第二十五章
根津の連絡を受けた山縣は落ち着いていた。根津はドジを踏んだが、まだ取り返す余裕はある、と山縣は考えていた。過激派組織が突然例の証拠を持って民衆を扇動するのは不可能だろう。東京都民のほとんどは、移民に否定的な感情を抱いている。その移民がいくら声を上げても、誰もそう簡単には信用しないはずだ。
ならば先に叩いてしまえばいい。
山縣はそう思うと、自宅の書斎でふん、と笑ったのか鼻を鳴らしたのかわからないような音を立てた。そして仕事用の端末を手に取り、根津に再び連絡を取る。『はい』と端末の向こうで応答した根津の声には張りがなくなっていた。
「状況はどうだ」
『使用人二名と綾瀬咲希は逮捕いたしました。現在中央区へ輸送中です』
「AXENを叩く」
山縣はなんの説明もせずに、根津の言葉に重ねるように言った。根津は回線の向こうで少し戸惑ってから、叩くとは? と疑問を返す。
「鎮圧する。今最も厄介なのはあの組織の存在だ。ハッキングと今回の件でそれなりのデータを揃えたところだろう。だが、彼らが直接的にあの証拠を利用するのは不可能に近い。そもそも、『動画』の話が出たと言ったな? それで何かピンと来ることがあるのではないかね」
『…倉田幸が関わっていると?』
「例の『動画』について知り得ているのは倉田幸とその取り巻きだけだ。それがAXENの耳に入っているとなると、恐らくあの男は裏でAXENと手を組んだのだろう」
根津はしばらく考え込んだ様子で何も言わなかった。山縣は無視して畳み掛ける。
「この計画で最も大事なのは倉田をいかに窮地に追い込むかだ」
山縣はそこでふっと笑うと、書斎の椅子で足を組んだ。
「ようやく得た仲間を失えば、彼にとっては打撃になるだろう。倉田サチもまた、『家族』同然の仲間を失うことになる」
『手筈は』
「十三区隊を利用すれば良い。過激派組織の鎮圧活動だ。何も不思議じゃない。倉田幸の命令ではなく、わたしの命令で十三区隊には動いてもらう」
悪いことを考えるものだ、と思った根津の表情は、山縣には見えていない。山縣は「今度こそ頼んだぞ」と念を押すように言ってから、通話を切った。
* * *
「どういうことだ」
翌日、倉田は警察庁で大声を上げていた。ブリーフィングの際に、十三区隊に対する管理権が一時的に根津清高に譲渡される旨が発表されたのだ。内容を理解せずに文書を読み上げていた男は倉田の気迫にすっかり萎縮したが、隣に立っていた根津は冷たく倉田を見下ろすだけだった。元々冷徹そうだった根津の目は、あの一件からさらにきついものになっていた。それでも倉田も凄んだまま、一歩も譲ろうとはしない。林も同席していたが、目線は当然のように根津に向けられていた。林はここのところ、化粧をする余裕もなく素顔で出勤していたが、それでもきつい目元は吊り上がっていた。
「君に嫌疑がかけられている」
根津は冷ややかに、倉田から視線を外すことなく言った。倉田は今にも拳銃を取り出して根津を撃つ、と言わんばかりの体勢で次の言葉を待つ。根津は笑ったのか口元を少し歪めると、「AXENと癒着しているな?」と確かめるように言った。倉田は一切動揺しなかったが、林は思わず横に立つ倉田を見た。
「証拠は?」
「あくまでも嫌疑だ。これから調査させてもらおう」
「俺の隊をどうするつもりだ?」
倉田の質問に、根津は更に口元を歪めると、倉田から視線を離して部屋に集っている人間全員に向かって言い放つ。
「先日、私はAXENによる襲撃を受けた。AXENはどうやら、警察庁の重要機密に興味があるらしい。悪の芽は早急に摘んでおくに限る」
根津は高らかに言うと、それから、とあくまでも今思い出したとばかりにわざとらしく付け加えた。
「林室長。君はこの任務に参加して頂くために、しばらく長官直属の部下となる」
