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鬼怒川温泉 恋し屋  作者: 獏人
9/11

サーロインステーキ!


7月3日(土) 決戦の日まであと2日


 誠志朗は、雨どいから零れる雨音で目を覚ました。冬の間に枯れ葉が詰まったところからあふれ落ちているようだ。

「男梅雨って奴か」

 誠志朗は、独り言を言いながら起き上がった。

 今日は週末の土曜日で、豆腐の注文が結構多いので、木綿豆腐と絹豆腐をいつもより1回ずつ多めに製造しなくてはならない。

トラブルもなく作業を熟して、掃除を終えると、時刻は午前7時を少し回っていた。

「おはよう。誠志朗君。凄い雨ね」

「おはよ。ほんとだね。今日は、配達が増えるかもね」

「そうね。でも、今日は澪ちゃんがいてくれるから大丈夫よ。朝ご飯出来てるわよ」

「ありがと。いただきます」

 エプロンを着けながら製造室に入ってきた美也子と入れ替わりに、誠志朗は上着とTシャツを脱ぎながら脱衣所に行った。シャワーで汗を流してジャージに着替え、居間でニュースと天気予報をチェックしながら朝ご飯を平らげた。

 茶トラ猫のちゃあ君と黒猫のシャア君は、美也子に朝ご飯をもらったらしく、猫ベッドで重なり合ってまどろんでいた。

 テスト明けの澪も、まだ部屋で寝ているらしく、誠志朗にとっては、久しぶりの静かな朝食タイムだった。

 食べ終えた食器を洗って、2階で制服に着替えて出掛ける用意をした。起こさないように澪の部屋の前の廊下は出来るだけ音を立てないように通り過ぎた。

 可成り雨脚が強いので、雨合羽を着てゼッツーで行くことにして、暖機運転をしている間に店のシャッターを開け、ガラス戸から美也子に「いってきます」と手を振って、華なりの宿しずかに向かった。

 店の前の小原通りを右に出て、きぬ川小学校を通り過ぎ、S字カーブを下って小原沢橋を渡り急な坂道を下っていくと、余りの雨量に道路が川のようになっていた。東武鉄道のガードを潜って吊り橋入口のT字路を左折し温泉街の方に進み、竹の沢発電所の送水管を左に見て、下野銀行鬼怒川支店の手前を右折して鬼怒川の渓谷の方に路地を進むと華なりの宿しずかの駐車場に到着した。裏口に回って従業員用の駐輪場の端にゼッツーを停めさせてもらって、脱いだ雨合羽をハンドルの上に広げた。

