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ZONES  作者: モリ・トーカ
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第二十二章

 根津家の使用人は、リサをはじめとして全員が秘密裏にAXEN(アクセン)の一員だった。リサはその中でも親の代からAXENに所属していたこともあり、そのために使用人の中でもリーダー格で、AXENの中でも信頼され地位の高いメンバーであった。日中、根津が仕事に行き、根津の母親が出払ったのを見計らって、リサと含む三人の使用人と綾瀬はダイニングに集まっていた。残りの使用人はそれぞれロベルトとニーナという名前で、ロベルトは第二世代の移民で、ニーナは親と共に不法入国を果たした東欧系の女性だった。四人はダイニングテーブルに着席こそしないものの、テーブルを囲むように立っており、真ん中にはリサがAXENと連絡を取るためだけに隠し持っていたスマートフォンが置かれていた。スマートフォンから聞こえる音声はエミールの声だった。


『綾瀬咲希さんだね』


 エミールは確かめるように言う。綾瀬は少しばかり緊張して拳を握り込むと、はい、と意志の強そうな声で返事を返した。


『何が君をそこまで突き動かすのかな』


 エミールは綾瀬の声を聞くと、すぐに単刀直入に聞いた。面接のようだ、と綾瀬は思いながら、使用人全員の顔色を伺いながら注意深く口を開く。


「わたしの家には使用人がいました。移民の女性でした」


 綾瀬は普段のおっとりとした仮面を脱いだように、はきはきと話し始めた。


「マルタという名前の女性です。マルタは実の親よりわたしに優しかった。でも、彼女はわたしの両親に手ひどい扱いを受けていました。子供の頃から、そんなのは間違っていると思っていた」


 エミールは何も言わなかったが、綾瀬は構わずに話し続ける。


「いくら歳をとっても、疑念は深まるばかりでした。同級生は皆使用人のことをけなしたり、冗談を言ったり。わたしたちはみんな同じ人間なのに」

『君は聡明な女性だね』


 エミールがそう相槌を打つと、綾瀬は少しほっとしたような顔つきになり、確認するようにリサの方を見た。リサは綾瀬に、話し続けるように頷いた。


「大学時代に、本を読みました。国家が腐敗する原因は貧富の差です。そもそもそんなものはあってはならない。わたしとマルタを、わたしとリサを隔てているのはただただ富の差だけです」


 綾瀬はしっかりとした口調で続ける。


「もちろん、性差というのもある。いくら女性の権利が回復した今でさえ、わたし自身が国を変えるほどの権力を得ることは難しい。そう判断しました。ですが、権力のある人間に取り入ることはいくらでもできます。わたしは、人を魅了するのは得意ですから」


 綾瀬が最後に冗談めかして付け加えると、端末の向こうでエミールは笑った。そこでようやく場の雰囲気が少し和んだものになったが、綾瀬はすぐに真剣な顔に戻って思わず声を潜めた。


「リサの言う、山縣長官の悪事を暴くならば、清高さんのスマートフォンかパソコンが唯一の手がかりです」

『君がそれらにアクセスすることは可能かな?』

「パソコンはとても難しいけれど、スマートフォンならばやってできないことではないと思います。わたしが清高さんの注意を逸らして、その間に皆に細工をしてもらうことはできる」

『よろしい、君を信用しよう』


 エミールが言うと、綾瀬は少し脱力して握っていた拳を解いた。エミールは今度はリサに話しかける。


『決行するなら早いほうが良い。リサ、君はこの間渡したソフトウェアを指示通りに根津のスマートフォンに仕掛けてくれ。ロベルトとニーナは綾瀬さんと相談して、なるべくでも根津の注意を逸らすよう努力してほしい』


 ロベルトはエミールから見えないと分かっていて頷いたが、ニーナは困ったようにリサの方を見た。ロベルトは七年前の暴動を知っていたが、ニーナは知らなかったし、AXENの一員としてまともに活動した経歴がなかったのだ。リサは大丈夫、とニーナに歩み寄ると、その手を取ってぎゅっと握った。


「心配要らない。ニーナはただわたしたちの手伝いをするだけだよ。いざとなったらわたしがあなたを脅してそそのかしたとでも言えばいい。ただ、ちょっとだけ力を貸してもらうだけ」

「…わかった」


 ニーナはたどたどしい日本語で、それでいてまだ戸惑っているという表情で答える。リサは綾瀬を見ると、再び力強く頷いた。いよいよ事態が動き出すのだ。綾瀬はそう思うと、七年前の暴動について考えた。あのとき、自分は無力だった。でも今ならば、自身の力で、自身の志を守ることができるのだ。


