第六章
中野が出勤すると、倉田は詰所の出入り口で腕を組んで壁に背中を預ける形で待っていた。その姿を認めるなり敬礼し、ぎょっとしながら近づくが、倉田は口を真一文字に結んだまま何も言わない。おはようございます、と間抜けな声で中野が続けると、倉田ははぁ、とこれ見よがしに大きなため息をついて顎でついてくるように指示を出した。
「こっちだよ」
倉田が詰所の出入り口を開けると、廊下が伸びており、左手に更衣室がある。中野は張り切るあまりに既に勤務時の制服である青緑のパーカにカーゴパンツ、ミリタリブーツを身に着けていたし、倉田も既に着替えた後だったので更衣室は素通りして詰所の本部に入った。そこは粗末な大学の教室のような作りで、グレーの薄汚れたカーペットにクリーム色の壁で、大きなホワイトボードが壁面に設置されていた。そこには一部地図のようなものやいくつかの覚え書きがされていたが、いずれも筆跡は汚く判別がつかないほどのものばかりだ。部屋には長机が点在しており、パイプ椅子が乱雑にそこら中に散らばっていた。倉田と中野が入室するなり、既に詰所にいた十数名がじろりと中野を見る。足を机に乗せている者や、煙草を吸っている者など、お世辞にも柄が良いとは言えない連中ばかりだった。中野は緊張したまま思わず一礼して、自分より二回り以上小さな倉田の陰に隠れるようにする。
「ブリーフィングだ」
倉田がぶっきらぼうにそう言うと、皆が思い思いにホワイトボードのある壁に顔を向け。倉田はホワイトボードの前に中野と立つと、やはり今朝林からもらった書類をぱらぱらとめくって必要事項を確認し、顔を上げた。中野の件については、既に昨日説明が済んでいた。
「割と平和な日になりそうだ。各自基本巡回の上、三日前にあった抗争で逃げたギャングの頭にだけは目を光らせておけ。昨日説明した通りこのデカブツは俺の担当。様子を見ながらパトロールに徹する」
中野がなぜ第十三区隊に配属されたのかとか、山縣の意志とかに関しては、倉田はわざわざ説明していなかった。ただたまたま戦闘能力の高い男だった、と嘘をついていたので、中野は隊員たちに品定めするように眺められてもじもじとしていた。以上、解散、の合図で皆がばらばらとガレージに向かい、中野もつられてそちらに向かおうとしたが、倉田にがっと腕を掴まれて反動でよろよろと後退した。倉田は中野にその生気のない、深い沼底のような目を向けていた。
「いいか、忘れるなよ」
倉田は低い声で言う。中野ははい、といまいち合点の行かない声を出す。
「余計なことは一切するな。戦闘は可能な限り避けろ。むしろ車から出るな」
「しかしそれでは」
「ごちゃごちゃ言うな、命令だ」
命令だと言われてしまうと、実直な中野ははい、と今度は少し力のある声で答えた。倉田は満足したのかしていないのか頷いて、中野を率いるようにしてガレージに入り、あてがわれた車の運転手に乗り込む。中野も今度ばかりは指示がなくとも助手席に乗り込み、狭苦しそうにそこに座った。シート調整していいぞ、と自分のシートを調整しながら倉田は中野を見ずに言った。
「今日はとりあえず適当に区内を見て回る。ただし何か介入が必要な事態があったら他ペアを呼びつける。お前はどうするんだった?」
「……車からでない、でしたっけ」
中野は必死に思い出して聞く。倉田は肩をすくめて上出来だ、とぼやいた。
「それだけ覚えとけ。林、出るぞ」
『了解』
ヘッドセットから短く、落ち着いた声が聞こえる。
ガレージが開き、第十三区の現実が中野の前に現れた。わらわらとガレージの前に群がる乞食やホームレスを見て、中野は一瞬びっくりすると、それがさも当たり前であるかのような倉田を見てさらにびっくりする。車がその群れを通り過ぎる最中に、あれ、なんですか、と中野は小さな声で聞いた。
「第五区の坊ちゃんは知らねえか」
倉田はアクセルを踏み込んで鼻を鳴す。