 傘を持ってくるのを忘れたので、デイパックを頭の上に載せながら、走って玄関へ急いだ。

 玄関には、雨を避けるように大型バスが横付けされていて、チェックアウトした宿泊客が次々と乗り込んでいた。

 玄関の紺色ののれんの前に、団体客のお見送りをする静がいた。薄い水色の経緯絣の着物に紺色の帯とオフホワイトの帯留。艶めく黒髪はいつもの銀の髪留でまとめられていた。

「おはようございます。誠志朗様」

「おはよ。みんなは?」

「湯澤様がお見えですわ」

「そうか。じゃあ、先に行ってるよ」

「はい。ではのちほど」

 次から次へとバスに乗り込む団体客の波を縫って、誠志朗は玄関の自動ドアを潜ってウィステリアに向かった。

 ドアの呼び鈴を押すと、常盤が「はーい」と言ってドアを開けた。

「おはよう。お兄ちゃん」

「おはよ」

「雨、凄かったでしょ?」

「ああ、結構降られたよ。でも、合羽着てきたから大丈夫だったよ」

「そうなんだ。危ないから気を付けてね」

「うん。大丈夫だよ」

「今、お茶入れるから、座ってて」

「ああ、ありがと」

 誠志朗は、鬼怒川の渓谷が見える広縁の椅子に腰掛けて窓の外を眺めた。雨に煙る東京電力の森は、藍色に近い深い緑に包まれていた。

「はい、どうぞ。プーアル茶だよ」

「プーアル茶?」

「中国のお茶だよ。脂肪を分解するから、油っぽいものを食べた時にいいんだよ。それと、血液の循環がよくなって、ぐっすり眠れるようになったり、花粉症にもいいんだって」

「へー、そうなんだ。じゃあ、澪に教えてやらなくちゃ」

「えっ、澪ちゃん、花粉症なの?」

「今年の春に、突然なっちゃったみたいなんだよ。くしゃみと鼻水が止まらないんだって」

「花粉症って、体の中の免疫物質が一定量になると、なっちゃうんだって」

「へー、そうなんだ」

「でも、辛いよね。この辺は杉や桧が沢山あるから」

「でも、そんなこと言ったら、杉並木の近くに住んでる人なんて、大変なんてもんじゃないだろ?」

「ほんとだね。花粉の時期は、風が吹く度に黄色い花粉が舞い上がるのが見えるんだもん」

「あれ、凄いよな。白い車のボンネットとか、黄色くなっちゃうし」

「そうそう。お客様の車が一晩で黄色くなっちゃったりして」

「何にしても、いいことはないよな」

「ほんとだね」

「お疲れちゃーん」

 折角、誠志朗と常盤の会話が弾んでいるところに、全身黒尽くめの永一が、呼び鈴も鳴らさずに入ってきた。

「何だよ、永一。呼び鈴くらい鳴らせよっ」

「おっ、わりーな、こりゃー、お邪魔虫だったかぁ?」

「違うよ。そんなんじゃないよ」

「みんなー、お疲れ様ーっ」

「おまたせー」

 永一の後に続いて、睦美先生と静もやってきた。

 睦美先生の本日の衣装は、霊鳥・ホウオウを織り込んだブルーグレーの大島紬とシルバーグレーの帯に濃紺の帯留。アップにした金色の髪が不思議と似合っていた。

「阿久津君、進捗はどんな感じ?」

「あっ、はい。アフレコスタジオの方は永一に任せて、こっちは、スタジオが出来た後のことを考えてアイディアを出しています」

「そう。でも、今日中にアイディア出しは終わりにして、すぐに計画書に取り掛からないと、もう間に合わなくなるわよ」

「はい、分かっています……」

 実際、睦美先生の言うとおりなのだが、中々思いどおりにいかない現実に、誠志朗は内心焦りを覚えていた。

「ほんじゃ、これが俺の昨日の成果だぜ。目ん玉かっぽじってよーく見ろよ!」

 そんな誠志朗の心情を知ってか知らでか、永一が、テーブルの上に何枚かの図面を広げた。

「えーっ、何よ、これ?」

「何って、アフレコスタジオのパースだぜ? 何か問題あっか?」

「大ありよっ。こんなの駄目に決まってるじゃない!」

「チッチッチッ。これだからトーシロはなっ。折角やるんなら、こんくらいインパクトがねーと駄目だぜ!」

 静が驚くのも無理はなかった。それは、緑色と茶色の迷彩を施した戦車の形をした建物の図面だった。

「だからって、どうして戦車なのよ?」

「建物の構造上、船とか飛行機じゃ無理があっからだよ。それによく見ろよ。砲身が折れ曲がってるだろっ。これは、もう戦えない、戦わないっていうメッセージで、平和の証なんだよ。俺のアイディアなんだぜ。分かるかなぁ、分かんねーだろうなぁ?」

「分かんないわよっ」

「まあ、気にすんなよ。取り敢えず、これはたたき台ってことで。先に進まねーから、次いくぜ」

「いいけど……、認めた訳じゃないからね!」

「ほんじゃ、中はこんな感じなっ。鉄筋コンクリートの完全防音で、大小の収録スタジオとモニタールーム、声優とスタッフの控室や見学者用の通路なっ」

 奇抜な外観に比べて、建物の中は効率的に配置されているのが一目で分かった。

「因みに、これ、いくら掛かるのよ?」

「ざっと、1億っ」

「1億円? そんなの無理に決まってるわ!」

「大丈夫だー。そう言うと思ってよー、ちゃんと考えてきたぜ。建設資金は、うちが全額、保証金を入れっから、それで建てて、うちにそっくり貸してくれれば、運営はこっちでやっからよー」

「えっ、どういうこと?」

「流石ね、金崎君。リースバックの応用を考えたのね?」

「ええ。念のため法務局で確認したら、ここの土地が銀行の担保に入ってて、建物を建てると当然、担保に追加しなくちゃ駄目なんで、うちの名義で建てると借地権の関係で土地の担保価値が下がるから、星野のところの名義で建てさせて、建設資金は保証金という名目でうちが出して、毎月の賃料と相殺して取り崩すさせてもらおうかと……」

「えーっ、ちょっと、何を言ってるのかさっぱり分からないわっ」

「要するに、星野のところに資金の負担を掛けねーで、アフレコスタジオを建てるやり方を考えたんだよ。それによー、収録に必要な機材も8,000万くらい掛かっけど、それもうちで用意すっからっ」

「でも、そんなに負担して大丈夫なのか? 永一」

「大丈夫だー。イベントやキャラクターグッズなんかの興業関係で儲けさせてもらうからよー。それに、そっちは権利関係が結構面倒だから、シネコンでノウハウを持ってるうちでやった方がいいと思ってよ。それと、アフレコで使ってねー時は、地元のテレビやラジオ局の収録をやったり、動画配信サイトに鬼怒川温泉の情報をアップする番組の収録とかをやって、総合的な情報発信基地って感じで使うからよ。まあ、星野のところは、純粋に、宿泊と料飲の売上が増えればいいんだから。そこは、持ちつ持たれつってことでいいよな?」

「確かにそうね。うちでイベントまで仕切るなんて無理だもの」

「じゃあ、その方向性でいきましょうか」

「じゃあ、ちょっと休憩にする?」

 そう言って、常盤がプーアル茶を入れ始めた。

「しかし、凄いな、永一! そんなのどこで勉強したんだよ?」

「いや、大したことねーよ。今よー、たまたま、もう一軒シネコンを造ろうとしてんだけどよー、その土地が農地なんで、銀行が担保価値が低いっつって、オーナーに建設資金を全額貸さねーんだよ。しょうがねーんで、うちが足りねー分を、今言ったのと同じやり方でやろうとしてんだよ!」

「そうだったんだ」

「まあ、俺の経験上、『何とかなる』なんて気持ちでやったんじゃ十中八九上手くいかねーからな。『何とかする』って気概でやんねーとよっ」

「確かに、そうだよな」

「ああ、経営者は、出来ない理由を並べるより、出来る工夫を考えんのが仕事だからな。ついでに言っとくとよー、俺は『悔しさと恥かしさが男を造る』って思ってんだよ。悔しいとか恥かしいって気持ちが起きねー奴は、分からねーことや出来ねーことがあっても、そのままにして、成長しねーからなっ。だから俺は、少なくとも自分の仕事に関しては、妥協しねーで徹底的にやって、誰にも負けねーようにしてんだよ!」

