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ZONES  作者: モリ・トーカ
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第五章

 林の婚約者の名前は東堂と言った。彼の墓は中央区にある。政府に従事していた者は、家族から特別な要望がない限りそこに埋葬されていた。倉田がその墓を訪れるのは初めてのことだった。


 東堂の骨が埋葬されている墓には、まだ添えられてそれほど時間が経っていないのであろう仏花が供えられていた。それでも一週間くらいは経っているのだろうか、徐々に枯れはじめているものもある。林が度々ここを訪れることがあったから、それはきっと林か家族のどちらかが供えたものなのだろう。林がこんなにも地味な仏花を供えるとも思えない、と思ってから、自分がどうでもいいことを考えていることに気づいた。東堂の墓に来たのは、中野の正式な配属を翌日に控えた日だった。覚悟がいる、と言っておきながら、倉田の中でまだ中野を迎え入れる覚悟など出来ていなかった。それで自然と足を向けたのが東堂の墓だ。七年前、数百人の人間を殺したと思っていたが、東堂のことだけは鮮明に覚えていた。その顔も、髪型も、死に際もすべて覚えていた。


 林も考えていたことは同じだった。倉田を見つけて、林はびっくりして墓に供えるには派手過ぎるような花束を取り落としそうになった。ピンヒールのかつかつという音で倉田は顔を上げて、ぎょっとして林を見た。二人はしばらくかなりの距離を開けて、お互いの存在に今にも逃走したい気持ちでいっぱいになっていた。先に近づいたのは林のほうだった。


「…珍しいわね」


 そう聞くのが限界だった。倉田は林の持っていた花束を見ると、先ほどの自分の思考が正しかったことを思って、それかたまた自分の思考が肝心なところをわざと避けていることに嫌気がさす思いだった。倉田は東堂の墓に向き直って少し目線を落とすと、何も言わなかった。林は花束と一緒に持ってきた桶を地面に置くと、倉田などそこにいないかのようにせっせと供えられている仏花を処理して自分の花束に入れ替えた。それから柄杓を持って、墓に水をかけ始める。


「……わたしはね、七年前とは事情が違うと思うの」


 水をかけながら、林は恐る恐る言った。倉田の顔を見ることはできなかったし、柄杓を持っている手が震えだすのが分かった。林もまた覚悟など出来ていなかったから、ここに来たのだ。倉田は少し目を上げて、睨むように林を見た。


「あんただってわたしだって、成長したと思いたいのよ。あんたはさておいて、わたしは七年前にはただの非力な学生だったわけだし。今回はわたしだって能動的に関われるのよ。それだけでも違いが生まれると思わない?」


 林は独り言のように続けると、空になった桶に柄杓を戻して倉田を見た。ジャケットとシャツにタイトスカート、といういつもの出で立ちではなく、白いシャツに青いスキニージーンズを履いて、ベージュのロングカーディガンを羽織っていた。仕事のときでも林はよく大ぶりのピアスを身に着けるが、今日は派手なフープだった。倉田は林の私服を見ることが何度もあったが、相変わらず派手だな、と思う。林は結局倉田を見ることなく俯いた。


「きっと大丈夫とか、今度こそ上手くいくとか、そう思ってるわけじゃないの。ただわたしたちに覚悟があったってなくったって、あの子は配属されてしまうし、山縣が手を緩めるわけじゃないのよ」


 倉田は尚も何も言わずに林を見ていた。要領を得るような得ないような話だった。林は居心地が悪そうに身じろぎをしていたが、喋るのをやめたら終わりだとばかりに話を続けた。


「考えたの。定型文みたいだけど。どんなにつらくても憎くても過去は変えられないの。でも今をどうにかする力はわたしたちにしかない」

「…カウンセラーにでも言われたのか」

「違うわよ」


 そこでようやく林は顔を上げて、どんよりとした倉田の顔を見て少し後悔した。林の好きな六センチのヒールを履くと、林は倉田より少し背が高くなる。視線を合わせるには十分だった。倉田は頭を振った。


