第三章
十三区隊の決まりとして、ほとんどの場合隊の構成員はその地区の出身者から成り立つ。第一区隊ならば第一区出身の人間が、第十三区隊ならば第十三区の人間がという具合である。とはいえ、人数調整や能力などに応じてそのルールが適用されない場合もあったが、それでも自身の出身地区から二区以上上ないし下の隊に配属されることはまずない。中野純平は第五区の出身であったので、順当に配属されるとすれば第三区から第七区までのどこかであった。
ただ、中野は異例の第十三区隊に配属されることになった。
警察庁長官直々に呼び出しを受けたとき、倉田はもう既に事態を理解していた。林からも聞いていた話だ。近年稀にみる有能な人材が見つかったから、是非第十三区の治安維持に役立ててほしい、という話が出たのだ。
「決定ではないけれど」
林は倉田に言った。そもそも、この議論に倉田が含まれていないことのほうが問題だった。仮にも十三区隊の総隊長として、隊員の配属事情には必ず関わることになっていたが、今回の話はその水面下で進められたことだった。倉田は何度か異議を唱えようと上に掛け合ったが、誰も倉田を議論に迎え入れようとはしなかった。それで、ほとんどの話は林から又聞きしていた。
「中野純平、二十二歳。出身は第五区。実技試験は申し分なしのトップクラスだけれど、筆記試験で卒業試験に落ちてるの」
初めて倉田がその話を聞いたとき、林はそう説明した。本来ならば、実技あるいは筆記のどちらかで卒業試験に落第すれば、警察学校を卒業することはかなわず留年になるはずだった。それでも中野は警察庁長官のお墨付きをもらった、ということで例外的に卒業を許可され、それでいて第五区の出身でありながら、第十三区隊に入隊することになったのだ。倉田ははじめは驚いた顔で話を聞いていたが、だんだんと眉根を寄せると最後には林を睨みつけていた。睨みつけたいのは林ではなく、この一連の話から自身を除外した上層部の人間たちだった。
「意図が分からない」
「それはわたしも同じよ」
林は困ったようにそう言って、自身が得た情報の載っている書類を倉田に向けて差し出すと、肩を落として目を背けた。倉田は書類にざっくりと目を通すと、突き返すようにそれを放り出して舌打ちをした。直談判してくる、と林を置いて警察庁へ向かったものの、結局上層部の人間とは面会できないまま日が過ぎた。ようやく呼び出しを食らったとき、倉田は中野が正式に第十三区隊に配属されることになったのだと悟った。
警察庁でも最上階にある長官の部屋で、倉田は山縣厚助と向き合っていた。山縣こそが警察庁の長官で、年のころは六十に差し掛かろうとしている壮年の男性だった。十三区隊を率いていたこともあり、小柄で華奢な倉田に比べて肩幅が広くしっかりとした体つきをしていて、今でもその眼は現役であるということを示すように爛々と光っていた。
「まあ、座りたまえ」
倉田が入室すると、山縣は極めて満足そうな顔で部屋に配置された黒い革張りのソファを勧めたが、倉田は敬礼も挨拶もせずにその場に仁王立ちしたままだった。説明してくださいますか、と低い声で言う。山縣は倉田の顔を見るとソファには座らずガラス張りの窓に近寄り、そこから見える東京の景色を見渡した。各区の間には様々な形の壁や柵が設けられており、簡単には行き来が出来ない仕組みになっていた。
「もう七年も前になる」
山縣は倉田を見ずに、それでいて芝居がかった大声で言った。倉田はぴくりと目を引きつらせる。それでも黙ったまま次の言葉を待った。
「あの日、私の妻は暴動に巻き込まれて死んだ」
山縣はそこで初めて倉田を振り返ると、それまでの余裕に満ちた表情とは打って変わって、凶悪な犯罪者でも目の前にしたかのような顔になっていた。眉間にしわを刻み、目を細めてフレームレスの眼鏡の奥から倉田を睨んでいる。倉田は少し動揺したが、視線を外したら負けだ、と思った。
