第十一章
山縣厚助は元来実直な男だった。第一区に生まれ、官僚の父とそれを支える音楽教師の母の間に生まれた。教育方針はいたって厳格で、そのせいもあって学校の成績は良く、また品行方正でもあった。官僚であった父は酒を嗜んだが、酔いが回ると必ず山縣にこの国の行く末について説いていた。良き国家を構成するためには、国内の平和がまず最も重要である、といった内容だった。国内が平和でなければ、政治家はそのような欠陥を修復するために右往左往する羽目になり、良き国家を目指すために活動を行うような暇はなくなる。山縣がまず政治家や官僚の道ではなく警察としての道を選んだのは、多かれ少なかれその父の演説のためであった。山縣にとって父は偉大な存在で、純粋に尊敬に値する人間だった。父の国家に対する野望を補助するべく警察になりたいのだ、と告白したとき、父親は山縣の予想に反して驚くことも咎めることもしなかった。
「それがお前の決断であるならば、私は尊重しよう」
山縣の父はどこか暖かみのある言葉で、それでいて断固と言った。驚いたのは母親のほうで、山縣は何度も考え直すように説得されたが、意志は固かった。とはいえ山縣が警察学校に進むことはなく、大学で犯罪心理学を専攻した後、キャリア組の一人として警察に着任した。そして今に至るまで山縣が実働部隊として働くことはなかったが、公安課で十三区隊の管理を行っていた。
だからこそ、余計に許せなかった。
山縣は飛ぶように昇進していったが、それでも公安課で十三区隊の管理を行う立場を離れようとはしなかった。それこそが父親の野望を援助するにふさわしい仕事だと、信じて疑わなかったからだ。彼らをいかにうまく管理し、都内の犯罪率を下げ、どれだけ安全を保てるか。山縣はほかのキャリアたちが数歩引くほどその仕事に熱意を注いでいて、あるときは進んで残業したし、十三区隊の隊長格とは綿密なコミュニケーションを欠かすことがなかった。多分、それが初めての出会いであった。今は亡き当時の新山という総隊長が、ある日金髪の青年を連れて会議に参加した。副隊長に就任させたという青年は痩せこけていて、どこからどう見ても第十三区隊という厳しい職場において実力を発揮しそうな人間には見えなかったが、新山の判断には山縣も一目置いていた。倉田幸と名乗ったその青年は、名前とは程遠く幸の薄そうな男だった。
妻である依子とは三十代に差し掛かった頃に結婚した。母親の生徒の一人で、派手な美しさはなかったし、どちらかというと素朴であか抜けない様子の女性だったが、その純粋な笑顔を山縣は魅力だと思っていた。苦労を知らず、ただ幸せな温室の中で育ってきた、と言わんばかりの依子は、正義と庇護の心に突き動かされていた山縣にはちょうど良い女性だったのかもしれない。大学を卒業した依子は専業主婦となって、献身的に山縣を支える立場に立った。夜遅くまで働き、何時に帰宅しようが、依子はいつも山縣の帰りを起きて待っていた。料理が苦手だったが、勉強熱心ではあったので、結婚して数年もすると山縣の好きな料理を網羅しては提供することを喜ばしく思っていた。子供はできなかったが、幸せな家庭だった、と山縣は振り返る。それがすべてぶち壊されたのが、七年前だった。
