」
「待って!」
唐突に野々香は叫んだ。
「悪いと思ってるなら、なんでも言うこと聞いてくれる? そしたらこのことは黙っておいてあげるから」
「分かった、とは言えない。僕は間違ったことをしたんだ。きちんと両親に報告して、その上で話し合うべきだ」
野々香は少し間を置き、わざとらしく姿勢を正した。そして、輪太郎を指差して言い放った。
「自転車部の顧問になって」
「えっ?」
「自転車部の顧問」
輪太郎は野々香に直視され、狼狽した。彼女の表情は真剣で、ほおが少し紅潮していて、目が輝いていて――怒りや、恥ずかしさ、希望といった複数の感情が複雑に交じり合った表情をしているように見える。
対する輪太郎は、困惑と憔悴の表情を浮かべるしかなかった。ホームルームからの予測不可能な言動もさりながら、それ以上に『自転車』という言葉が輪太郎の心を凍り付かせた。
「自転車部って……この学校にそんな部活は無いよ」
「知ってる。だから私、自転車部を新しく作ろうと思ってるの。もし、先生が顧問になってくれるなら、あのことは黙っといてあげる」
「それ、脅し……?」
「罪滅ぼしに、それくらいしてくれてもいいんじゃない? なんの顧問もしてないんでしょ?」
輪太郎は、心臓の鼓動が急激に早くなっていくのを感じた。
僕は自転車を止めたんだ。もう金輪際関わらないと誓ったんだ。だから、この学校に就職が決まったとき、心からほっとしたんだ。自転車部がないことを知っていたから。
それだと言うのに。
目の前の女の子――山城野々香は、僕をまたあの世界に引きずり込もうとしている!
輪太郎は、彼女の申し出を拒否する理由を頭の中で必死に探しながら、絞り出すように声を出した。
「……山城さんは、なんで自転車部を作りたいの?」
「私、ロードバイクやってるの。高校受験で自転車の強豪校を受験したんだけど、失敗しちゃってさ。それでここに入学したの。自転車部が無いのは知ってたから新しく作ろうとしたんだけど、人が集まらなくて……。だから、今年こそはって意気込んでる訳。新入生も入学してきたし」
「でもさ、自転車って案外人気ないよ。女の子に受けない趣味ランキングで常に上位なの、知らない?」
「そうなの!? マンガやアニメのおかげで滅茶苦茶人気上がってるって思ってた」
「確かに人気は上がった。でもね、じゃぁ実際にやってみようかっていうと、ちょっと壁があるみたいなんだ。理由はしんどそう、脚が太くなりそう、格好が恥ずかしい、ダサいとか。挙げれば切りがない」
「でも、そんなこと関係ない。私は――好きだから」
好き、という感情は怖い。どんな困難をも乗り越える破壊的なパワーを生み出すことができる。だが、それは諸刃の剣であることを輪太郎は知っていた。そのパワーが、周りの人を傷つけることだってあることを。
「ノーアクション、ノーチェンジ! やってみないと分からないじゃない!」
「……行動を起こさない限り、何も変わらない」
「それに、仮に自転車部ができなかったとしても同好会としては活動できるし。先生には自転車を教えて欲しいんだ」
「えっ?」
「先生も好きでしょ? 自転車」
野々香の声がワルツのように弾んでいるように聞こえる。
出会ったばかりだし、自転車をやっていたなんて一言も言ってないし、この子はなんでこんなことが言えるんだ? もしかして――
「だから、山城野々香が命令する。私に自転車を教えなさい、『ミスター・おきなわ』!」
輪太郎は確信した。
やっぱりだ。彼女は知っている。僕が何者かを。僕がどんなサイクリストだったかを。
だけど、僕はとても大切でかけがえのない物を失った。自転車のせいだ。全部自転車のせいなんだ。あんな思いはしたくない。もう二度と。
だからロードバイクから降りた。僕は――
「自転車が嫌いだ」
「え……」
「自転車は嫌いなんだ」
「そんな……」
「君がなんと言おうと、僕は自転車に関わるつもりはない。他をあたってくれ」
野々香は、はっきりと軽蔑と失望の表情を浮かべた。
「先生のバカ! あのこと学校中に言いふらしてやるんだから!」
そう吐き捨てると、数学準備室から逃げるように出て行こうとして――頭が少しぐらついたかと思うと、突然その場に崩れ落ちた。
「や、山城さん!?」