第十二章
中野は五人姉弟の真ん中だった。上に姉が二人おり、下に弟と妹がいた。それぞれ普通の家庭にしては仲が良いほうだったが、その中でも妹とは七歳ほど歳が離れており、弟にシスコン、と揶揄される程度に中野は妹のことを溺愛していた。中野をはじめとして比較的背の高い一家の中で妹はなぜか小柄で、人形のような少女だった。中野は宿舎の狭い一室で、配属が決まって家を出ることになった際に妹にもらった手紙を読み直していた。妹はもう高校生だったが、ごく普通に反抗期を迎えたことのある姉や弟とは異なり、中野と同様に純粋無垢な性格を貫いていた。
〈お兄ちゃんは無鉄砲だから、少し心配です。第十三区なんて危ないところに行ってしまうのも、とても心配です。でも、お兄ちゃんは強いから、きっとどんな敵にも勝てるんだと思います。だから、頑張って。〉
ふと見た一節にはそんなことが書いてあった。中野はふと、『敵』という文字に目を留めて考える。正直なところ、中野には未だに状況が全く飲み込めていなかった。分かっていたのは、どうやら自分が何者かに狙われているらしいということと、それが原因で自分以外の人間が傷ついているらしいこと。人が死ぬ、ということに関して実感は沸いていなかった。中野が体験した人の死は自然なもので、それは祖母が病死したときのことだった。人が『殺される』というのはドラマや映画でしか見たことがなかった。事実、あの動画を見たときもそれが現実のことであるようには思えなかった。すべてがお芝居であるような気すらしていたが、倉田と林が狼狽する様子だけはリアルだった。誰かが悲しむのは見たくない、と思いながら、中野は妹の手紙を元通りに丁寧に折りたたむとパステルピンクの封筒に戻して、引き出しの中にしまった。高校生の頃、三者面談で教師に「あまりにも献身的すぎて主体性がない」と言われたことを思い出した。『献身的』も『主体性』もよく意味がわからなかったのできょとんとしていたら、教師は呆れ返った。
「お前はもう少し自分のことを考えた方がいいってことだよ。他人のために自分を犠牲にするのはある程度までは良いことかもしれないが、それを超えると逆に他の人を悲しませることだってあるんだぞ」
説明されてもよく意味がわからなかった、というのが本音だったが、倉田と林の凍り付いた表情を思い返して、ぼんやりとした意味合いが浮かび上がってくるようだった。倉田と林は、確かにこの状況に悲しんでいる。そしてその原因はほかならぬ自分であるようだ。そういえば、教師の言葉には続きがあった気がした。
「もう少し頭を使って考えろ。自分の行動がどういう結果を引き起こすのか、ちゃんと考えろ。ただの優しさは裏目に出ることだってあるんだぞ」
頭を使うのは苦手だ、とその曖昧な記憶に反射的に思う。ただ、それこそが自身の悪いところだ、とも思った。自分は今回の騒動について何も知らなさすぎるし、どうして倉田と林があんなにも悲しんでいるのか、それすら知らなかった。
分からないことは聞けばいい。
ふと思い立って、中野は決心をつけたように部屋の電気を消してベッドに潜り込むと、明日倉田に詳しい話を聞こう、と考えた。考えるが早いか眠りに落ちていたが、珍しく奇妙な夢を見た。自身が死体の山の上に立っている夢だった。死体の山のふもとに倉田がいて、憎悪と悲しみと苛立ちと、ありとあらゆる嫌な感情が入り混じったような目でこちらを睨んでいた。次の瞬間には仮面の男が横に立っていて、冷たい銃口が自身の頭に突き付けられていた。それを、今度は家族が戦々恐々と見守っていた。どれも体験したことがないことであるはずなのに、やけにリアルな夢に飛び起きると、中野はびっしょりと汗をかいていた。そしてそのまま飛び起きて五分もかからずに着替えを済ませ、準備を整えると、出勤時刻でもないのに宿舎を飛び出して詰所に向かった。聞かねばならない、という強迫観念で突き動かされているようだった。
