第二十章
「軽傷よ」
血相を変えた倉田が警察病院に着いた頃、中野はもう既にベッドの上に座っていた。その隣には林がいて、林は倉田を見るなり粗末なパイプ椅子から立ち上がって宥めるように言った。あの直後、倉田と中野は別の班によって無事に詰所まで輸送されたが、中野はすぐに救急車に乗せられ、倉田は事後処理に追われていた。中野は点滴を受けていて、左の上腕部を包帯でぐるぐる巻きにされた上、ガーゼやバンドエイドでガラス出できた無数の切り傷を覆われていたが、けろりとしていた。倉田は手当てを施そうとする医療関係者を押しのけてやってきたので、血まみれのままだった。お互い制服である青緑色のパーカにはどす黒い血が点々としていた。倉田は中野を見て少し安堵したものの、軽率な行動に対する怒りと自身の不甲斐なさでいっぱいになると結局何も言えなくなってしまっていた。よかった、の一言も絞り出せなかった。
林は中野に「ちょっと席を外すわね」と断ると、倉田を引っ張って病室の外に出た。ぐんぐんと手を引いて、非常階段に向かう。警察病院の中で話をするのは危険だと踏んでの行動だったが、倉田はその間中「何すんだ」とか「離せバカ」とかただひたすら抗議の声を上げていた。非常階段につながる思い扉をなんとか開いて、林は倉田を先に押し入れると自分も隙間から滑り込む。なんなんだよ、と倉田がついに大声をあげると、林は唇の前に指を立てて「静かにしてよ」と言った。
「このままじゃ状況が悪化する一方だわ。いい加減にあんたのお姉さんの力を借りないと」
林がそう言うと、倉田はようやく理解したとばかりに大人しくなった。あれから、サチからは一度だけ連絡があった。警察庁への内通者を見つけることに苦労している、という悔しそうな電話だった。当然、倉田とてそれほど簡単に話が進むとも思っていなかったが、林の言うとおり時間はなくなってきていた。中野を殺そうとする勢力の統率と武力、それに正確さはどれも増長される一方だ。次の襲撃があれば、倉田は耐えて退ける自信がもうなかった。倉田は自身のブーツに目線を落とすと、必死になって頭を動かした。AXENの力を、どう利用するべきか。
「各ブロックに集団を配置してもらうことはできないかしら。もうこうなったら第十三区全域が戦場よ。数の暴力には数の暴力で返すしかない」
「まだAXENが集団として動いてくれると決まったわけじゃないんだぞ」
「動かしてもらわないと、もうどうにもならないわよ」
倉田と林はぼそぼそと会話した。いつまでも非常階段に留まっていても、逆に不自然だ。倉田は最終的に「あの女に連絡してみる」と小さく言って、林に先に病室に戻るように指示した。同時に戻れば、怪しまれるような気がしたからだ。非常階段に残された倉田は、すっかり肌寒くなった空気に少し身震いをした。それからその場に座り込み、ポケットに手を突っ込んで煙草を探す。病院内は当然禁煙だったが、非常階段でこっそり煙草を吸う医療関係者がいることは知っていた。藤本などはいい例だ。喫煙している、という事実があれば、非常階段にいても不自然ではないと思ったし、それよりも何よりも一服しなければやっていられなかった。倉田は口にくわえた煙草に火を点けると、大きく煙を吸って吐き出し、サチから受け取った方の端末を取り出してサチに電話をかけた。
その電話が鳴ったとき、サチはエミールと話をしていた。エミールにはとうの昔にすべてを話してあったから、サチはすぐにその電話を受け取ると、低い声で「なんだ」と乱暴に聞いた。
『中野が負傷した』
倉田は簡潔に言う。
『…AXENをどこまで動かせる?』
煙草のせいか酒のせいか、ハスキーになっている声が続けて聞こえた。サチはちょうどその話をエミールに持ちかけようとしていたところだったから、端末をスピーカーフォンにすると、机の上に置いてエミールを見た。エミールにはそれだけで十分だった。
