第九章
『ハインリヒ』の名前は、倉田サチの耳にはすぐに届いていた。ダークブロンドの髪を前髪ごと短く切りそろえ、深く青い藍色の瞳をしている。やんちゃな中学生のような見た目だったが、それは単純にサチが非常に小柄なせいもあった。倉田サチには弟がいた。倉田幸と名乗る弟が。
倉田サチは外国人の権利を主張する過激派団体AXENの幹部の一人だった。『Anti-Xenophobia』を謳う団体であるAXENにはその旗に賛同する日本人のみならず多くの外国人移民が身を寄せていて、サチもずっと前にAXENに助けを求める形で所属していた。年の頃は六歳で、あの日、第十三区で細々と暮らしていた倉田サチの家族は一瞬で崩壊した。突然乗り込んできた第十三区隊に、何かしらの嫌疑をかけられた父親が連行されると、抵抗した母親も連行された。倉田サチはその日、たまたま友人の家に遊びに行っていて、事の顛末を知ったのは夕方になってからだった。家はもぬけの殻になっており、生後間もないはずの弟もいなくなっていた。残されたのは強盗に荒らされたような粗末な家の家具たちだけだった。家にはAXENの人間が何人かいて、彼らはサチの置かれた状況を理解すると、起きたことを事細かに説明した上でその身を引き受けることを提案した。サチにほかの選択肢はなかった。それでも、あれは人生で最高の選択だった、とサチは思っている。
『ハインリヒ』の噂を聞いたサチは、複雑な心境だった。父親はありもしない裁判の結果、殺されてしまったと聞いていた。母親の消息は分からないままだったが、サチはあまり望みを持っていなかった。唯一生き残った弟は、いつの間にか父親を殺したはずの政府の犬になっていた。その憎むべき弟が今、父親を名乗る男と対峙している。ニュースで名前を見るたびに虫唾の走るような思いをしていたその弟が、ついに自分の人生に闖入してきたような気分だった。サチはAXENの本部になっている家の地下室で一人考え事にふけっていた。
「サチ」
誰かが階段を降りてくる音がして、東欧系の見た目の壮年の男性が現れた。エミールと名乗るその男性は、当時サチを受け入れようと提案してくれた男の一人だった。もう随分歳を取ってしまっていたが、AXENの中でも重要な人物であることには変わりがなかった。エミールは頭も運も運動神経も良かったから、当時サチを受け入れようとした男たちのうち、ここまで殺されることも捕まることもなく生き残っていた一人だった。サチは顔を上げてエミールを見た。
「情報が集まってきた。どうやら『ハインリヒ』は第十三区の人間たちを集めて特定の人間を殺しにかかろうとしてるらしい」
「誰を?」
「それはまだ分からない。ナカノ、という名前の男だというのは分かっているけれど、彼がどういう人間でどうしてそういうことになっているのかはまったく」
エミールは優しい口調でそう言うと、テーブルの上に座っていたサチの近くの椅子を引いて腰をかけた。年のせいで白髪交じりの暗い髪に暗い目をしてひげを蓄えた、鷲鼻の男だった。
「『あの男』が巻き込まれているのはどうしてだ?」
サチは乱暴な口調で聞いた。そういう喋り方をする女性だった。弟の名前を出すのが嫌いで、いつも『あの男』と呼んでいた。エミールは肩をすくめて頭を振った。
「それも分からない。『ハインリヒ』に接触できないか試みているところだけど、望み薄だな」
そう言ってエミールは画面の割れたスマートフォンを取り出して、何かを開くとサチに向けた。手ぶれの激しい写真がそこにはあって、どうやら金髪の男が写っている。これが『ハインリヒ』らしい、とエミールは言ったが、その顔を判別できるような写真ではなかった。サチはふんと鼻を鳴らした。
「本物であるかどうかも怪しい。アタシは信じてない」
「ただ、君の父親の名前が使われているのは気になるところだろう?」
サチは顔を背けていたが、それは、と振り返った。それは気になる。正直に言って、しばらく逡巡するように床を見た。