「どこもかしこもあんなもんだぞ。検閲と報道規制がひでぇからな。お前が見てる『第十三区』はほんの一部でしかないんだよ」
「あのままでいいんですか?」
「何がだ」
「住んだり食べたり、そういうことに困ってるんじゃないですか。助けてあげないと」
中野の純粋な意見に、倉田は呆れたように中野を一瞥すると、右目だけを細めて独り言ちた。
「…お前本当にめでたい奴だな」
「めでたいですか」
「めでてぇよ。ったく山縣はなんだってお前みたいな奴を…」
車を走らせて大通りを抜け、右折したところで倉田は慌ててブレーキを踏んだ。目の前で、一部の区民が徒党を組んでいたのだ。おい、とヘッドセットに倉田が怒鳴る。話が違うじゃねえか。
『違わないわよ、こっちには何も映ってないんだもの』
林はといえば、オペレータ室で該当する箇所の監視カメラの映像を出して同じように慌てていた。監視カメラには何も映っていない。ただ、誰もいない道路があるだけだ。倉田がチッと舌打ちするのと、それぞれ思い思いの武器――銃火器の類は一切なかったが――を振り上げて、あいつだ、と叫ぶのは同時だった。その声はヘッドセットの向こうの林には届いていなかった。
「賞金首はあいつだ!」
倉田ははっとしてギアを動かすと一気に車を後退させ、乱暴にUターンして彼らから逃げようとするが、後ろを向いてもいないはずの区民たちがいるばかりである。監視カメラがいじられているのはもう明白であった。中野は激しい運転に必死にシートベルトにしがみついていて、何が起きてるんですか、とか細い声を出すばかりだった。
「狙いはお前だ。林、監視カメラは全部死んでんのか」
『他のカメラでは他ペアの車が補足できるから、多分そこだけだと思う。蹴散らせるかしら。近くて3Aブロックの監視カメラは動いてると思う、今度こそ誰もいないわ』
「そっちに向かう」
林の情報を得ると、倉田はハンドルを切って中央分離帯に乗り上げ、そのまま無理矢理アクセルを踏み込んで対向車線に出ると、3Aブロックへと車を走らせる。中野を狙ったゴロツキたちは一瞬車を追いかけようとしたが、まともに追いかけても追いつけないことが分かっていて、ただし何かしらの指示を出してそれぞれが意志を持って離散するのがバックミラーに映っていた。3Aブロックは路地で構成された狭苦しい地帯で、四輪駆動車では車幅もギリギリのところである。何度か角を曲がってブロックへとたどり着くと、再びちらほらと人影を認めて倉田は今度こそ怒りを露わにした。
「あの野郎ッ」
バックしようにも、やはり後ろから挟み込まれている。轢いても構わない、と倉田は思っていたが、それ以前にこれではイタチごっこだ。次の手を逡巡していると、物騒な人間の間から、仮面を被った男が前に進み出た。黒光りしたマスクをつけて、第十三区の人間とは思えない小綺麗な身なりをしている。倉田は眉根を寄せてその男を見ると、誰だお前、と車に備え付けられたスピーカーに短く声を送った。
「貴方もよくご存じかとは思いますが」
マスクをつけた男は朗々と言う。中野はもう既に状況に追いつけずにただ茫然と起きていることを眺めているだけだった。現実味が、ない。
「私の名前はハインリヒ」
そこで倉田が青ざめる。
「目的はその男の抹殺です」
『幸、ちょっと、なんか言ってよ』
ハインリヒと名乗ったマスクの男と、林の声が被る。倉田は煩わしそうにヘッドセットの電源を落とすとそれを中野に投げつけた。
「顔を見せろ」
倉田は食いしばった歯の間からそう絞り出す。マスクの男は何の躊躇もなくマスクに手をかけると、引っ張ってそれを脱ぎ、頭を振って乱れた髪をさっと直してからすっと顔を上げた。金髪に青目の外国人だ。
「…大きくなったね」
マスクの男は倉田を見て目を細め、倉田はただただその姿を眺めるばかりだった。
ハインリヒは、倉田の父親の名前だった。