第十七章
「それで?」
藤本は煙草をくわえていた。当然病院内なので火を点けることはなかったが、それでも口寂しいと言わんばかりだった。倉田は藤本と向かい合わず、回転する背もたれのない椅子に腰掛けたまま、特に何も言わずにぼうっとしていた。話すことは特にない、と思っていたが、心の中では様々なことが渦巻いていた。中野のこと、父親のこと。サチという名の、ずっと知らずにいた姉のこと。ここ数日で倉田の世界はひっくり返ってしまったようだった。ギシギシと音を言わせながら椅子を右左に揺らしていたら、藤本は大きなため息をついて倉田を見た。二週間前より、倉田は余計にげっそりしてしまったように見えていた。
「サポートしろって言ったのはお前だろ。なんかないのかよ」
藤本は煙草をくわえたままもそもそと言う。倉田はそんな藤本を生気のない目で一瞥すると、今度は真剣に考え込んだ様子で目を逸らした。何から話せばいいか、逡巡しているようだった。藤本はそこでようやく煙草を口から離し、くしゃくしゃのソフトパッケージに戻すと、頬杖をついて倉田の自発的な発言を待った。
「…どうしたら強くあれるだろう」
倉田はぼそりと言った。藤本は精神科医であってカウンセラーではなかったが、倉田がこの白い部屋でまともな発言をすることは珍しかったので、少し驚いてその言葉の意味を吟味した。倉田はふと顔を上げて、深い青い瞳で藤本を見た。端正な顔立ちだったが、魅力がない、と藤本は思っていた。その顔はいつも青白く、死人のようだった。倉田は半開きの口で何かを言いかけ、口をつぐんで、また口を開いた。
「守らなければいけないものがたくさんあって」
倉田は喋ってはいたが、内容を考えている風ではなかった。ただ思いついたことを口に出しているだけのようだ。藤本はそれでも辛抱強く次の言葉を待つ。倉田はそのうち、苦悶の表情で頭を抱えた。藤本はいよいよ驚いて、おいおい、と思わず口に出す。いつだって倉田はこの部屋で嫌味を言い続けたのだ。藤本にとって、倉田はいつも防弾ガラスの中に身を潜めているように見えていた。外面だけはいつだって強かった。ただ、そのガラスがなくてはいつでも砂のように崩れてなくなってしまいそうなのは、七年前にはっきりした。七年前から、倉田は何度も何度も自身を殺そうとした。自責の念なのか、悪夢から逃げるためなのか、それともそのどちらでもあるのか、本人の口から何か語られることは一度もなかった。ただ、今回も死ねなかった、という残念そうな顔ばかりを藤本は見ていた。過去数年こそそのような自己破壊的な行動はなくなっていたが、目の前で頭を抱える倉田は七年前にタイムスリップしてしまったようだった。防弾ガラスは、全て割れてしまったのだ。
「…どうしたらいい?」
頭を抱える腕の間から、倉田は藤本をすがるような目で見た。倉田が積極的に藤本に助けを求めたのは、これが初めてだった。藤本は言葉に詰まる。藤本はあくまでも医者だった。死人は見たことがあるし、患者が死ぬことだって少なからずあった。その度に藤本ですら自身を罰したくなったが、仕事は仕事なのだと線引きをすることをずっと昔に覚えていた。ただ、倉田の抱えている荷物はあまりにも重すぎた。数百人という単位の人間を、人質に取られているのだ。その話は、林から聞き及んでいた。あんまり倉田が何も話さないので、藤本は林によく状況説明を求めた。先日の電話では、林すら憔悴しきっているようだった。
『いつ死んでもおかしくないくらいよ』
林は電話の向こうで鼻をすすった。泣いているわけではないのだろうが、泣きそうになっているのは確実だった。深夜の電話で、林は訥々と現在自分たちが置かれている状況を説明した。藤本にはにわかに信じがたい話ばかりだったが、倉田も林も、そんな壮大な嘘をつくような人間ではない。目の前の倉田は、頭を抱えた体勢のままぴくりとも動かなかった。まるで胎児に戻りたがっているようにすら見えた。藤本は様々な定型文を思い浮かべて、その度にそれを頭の中で破棄した。ついにはいたたまれなくなって、背もたれに深く背を預けると、はぁ、と思わずため息をついていた。