 作戦が決行されたのは、その日の夜の話だった。根津は帰宅すると着替えるためにベッドルームに直行するが、大抵の場合は夕飯を取っておらず、その後にダイニングルームに向かって食事を取る。綾瀬はいつも一人でそれ以前に食事を取っていたが、時たま用事があって外にでかけていたり、知り合いに会っていたりした、という理由で根津と夕飯を共にすることもあった。綾瀬は怪しまれないように、あの後すぐに知り合いを捕まえると外出し、根津より先に帰宅すると、キッチンに立っていた。根津家で食事を作るのは常に使用人の仕事だったが、綾瀬はよくリサと料理をすることがあったのだ。未来の嫁として手料理くらいできなくてはならない、と綾瀬は根津によく言っていたが、そもそもの理由はといえば、リサと話がしたいからだった。ここまでは何も怪しくはない、と綾瀬は野菜を洗いながら思う。ロベルトはキッチンのすぐ隣にあった使用人用の部屋で休憩をとっていて、ニーナはダイニングの掃除を任されていた。根津は帰宅を使用人に出迎えられることを嫌っていたので、玄関のドアの音がしても、誰もそちらに向かうことはなかった。ただ、綾瀬は大きな声で「おかえりなさい」とキッチンから声をかける。軽く手を拭いてからダイニングを通り抜け、玄関ホールに出た綾瀬は、靴を脱ごうとしていた根津にあくまでも自然に声をかけた。


「お夕飯、まだでしょう?」


 うん、と根津が言い、見るからに高そうな革靴を靴箱にしまう。今日はわたしもまだなの、と言っても、根津はそうか、と小さく言っただけで、何も気に留めていない様子だった。綾瀬は怪しまれないようにそこに留まることはなく、すぐに踵を返してキッチンに向かおうとする。


「ダイニングで待ってるね」


 綾瀬の言葉に、根津はまたうん、と答えてベッドルームに向かった。この後、根津は必ずスマートフォンを持ってダイニングにやってくる。そして、ダイニングのテーブルについて、綾瀬のことなど眼中にないかのように仕事のことを気にかけるのだ。根津をスマートフォンから引き剥がすならば、チャンスはそこにしかなかった。


 綾瀬の予想通りに、根津はダイニングにスマートフォンを持ったまま入ってくる。今日はインナーのTシャツに部屋着のズボン、といったラフな格好で入ってきた根津に、綾瀬は再びキッチンから顔を出して「もうちょっと待ってね」と言ったものの、根津はスマートフォンに視線を固定したまま何も言わなかった。平静を装っていたが、綾瀬の心臓は今にも口から飛び出しそうになっていた。ここからだ。綾瀬はキッチンに戻り、深呼吸をしてリサの顔を見る。リサが綾瀬を労るように片手を肩に乗せると、綾瀬は決心して夕飯のために出していたプレートを手に掴んだ。なるべく高い位置までプレートを持ち上げ、そしてわざと手を離す。


 パリン、という甲高い音がして、キッチンのタイルの上でプレートが割れた。


 その音にびっくりした、という様子でロベルトとニーナがキッチンに向かう。根津も顔を上げ、「大丈夫か」とダイニングで声を上げたが、根津がダイニングから動く様子はなかった。「ごめんなさい」と綾瀬は返し、慌ててプレートを片付けるふりをして、意を決して割ったプレートの破片で手を大きく傷つける。


「痛っ」


 そう思わず出た声に嘘はなかったが、綾瀬の心はぱっくりとできた傷になど向けられていなかった。ロベルトは思ったよりも深く手を切った綾瀬に驚きながら、慌てふためいたふりをして「根津様」とダイニングに顔を出す。今度こそ根津が立ち上がりキッチンに入ると、入れ替わりにリサが「救急箱を取ってきます」とキッチンを出た。


 後は時間を稼ぐだけだ。


 綾瀬はそれでも無表情の根津を見上げると、「ごめんなさい」と再び謝罪の言葉を口にしながら、思い切って泣いた。根津はそこでようやく戸惑って、その場所にしゃがみ込むと傷を観察しながら「病院にでも行くか」とはじめてまともな言葉を口にする。その間、リサは根津のスマートフォンのジャックに用意されたケーブルを差し込むと、インストール画面が百パーセントになるのを今か今かと待ち構えていた。ニーナは「病院」という単語を聞いて、「おくるまをよういします」と片言で言うとダイニングを通り過ぎ、リサに一瞥をくれる。


 根津のスマートフォンの画面に『インストール完了』の文言が表示されるのと、玄関ホールにたどり着いたニーナがほくそ笑むのは、ほとんど同時のことだった。

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