名も無きドライブ
しんどくて泣きそうな、そんな日に限って、玄関のドアを開けると聞こえてくるのは怒鳴り声。
あぁ、今日もか。
静かにドアを閉じて、何も聞かなかったことにする。ついでに鍵もちゃんとしめておく。
夜の7時なんて、家族で過ごすゴールデンタイムじゃないの。絶対お隣さんに醜い言い争いダダ漏れだよ、まったく。仲良くしてよね、いい歳した大人が恥ずかしい。…それにしても、今日は何時に帰ろうかなぁ。
呑気にそんなことを考えながら踵を返す。先週みたいに、家に帰ってしばらくしてから喧嘩が始まるよりは100倍マシかな。おいしいごはんも不味くなるしね。そう思うことにした。
皮肉や文句はいくらでも出てくる。けれど、それは怒っているからというより、呆れて自然と出てくるため息に近い。
小さい頃から、両親の喧嘩は多かった。小学校の低学年までは、夫婦喧嘩のたびに泣いていた。『やめてよ、お父さん、お母さん』って。それが、いつの間にか、両親が喧嘩しているということに悲しみを覚えなくなり、中学生になると部屋に逃げることを学んだ。それまでは自分からわざわざ喧嘩を止めに入っていたのだから、たいしたものだと思う。高校生になった私の任務は、その喧嘩が自分に飛び火するのを防止するだけである。
高1の春にとても大きな喧嘩があって、部屋で考え事をしていた私が1階のリビングに呼び出された。その時は腹立たしいこと極まりなく、2階の自室から庭に飛び降りようとした。花壇には土があるから平気かな、と思った。そのとき、血相を変えて私に飛びついてきた両親がなんなのかもう私はわからない。
お母さんも、お父さんも、決して悪い人じゃない。大好きとは言い難いけれど、嫌いじゃない。
でも、もう少し私のことも考えてほしい。学校でもうまくいっていないのに、家もこんなんじゃ、私はどこで休んだらいいんだろう。居場所がほしいとか、そんなことを思ってしまう。悲劇のヒロインみたいな、そんな安っぽい人間にはなりたくない。だからそんなこと絶対に口には出さないけれど。
ああだこうだ考えながら歩いているうちに、駅に戻ってきてしまった。でも、この時間から電車でどこかへ行くのも馬鹿な気がする。
仕方なく駅のそばのベンチに腰掛ける。時間、潰すかな。そうして開いたスマホの充電は残り15%。
「…使えな」
気づいたら呟いていた。なんというか、やるせない。一筋の雫が、私の頬を伝って制服のスカートに落ちた。
こんな今の状況にアドバイスしてくれるとか、話を聞いてくれるとか、そんなんじゃなくていい。多くは望まない。ただとなりに座って、『がんばってるね』って、誰かに認めてもらいたかった。その刹那――
「……吉川?」
頭上から声が降ってきた。それは突然で、でもとても懐かしい感じがした。
「…木村先生」
懐かしい響きだった。しまっていた感情が、溢れてくる波のようで、私の視界はさっきよりもぼやけた。
「…ドライブ、するか?」
*****
「いやぁ、懐かしいねー。あんときはまだ4時とかだったけどさ、状況的には2年前そっくりじゃんか。お前なんも変わってねえのな、吉川」
木村先生(確か今30歳)は中学の国語の先生だ。野球部の顧問だけれど、もう一人の顧問に部活のことを押し付け、授業が終わるとドンキへ車を走らせたりするテキトーな先生だった。そして、中学生の頃はよく私に絡んできて(めんどくさかった)、さらに、私の感情をすぐに見破る手強い先生でもあった。
先生に会うまで忘れていた――いや、本当は心の隅には置いていたのかもしれない。2年間、触れようとしなかった記憶の箱が、丁寧に開かれていく。
2年前、中学3年生だった私は、体調が悪くて部活に出ずに家に帰った。いや、帰ろうとした。玄関の扉に触れたとき、開いている窓から父親の罵声が聞こえて、慌てて家を離れた。なんで平日なのに家にいるの? そんな疑問を抱えながらも、私は駅の方へ向かった。気持ち悪いのに走ったせいで力尽き、駅のそばのベンチで休んでいると、『吉川…お前なんで泣いてんだ?』そう、頭上から声が聞こえた。声ですぐに木村先生だ、とわかったけれど、私は顔を上げなかったし、返事もしなかった。それなのに先生は『……とりあえずドライブするか?』と、そう言ったのだ。
トンネル独特のオレンジ色のライトが私たちの上を流れていく。2年前も助手席に座っているとき、どこを見ていいのかわからなくて、今みたいにただ前方を見据えていた。
「先生いいんですか、彼女さんともうそろそろ結婚するんじゃないんですか? 女子高生を車で連れ回してるの問題あると思うんですけど」
涙を見られたことが恥ずかしくて、とりあえず皮肉交じりに突っかかってみる。でも、先生はそんなこと1ミリも気にせずにいつもの口調で返すんだろう。
