第二章
七年前の十一月十五日のことである。
移民たちの人権を求める過激派組織AXENが、大規模な暴動を起こしたことがあった。第十三区の移民のみならず、第一区から第十二区までの区画で不当な労働を強いられていた移民たちのほとんど全員が反旗を翻し、政府機関の集中する中央区と衝突したのだ。当時倉田は若くして十三区隊の副隊長の任についており、新山という総隊長の下で行動していた。その新山がAXENによって殺害されたのがすべての始まりだった。東京で最も武力を持っている警備隊である十三区隊の総隊長を抑えることができれば、暴動の鎮圧が遅くなると踏んでのことである。法律上、十三区隊の総隊長が死亡した際は副隊長にすべての権限が移行することになっていたが、倉田は生憎副隊長になったばかりで、千人規模の団体を動かすほどの経験がなかった。結局暴動は三日に及び、民間人も含める五百人以上の死者が出た。
あれはすべて自分のせいだった、と倉田は自戒する。
死者の中には林の婚約者も含まれていた。この売国奴が、と倉田に向けられた銃弾を、左胸に受け止めたのが彼だった。それも自分のせいだと思っていたし、林も長いことそれを倉田のせいだと思っていた。だから、家族の反対を押し切り警察学校に進んだのだ。オペレータ室に配属された林はみるみるうちに出世し、室長に就任すると倉田にほど近い立場になった。ただ、そこに上り詰めた頃には疑念が浮かんでいた。倉田がなぜあのときあれほどまでに手ひどい失敗をしたのか、それが分かったからだった。自分であれ、突然同じ状況に持ち込まれれば似たような結果を生んでしまうだろう、と思った。それで倉田に対する殺意にも似た復讐心はどんどん薄れていったが、それでも許しきれたわけではなかった。ひとつだけ忘れられないのは、暴動の直後に身体的な問題で入院した衰弱した倉田の姿だった。婚約者が彼を守って死んだと知って、いち早く病院に駆けつけて胸倉でも掴んでやろうかとおもったとき、倉田は死んでいるのではないかと疑うほど微動だにせず病院のベッドに横たわっていた。瞬きもろくにせず、目はただ天井を見つめていて、頬に血のにじんだガーゼをつけられていた。罵詈雑言の限りを尽くして罵っても、倉田は林のことを見ることもなかった。反応を得られるまで、と毎日通い詰めたが、倉田はいつも同じ姿で、食事も取っていないのだろう、ただただ痩せてしまって、点滴の数が増えているだけだった。純粋に、憐れんでしまったのかもしれない。
倉田は中央区にある大病院の診察室にいた。診察室の外には心療内科、と掲げられていた。そこに辿り着くたびに、倉田は踵を返して帰ってしまおうと思うのだが、主治医の藤本行彦はそれを知っていて、いつも診察室の外で待っていた。よう、と気だるげな動作で挨拶をしてくる。それで仕方なく診察室に入る。最後の診察から何かありましたか、みたいなテンプレートの質問を藤本がすることはなかった。もうすぐだな、と言っただけだった。十月の半ばのことだった。
「いい加減カウンセリングぐらい行ってほしいんだけどなあ。七年もその状態だぞ。薬で治るもんじゃねえって何度言ったら分かるんだよ」
藤本は口悪くそうまくしたてると倉田のほうをちらりと見たが、当の倉田は微動だにせず足を組んでその膝に頬杖をつき、顔だけで「さっさと終わらせろ」と言っていた。藤本はため息をついてパソコンを操作しながら、次の処方を作成していく。診察は二週間ごとだった。倉田はそれを酷く嫌がっていたが、大量の薬を倉田に所持させるわけにはいかなかった。藤本はこれ見よがしにため息をついて、印刷ボタンを押すと倉田に向き直った。
「お前はずっとそのままでいいのか」
「今更幸せになれってか?」
倉田は頬杖をついたまま人相の悪い顔で藤本を見る。そういう意味じゃねえんだよ、と藤本は伸びをした。
「立派な病気なんだよ。医者である俺がそれを治そうとして何が悪いんだよ」