宿舎に着くと、夜勤の隊員たちのぎょっとした視線に晒されながらも、中野はお構いなしに倉田の執務室に直行してその扉をノックした。倉田がいる、という根拠のない自信は正しく、ノックをするとすぐに倉田の気だるげな「入れ」という声が聞こえて、中野は失礼しますと大きな声を出して執務室に入る。それが中野である、と声で判別していた倉田は机に投げ出していた足を降ろすと、驚いた顔で中野を見た。何してんだお前、と倉田は思わず怒鳴った。中央区の中ですら、中野を一人で行動させるつもりはなかった。
「知りたいんです」
怒鳴られたことには気づいていない、といった様子で中野は倉田の机に詰め寄ると、両手をばんと机の上に叩いて言った。わからないんです、と中野は続ける。
「俺はバカだから。何が起きてて、どうしてこうなってるのか、俺には分からないんです。でも分からないといけないから、教えてほしいんです」
中野は矢継ぎ早にそう言うと、倉田の深く青い瞳を見つめた。倉田はといえば、それこそ状況が理解できていないのか、鳩が豆鉄砲を食らったような顔で中野の黒い瞳を見つめるばかりだった。中野は構わずに続けた。
「俺は人を守りたいからこの仕事を選んだんです。なのに俺のせいでわけわかんないことになってて。俺も頑張んなきゃダメだって」
倉田はそれでもしばらく中野を神妙な顔で見つめていたが、すぐに目を伏せるとはぁと大きなため息をついて両手の指を絡ませるとひっきりなしに手を動かしてから、諦めたように腕を組む。それでも中野のことは見ないまま、倉田は口を開いた。
「七年前の暴動のことはさすがに知ってるよな」
「学校で習いました。ニュースも見ました」
中野は即答する。倉田はそこでようやく中野を見て、やはり呆れたような顔になったが、その点に言及することはなく話を続けた。
「あの暴動で当時の十三区隊の総隊長が死んだとき、指揮官は俺になった。俺が暴動を鎮圧しきれなかったから、たくさんの人間が死んだんだ」
倉田は再び視線を逸らして言った。中野に分かりやすいように、簡素な言葉を選んでいるつもりだった。
「その中に警察庁長官の嫁が含まれてた。林の婚約者もだ」
中野は真面目な顔で倉田の顔を凝視し続ける。倉田はその視線に耐え切れなくなって立ち上がり、一度中野の顔を悲愴な顔でちらりと見やると、部屋の中をうろうろしながら言葉を続けた。
「長官は自分の嫁が死んだのは俺のせいだと思ってる。林も昔はそうだった。あの暴動で大切な人間が死んだ奴は、全員俺が原因だったと思ってるし、俺もそう思ってる」
「それは」
「話は最後まで聞け」
異議を申し立てようとする中野を睨みつけて、倉田はドスの効いた声を出す。
「それ以来俺はこの隊に新人を入れないようにしてた」
倉田はそこで言葉を切った。次の言葉を続けるかどうか、迷っているようだった。中野はその顔を覗き込むようにして見ていたが、もはや倉田に中野の存在は見えておらず、言葉はほとんど独白になっていた。
「これ以上目の前で無駄に人が死ぬのを見たくなかったから。第十三区隊の隊員で死んでいく人間の中で一番多いのはお前みたいな新人だ」
倉田は再び中野を見ると、苦虫を噛み潰したような顔になった。
「だから山縣は俺のルールを破ってお前みたいな新人を配属して、俺の目の前で殺して俺を苦しめたいんだよ。それどころか、この隊全員を人質に取ってるときた」
「そうであれば」
中野は倉田の言葉尻に被せるように口を開く。倉田は目つきの悪い目で中野を凝視していたが、中野がひるむことはなかった。そうであれば、と中野は繰り返す。
「僕は死にません」
中野は背筋を正してそう宣言した。倉田は少し目を見開いたが、何も言うことはなかった。
「僕は死にません。戦います」
戦場に赴く兵士のように、中野ははっきりとそう言い切った。
自分が、自身で考えて決めたことだった。