「ふざけないでよ」
今度は林が大声を上げる番だった。倉田も林も、もはやこれがブリーフィング中であるということを忘れていた。林にいたっては今にも根津の胸ぐらを掴みそうな勢いで何歩か前に進むと、自身よりよっぽど背の高い根津を見上げて「いい加減にして」と地位も忘れて叫んでいた。
「こんなのおかしいわよ。子供の遊びじゃないのよ」
「君の言うことはもっともだ。これは子供の遊びではない。林室長、これは命令なんだよ」
根津は林の反応がさもおかしいとばかりに、今度こそ笑った。倉田は最早事態を静観するしかなかった。何をしても無駄だ、という思いがどんどん大きくなっていった。AXENは鎮圧される。林は奪われた。集めた味方は根こそぎ取られてしまった。
自分はまた、一人になった。
ブリーフィングが終了すると、林は根津に引っ張られるようにして部屋を出ていった。林は最後まで振り向いたまま、倉田に視線を送っていたが、倉田はカーペットの敷かれた床を見つめていた。どうする? と自分に問う。自分一人で、中野を守りきれるだろうか。
* * *
そして、AXENの鎮圧はその日すぐに始まった。根津がニーナから得た情報で、第十三区にあるAXENのいくつかの根城は判明していて、初日はそれらを叩くことに当てられていた。サチの元には、倉田からあらかじめ連絡が入っていた。『気をつけろ』という一文で終わっている短いメッセージを眺めていたときに、上が騒がしくなった。「襲撃だ!」と上階のメンバーが口々に叫んでいた。サチは慌てることなく用意していた銃を二丁装備すると、ナイフも仕込んでエミールを見る。エミールも同様に武装していて、二人はお互いを見ると頷いてから階段に向かった。上った先では、五名以上の青緑色の制服が、それぞれサブマシンガンを持って侵入してくるところだった。サチは一気に身体を出すことはせず、エミールの指示で彼の後ろに隠れたまま様子を伺っていた。この拠点にいたのは二十数名だったが、既に倒れているものが何人かいた。エミールがサブマシンガンで応戦すると、十三区隊は少し怯んだがすぐにこちらに発砲し、エミールはその度にしゃがんで銃弾を躱す。それから何名かがリロードしようともたついている間に、エミールとサチは身体を出して倒れていたテーブルの影に移動した。拠点にいた者たちはそれぞれ思い思いの場所に隠れていたが、狭い拠点の中ではAXEN側が圧倒的に不利だった。次々とメンバーが銃弾に倒れ、エミールとサチも応戦するものの、増援が来たのか制服の数は増えていく。「これじゃもうダメだ」とサチが発言した瞬間、一人の女性が銃弾に倒れた。すぐには誰なのか判別はつかなかったが、腹を撃ち抜かれてその場に転がる。直後に、「ママ!」という甲高い声が聞こえた。
小さな子供が、拠点のど真ん中に走り出してきたのだ。
サチは反射的に身体を晒すと、子供を守ろうと走り出す。エミールのサチっ、という声が聞こえた気がしたが、サチは無我夢中だった。とにかくあの子を守らなくては。発砲しながら子供の方へ向かうサチに、隊員たちの銃が一斉に向く。出入り口だけではなく、窓からも十三区隊の面々が侵入してこようとしていた。サチのすぐ傍の窓から新しい隊員が顔を出し、サブマシンガンの銃口をサチに向けた。これ以上はもう無理だ、とエミールは思う。エミールは威嚇射撃としてサブマシンガンで部屋中に弾を浴びせると、隊員たちが怯んだところで自身もテーブルの影から躍り出て、サチと子供の首根っこを掴んでとにかく安全な場所へ連れて行こうとする。
その時点で、自分は生き残れないと、エミールはしっかり分かっていた。
エミールはサチと子供を放り投げるように部屋の隅に押しやってから、サチに向かって笑う。
「生きてくれ」
喧騒でその声は聞こえなかったが、サチには確かに届いていた。




