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ZONES  作者: モリ・トーカ
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第十八章

「おかえりなさい」


 ベッドルームのドアが開く音に、既に寝間着姿になっていた綾瀬咲希は雑誌を読むために持っていたタブレットをベッドサイドテーブルに置くと、ベッドから降りて根津を出迎えた。根津の家は豪邸といっても構わないような家だった。父親が早くに死んでしまったので、根津が家を引き継いだのだ。そのせいで、玄関で物音がした程度では綾瀬が根津の帰宅に気づくことはなく、大抵は遅くなってから帰宅する根津がベッドルームに入ってきたところでようやく気づく。そもそも根津は帰宅を知らせるようなメッセージを送る男ではなかったし、婚約者に必ず玄関で出迎えてほしいとおもうタイプでもなかった。綾瀬の言葉に根津はうん、と言葉ともそうでないとも取れない音を発すると、綾瀬には一瞥もくれずに着替えを始めた。


「夕飯は?」

「食べてない」


 綾瀬の質問に、根津は短く返す。じゃあ、用意させる、と綾瀬はあくまでも優しい声で言うと、寝間着姿のまま根津を残してベッドルームを出た。根津の家には何人か使用人がいた。根津の曽祖父が雇った人々や、その子供たちであると聞いていた。根津家の家事と炊事はすべてその使用人たちが担っていて、綾瀬は部屋を出て一階に降りると、ダイニングルームを通過してキッチンに顔を出した。そこではたまたまリサという名前の使用人が床を掃いていて、綾瀬はリサを見るとにこやかに笑って清高さんのご飯がまだなの、と言った。リサは第三世代の移民だったので、リサ、という名前にはちゃんと漢字が当てられていたし、母国語も喋ることができなかったが、それでも扱いはほかの移民とさして変わらなかった。ここは第二区だったが、リサは第十二区で育った。いくら曽祖父が雇い、代々なんの問題もなく遣えてきたとはいえ、移民が最初に割り振られた区から解放されることは叶わなかった。リサは綾瀬の顔を見るとほっとしたように胸に手を当てた。


「わかった。すぐに用意するね」

「ありがとう。今日はどうだった?」


 綾瀬はキッチンの縁に背中を預けると、友人に話しかけるように聞く。そもそも、綾瀬はリサのことを良い友人だと思っていた。綾瀬は職を持っていなかったし、あまり友達がいなかった。それは綾瀬の性格や振る舞いの問題ではなく、綾瀬が進んで友人を持たないという決断をしていただけだったが、いずれにせよ日中、綾瀬はほとんどの時間をリサと過ごしていた。リサはといえば、綾瀬のことを慕っていた。根津が初めて綾瀬を連れてきたとき、かしこまるリサを見て、綾瀬は根津の目を盗んで「わたしの前では、そんなふうに振る舞わなくていいから」と言った。リサにしてみれば衝撃的なことだった。自身の前に根津家に遣えていた両親からは、絶対に粗相のないように、と教育されてきていた。


「特に何もなかったよ。いつも通り。家を掃除して、枯れ葉が出てきたから庭も掃除して…」


 リサは言いながら箒を適当なところに立てかけると、手を洗ってから冷蔵庫を開けて夕飯の算段を立て始める。綾瀬はそっか、と小さく呟いたあとに、あくまでもなんでもないことのように「『お友達』は?」と聞いた。リサは一瞬冷蔵庫の中身を探る手を止めて、それからすぐに再び手を動かし始めると、「大変みたい」と返した。


「あの『犬』がね、暴れてるらしいの」


 そこで綾瀬がぴくりと反応する。冷蔵庫から食材を出してカウンターに並べているリサの背中に、「どうしてまた」と平静を装ったまま重ねて聞いた。リサは段取り良く野菜を洗い始めながら、うーん、と少し唸った。


「『おもちゃ』をね、食いちぎってしまうんだって。しつけようとしてるけど、『犬』の考えていることはわからないって。『頭の中に入って』、『いじって変えちゃえれば』楽なのに、って笑ってたよ」


