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ZONES  作者: モリ・トーカ
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第十九章

 中野はよく『足りない』と揶揄されるその頭で、思案にふけっていた。どこか常に朗らかで、純朴そうだった中野の顔はすっかり消えてなくなっていた。大きな目は落ち窪み、口は真一文字に閉じられ、少し痩せたようにも見えた。


 人を殺した。


 そのことばかり考えていた。過去数日、中野はろくに寝ていなかった。眠ろうという気すら起きなかった、というのが正しいところだ。食事も取る気にはなれなかった。人が死んだ。人を殺した。その二つの文章を延々と頭の中に巡らせていた。現実感はなかった。それが現実に起きていることで、自分が犯したことなのだと、理解するためにずっと考えていた。それでも思い出せるのはハンドガンの冷たく無機質な感触だけで、中野は半ば諦めかけていた。そんな中野を助手席に乗せていた倉田は、巡回ルートを走りながら、時たま中野の方を見やると様子を伺った。あの日、中野がまさか発砲するとは思わなかった。させる気もなかったが、あの平和主義的な男が、自発的に撃ったのだ。戦います、と宣言されたとき、どこまでも人に甘そうな彼が本当に誰かを傷つけるとは微塵も思っていなかった。それでも彼の決意は本物だった。ただ、代償は大きかった。


「…お前は優しいから」


 倉田は自分が初めて勤務中に人を殺したときの話をしようと考えて、すぐにやめた。倉田が、そもそも幼少期から感情の欠落したような男だったからだ。倉田は初めて人を殺したとき、特になんとも思わなかった。それが仕事なのだから、引き金を引くだけだ。割り切っていたし、第一相手は何かしらの悪事を働いたのだから、どうなっても構わない人間なのだと思っていた。だから、必死になって相手を労るような言葉を探していた。


「仕方ないって言っても聞かないんだろ。あれが正解だったって言っても、納得できないだろ。気にすんなって言ってもダメなんだろ」


 思いついた言葉を片っ端から上げてみながら、倉田はどれも口に出して否定した。中野はゆっくりと倉田の方を見る。その横顔に、かつて見た凛々しさはなくなっていた。倉田が変化したのではなく、自分が変化したのだ、と中野には気づく余裕がなかった。今の中野に、倉田はとてつもなく寂しそうに見えた。倉田の言葉はどれも正しかったので、中野は長い睫毛に覆われた目を伏せて、所在無げに倉田の骨ばった手が置かれているシフトレバーを見た。この手も、何人もの人間を殺してきたのだ。


「…悲しくはないんです」


 中野はふと呟いた。もともと考えてから発言するような人間ではなかった。倉田は微動だにせずに車を走らせ続け、その言葉を聞いた。自分も悲しくはなかった。だが、中野のように悲しまねばならないとは一切思わなかった。


「でも、戦わなきゃ」


 中野は自分に言い聞かせるように続ける。拳を握って、半分泣きそうな顔でシフトレバーを眺め続ける。倉田はそこでようやく中野の方を見やって、思わずため息をついた。彼に失望しているわけでも、呆れているわけでもなかった。あんまり深く考えるなよ、と言いかけて、それもまた無駄であることを悟ってやめた。


「戦わなきゃ、もっとたくさんの人が死んでしまうんでしょう」


 中野は倉田をすがるように見て聞いた。倉田はしばらく逡巡してから、走行している方向を見たまま横顔で頷いた。中野は家族のことを思った。人にはみんな家族がいる、と中野は思う。横田にも家族はいたかもしれない。でも、数名の家族を守って、もっとたくさんの人間の家族を見殺しにするのはおかしい、と簡単な結論を出していた。それで納得したわけではなかったが、今をしのぐには十分な考えだった。そう思ったところで、ヘッドセットから林の声がする。林もまた、この数週間で一気に憔悴して声にハリがなくなっていた。