「…ただでさえ人員が足りないんだ。そんなパーソナルな理由に大事なリソースを割くことはできない」
「けれど、『ハインリヒ』の目的次第では我々の力になるとも思わないか?」
「判断要素が少なすぎる」
「『ハインリヒ』の動向を伺うだけでも良いと思うが」
食い下がるエミールに、サチは小さくため息をついて笑う。エミールはサチにとっては第二の父親のような男だった。ありがとう、とサチは小さく言う。
「何名か借りるよ。いずれにせよこの区で起きているトラブルは把握しておいたほうがいいね」
「規模も大きいからな」
エミールは満足そうに笑い、そういえば、と付け足した。
「次の襲撃の件も、そろそろ仔細を固めなくては」
AXENの活動は主に外国人の保護と武力的な活動の二つに分かれていた。前者はその名の通り、行き場を失くしたり生活に困窮していたりする外国人にせめてものシェルターを与える平和的な活動だったが、AXENが過激派と呼ばれる所以は後者にあった。AXENが平和的にデモなどを行うことはまずなく、すべて武力を行使して行われる。七年前、東京中の移民たちを扇動して暴動を起こしたのはAXENだった。以来大きな暴動を起こしたことはないが、断続的に常に何かしらの抗議活動を行っている。今回の『襲撃』の主旨は、第十三区の外国人移民を安価に雇用して労働力に変えたい第十三区外の資本家たちに外国人を売り飛ばしているという団体に対する攻撃だった。
「逆に今はチャンスかもしれない。君のその、『例の男』はどうも『ハインリヒ』とやりあうのに忙しいみたいだから、第十三区隊もあまり俺たちに構っている暇はないだろう」
襲撃やデモ活動に必ず付きまとうのが第十三区隊の存在だ。治安維持、という名目でどんな武力的な活動も抑え込みにかかる彼らを、サチは心底嫌っていた。最悪なのが、その頂点に立つ男が自身の弟だということだ。父親を逮捕し、場合によっては殺したかもしれない側に平然とついた弟の神経が分からなかった。何も知らなかったとしても、外国人を迫害する傾向にある政府に、自身の生い立ちや遺伝子にも構わず従事しているのが気にくわなかった。サチはそこまで考えて、苛立って足を組み替えた。
「襲撃は予定通り行おう。政府に対立しているとして、だったら『ハインリヒ』がこちらを邪魔してくるとも思えない。メンバー構成と手筈に関しては明日のミーティングで考える。武器の整備も必要だ」
サチは爪を噛みながらそう言い切ると、それでも釈然としない顔で続けた。
「それでもあの第十三区隊はアタシたちの邪魔をするんだ、きっと。正しいことを言っているのはアタシたちのほうだってのに。誰かを虐げる人間を守って、虐げられる人間に圧をかけるなんて意味がわからない」
「歴史っていうのはそういうものなんじゃないかな。偉い人間はいろいろなことを間違うんだ。私利私欲のために。だから誰かが変える必要がある。どんな手段をもってしてもだ」
エミールは強くそう言うと、地下室を出ようと椅子を立ってサチの肩を激励のために叩いて階段を上がっていった。残されたサチは爪を噛んだまま、エミールの言葉を反芻する。どんな手段をもってしてでも。そう、その通りだ。そして自分はいつか『あの男』に知らしめてやるのだ、と思った。彼がいかに間違っていて、それがいかに自分たちを苦しめているのかを、身をもって感じてもらう必要がある、とサチは考えた。そして、『ハインリヒ』についてももっと知る必要がある。彼が本当の父親であるにしろないにしろ、強力な集団の長であることは確かだ。ましてや外国人であると聞けば、吸収を試みない手もなかった。サチはテーブルから飛び降りてぐるりとだるそうに肩を回すと、エミールが上がっていった階段を上がり、まだ光の眩しい外に出た。
その時点で既に、大変なことになるだろう、という予想だけはついていた。