「誰のせいでそうなったかは、君も重々承知のはずだ」
もはや言い返せなかった。心拍数が上がって、手に汗をかき始める。まずい、と思っても、山縣の前で醜態を晒すわけにはいかない。ましてやこの状況でだ。倉田は精一杯何でもない顔を取り繕ったが、少しずつ息苦しくなっていくのは確かだった。たとえば、と山縣は再び大きな声で言った。
「たとえば誰かが、もう一度君のために死ぬとして、君はそれに耐えられるのかね」
「…要領を得ません」
倉田はなんとかそれだけ絞り出した。山縣は険しい顔を緩め、勝ち誇ったように笑う。もう倉田が強がりきれていないことを、山縣は分かっていた。その代わり、デスクに戻ると机の上の書類を取り上げ、倉田に歩み寄ってそれを差し出した。大きな証明写真つきの、中野の履歴書だ。倉田は重い腕を上げてその書類を受け取ると、初めて中野の顔を見る。黒髪を短く切りそろえ、大きな黒い目をしている、いかにも実直そうな青年だった。警察学校を卒業できた事由が記録されている以外は何の変哲もない履歴書だ。倉田は再び山縣を見た。
「彼は優秀な人材だよ。第十三区隊でも十分やっていけるだろう」
「規則違反ではないですか」
「ではその規則は、誰が作ると思う?」
山縣は笑う。倉田の中で、焦りが少しずつ怒りに変わっていった。状況が飲み込めてきた気がした。この男は、この罪のない青年を利用するつもりなのだ。
「私から言えることはひとつだ。第十三区は危険な勤務地だ。精々彼を守りたまえ」
それだけ言うと、山縣は鬱陶しそうに倉田に部屋を出ていくように命じたが、倉田は頑として動かなかった。何が目的なのですか、と食い下がる。山縣はデスクに座って既に違う仕事を始めようとしていて、部屋を出ない倉田をじろりと見た。
「君ほどの人間が、それを理解できないとも思わないがね」
山縣は倉田から視線を外し、次の仕事に取り掛かりながら言う。倉田はぐしゃりと音を立てて中野の履歴書を握りつぶすと、退室の一言もなく乱暴に扉を開いて長官の部屋を去った。そうだ、理解できないわけではない。理解したくないだけだ。
倉田はオペレータ室によると、勤務中だった林を乱暴に引っ張って開いていた会議室に押し込んだ。ヘッドセットをもぎ取られて林は何よ、と抗議の声を上げたが、ぐしゃぐしゃになった履歴書を差し出されて、恐る恐るそれを掴むと証明写真を見る。倉田と履歴書を代わる代わる見たが、林にはまだ何が何だか分からなかった。配属が決まったの? と問いかけると、怒りのあまり真っ赤になっていた倉田が頷いた。
「規則違反じゃない」
「その規則は誰が作ると思う?」
倉田は苦虫でも噛み潰したかのような顔で、長官の言葉を繰り返した。林は右手を口に当てて、ただ驚くばかりだった。こんなことは林がオペレータ室に配属されてから一度もなかったし、過去にもなかったはずだ。
「どうして彼が?」
「そいつじゃなくても構わないんだろ。たまたま実技がずば抜けたっていう理由があったからそいつになっただけなんだ」
「何のために?」
林が矢継ぎ早に聞くと、倉田は急にしんと静まり返って唇を噛んだ。七年前。それだけ言うと、林も心なしか顔が白くなった。
「山縣は、七年前に自分の嫁が暴動で死んだのを俺のせいだと思ってる」
そしてそれは否定できない、と倉田は思った。
「多分、あいつは俺の目の前でこいつを殺すつもりだ」
「どうして」
林は聞いたが、倉田は答えなかった。正直なところ、林も聞かずとも理由は分かっていた。林には山縣の気持ちが分かるような気がしていた。これは意趣返しだ。大切な人間を失った男の、倉田に対する。
「殺させるもんか」
倉田は独り言のように言った。殺させるもんか。何度か繰り返して、深く淀んだ目に少しずつ光を取り戻していく。
「俺が死んでも、こいつは殺させない」
倉田は強い意志に満ちた目で林を見る。林はもう一度折れ曲がった証明写真に目をやると、眉根を下げて今後のことを思った。