「何かカッコいいね。金崎君! お茶どうぞ」

「おー、サンキュ」

 常盤が尊敬の眼差しで、永一にプーアル茶を渡した。それを見ていた誠志朗はちょっと面白くなかったのだが、何も言葉に出せなかった。仕事に対する志では負けてはいないつもりだが、実戦経験ではとても太刀打ちが出来ないと痛感したからだ。

「さあ、じゃあ、この後は、いままで考えたアイディアを精査して、計画に落とし込んでいきましょう」

「じゃあ、昨日の続きをやるか?」

「じゃあ、私が書記をやるわ」

 そう言って、プーアル茶を飲み終えた静が、ホワイトボードの前に立った。

「追加のアイディアを考えてきた人は?」

「はーい。あのね、声優さんに先生になってもらって、1泊2日の声優体験教室とかはどうかなって?」

「なるほど。そう言えば、澪が言ってたな。若手の声優さんは、収入が少ないので声優養成所の講師のアルバイトをしている人もいるって」

「それによー、実際の収録スタジオを使ってアフレコ体験も出来て、録音したCDはお土産にするってのもいいんじゃね?」

「それいいわねっ。記念にもなるし」

 常盤の出したアイディアは可成り好評だった。

「俺も考えてきたぜっ。新作アニメの先行上映会をやるんだよ! 大宴会場で、どこよりも早く新作アニメが見られるようにしてよっ。当然、声優も呼んで、原作の漫画や小説を販売して、サイン会や握手会もやってよ。ファンが押し寄せるぜ!」

「それもいいわねっ」

「でも、それって簡単に出来るのか?」

「大丈夫だー。面倒な交渉は全部うちがやっからっ。声優のギャラは、宿泊代の一部から出してもらうけどよー、その代わり、上映会の時の飲み物や食い物のチケットをクジにして、抽選でアニメや声優のグッズが当たるようにすれば、グッズ欲しさに、売上が上がるの、上がらねーのって!」

「どっちなんだい?」

「上がるよ!」

「でも、何か、えげつないやり方だな」

「いいんだよ。それがビジネスってもんだぜ。客も納得して金払うんだからよっ」

「そういうものなのか?」

「ああ、そういうもんだ!」

 熟、商魂たくましい永一に、誠志朗は舌を巻いた。

「じゃあ、次は私ね。鬼怒川温泉と秋葉原の間で、直行バスを走らせるっていうのはどう?」

「あれー、でも、直行バスって、新宿とかから出てなかったっけ?」

「あのね、以前はあったんだけど、採算が合わなくてやめちゃったんだよ」

「じゃあ、また駄目なんじゃないか?」

「いやっ、一概に、そうとは言えねーぞ。アニメと声優で町興しをやってるってなれば、アニメファンなら一度は行ってみてーと思うだろうし。ラッピングバスに仕立てて、バスの中でも最新のアニメや情報を流して、レアグッズが当たる抽選券付きの記念乗車券とかも発行して、声優の卵にバスガイドさせたりしてよ。何より、オタクの聖地・秋葉原と直行っていうのが意味があるしよ!」

「だから、オタクばかりじゃないってっ。しかも、また抽選券かよ?」

「いいの、いいの、儲かれば! 利益は正義だからよっ。それによー、インバウンド対策にもなるぜ。秋葉原は電気街もあるし、電車やバスの乗換えに不慣れな外国人を直接運んでやれんだから。そうなりゃ、旅行代理店もこの話に飛び付くぜっ。そういうことだろ? なあ、星野」