『すぐ近辺で強盗があったわ。場所はナビに送るから、向かってちょうだい』


 倉田も中野も返事をしなかったが、ピコン、という電子音と共にナビに場所が表示される。曲がるべき角を通り過ぎかけていた倉田は車を一瞬止めてバックすると、曲がり角を曲がって再び路地の迷路に入っていった。嫌な予感は、倉田にも中野にも、そして林にもしていた。


 強盗があった商店を見つけて、倉田は近くに車を停める。それぞれハンドガンをホルスターから抜き取り、携帯した状態で商店に近寄ると、商店は悲惨な有様だった。そこら中に商品が散らばり、店主と思しき女性が周辺住民に宥められているところだった。何語だか分からない言葉で、住民は女性の背中をさすっている。


「犯人は」

『バイクで逃げたみたい。他の班が追ってる。そっちは事後処理をお願い』


 林はあくまでも淡々と告げた。正直なところ、三人とも拍子抜けしていた。ここで何かが待ち構えているのだろうと思っていたからだ。倉田がハンドガンを下ろし、それを見た中野もハンドガンを下ろしたところで、倉田と中野は自分たちの判断が誤っていたことを知った。




 宥められていた店主が、拳銃を持ち上げたのだ。




 咄嗟に倉田は中野を庇おうと「伏せろ」と叫びながら中野を押し倒す。中野は倒れ込んだ勢いで頭を打ち、訳がわからないままでいたが、倉田はすぐに体勢を立て直して女店主とハンドガンを向かい合わせたが、すぐに周りの住民たちもそれぞれ思い思いの武器を持ち出していた。ハンドガンを携帯している人間はもう一人いて、倉田たちは商店の中に入ってしまっていた。出入り口はひとつしかなく、そこは住民によって塞がれている。ただ、商店の道に面している壁はガラス張りだった。倉田は瞬時に判断して何発かガラス窓に打ち込むと、中野を引っ張って割れた窓に突っ込み、ガラス窓を破って外に飛び出した。倉田たちが商店から飛び出してくる様子を、林もカメラで確認していた。


『車はもうダメだわ。一番近くの班を送るから、五分持たせて』


 林は慌てふためいていた。商店の中で事が起きている間に、車は別の住民たちによって抑えられてしまっていた。徒歩で逃走するわけにはいかない。新城が他の班に通達する間にも、住民たちの数は増えていた。ガラス窓を突き破ったせいで、倉田も中野も切り傷だらけになっていたが、どちらもそんなことは気にしている余裕もない。すぐに起き上がった倉田は周りの住民の数に絶望していた。はじめのころより、目に見えるほど銃火器が行き渡っていた。中野は地面に伏せたままだ。倉田は様々なルートを計算したが、どうしたってこの状況を突破できる自信はなかった。無茶言うなよ、と呟くのが精一杯だった。とにかく厄介なのは銃火器を所持している人間だ、と思ったが、発砲すれば発砲されるのは明白だった。五分は、長い。


 中野はといえば、同じように状況を観察していたが、当然倉田ほどまともには考えられていなかった。とにかく起き上がらなければ、と思って、割れたガラスの散らばった地面で手が切れるのも構わずに起き上がろうとする。瞬間、倉田の「馬鹿ッ」という罵声が飛んだように聞こえて、中野は再び地面の上に叩きつけられていた。




 自身が撃たれたのだ、と気づくまでにはかなりの時間を要した。




 それからはぼんやりとした視界と耳で判断するしかなかった。キーンという耳鳴りが続いていて、視力がいいはずの視界はぼやけていた。痛みはない。ただ衝撃があっただけだ。撃たれたのは多分肩だろう、と思ったのは、左腕がやたら重たかったからだ。撃たれるのは初めてだ、と場違いな感想も抱いた。倉田が何度か発砲していたような気がした。次に覚えているのは別の班の乗った車が住民をなぎ倒すように現れたところで、自分は二人がかりでその車の後部座席に運び込まれ、倉田もそこに乗り込んだ。大丈夫か、と聞かれたような気がしたから、大丈夫です、と答えた。


 中野の意識は、そこで途絶えていた。

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