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ZONES  作者: モリ・トーカ
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第三十一章

 十一月十四日は程なくして訪れた。山縣の悪行が露呈して以降、彼の処分はすぐには決まらなかった。警察庁はおろか、政府までもが否認を決め込んでいたが、十三区の世論は劇的に変化していた。第十三区もまた、嵐の前の静けさを呈していた。ホームレスや乞食たちが十三区隊に群がることはなくなり、中野を狙っていた暴徒たちも軒並み消え去っていた。大きな事件はただのひとつとして起きることがなく、第十三区隊に死傷者がでることもなかった。皆、それどころではなかったのだ。彼らの関心はもっぱら山縣の起こした一連の事件にあった。ただ、彼らの関心は誰も知らない第十三区隊の隊員が抹殺されようとしていたことよりも、彼の私利私欲のために『利用された』という事実と、ただただ脅迫のために殺害された移民であるリサにあった。第十三区には、どこか一体感が生まれつつあった。


 そしてそれを、サチが見逃すはずもなかった。テレビ局を乗っ取ったサチは、弟との約束を果たした後、すぐに放送をも乗っ取った。


「すべての都民に告ぐ」


 サチは公共放送を通じて、そう高らかに演説を始めた。


「事情は今見てもらった通りだ。警察庁のトップは腐敗している。彼らは移民を不当に扱っただけでなく、彼らの個人的な目的のためだけに何人もの罪のない人々を殺した。これがまかり通って良いのだろうか」


 サチは放送室のマイクの前で、怯える職員たちの間で朗々と話を続けた。頭の中にあるのは、エミールとリサのことだった。この戦いはサチにとって、AXEN(アクセン)としての大義名分のためという側面もあったが、パーソナルな目的も多分に含んでいた。エミールとリサの仇を打つには、山縣を何らかの方法で苦しめなければならない。そして、最終的には。


 彼に死を。


「我がAXENの家族たちよ」


 サチはマイクを握りしめる。


「一度アタシを裏切ったことは不問にしてやる。だが今度こそ、犠牲になったアタシたちの家族のために戦え」


 その言葉は、十三区中に響いていた。テレビを持たない第十三区の人々も、電気屋やテレビを持つ知人の家に集い、その演説を聞いていた。サチの言葉はしっかりと都民の間に浸透し、AXENのメンバーにも届いていた。映像のない放送だったが、サチは拳を握って最後に言い放つ。




「十一月十五日をもう一度」




* * *




『お兄ちゃん』


 中野は久しぶりに戻った自室から、実家に電話をかけていた。第十三区隊に配属されてから、家族に心配をかけるまいと一度も連絡を取っていなかったのだが、電話をかけてすぐに受話器を取ったのは妹だった。妹はそれが中野からの電話だと分かるや否や大きな声を出し、それから『お母さん!』と叫びながら電話をスピーカーフォンに切り替えた様子だった。「久しぶり」、と言うのが中野には精一杯だった。


『テレビを見たの。何が起きてるの? お兄ちゃんは大丈夫なの?』


 妹は矢継ぎ早に質問を繰り出したが、中野はどうにも答えることができなかった。少なくとも今、自分は『大丈夫』かもしれないが、もっと大きなことが起きようとしている。中野の沈黙に妹は同じように沈黙すると、中野の言葉を辛抱強く待つ。中野は現実感の薄い状況をどう説明したものか散々思案してから、すべてを説明するのは無理だ、という結論に達していた。ただ、伝えなければならないことはある。


「今、大変なんだ。俺もこれから、戦わなくちゃいけない」


 中野が不器用に言うと、妹は黙り込んだままだった。妹がどんな表情で電話の前に立っているのか、そして、恐らく既に妹の横にいるであろう母親がどんな顔をしているのか、中野には手に取るように分かっていた。どちらも沈鬱とした表情をしているに違いない。母親はきっと、妹の肩を抱いているだろう。