「えっ? ……ええ、もちろん、そうよ!」

 多分、そこまで深くは考えていなかったが、永一が都合よく解釈してくれたので、これ幸いと慌てて相槌を打った静だった。

「ほんじゃ、最後はリーダーってことで」

「俺か? 俺は、アニメソングの野外コンサートをやったらどうかって思うんだけど……」

「あーん? そんなのどこでやんだよ?」

「場所か? 場所は、鬼怒川公園の野外ステージでさ」

「そんなの、どこにあんだよ?」

「うちの近くの……、鬼怒川公園駅からすぐのところだよ」

「へーっ、そんなとこあったのかよ?」

「ちょっと奥まったところにあるから、知ってる人の方が少ないよ、きっと。だから、ほとんど使われてなくてさ。使う機会が増えればいいなと思って……」

「あそこって、確か、ふるさと創生事業で造ったんだよね?」

「うん。そうだと思う。最初の頃は色々なイベントで使ってたけど、最近はほとんど使われてないから……」

「枝垂れ桜が凄く奇麗なんだよねっ。あっ、そう言えば、きぬ川小学校の隣の焼そば屋さんって、まだやってるのかな?」

「やってるよ! 『文具と軽食のまるぬま』だろ?」

「そうそう! あそこの焼そばって、凄い大盛りなんだよねっ」

「そうだったな。500円分買ったら食べ切れなかったよな!」

「あのよー、ローカルな話題で盛り上がってるとこわりーんだけどよー、そろそろ先に進めねーと……」

「あっ、ごめんごめん」

「じゃあ、一通り出そろったところでちょっと整理しましょうね。全部のアイディアを星野さんと金崎君のところでやることは無理だから、選択と集中をしましょう」

「選択と集中?」

 静が、初めて聞いた言葉だったかのように復唱した。

「星野さん、私の授業を聞いていなかったのかしら?」

「えっ、あっ、そう言えば、聞いたことがあるような、……ないような……」

「まったくもう。最大の効果が得られる事業に、資源や資金を集中することよ」

「へーっ、そうだったんですか?」

「……」

 静の反応に、思わず絶句してしまった睦美先生だった。

「じゃあ、みんなで意見を出していくか?」

「一つだけいいかぁ。ポイントは、こっちでコントロール出来っかどうかってとこだぜ。いくらやりたくても、こっちの力だけでは出来ねーこともあっからよっ」

永一のアドバイスを踏まえて、全員で意見を出し合って、それぞれのアイディアの上に、重要度が高い順に◎○▲△の印を付けて仕分けすることになった。どうしてそういう印なのかは誠志朗達には分からなかったが、永一が「それでいいんだよ」と言うので、そうなった。


◎キャラクターグッズ

◎お土産

◎アニメのイベント

◎トークショー

◎キャラクターと声優の誕生日イベント

▲キャラクターと声優のパネル展示

▲スタンプラリー

△ラッピングバス・電車

○コスプレ・記念写真

○キャラクターや声優の好きな食べ物

◎ライブ・ミニコンサート

◎ゲーム

◎ラジオ番組の公開録音

◎チャリティーオークション

◎声優体験教室

◎先行上映会

△直行バス

◎野外コンサート


「でもさ、こんなに沢山出来るかな?」

 誠志朗が、印の付け終わったホワイトボードを見直しながら言った。

「任せろって! 興行関係はうちで仕切っから。オフシーズンは毎週、何かやってるイメージでよっ。特に、客室稼働率の低い平日にイベントを持ってくっから。それと、◎以外の奴は、市役所の観光課とか商工会とか関係各所に企画書を作って説明してくっからよっ」

 永一が言うと、なぜか本当に出来そうな気がしてくるから不思議だと、誠志朗は思った。

「じゃあ、これで、各イベント毎の集客人数と、宿泊と料飲の単価を見積もれば、売上の予想が出来るわね」

「先生、ちょっといいですか? キャラクターグッズとかお土産とかの販売数量と客単価はどうやって予想したら……」

「それはよー、うちのシネコンのデータを参考にすればいいぜ。特別に、劇場版アニメのデータを抽出してやっから。今、そのパソコンに送らせっからよっ」

 すぐさま永一は、ポケットからスマホを取り出して、どこかにメールを打ち始めた。

「えーっ、ありがとう、金崎君。それなら間違いないもんね」

 またしても常盤が、永一に尊敬の眼差しを向けていたので、誠志朗は複雑な気持ちになった。

「じゃあ、ちょっと早いけど、この辺でお昼にする? 午後は、1時に旅行代理店さんが来てくれるから」

「おっ、もうそんな時間か?」

 真剣に考えていると時間の経つのは早いもので、時刻は11時30分を回っていた。

「今日は、流し素麺よ」

「えーっ、流し素麺? そんなのどこでやるんだよ?」

「流し素麺って言っても、本当に『竹とい』で流すんじゃないわよ。『回転式素麺流し』って言う機械があるのよ。そろそろ季節だし、試運転しなくちゃいけないからちょうどよかったわ」

 何がちょうどよかったのかはよく分からないが、流し素麺を食べさせる機械があるようだ。

「じゃ、用意してくるから、10分くらいしたら、調理場に来て」

 そう言って、静は先に部屋を出ていった。

「じゃあ、午後は、旅行代理店さんの意見を聞いて……、その後はどうする?」

「おいおい、何、のん気なこと言ってんだよ! 今日中には計画書の中身を埋めとかねーと、もう明日しかねーんだぞ! それによー、説明の練習だって必要だろ? ぶっつけ本番でやる気か?」

「説明って、俺がやるのか?」

「あたりめーだろ! おめーがリーダーなんだからよっ」

「えーっ、俺より永一の方がいいだろう?」

「俺は駄目だぜ。不測の事態に備えなくちゃならねーからなっ」

「何だよ? 不測の事態って?」

「それが分からねーから不測なんだよ!」

「???」

「いいから、おめーが説明すんだよ。リーダーなんだからよ!」

 永一に、二度もそう言われて、渋々納得した誠志朗だった。

「がんばって!」

 誠志朗の気持ち余所に、常盤が胸の前で両手を握ってエールを送っていた。

「ほんじゃ、そろそろ飯にすっか」

 そう言って、永一が席を立ったので、誠志朗達も後に続いてウィステリアを出て調理場へ移動した。廊下の途中にある『STAFF ONLY』と書かれた鉄製のドアを開けて従業員通路に入り、従業員用エレベーターで5階へ上がった。エレベーターの中で誠志朗は、静の書いた落書きが見えないように、不自然にぴったりと壁側に張り付いていた。