「俺はお前みたいに物分かりがよくねえんだよ」

「わたしだって分かって言ってるんじゃないわよ。そうするしかないって話」


 お互い苛立たしそうに会話をする。倉田はジーンズのポケットに突っ込んでいた片手を出して頭を掻いた。都合の悪いことに出くわすと、いつも頭を掻く、と林は思っていた。林の中でふつふつとした小さな怒りに火が灯った。


「そんなんじゃ、彼を守れるわけないでしょ」


 倉田は林と目を合わせられなかった。分かっていることばかり言う、と思う。そして自身の覚悟のなさに自分で呆れ返る。でも、と倉田は言い訳がましく口を開いた。


「そもそもあんなことがなければ、あいつがこんな目に遭うこともなかっただろ」

「だから言ってるじゃない、過ぎたことはもうどうにもなんないのよ」


 林はいよいよ声を荒げた。


「いい加減にして。あんたがそんなんじゃ、守れるものも守れないわよ。山縣の思うつぼじゃない。あいつはあんたがそういう顔をしてるところが見たいのよ」


 倉田はそれでも林を見ない。林はいっそ手近な柄杓を投げつけてやろうかとすら思っていた。その代わり、林は一歩前に進み出ると倉田のTシャツの胸倉を掴んで顔を寄せた。倉田は少し驚いて林をまじまじと見た。


「あんたがいつまでも過去のことでうじうじしてるのはいっそ構わないわよ。でも前を向くのをやめるのはわたしが許さない」


 林は低い声でそう言うと、ぱっと手を離して桶と古い仏花を抱えると、ヒールを鳴らしてさっさと踵を返して墓を出ていった。離された反動でよろめいた倉田はただ茫然とそこに残されたまま、再び東堂の墓を見やる。


「あいつ、強いよなあ」


 倉田は東堂に話しかけるように呟くと、角を曲がって見えなくなりそうになっていた林の後を早足で追いかける。林が桶を片付けているところで足を止めると、林は倉田を見て動きを止めた。覚悟はできたの、と林はぞんざいな口調で聞く。


「…これ以上無駄には殺させないって、決めたんだ」


 倉田がぼそりと呟くと、林は腕を組んでその場に仁王立ちになった。実際、七年前の暴動以降、倉田の指揮する第十三区隊での死傷者数は年々低下していく一方だった。元はと言えば一日に一人が死んでもおかしくないような職場だったが、倉田が必要以上に隊員の死を嫌っていたのは明らかだった。倉田は顔を上げて、その青く深い目で林を見る。


「今は今のことだけ考える、それでいいだろ」


 林はどこか腑に落ちない様子だったが、それでも逡巡してから頷いた。倉田も返事の代わりに頷いて、林に簡素な挨拶をしてさっさとその場を去る。その足で次に向かったのは、藤本の元だった。藤本は突然の来訪に心底驚いた顔をしていたが、すぐに倉田に椅子を勧める。倉田は椅子には座らずに、俯いて中野に関する事の顛末を報告した。藤本はしばらく真面目に聞き入っていたが、途中から片手を額に当てて深刻な表情になった。まずいことになった、と思う。その青年が死んでしまえば、倉田はもう間違いなく自分の命を投げ捨てるだろう。藤本が口を開きかけると、倉田はそれを制して先に言葉を発した。


「カウンセリングは行かない。これが治せるとも思ってない。でも、最低限のサポートは頼みたいと思って来た」


 倉田の言葉に、藤本は眉根を寄せる。そんな言葉が出てくるとは思わなかったのだ。それでも、藤本は少し安堵して額に当てていた手を離した。何があったのかは知らないが、今までで一番まともな言葉が聞けた、と思う。


「出来ることはするよ」


 藤本が簡潔にそう伝えると、倉田はどこか満足そうになって診察室から出ていった。取り残された藤本はといえば、聞いた話を反芻しながら自分に何が出来るのかを考える。恐らく、精神科医である藤本に出来るのは、倉田の揺らぎがちな頭と心の振れ幅を狭くしてやることくらいだった。大きくネガティブな方に振れるようなら、それをなんとか押し戻してやればいい。そしてそれが、その中野という青年を守ることに繋がるならば、自身もこの一件の一端を担うことになる。


 藤本は大きくため息をつくと、次の患者の予約を確認するためにナースに声をかけた。

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