「でもね、絶対に帰るよ」


 中野はたっぷりと時間を置いてから、努めて明るい声で言った。妹も母親もしばらく黙り続けていたが、妹は決心したようにため息をつくと、受話器の向こうで笑った。少なくとも、中野はそう思った。


「約束だよ」




* * *




 林は藤堂の墓を訪れていた。相変わらずメイクもせず、ヘアセットもろくにしないまま、よれたスーツとタイトスカートに身を包んでいた。仏花は持っておらず、藤堂の墓に供えられていた仏花は既に枯れ果てていた。桶も柄杓も今はない。ただ、林はどうしてもこの場所を訪れなければいけないような気がしていた。明日は藤堂の命日だ。そして恐らく、七年ぶりに決戦の日となる。林は墓石に刻まれた『藤堂』の文字をじっと見つめながら、何も言わずにそこに立っていた。空は憎たらしいくらいの晴天だった。


「明日であなたがいなくなって、もう八年になるわ」


 しばらくしてから、林はゆっくりと口を開いた。まるでそこに藤堂が座っているかのような語り口だった。実際、林の目の前にはぼんやりとでも藤堂の存在が残っているように感じていた。きっと彼はまだ成仏していない、と林はなぜか思った。神や仏を信じる人間ではなかったが、その時ばかりは魂の存在を信じても良い、と思っていた。


「あなたのことは愛してた。結婚して、幸せな家庭を築くつもりだった。あなたが守ったあの男のこともずっと許せなかったわ。どうしてあいつじゃなくて、あなたが死んでしまったのかって」


 林はそこで目を伏せた。


「でもね、わかったの」


 伏せられた目が上がったとき、林の表情はそれまでの無感情なものではなくなっていた。眉には意志が感じられ、目には力強さが戻っていた。しっかりと両足を肩幅に開いて、林は藤堂の墓を見据える。化粧も髪もおろそかになっていたが、林は数日前より若さを取り戻したようだった。


「あなたはもういない。あなたにはもう会えないの。あなたと幸せな家庭を築くことはもうできないし、わたしにあなたを幸せにしてあげることはもうできない」


 林はそう続けて、涙を堪える。次の言葉は、林がいつまでも言いそびれていたことだった。


「今までありがとう。さようなら」




* * *




 サチの件があった後も、藤本は幸か不幸か医師を続けることができていた。藤本がサチの逃亡に手を貸したことについては、誰も気づいていなかった。それからも同じ部屋で何もなかったかのように患者を迎え、所定の措置を取り、見送る。その繰り返しの中で、再びなんの前触れもなく訪れてきたのは倉田だった。最後に会ったときよりも幾分か痩せて見えていたが、深く青い目は藤本が今まで見てきた彼の目とは明らかに違っていた。倉田が、生きている。藤本は思う。今までは生きた屍のようだった彼は、診察室に入るとどっかりといつもの椅子に座って、「ありがとう」と短く礼を言った。その間も、藤本から目を逸らすことはなかった。


「露見しなくてよかった」

「別にしたところで心の準備はできてたけどな」


 藤本は安請け合いをしながら、パソコンに向けていた身体を倉田の方に向ける。倉田は前屈みの体勢で両手を組んでいた。藤本は逆に椅子に深く沈み込むと、背もたれをぎしりと言わせながら背中を椅子に預けていた。


「最後の挨拶にきた」


 倉田は藤本の目を見据えて、はっきりと言った。今までならばその言葉は不穏なものにしか思えなかったが、藤本は不思議とその言葉を肯定的に受け取っていた。藤本は目だけで倉田に話の続きを促そうとする。倉田はそれを察して、一度閉じた薄い唇を再び開いた。


「明日、全てが終わるよ。山縣の話だけじゃない」


 倉田はそこで一度だけ目を伏せて、再び双眸を藤本に向ける。


「七年前のあの日を、俺たちは終わらせるから」


 そう告げる倉田の目には、青い炎が揺れているかのようだった。

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