 調理場に着くと、従業員の板前が誠志朗達に気付き、「女将さーん、お願いしまーす」と声を掛けたので、静が「はーい」とGの音程の女将モードの透き通った声で返事をした。

「こっちよ」

 静が、調理場の奥の部屋から手招きした。

「失礼します」

誠志朗達が部屋の中に入ると、そこは従業員用の食堂兼休憩室になっていた。この時間はまだ利用している人はいなかった。

「ここに座って」

静が、中央にドーナツ型の水槽が配置された丸いテーブルの形をした機械に、誠志朗達を案内した。テーブルの周りにはパイプ製の丸椅子が置かれていた。機械のスイッチを入れると、水槽の中に勢いよく水が注ぎ込まれた。それは反時計回りに水流が出来る仕組みになっていた。

「じゃ、入れるわよ」

 水槽が水で一杯になると、静は、ザルに山盛りの素麺を流し込んだ。

「お好みの薬味でどうぞ」

 江戸切子のちょこに付けつゆを注ぎ、水槽の内側の丸いテーブルの部分に置かれた、ねぎ、しょうが、みょうが、しそ、辛味大根の薬味を、お好みで入れて食べるようだ。

「えーっ、面白ーい。右利きの人に合わせて、ちゃんと反時計回りになってるんだねっ」

 常盤が、初めて見た『回転式素麺流し』の仕組みに驚いていた。

「ねえ、どうする? 素麺をすくうお箸と食べるお箸は別にする?」

「あーん? めんどくせーから同じでいいんじゃねっ」

「私は構わないわよ」

「私もいいよ」

「じゃあ、私は誠志朗の左の席ね」

 静が、なぜか誠志朗の左側の席を主張した。

「何でだよ?」

「だって、あんたの川下じゃバッチイでしょ」

「星野よー、これって、一周回ってんだから川上も川下もねーんじゃねーの?」

「あっ、そっか」

 静のボケに一同爆笑して、素麺を食べ始めた。

 回転式素麺流しは上手く出来た機械で、常に新しい水が注ぎ込まれ、オーバーフローした水は、周りから流れ落ちて排水される仕組みになっている。冷たい井戸水でよく締まった素麺がツルツルのシコシコで凄く美味しい。

「天ぷら揚がったよー」

「はーい」

 調理場の方から親方の声がして、静が揚げたての天ぷらを運んできた。

「はい、どうぞ。天つゆはこっちね」

 親方のこだわりなのか、天ぷらは、素麺の付けつゆとは別に用意した天つゆで食べるさせるようだ。車海老にアナゴにキス、舞茸にしし唐などの季節の野菜の天ぷらの盛り合わせが豪勢だ。

「わー、美味しそう」

「ほんじゃ、早速っ」

 永一が箸を伸ばして、車海老の天ぷらを一口。

「いやっ、うめーの、美味くねーのって!」

「どっちなんだい?」

「うめーよ! しかしよー、この前も美味かったけどよー、ほんとに星野はいいよなー。こんなうめーもん、毎日食えてよー」

「だーかーらー、毎日なんて食べてる訳ないって言ってるでしょっ」

「ほんとかよー? 何か怪しいなー」

「ほんとだってば。大体、仕事中は忙しくてゆっくり食べてなんていられないんだから。小さいおにぎりとかを作っといて、お腹が空いたらちょこちょこ食べるんだから」

 温泉旅館のきらびやかなイメージとは対称的に、裏方はどこも地味で大変なんだと、改めて思った誠志朗だった。

 それから、親方が気を利かせて茹でてしまった素麺のお替りを追加投入して、天ぷらと一緒にすべて平らげた。追加の素麺は、誠志朗と永一がほとんど食べる破目になってしまった。

 静が入れてくれたお茶を飲んで、午後1時まで休憩ということにして、誠志朗と永一はウィステリアに戻った。女性陣は、甘味処で別腹に収めるものがあるらしく、取る物も取り敢えず5階へ上がっていった。

 誠志朗は、ウィステリアに戻るとすぐ、テーブルに突っ伏して昼寝を始めた。永一は、テーブルに両足を投げ出して、イヤホンをつないだスマホで音楽を聴き始めたようだった。



「時間だよ。起きて」

 常盤に優しく肩を揺すられた誠志朗は、さっきテーブルに突っ伏してからほんの数秒しか経っていないような気がしてならなかった。

「ふあーっ。もう時間?」

 椅子に座ったまま大きく伸びをして、誠志朗は漸く目を覚ました。

「はい、お茶どうぞ」

「ありがと」

 常盤が入れてくれたプーアル茶をすすると、誠志朗は少し頭が軽くなった気がした。

 そのまま少しぼーっとしていたら、部屋の呼び鈴がなったので、常盤が「はーい」と言ってドアを開けた。

「奥へどうぞ」

 静が、旅行代理店の人を連れてきた。

「はじめまして。大河原と申します。よろしくお願いいたします」

濃紺のスーツ姿の背の高い男性が、『エリアマネージャー』と書かれた名刺を渡しながら一人一人に挨拶した。流石に、永一と睦美先生の風貌にはちょっと引き気味だったが――

「では、リーダーの阿久津の方からご説明をさせていただきます」

 事前の打合せもなしに、突然、静が誠志朗に話を振った。

「えっ、あっ、はい。んっ、んんっ、では、ご説明をさせていただきます」

誠志朗は、最初はちょっとしどろもどろだったが、説明をしているうちに今までやってきたことが思い出されてきて、最後の頃は、自分でも美味くやれていると思うくらいに説明が出来た。