「たぶんカノジョさん関係なくアウトだろ。まぁ教え子はノーカウントってことにしようや。それより吉川、ホイホイ男の人についてっちゃだめだろ」
冗談交じりの口調。何も変わってない。変わってないのは先生も同じだ。
「だって、それは先生だから…」
「うん、俺ならいいよ」
なんつって、とおどけて笑う先生を見て、懐かしい感情が私の心になだれ込んでくる。
…ほんとわけわかんない。
トンネルを抜けて、車は海岸線沿いを走る。先生の車の助手席から見る、懐かしい景色。夜の海を眺めようと右手を見ると自然と先生の横顔も視界に入って、急に恥ずかしくなって目をそらす。
「そこで車停めるか」
そう言うと、先生はハンドルを右に回し、海岸の駐車場に入った。
車を降りると、潮の香りが私の身体を呑み込んだ。もうそろそろ夏が来る。
「先生ー、私疲れたかもしんないですー」
堤防に寄り掛かって、あはは〜、なんて笑ってみる。夜風が心地良い。それに、懐かしい。中学生に戻ったみたい。
昼休みに廊下を歩いている私に声をかけてくれた先生を思い出す。『吉川、お母さんと喧嘩したか?』とか『クラスでなんかあったろ』とか。毎回ドンピシャで正解なわけではなかったけれど、ピンポイントで当てられるとババ抜きでビリになったときのような気持ちになる。要するに、謎の敗北感。悔しさ。でも声をかけられたとき、私はほっとするんだ。そして、『そうかもしんないです〜』とか『だったらどうします?』とか、中途半端な言葉をこぼしてみる。そうして先生とのお話の時間が始まる。
「おまえはよくがんばってるよ」
いつも先生はほしいときにほしい言葉をくれた。でも、私は素直じゃなかった。
「…何も知らないくせによくそんなこと言えますね〜」
私は生意気だ。そんなこと言いたいわけじゃないのに、棘付きの言葉ばかりが口から出てくる。
「顔見りゃわかるよ」
先生は私の瞳を見て言い、自分の髪をくしゃくしゃ、として海の方に向き直った。
中学生のときもそうだった。今も数年前も、私の表情を見て私の気持ちを察してくれるのは先生だけだった。
幼い返答しちゃったな、少しだけ後悔する。
「先生結婚式いつですか」
とりあえず質問を投げかけてみる。
「まだ結婚もしてないのに式の話するか?」
「します」
はぁ。とてもわざとらしい先生のため息が漆黒の海に吸い込まれていく。
「俺の未来予想図的にはたぶん来年の秋くらい」
やっぱそのうち結婚するんだ。ずっと前からわかっていたはずなのに、なんだかむずがゆい。
「私受験生なんで行ってあげませんよ」
「そーかよ」
かわいくねぇな、ボソっと笑いながら先生が呟くのが聞こえる。知ってる、そんなの知ってる。言われなくてもわかってる。
時折吹く湿った風がスカートを揺らした。遠くで灯る建物の明かりが、黒い水面に反射して眩しかった。景色の輪郭が、だんだんぼやけてくる。
先生の顔を見れなかった。なんで私はいつもこうなんだろう。なんで私は言葉をもらってばかりで、何も返せないんだろう。
「そろそろ帰るか」
先生は深呼吸をすると、車のドアに手をかけた。私は堤防に寄っかかったまま、遠くの光を見つめていた。じゃないと、もっと視界がぼやけそうだった。
「……帰りたくないな」
掌から水が溢れたのかのように、ポロッと言葉がもれた。
そんな私を横目に見て、先生は一度開けた車のドアを閉めると「はぁ」と小さくため息をつく。
「吉川、2年前も同じこと言ってた。帰りたくないって」
そうだっけ、帰りたくないなんて言ったっけ。曖昧な記憶を辿ろうとしても、それは途中で途切れていて肝心なところにたどり着けない。それなのに、小さな記憶の欠片ばかりが映像になって脳裏に流れ込んでくる。やめて、お願いだからやめて。楽しい思い出は哀しさを呼ぶ。もうそれは過去の話だ。今の私が気軽に寄り掛かっていいところじゃない。きっと、今がだめだと過去が美化される。あの頃だって大変なことがたくさんあったはずなのに、今の私の心に流れ着くものは――そうだな。例えるのなら、シーグラスのようなものだ。
「先生、私、後ろ乗ります」
先生の眉間にシワがよる。怪訝そうな顔つきになった。
「なんで」
「助手席に座るのは私じゃだめだからです」
「は?」
先生はわけがわからない、というような表情をした。正直、自分でも何を言ってるのか意味がわからない。何に対してこんなに意地を張る必要があるのか、わからない。
「……お前さぁ、俺があの日の別れ際に言った言葉覚えてねえの?」
いや、覚えてないならなんでもないんだけどさ、と俯きながら付け加える。
先生と私の間に風が吹く。潮の香りをまとった空気は、温かいわけではなく、冷たいわけでもなかった。
あの日、というのがドライブをした日だというのなら。
「覚えてますよ」
