第二十七章
AXENのアジトや隠れ家は、すべて割れていたわけではなかった。幹部のみが知っている数軒に関しては十三区隊の手が伸びることはなく、サチはそのうちの一つに身を寄せていた。サチはその隠れ家を独り占めしていた。サチ以外、そのなんの変哲もない民家の地下室にいる者はいない。
エミールもいない。
サチは置いてあったイスの上で膝を抱えて体育座りをしていた。出来る限り自身の存在を消そうとしているように小さくなる。キャスケットを目深に被り、その上からさらにパーカのフードを被って、サチは自身の風貌を隠していた。自身の姿を、山縣は知っているのだ。だがサチの中には、彼が自身を殺すことはないという確信があった。それは弟が殺されないのと同じ理由のはずだった。それでもエミールの死はただの事故だった、とサチは思う。自分のミスが招いた事故。あの場で自分があんなに不用意なことをしなければ、エミールは今、自身とこの場で次の動きを画策しているはずだった。
そのエミールはもういない。
サチは座ったまま鼻をすすっていた。エミールはもういないが、どこかから見守られているような気もしていた。だから、この場で号泣してしまえば彼を困らせるような気がしたのだ。サチはしばらくその体勢を維持して固まったまま、脳内に浮かんでは消えていく様々な思考のひとつひとつを吟味していた。その殆どがエミールを殺してしまった、という自責の念だったが、中にはエミールと画策したこのすべてをやりきらなければ、エミールとて浮かばれないだろう、という考えもあった。山縣によるAXENの鎮圧はAXENに大きなダメージを与えていたが、組織は大きかった。ちょっとやそっとでは、我々は壊滅させられない。サチは少し顔を上げると呆然と辺りを見回してから、足を床に下ろして膝の上で手を組み、組んだ手の上に顎を乗せた。ただ、同様にもう誰も信用できない。AXENの動きは、恐らく複数の誰かから流出させられていた。その一人が幹部でないという自信もない。信頼できるのは、と思ってから、サチはポケットから端末を取り出して弟の名前を探した。名前を選び、端末を耳に当てて、数回のコール音を貧乏ゆすりしながら待つ。三十秒ほどしてから、端末の向こうで『なんだ』という不機嫌そうな声がした。サチは少し安堵して、椅子に座り直すと貧乏ゆすりをやめた。
「エミールが死んだ」
その言葉に、相手が沈黙する。サチが次の言葉を紡ぎ出そうと口を開いたときに、倉田は言いにくそうに『リサと綾瀬もだ』と付け加えた。今度はサチが息を呑んで言葉に詰まる番だった。
『十三区隊はもう山縣の指示で動いてる。林は配置換えされた。あいつも山縣の指示で動くしかない。中野は腕に一発食らって負傷してる。でも山縣は中野を出動させろと脅してきてる』
倉田はかいつまんで簡潔にそう説明した。サチはしばらくぼうっとしていたが、すぐに奥歯を噛み締めて「孤立無援なのは同じか」と呟いた。倉田は何も言わなかった。
「AXENはもう信用できない。動けるのはアタシだけ。でも、動画ファイルと根津の音声はまだ持ってる。これを白日の下に晒すしかない」
『どうやって?』
「テレビ局を乗っ取る」
サチは言いながら自信を取り戻していくように、語気荒く言った。倉田が再び沈黙し、『どうやって?』と同じ質問を重ねる。サチは一拍置いてから、「お前の力がいる」と苦虫を噛み潰したような顔で伝えた。自分が、忌み嫌っていた弟の力を借りる日が来るとは思ってもいなかった。倉田は存外素直に『どうすればいい?』とすぐに返し、サチは少し驚いてから落ち着いた声で答えた。
「中央区に侵入したい。それ以降はどうにかする」
『…一番難しいことを言いやがる』