誠志朗の説明を聞き終えた大河原マネージャーは、開口一番「画期的なプランだと思います」と言った。

「本当ですか?」

「ええ、本当です。これまでいくつものコンテンツツーリズムの案件に携わってきましたが、そのほとんどが、作品ありきの受け身のものでした。そのため、作品の寿命とともに規模が縮小していってしまいました。しかし、こちらのプランであれば、常に新たなコンテンツを発信出来る仕組みになっていますので、今までと違った可能性を見出せるものと確信いたしました」

「やったー!」

 大河原マネージャーの言葉を聞いた静は、それまでの女将モードをすっかり忘れて、たちまち満面に笑みを浮かべた。

「出来ればもう少し詳しくお話をお伺いしたいのですが、特にイベント関係について……」

「それについては、私からご説明いたします」

 驚いたことに、永一が自分のことを『私』と言って説明を始めた。大河原マネージャーは時折メモを取りながら熱心に永一の説明を聞いていた。

 説明が一通り終わると、大河原マネージャーからいくつかの質問があったが、それについても、永一が的確に回答していた。

「お話をお聞きすればするほど魅力的なプランだと思います。もし差し支えなければ、弊社の関連会社の声優プロダクションにも連絡させていただきますので、イベントや声優の派遣などの業務提携を視野に入れて詳しい打合せをさせていただきたいと思いますが、いかがでしょうか?」

 それを聞いた永一が、誠志朗達の顔を見回してから「是非お願いします」と返事をした。

「畏まりました。それでは改めて担当の者からご連絡をさせていただきます。その際は、女将様のところにご連絡を差し上げればよろしいでしょうか?」

「はい。大丈夫です。よろしくお願いいたします」

 静が、大河原マネージャーに深々と頭を下げながら返事をした。

「皆様、本日は貴重なお時間をいただきまして誠にありがとうございました」

「こちらこそありがとうございました」

 大河原マネージャーが立ち上がって頭を下げたので、誠志朗達も立ち上がってお礼を言った。それから、静が玄関までお見送りをすると言って、大河原マネージャーを案内して部屋を出た。

「やったー!」

 誠志朗達は、大河原マネージャーと静の気配が消えるのを待って、ハイタッチをしながら歓声を上げた。静ほどではなかったが、いつもはポーカーフェイスの永一も、この時ばかりは流石に嬉しそうに笑った。

「みんな、お疲れ様。旅行代理店のお墨付きがもらえたのは大きな収穫よ。よくやったわね」

「ほんと、凄いね!」

「流石、永一だよ!」

「大したことねーよ。俺は、ただ、今までのことを説明しただけだしよー」

 みんなに褒められて、柄にもなく照れた永一は、銀の板串でオールバックの髪を念入りに整えていた。

「じゃあ、ちょっと休憩にする?」

 そう言って、常盤がお茶を入れ始めた。

「いやーっ、ほんとよかったよ。これで一安心だなっ」

「阿久津君、そんなのん気なことは言ってられないわよ。もう時間がないんだから、この後は、全力で改善計画書の作成に取り組まないとっ」

「あっ、はい。そうですね」

 ほっとして気の抜けた発言をした誠志朗に、睦美先生が活を入れた。

「じゃあ、この後は、手分けして、改善計画書の内容を埋めていくか?」

「あのね、事業概要と実態BS・PLは、前回のを参考にして最新の内容に更新しておいたよ。不動産の概要も、前回のと変更ないって静ちゃんが言ってたから、今回の新規設備の概要を入れれば出来上がりだよ。後は、計画の概要を作ったら、資金計画に現在の借入の明細を入れて、計画PLと計画BSを作れば大体完成だよ」

「えっ、もうそんなに進んでるのか?」

「うん。家に持って帰ってちょこちょこやってたんだよ」

「そうか。お疲れ様、常盤。ありがとなっ」

「うふふっ、どういたしまして」

 習い事とかで忙しい筈なのに、常盤が、改善計画書の内容をほとんど埋めてくれていたようだった。

 それから、静が戻ってくるのを待って、改善計画書の作業に取り掛かった。不動産と新規設備の概要と資金計画については永一と静が、計画の概要と計画BS・PLについては誠志朗と常盤が、それぞれペアになってやることになった。

 手持ち無沙汰の睦美先生が「露天風呂に入ってこようかしら」と言ったので、「この時間はお掃除も終わってますから、どこでもお好きなお風呂へどうぞ」と、静が冗談のつもりで言うと、「じゃあ、そうさせてもらうわ」と、本当に入りにいってしまった。「分からないことがあったら聞きにきてね」と言い残して。

