第二十八章
根津の下で働いている林に、自由はなかった。仕事は常に根津の部下と行い、休憩時にも必ず根津の息のかかった人間が同席した。根津は当たり前のように、林の通勤にも見張りをつけた。八時半には、林のマンションのインターフォンが鳴り、開けば根津の部下が待っている。帰宅するときも同様で、オペレータ室から林のマンションまで、必ず誰かがついてきた。「安全のためです」と根津も根津の部下も息を吐くように嘘をついたが、林は息が詰まりそうだった。唯一くつろげるのは自宅の中だったが、AXENから渡されていた通信が警察庁に傍受されない、安全な端末はとっくに取り上げられていた。自宅の中ですら、監視カメラがあってもおかしくはない、と林は思っていた。ただ、むしろ、と林は思う。物的証拠を残してもらえれば、それはこちらの利になる。ならば監視カメラの一つや二つ、仕掛けてほしいものだとすら思うのだ。根津の部下と会話のない帰路を終えて、ドアを閉めるところまで確認されると、林は通勤用の鞄をぼとりとその場に落として、玄関でしゃがみ込んだ。こんな毎日は息が詰まる。倉田や中野がどうしているかも、林には何もわからない。
鞄をそのままに、林はピンヒールを適当に脱ぎ散らかすと部屋に上がった。廊下を通り、リビングのドアを開く。部屋は真っ暗で、カーテンも締め切ったままだった。ここ数日、林はカーテンを開けていない。人目が気になるようになった、というのもあったし、カーテンを開けて朝日を堪能する、という贅沢も今の自分には許されていない気がしていたのだ。リビングは通過してダイニングからキッチンに入り、冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを出す。その三分の一を一気に飲み干すと、林は何気なくダイニングの向こうに広がるリビングを見た。
そしてぎょっとする。
リビングのローテーブルの傍に人影があったのだ。林は驚いた瞬間に飲んでいた水を零したが、すぐにしゃがんでキッチンの裏に隠れる。一体何事だろうか。根津が誰か送り込んできたのだろうか。自分は、見せしめに殺されるのだろうか。様々な思考が一気に林の頭を駆け巡り、そのどれもが林の不安を掻き立てた。当然、自分が死ねば倉田に相当な打撃を与えることはできる。おかしくもない話だ、と思ってからもう一度人影を確認しようとキッチンから頭を出そうとすると、「何してんだ」と聞き覚えのある声が降ってきた。顔を上げると、倉田が立っている。黒いパーカを頭から被り、黒いジーンズを履いて黒子のような格好だった。
「なにしてんのよ」
相手が倉田だと認識すると同時に、林は甲高い声を上げた。どうしてここにいるの。どうやって入ってきたの。こんなことしてていいの。次から次へと質問が口を飛び出し、倉田は鬱陶しそうにパーカのフードを降ろすと林の目の前に鍵をぶら下げてみせる。それは林のマンションの鍵だったが、林が持っている鍵と異なるのは、ブランド物のストラップがついていないところだった。そういえば、と林は思い出す。
「合鍵」
倉田は短く言う。林は倉田に合鍵を渡したことがあった。もう何年も前の話だ。倉田が今よりももっと精神的に不安定だった頃、そしてまだ林が倉田にわずかながらでも幻想を抱いていた頃に、「何かあったら家に来なさい」と渡したものだ。そしてそれは以来一度も使われたことがなかったが、どうやら今日はじめて日の目を見たらしい。林はキッチンの床で胸を撫で下ろすと、「入ってきた時点で声かけなさいよ」といつもの調子を取り戻した。
「んなことはどうでもいいんだよ」
倉田はその場で林に手を差し出すと、ん、と唸るような声を出した。林はその骨ばった手を握ってなんとか抜けた腰で立ち上がり、二人でリビングに向かってようやく電気を点ける。それはあまりにも眩しくて、林は少し目を細めた。
「あの女はテレビ局を乗っ取る気だ」
「あなたのお姉さん?」
「そう」
ミネラルウォーターのボトルを握ったままローテーブルについた林は、何か飲み物を出さなくては、と思う。思ってしまってから、それがあまりにも馬鹿げた発想であることに気づいて少し自分が嫌になった。今はそんなときではない。倉田はもてなされるためにいるわけではないのだ。ただ、ポケットから出した煙草をくわえた倉田のほうに、ガラスでできた灰皿を押し付けるのは忘れなかった。倉田は目線を合わせてありがとう、に近い音を出すと煙草に火を点ける。林の煙草は鞄の中だ。それを察したのか、倉田は自分の煙草をローテーブルの上に滑らせるとライターを隣に放り投げた。倉田の煙草は林のものよりも数段キツいものだったが、この状況ではそれくらいの煙草を吸いたくなるものだ、と林は手を伸ばしながら思った。
「でもどうやって?」
「負傷した隊員のふりをさせて警察病院まで運ぶ。あとは藤本が逃がす」
「不可能じゃないかもしれないけど、随分リスキーね」
「他に方法があると思うか?」
林は煙草に火を点けると一息吸い込んで、むせ返るところだった。すんでのところでそれを我慢すると、倉田の質問には返事を返さなかった。たしかに他に方法があるようには思えなかったからだ。それにしたって、と林は続けて質問する。
「一人でテレビ局を乗っ取るっていうの? 無茶じゃないかしら」
「AXENが壊滅状態なのは知ってるだろ。内通者をあぶり出してる暇はない。あの女が信用できる味方は一人もいないんだ」
そこまで言ってから、倉田は初めて自身の姉に親近感を覚える。小さなその背中が、ふと目の前に浮かんだような気がした。その幻想を振り払いながら、倉田は大きく煙を吐き出した。
「検閲のかからない大スクープをマスコミが嫌がるとは思えない。そこに賭けるしかない」
倉田は灰皿の縁で灰を叩き落とすと目を伏せた。林も同じように灰を落として、倉田の顔をまじまじと見る。金色の髪に青い目。倉田を慕う女性は、オペレータ室にも少なくはない。彼の粗暴な性格も『男らしい』と受け取られるようだったが、林には倉田が粗野な男に見えたことはなかった。この人はいつもどこか悲しそうだ、と思っていた。
「明日あの女を中央区に送り込む。その後はあの女次第だ。マスコミに例の動画と音声を届けて、次の山縣の襲撃を都民に垂れ流させる。そこまでいけばあとはこっちのものだ」
強い口調とは裏腹に、不安げな顔で倉田はそう言うと、大して吸ってもいない煙草をもみ消した。林は呆然とその姿を見つめ、今一番言ってはいけない、と思った言葉を思わず口にする。
「…もし失敗したら?」
倉田はその言葉に顔を上げ、ようやく林と再び目線を合わせると、
「俺たちの負けだ」
とだけ言った。
* * *
勝算は少ない。サチは弟から手渡された十三区隊の制服を眺めながら、ただ一人警察に割れていないAXENのアジトにいた。毛嫌いし続けた青緑色の制服に、明日自身は身を包むことになる。そして明日、すべての雲行きが決まるのだ。ずっと欲していた未来を動かす力が、今は自身の手にあった。だがやるしかないのだ。父親のために、エミールのために。ひいては、この東京のために、更には移民たちのために。七年前の暴動で失敗に終わったすべてに、再び挑戦する機会。二度とは来ないだろうそのチャンスに、サチは制服を握りしめると、しばらく震えていた。
それでもサチは制服を手放し、椅子から立ち上がる。
未来は、勝ち取らねばならない。
どんな手を使ってもだ。