倉田もまた、端末の向こうでサチそっくりの顔つきで顔をしかめていた。第十三区から中央区に侵入するには、厳重に守られたメインのセキュリティゲートか、職員を通すためのゲート、または十三区隊の詰所を経由する必要がある。どの場所にも監視カメラがあり、ゲートではそれぞれ指紋認証と磁気カード、それから顔の確認が行われた。十三区隊の詰所についてもシステムは同じだったが、倉田に権限さえ残っていれば、リスクはあったができない相談ではなかった。しかし今、自分には何の権力も残っていない。
でも。
倉田はふと、中野のことを考えた。
「負傷した隊員は問答無用で警察病院送りになる。制服を渡すから、それを着てそこそこの怪我をすれば輸送できるかもしれない。病院自体の警備は割とザルだ。医者にもつてがある。それくらいしか思いつかない」
藤本なら信頼できる。倉田は考えながらそう言うと、サチの応答を待った。サチはしばらく考え込んでいた様子だったが、『それしか道がないなら仕方がない』と端末独特の音声が言った。
『お前は自由に動けるのか』
「山縣はもう俺の動きに興味はなさそうだ。どこで落ち合えばいい」
『追って指定する』
通話がそこでぷつりと切れると、未だ病院にいた倉田は身を翻して精神科へと向かう。入院患者のいる病棟から渡り廊下を渡り、様々な診療科の並ぶ病棟へと移ると、足早にすべてを通り過ぎてエレベーターを無視してバタバタと階段を降り、精神科を見つけて藤本の診察室のドアを叩いた。倉田がそこに現れるのは何も不思議なことではなかったから、受付の事務たちはその気迫に少しびっくりしたものの、特に何も言わない。ドアを叩くと、ちょうど患者は誰もいなかったのか、藤本が顔を出して驚いた顔を見せた。
「なんだ、どうした」
藤本が大きな声を上げようとするのを、倉田は診察室に押し込むようにして自分も入室する。藤本は押されてふらふらと診察室の中央まで後退したが、ただならぬ状況を察したのか、何も言わずにゆっくりとした動作で着席した。いつナースが入室しても不審がられないよう、倉田もいつもの椅子に座ると、少し藤本のほうに身体を寄せて声を低めた。
「お前の力を借りたい」
「どんな危ないことをさせる気なんだよ」
倉田と藤本はどちらもぼそぼそと会話した。倉田は中野の負傷からAXENとの結託、山縣のしっぽを掴んだこと、さらにはそれが露見して十三区隊や林がもう自身のために動けなくなっていることなどを口早に説明し、すべてを聞き終わると藤本は頭に手を当てて椅子に沈み込んだ。藤本の立場からは、最早想像もつかない事態ばかりだった。それと同時に、藤本はようやく倉田の不安定な精神状態の理由を理解したような気分になる。倉田はどうしたって、常に綱渡りのような毎日を強いられているのだ。
「それで?」
藤本はたっぷり時間をかけて考えてから、諦めたように聞く。倉田は本題だとばかりにさらに前傾姿勢になると手を組んだ。
「指定した時間に運ばれてくる隊員の服を着た女を逃して欲しい」
「俺は精神科医だぞ。内科にも外科にもいたらおかしいだろ」
「錯乱して自身を傷つけたことにでもすればお前の出番だろ」
「お前なぁ」
藤本は呆れたような声を出したが、できない相談ではない、とも思っていた。ただ、自身がこの壮大な出来事に巻き込まれる実感が、どこかで藤本を怯えさせていた。藤本はあくまでも一般人なのだ。自分は倉田に分かったような口を聞いていただけだった、と藤本は自戒した。ならばそれを、償うことも必要かもしれない。
「…わかったよ」
倉田のきつい双眸に、藤本は観念したように絞り出す。倉田はそこでようやく殺気にも似た空気を緩めると、ありがとう、と言いにくそうに小さく言った。藤本はうん、とやはり小さく返す。
「何かあったら責任は俺がすべて取る。脅されたことにしろ」
「嫌だね。俺も男なんだよ」
藤本はふんと鼻を鳴らし、それから口を吊り上げた。
「言ったろ? お前一人で抱え込むなよ」
その言葉に、倉田は一瞬呆けて、それから初めてその診察室で笑った。
藤本にはそれだけでも十分だった。