 永一と静のペアは、もともと誠志朗の父親が入力してあった不動産のデータに、新しいアフレコスタジオの明細を追加する作業を始めた。

 誠志朗と常盤のペアは、計画の概要を入力するところから始めた。

 暫く間、4人は、それぞれのペアで黙々と作業を続けていたのだが、ある部分に差し掛かった時、常盤のキーボードを叩く指が止まった。

「これって、どうしたらいいのかなぁ?」

「えっ、何だい?」

「えーとね、今回の計画には、アニメと声優のプランと、厄除け祈願パックのプランがあるでしょ。それを計画PLに落とし込むのがちょっと難しくて……」

「えっ、どういうこと?」

「一つのプランだけだったら、現状の業績予想に、新しいプランの売上や経費を上乗せすればいいんだけど、いくつものプランがあると計算式が複雑になっちゃって……」

「うーん、そうかぁ……」

 誠志朗も、その辺のことはよく分からなかったので、唸りながら永一の方に顔を向けててみた。

「あーん? 何だよ?」

「ちょっと、教えてくれよ」

「分からねーことがあったら聞きにこいって、さっき睦美ちゃんが言ってただろっ」

「えっ、まさか、あれは冗談だろ?」

「別によー、一緒に風呂に入る訳じゃねーんだから、ガラス戸越しに聞けばいいじゃねーかよ?」

「いや、流石にそれはまずいだろ。意地悪しないで教えてくれよ」

「まったく意気地がねーんだなっ。目的を達成するためには、手段を選んでたんじゃ駄目なんだよっ」

「いや、でも、それとこれとは別だろ?」

「しょうがねーな。じゃあ、ヒントをやっから。1枚で駄目なら何枚も作ればいいんだよ」

「えっ、どういうこと?」

「あっ、分かった! 金崎君。それぞれの計画のエクセルシートを作って、最後に合計のシートを作ればいいのね」

「はい、ご名答!」

誠志朗には分からなかったが、常盤は、永一の言わんとしたことを一発で理解したようだった。でもこれで、入浴中の睦美先生のところに聞きにいかなくて済んだので、誠志朗は、ほっと胸をなで下ろした。

 それからまた、それぞれのペアで黙々と作業を進めていたが、途中で、静が「銀行の借入明細を取ってくる」と言って席を立ったので、やることがなくなった永一も、「もう一度中庭を見てくる」と言って一緒に部屋を出ていった。