「十三区隊と結託するというのはあまり好まれないかもしれない」
エミールがそう言うと、倉田は沈黙してから状況を飲み込んだようにそうか、と返した。
『こっちにも手はある。今まで十三区隊がやってきたことの指示書すべてに俺はアクセスできる。警察が移民を不当に扱った証拠はいくらでも出せる。それで煽れないか』
「できない相談じゃないだろう。ただ、シンボルは必要だ。君に直々に出てきてもらいたい」
『どういう意味だ』
「君の言葉で、十三区隊の行動が君たちの意思ではなく、もっと上の力なんだと示してほしい」
『…わかった』
「サチの弟である旨も、そこで公開しよう。ここの連中のサチに対する信頼は厚いんだ。父親を殺された姉弟という構図は油になるだろう」
倉田が再びわかった、と端末越しに割れた音で返答する。エミールはそこでサチに発言権を譲るように一歩引いた。サチは逆に端末に近づいて、神経質そうに毛先をいじりながら口を開いた。
「状況は逼迫しているんだろ。話は早いほうが良い。今夜指定する場所に来れるか」
それからサチは先日のように場所を指定して、倉田がそれを了解して電話が切れる。電話が切れると、サチはどっと疲れを感じて近くの木の椅子に座ると、背もたれに全体重を預けて脱力した。エミールも同様に近くの椅子を引き寄せると、前傾姿勢で座って手を組む。きっと大丈夫だよ、とエミールは親のような口調で言った。
「初めて会ったときにも言っただろう。AXENは大きな一つの家族なんだ。君の父親の仇は我々の敵だ」
「そうだけど」
「何も心配することはない。我々の目的も叶うんだ。移民を不当に扱う人間、それも警察庁の長官ほど高位な人間を引きずり下ろせるとなれば、願ったり叶ったりだよ」
エミールを前にして、サチはもう何も言えなくなっていた。ただただ、罪悪感が付きまとうだけだ。しかしそれも次第に薄くなっていく。自身の父親の死を、無駄死にではなく、名誉の死に変えることができたなら。サチはそう考えると椅子に座り直して腕を組み、エミールを正面からしっかりと見据えた。
「必ず成功させる。山縣の悪事は全て暴く」
端末の音声が切れると、倉田は最後にギリギリまで吸いきった煙草をもう一度吸うと、それを非常階段でもみ消してその場に捨てた。いよいよだ。AXENが関わるとなれば、事態は更に大事になる。まるで戦争だ、と思ったところで、これは実際に戦争なのだ、と思い直した。七年前のビジョンが軽く頭を過ぎって、倉田は立ち上がろうとしていた動作を一瞬止めて頭を振った。これで自分は、今度こそ自分の手で、次の暴動に火を点けた、と倉田は思っていた。AXENが、この機会にただこちらの指示に従うだけで済むとは到底思えなかった。きっと彼らはこれを火種に、再び暴動を起こすのだ。
また、たくさんの人間が死ぬのだろうか。
そう考えると、不思議と林の顔が浮かんだ。自分たちはもう七年前の人間ではない。無知で無力な、七年前の自分たち。このまま何もしないでいようと、行動を起こそうと、どちらの道にも多分の死人は出るのだ。ならばあの日のように受動的にではなく、能動的に動いてその死者の数を抑えなければ、また十一月十五日は繰り返されることになる。それだけは避けなくてはならなかった。中野のためにも、林のためにも、
そして自分のためにも。
倉田はそこで意を決したように立ち上がると、非常階段の扉を開いて中野の病室に戻った。昼時だったので中野は昼食を出されていて、林はそのそばで弁当を開いていた。その平穏で日常的な光景があまりにも滑稽で、倉田は大きくため息をつく。
今の自分には、守らなければいけないものがあるのだ。