忘れるわけないじゃん――そう思ったけれど、口にだしたら負けだと思った。
「あれ、嘘でも冗談でもないから」
「……え?」
もっと意味がわからなくなった。
あの日、とは、2年前ドライブをしたあの日のことだろう。
『先生、彼女さんといい感じですかー?』
ドライブもあと少しで終わり。トンネルを抜け、信号待ちをしているときだった。空がピンク色になり始めていた。
『さぁね』
どうでもいい、とでも言いたげな返答。私は中学生ながら、彼女さんと喧嘩してたかな、などと変な心配をした。だからとりあえず明るく振る舞った。
『ケチですね〜。そんな私は結婚できるんですかね、一生独身な気がして恐ろしや〜ですよ』
えへへ、なんて笑ってみたけれど、先生は何も喋らない。謎の沈黙。私なにかまずいこと言ったかな。そう思って口をつぐんだ。
『吉川と結婚できたら幸せだろうなぁ』
『……はい?』
突然の一撃。
先生と生徒という体裁で、この人は何を言っているんだろう。そうじゃなかったとしても、10歳以上離れているというのに。
『なにその顔』
そう言われたけれど、先生だって今まで見たことがないような顔をしていた。照れているような、ふてくされているような、微妙な顔。
『……いや、冗談がお上手ですね』
『…なんだそりゃ』
そう言うと、糸が切れたようにケタケタと笑いはじめた。私は子ども扱いされているみたいで悔しかった。
『吉川と結婚できたら…』という言葉が冗談じゃないことが素直に嬉しかった。そして、気づいた。
そっか、私――。
今なら、この気持ちがなんだったのか、名前をつけることができる。『憧れ』と言うには少し無理があった…そんな気持ち。でも、名前をつけても、つけなくても、何かが変わるわけではないし、変えてはならないのだと思う。
私の心の中で、殻が割れる音がした。
「先生、私、今度気が向いたら中学行きます」
「そうか…」
少し嬉しそうに笑った先生。私は卒業してから一度も中学に顔を出していなかった。
「だから、ちゃんと顧問の先生やっててくださいね。あと、彼女さんとうまくやってくださいね。先生飽きっぽいから」
「いやぁー、これは約束していいものなのか」
顔を見合わせて笑った。
先生に会ったからといって、私の周りに転がっている問題が解決するわけじゃない。中学生の頃みたいに、先生と私がいる場所は違うから。
それでも、私はこの人にいつも元気をもらっていた。
「あと、やっぱ今日だけ助手席座らせてください」
先生は返事の代わりに頷いて微笑んだ。海岸の空気を肺いっぱいに取り込んで、私たちは車に乗り込む。
夏が始まる匂いがした。懐かしい匂いだった。
そして、なんの根拠もないけれど、両親の喧嘩はもう終わっている気がした。
トンネルを抜けて、信号待ち。同じような状況でも、あの日と同じものはひとつもない。例えば、空の色。あのときはまだ明るかったけれど、今は真っ暗だ。これでも一応少しは大人に近づいているのかな、なんて、勝手に思った。
「先生、彼女さんのことどんくらい好きですか?」
不意打ちを食らったような先生の横顔がおもしろかった。驚いた顔は困った顔に変わって、先生は前を向いたまま照れ笑いをした。そんな先生がかわいく見えた。
「すんごい好きだよ」
そう言って、もっと恥ずかしそうな顔をする。自然に私も笑顔になった。しびれを切らしてこっちを向いた先生に「突然なんなんだよー」とどつかれた。
先生は、先生ぽくないし、自由奔放すぎるし、わけわからないことを突然言う。
でも、生徒のことも、彼女さんのことも、親身になって考えて、誰よりも大切にしようとする。
――そんな先生は、いままでもこれからも私の自慢の先生なのです。
読了ありがとうございます!
今回の話は、主人公の心に寄り添いたいと思い、少しでも難しい表現をとことん避けました。高校生の拙くて子供っぽい文体にお付き合いいただきありがとうございました。
私は沈んだ気持ちのときに小説を書くことが多いのですが、この話は私のイライラから生まれました(笑)
悩みごとがあって、もやもやした気持ちで家に帰った日、両親がけんかを始めました。
きょうだいはリビングから即退散、自分の部屋へ逃げていきました。しかし、私は帰ってきたばかりでご飯を食べていました。逃げることもできません。案の定、無関与なはずの私にふたりの怒りが飛び火、なぜか理不尽に怒られ、その日の夜、イライラともやもやでいっぱいのまま、携帯のメモ帳に小説を書き始めました。
そして気づいたらこんな話に……どうして……(笑)
しかも、、ほんとは2000文字くらいで収めようと思っていたのに…ほぼ3倍になってしまいました。
苦い思い出も、切ない思い出も、すべての懐かしい思い出が、忘れたくない大切なものとなりますように…。