「…あんまり他人のことばかり考えるなよ」
注意深く、藤本は話を始める。倉田が藤本を見ることはなかった。藤本は構わず話を続ける。
「守る、守るってさ。お前の周りの人間はみんな腑抜けなのか? 大人だろ、自分のことくらい自分でどうにかできる奴らじゃねえのか? 件の中野くんはともかくとしてもよ、十三区隊の人間は訓練を受けてんだろ」
藤本はそこで言葉を切って、思わず煙草に手を伸ばすとパッケージを手に取り、病院内で喫煙が許されていないことに舌打ちした。倉田は頭を抱える体勢に疲れたのかふと上半身を起こしたが、それでもひどい猫背のままだった。顔はここに着いたときよりもげっそりしてしまっていた。目は壁にはられた予防接種のポスターに向けられているようで、何も見ていなかった。藤本は仕方なくまた口を開いた。
「お前を守ろうとしている人間だっているんだよ。絢子ちゃんなんか良い例じゃないか」
林の名前が出ると、倉田は藤本のほうに緩慢に顔を向けた。
「守るばっかりじゃなくて、少しは周りの人間を頼れよ」
藤本は諭すというよりも、そう願っていると言わんばかりの口調で言った。倉田はしばらく藤本をじっと見ていたが、それからすぐに首を横に振りながら視線を床に落とした。
「守られる価値なんてないよ」
倉田はぼそりと言う。藤本はいよいよ苛立って、あのなぁ、と大声を出した。
「医者じゃなくて友人として言っておくけどな、お前のそういうところがダメなんだよ。自分を二の次にしてれば何でも解決すると思ってんのか? お前がいなかったら誰が中野くんを守るんだ? 簡単なことだろ、お前だって自分の部下にペアで行動するように指示してんじゃねーか。それは何でなんだ? 一人だったら死んじまう確率が高いからじゃねえのか? じゃあお前が死んで、守りたい人間が全員死んでもいいってのかよ」
藤本の言葉に、倉田は少しびっくりした様子で目を見開く。別にそこまで言ってねーよ、と小さな声で返したものの、藤本は止まらなかった。
「じゃあ守りきったら死んでもいいって言い出すんだろ、どうせ。中野くんが死んじまったとして、お前が思うことを、他人がお前に対して思うって考えたことはねえのか? 絢子ちゃんだって俺だって、お前が死んだら俺たちのせいだって思うんだぞ。俺たちがお前を守りきれなかったんだって」
倉田は少し生気の戻った目で藤本をまじまじと見ていた。藤本は勢いのあまり椅子から腰を浮かせていたが、すぐにどすんと座り直して足を組むと、呆れるあまりに額に手を当てて目を閉じた。
「頼むから全部一人で抱え込むなよ」
その言葉はどこかで聞いたことがある、と倉田は思った。林の言葉だった、と気づくまでには数分かかった。わたしを残して死なないで、とあの夜林は言った。ふと何もかもが現実感を帯びた気がして、病院特有のにおいがつんと鼻をついた。それから倉田と藤本は一言も交わさずに処方箋だけをやりとりして、倉田は病院を出た。個人的に使っている方のスマートフォンで、林の名前を探して電話をかける。林はすぐに応対したが、第一声はもしもし、ではなくどうしたの、だった。倉田はしばらく無言でスマートフォンを耳に当てていたが、一分ほど溜めてから無理やり抵抗する口を動かした。
「今までごめん」
言ってしまってから、少し泣きそうになる。
「もう悲しませないから」
林は何も言わずにいたが、最後に小さくありがとう、という音だけが返ってきた。それで十分だった。雨が降っていたが、倉田は傘も差さずに病院を後にする。
頬を伝う雨が、自分の代わりに泣いているように思える日だった。