「俺が一度だって治してほしいって言ったことがあるか? お前は俺が生活できるようにしてくれりゃいいんだよ」
「相変わらず性格悪ィな、モテねえだろ」
藤本は目を剥いて倉田から目を逸らすと、ハァ、と再度大きなため息をつく。倉田はもう話が終わったとばかりに席を立とうとしていて、藤本は男性にしては小柄なその後ろ姿にダメもとで声をかけた。カウンセリングの予定は取っとくからな。
七年前のあの日から、倉田は満足に眠ることができていなかった。眠れば夢を見る。あの日を再現したような夢か、大量の顔も知らぬ死者に責められる夢か、そうでなければ積み重なった死体の山の上に立っている自分か。薬の力を借りて眠れば時が経つにつれ確かに夢を見る頻度は減っていったが、それでもたまに凄惨な夢に目を覚まして呼吸ができなくなる。当時はただの銃声にすら怯えるほどで、一年ほど休職していた時期もあった。それもこれもなんとか薬で抑え込んでいたが、それでも藤本の言う通り、倉田の精神状態が元に戻ることはなかった。たまに無性に死にたくなって、勤務中に自暴自棄になって病院送りになったことも何度もある。だが、いつでも倉田の自殺未遂はすんでのところで誰かに妨害された。七年もすれば、もう挑戦しようとも思わなくなっていた。
あの日を乗り越えられることはないし、乗り越えるなど、自分が願っていいことではない。
倉田はそう強く思っていたし、林もそれは同様だった。その夜、いつもの惰性で二人で居酒屋に集ってみたものの、どちらの顔も暗く淀んでいた。十月が来ると、倉田も林も心がどこかに行ってしまったかのような気分になる。あの日をもう一度カレンダーで確認するまで、猶予はあと少ししかないのだ。ましてや今では追悼セレモニーが行われる。林は汗をかいた生ビールのジョッキを撫でると、自分の手元だけを見て言った。
「わかってるのにね」
林は喧騒の中で呟く。倉田は火のついた煙草をくわえたまま、ちらりとそちらを見やった。
「いい加減に起きてしまったことは受け入れて、ただ今を生きなさい、ってカウンセラーに言われたわ」
ほとんど独り言であった。林は倉田と異なり、真面目にカウンセリングに通っている。ただ、倉田が彼女を知ってからの数年間、彼女の精神状態もまた良くなっているようには思えなかった。倉田はふんと鼻で笑う。
「教科書通り、って感じだな」
「この人ふざけてんのかしら、って思うわよ」
「気分が悪くなるだけだろ、そんなの。よく通ってるよな」
「仕方ないじゃない。ほかにすがるものがあるって言うの?」
林はマスカラとエクステンションでばさばさになった睫毛を上げて倉田を見た。倉田は煙草を指の間に挟んで、この話題が気にくわないとばかりに貧乏ゆすりをしている。林は手を伸ばしてテーブル越しにその貧乏ゆすりをやめさせた。倉田はさも不快そうに座り直して、長椅子の上で胡坐をかく。煙草をもう一度大きく吸って、倉田は煙を吐き出した。
「すがる権利もないんだよ、俺には」
そうぼやくと、何となく気分が悪くなってくる。頭をかいて湧き上がりそうな不安を何とか振りほどこうとするが、結局観念してポケットから薬を出してさっさと口に入れる。一錠以上一気に飲むな、と藤本に怒られたことを思い出す。とはいえ、従う気も毛頭なかった。林はそんな倉田の動作を一部始終観察するように見つめると、ジョッキの残りを一気に飲み干した。今日はこの辺でお開きにしたほうが良さそうだ、と思ったのだ。
居酒屋を出ると、冷たい外気が二人を包む。薄手のトレンチコートに身を包んだ林は、じゃあ、また明日、と小さく言って自身の家がある方へと帰っていった。取り残された倉田は、その後ろ姿を見送りながら、『明日』という言葉について考える。それは倉田がいつだって恐れていたものだった。
それならいっそ、明日が来なければいい、と思う。