 そこまで聞いて、綾瀬は自身が真顔になっていることに気づいて、深呼吸をしてから笑みを浮かべた。それは大変だね、と呟くように返して、それから「よしっ」と小さく声を出してキッチンの縁から離れる。


「あんまり油売ってると、清高さんが心配するから」


 その言葉に、リサは振り返ってまたね、と微笑んだ。


 キッチンを出て、またダイニングルームを抜け、階段を上がってベッドルームに戻るまで、綾瀬の頭の中では先程の会話が再生されていた。『AXEN(アクセン)』によれば『警察』が暴れている。『おもちゃ』の意味はよくわからなかったが、『警察』を『内部から』『変えてしまいたい』というのは分かった。何かが、起きている。ベッドルームに入ると、根津はシャツとスラックスのままベッドの上で仕事用の端末を見ていた。根津はそもそも積極的に仕事の話を綾瀬にするような人間ではなかったが、綾瀬はベッドルームのドアを後ろ手に閉めると、努めて明るい声で「お仕事、忙しいの?」と聞いた。根津はうん、とまたやはり言葉ともなんともつかない声を出す。綾瀬はそれ以上追求はしなかったが、頭の中ではただひたすらにリサの言葉が流れていた。今だ、と綾瀬は思う。今こそ自分の権力を行使するときだ、と。


 綾瀬が友達を作らない理由はそこにあった。綾瀬もまた第二区の出身で、家には使用人が一人いた。マルタという名前のふくよかな外国人の女性で、すべてにおいて厳しい母親とは裏腹に優しい女性だった。小さい頃にテーブルマナーがなっていないと母親にきつく怒られて泣いていたときも、マルタはたどたどしい日本語で「おじょうさま、だいじょうぶですか」と聞くのだ。ピアノのレッスンで教師に怒られたときも、学校の中間試験でトップの座を別の女子生徒に奪われて父親に怒られたときも、マルタはいつも綾瀬のことを気にかけていた。両親はといえば、自分を叱るときの何倍もの厳しさでマルタに当たった。それはときに理不尽で、自分の気分が悪いから、という理由でマルタの仕事ぶりが悪いと糾弾した。父親に至ってはマルタに手をあげることもあった。そんな綾瀬のような家は同級生の間にも何軒もあったが、誰も何かがおかしいと感じたことはないようだった。学校の授業では、移民がこの国にとっていかに害悪であるかを教え込まれたが、綾瀬は納得していなかった。それでも、人間は人間ではないのか、と誰かに聞く勇気はなかった。その代わりに大学では政治学を専攻して、少しでもこの国の仕組みを知ろうとした。その時、学校の図書館で一冊の本に出会った。富を持つものが支配する国家がいかに腐敗するかについて語られた本だった。これだ、と当時の綾瀬は思った。自分も、両親も、学校の教師もマルタも、変わらぬ人間のはずだった。唯一違ったのは、富の差だ。自分たちは富んでいたが、マルタは貧しかった。たったそれだけのこと。それから綾瀬は、この状況になんの疑問も抱かない同級生たちを軽蔑の眼差しで見るようになったが、この国を変えるために必要な権力を手に入れるために、同調は必要だとも思っていた。綾瀬は頭が良かった。この思想を誰にも知られてはならない、と注意しながら、虎視眈々と権力を狙っていた。自分が女性で、現状、自身が権力を持つことはなかなか難しいことも把握していた。ならば権力のある人間に取り入ればいい。そこに現れたのが根津清高だった。警察庁の中でもトップに位置し、権力を持つ男。綾瀬は迷いなく根津のことを両親に話すと、縁談を進めた。恋愛などという概念が根津になかったのも幸いした。綾瀬は晴れて根津の婚約者になると、内心はほくそ笑んでいた。


 綾瀬は、ついに欲した権力を手に入れた。


 今こそが好機だった。

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