新山が暗殺されたとき、山縣は狼狽した。操縦していた戦闘機が、忽然と消えてなくなったような気分だった。法律上、十三区隊の総隊長が死亡した場合、第十三区隊の副隊長が総隊長に指名されることとなる。暴動の真っ只中で例の青年を探そうとしていた山縣を、依子は探そうと中央区に来ていた。警察庁に辿り着けば、夫の安否が確認できると思ったのだ。新山が暗殺されてから一時間以上経っても、山縣が新しい総隊長を見つけることはできなかった。苛立ちに溢れながら様々な手を駆使して十三区隊を操ろうとしたが、新山という指針を失った十三区隊の統率を取るのは至難の業だった。そして、依子が警察庁に辿り着くことはなかった。正確には警察庁の玄関口までは達していたのだが、そこで何者かに射殺された。無線すら機能しなくなった世界で、しびれを切らした山縣が警察庁を飛び出ると、見慣れた水色のワンピースが目に入った。依子が気に入ってよく着ていたものだ。その水色のワンピースと自身の妻を関連付けるまでに、山縣の中ではかなりの時間を要したが、粉塵にまみれた状況でその水色がやたらと眩しく見えたのを覚えている。白いボレロに広がった赤い鮮血を見て恐る恐る近寄り、しゃがんで顔を覗き込んで初めて、それが自身の妻であることを知った。目を見開き、口もだらしなく開いて、あのどこか可愛らしい女性の面影はどこにもなくなっていた。ただ恐怖に歪んだ顔を見て、山縣は腰を抜かしそうな思いだった。血まみれの金髪の青年が現れたのは、そのときだった。倉田もまた、指示を仰ごうと山縣のことを探していたのだ。最悪の邂逅だった。山縣は倉田を見るなり震える身体で立ち上がり、胸倉を掴んでやろうとしたが、暴徒が雪崩のように二人の間を割いた。
すべてあの男のせいだと思った。新山ならば、このようなことにはならなかった。
山縣は今でもデスクに依子の写真を飾っていた。結婚式を挙げたときの写真だ。絵に描いたように幸せそうな夫婦はもういなくなっていた。あれ以来、山縣は人が変わった。ただでさえ多かった仕事量は増え、ただし方針が大きく変わっていた。いかなるときでも、いかなる場所でも警察の名のもとに平等な裁きを行い、いかなる悪事でも裁いていこうという山縣の気持ちは消え失せていた。代わりに、依子を殺した移民たちへの憎悪が膨らんだ。その裁きが不当であろうとなんだろうと、山縣はとにかく移民の鎮圧に専念した。もちろん、一番の憎悪の対象はあの男だった。それでも山縣は今まで直接彼に手を出さなかったのは、少なからず葛藤があったからだ。引き金を引いたのは彼ではない、と理解している自分がいた。ただ、暴動の原因であったAXENについて調査している際に、男によく似た女性が包囲網に引っかかった。金色の髪に、青い目をした女性だった。そして、なぜか男と同じ名前を冠していた。
クラタサチ。
それでカチリとすべてのピースが嵌まったような音がした。
憎むべきはあの男であると、山縣の中で自身が大声を上げた。
その日、山縣は爪を噛んでいた。依子に唯一やめるように諭されていた癖であったが、それがついぞ直ることはなかった。倉田幸が、AXENの倉田サチの血縁であることは確実だった。では、彼は暴動のことを知っていたのだろうか? 背後に繋がりがあるのだろうか? 考えれば考えるほどに憎悪は増幅され、そうでなかったとしても、と山縣は思った。移民たち、という茫漠とした軍団ではなく、はっきりとした敵が見えた。
ならば制裁を下すのみだ。
それからの山縣の行動は早かった。倉田幸について、ありとあらゆる情報を集めた。あの暴動の後にしばらく精神病院に入院していたらしいことも、第十三区隊の方針を捻じ曲げてまで若い隊員の死を嫌っていたことなど、再びパズルを組み立てるように山縣は緻密な計画を立てていった。計画が出来上がったとき、山縣はついに依子がいたころの昔の山縣ではなくなっていた。
あの男を、そしてあの女を殺せば、すべてに決着がつく。
山縣は一人ほくそ笑んでいた。笑い出したい気持ちですらあったが、それをすんでのところで堪えていた。これこそが正義だと、父親に報告したい気持ちだった。国内の平和を守るという大義名分に、寸分の狂いもなかった。
悪は、排除しなくてはならない。