「ねえ、お兄ちゃん?」

「んっ、何だい?」

「あのね、このままだと明日までに終わらなそうだから、今日はちょっと遅くまでやりたいんだけど……」

「そうなのか?」

「うん。ごめんね」

「いや、常盤が謝ることじゃないよ。じゃあ、永一達に手伝ってもらうか?」

「でもね、計画PLとBSのエクセルシートがリンクしてて、別々に作業出来ないの……」

「そうか……、じゃあ、ここに残って、終わるまでやるか?」

「うん。それでもいいんだけど……、うちで一緒にやってくれないかなって……」

「えっ、常盤のとこで?」

「駄目?」

 常盤が、前髪にちょっと掛かりそうなくりくっとした瞳を上目遣いにして、誠志朗の答えを待っている。

「いいけど……、常盤の部屋で二人っきりは、ちょっとまずいよ……」

「えっ、違うよ、お兄ちゃん。この前の応接室でやるんだよ」

「あっ、そうか」

「変なの、お兄ちゃん」

 誠志朗は、常盤が「うちで一緒に……」なんて言うものだから、てっきり、常盤の部屋で二人っきりで作業するものだと、邪な想像をしてしまったのだ。

「じゃあさあ、うちでやらないか?」

「えっ、お兄ちゃんちで?」

「うん。こないだ母さんと澪に、常盤のお弁当をご馳走になった話をしたら、今度連れてこいってうるさいんだよ」

「そうなの? 久しぶりにおば様と澪ちゃんに会ってみたいけど、いきなりじゃ迷惑じゃないかな?」

「大丈夫だよ。常盤ならいつでも大歓迎だよっ」

「ほんとにー? 大丈夫かなぁ?」

「大丈夫だって! じゃあ、今、母さんに電話しとくよ」

 言い終わらないうちに誠志朗は、ポケットからスマホを取り出し、着信履歴から恋し屋豆腐店の番号をリダイヤルした。

「なーにー? 誠志朗君?」

 電話の向こうでは、澪が受話器を取っていた。どうやら美也子は出掛けているようだ。それで、仕方なく店番の澪が電話に出たのだ。

「あれ、何で分かったんだ?」

「お店の電話がナンバーディスプレイなのを忘れたのか? 誠志朗君」

「あっ、そうか。まあいいや。そんなことより母さんは?」

「また、お母さん、お母さんって、もうどうしようもないマザコンだな、誠志朗君はぁ」

「うるさい! いいから母さんは?」

「配達中だぞ、誠志朗君」

「そうか。じゃあ、伝えといて。今晩、常盤がうちに来るって」

「えっ、常盤お姉ちゃんが来るの?」

「そうだよ。でも、遊びに来るんじゃないぞ。明日までに書類を作らなくちゃいけないんだから……」

「そうか、そうか、常盤お姉ちゃんが……」

 常盤が家に来ると聞いて、澪は、誠志朗の話など耳に入らない様子だった。

「澪ちゃん? 代わって」

 常盤が澪と話したいと言うので、誠志朗は、ハンカチでスマホの画面を拭いてから常盤に渡した。

「澪ちゃん? こんにちは」

「わーっ、常盤お姉ちゃん、こんにちは」

 澪のよく通る声が、スマホから漏れ聞こえてきた。

「あのね、今日、お邪魔しても大丈夫かなぁ?」

「大丈夫ですよ。今日でも明日でも毎日でも。そうだ、夕ご飯一緒に食べましょうよ。お母さんに電話しておきますから」

「えーっ、でも、そんな、迷惑じゃ……」

「全然大丈夫ですよ。いざとなったら誠志朗君の分はカップラーメンとかでも平気ですから」

 誠志朗に聞こえないと思って、澪は、たった一人の実の兄に恐ろしく惨い仕打ちをしようとしていた。

「えっ、でもー、どうしようかなぁ?」

「きっとお母さんも『食べてって』って言いますから、大丈夫ですよ」

「えーっ、……じゃあ、お言葉に甘えて……」

「やったー! じゃあ、待ってますからね。なるべく早く来て下さいねっ」

「はーい。じゃあ、よろしくお願いします。じゃあ、お兄ちゃんに代わる……」

「ツーツーツーツー」

「あれ? 切れちゃった」

 常盤が言い終わらないうちに、澪は電話を切ってしまったようだ。

「しょうがないな、まったく」

「うふふっ、でも、久しぶりに澪ちゃんと話せてうれしかったよ」

 そう言った常盤は、くりくりっとした目を半月にして笑い、本当にうれしそうな表情をしていた。

「でも、いいのかな? 本当に迷惑じゃ……」

「大丈夫だって! 母さんもきっと喜ぶからっ」

「そうかなぁ? それならいいけど……」 

 そんな話をしているところで、また、部屋の呼び鈴も鳴らさずに永一と静が入ってきた。静はまたトレーに何かを載せてきた。

「はーい、イチゴ水よ」

 静がテーブルの上に置いたグラスには、淡いピンク色のイチゴ水にスライスしたレモンが浮かべられていた。

「わーっ、奇麗ーっ」

「無農薬のラズベリーとレモンを使ってるのよ。美味しいから飲んでみてっ」

 さも自慢げに言う静に勧められて、誠志朗たちはイチゴ水に口を付けた。

「おーっ、うめーなこれ」

「ほんとだ。美味い」

「ラズベリーのほのかな甘みをレモンの酸味が引き立たせてるねっ。砂糖はグラニュー糖かな?」

「ピンポーン。流石、常盤ね。白砂糖や和三盆だとすっきりした甘さが出ないから駄目なんだって。ここだけの話だけど、親方って、あんな顔して『赤毛のアン』が大好きなのよ。プリンスエドワード島に行ってみたいなんて言ってるんだもの。網走番外地の間違いじゃないのって言いたいわよねーっ、常盤?」

「やだ、静ちゃんったら。でも、ラスベリーなんて珍しいね?」

「でしょう! 私も知らなかったんだけど、すぐそこの鬼怒川アグリ工房さんで作ってて、初積みをいただいたんだって」

「へーっ、そんなところがあったんだね?」

「そうなのよ。ブルーベリーとかブラックベリーも作ってるんだって」

「そうなんだ。今度行ってみようかな」

「これって、ラウンジで出してるのか?」

「出してないわよ。ラズベリーが手に入った時しか作らないから。ほとんど親方の趣味みたいなものだもの」

「もったいないな。こんなに美味しいのに」

「でも、定番で置けないメニューは、苦情になっちゃうから駄目なのよねー……」

「ふーん、そんなんだ」

 親方のレシピ帳には、まだまだ商材になりそうなものが沢山ありそうだと想った誠志朗だった。

「さーてと、じゃあ、続きをやるか? 永一達はどんな感じ?」

「こっちはよー、今の借入内容を入れれば完成だぜ。そっちこそどうなんだよ?」

「あのね、こっちは、ちょっと遅れてて……、資料を持ち帰って、私が、明日の朝までにやってくるね」

 常盤は、残りの作業を誠志朗の家でやるとは言わなかったので、誠志朗も敢えて口を挟むことはしなかった。

「大丈夫なの? 常盤。私が手伝えればいいんだけど、今日は土曜日で結構混んでるのよ……」

「大丈夫だよ、静ちゃん。気にしないで」

「じゃあ、今からやれるところまでやるか?」

 親方特製のイチゴ水を飲み干して、誠志朗達は作業を再開した。

 暫くして、永一と静のペアの作業が終わったと言うので、誠志朗は、追加で、表紙と目次の作成と添付する資料の整理を指示した。

その後、たっぷり1時間以上は露天風呂に入っていたであろう睦美先生がウィステリアに戻ってきた。

「いいお風呂だったわ。星野さん、いつもありがとうございます」

「どういたしまして。先生、イチゴ水どうぞ」

「あら、美味しそうね。いただくわ」

 湯上がりの睦美先生は、ほんのりピンク色に火照った顔を手の平で扇ぎながら、鬼怒川の渓谷が見える広縁の椅子に腰掛けた。

「阿久津君? 進捗はどんな感じ?」

 イチゴ水を飲みながら、睦美先生が誠志朗に確認した。

「後は、計画BSとPLの部分と添付する資料だけです」

「今日中には何とかなりそう?」

「えーと、ちょっと遅れてて、残りは常盤が家でやってきてくれると……」

「はい。明日の朝までには完成させてきます」

「そう。大変だけど、よろしくお願いしますね。湯澤さん」

「はい。大丈夫です」

「じゃあ、明日は、朝から改善計画書の読み合わせをして、実際に銀行で説明するリハーサルもしましょう」

「はい」

「じゃあ、今日はこの辺にしときましょうか?」

 時刻は、間もなく3時30分になるところだった。

週末の土曜日で、3つの団体の予約が入っていると言う静が、常盤に「ごめんね」と両手を小さく擦り合わせながら部屋を出ていったのに続いて、永一も、設計事務所に寄っていくと言って帰った。「もう少しやっていく」と言う常盤と一緒に誠志朗が残ることにして、睦美先生も「よろしくお願いしますね」と部屋を後にした。

「お疲れ様、お兄ちゃん」

「常盤もお疲れ様」

「ごめんね。遅くなっちゃって……」

「だから、常盤が謝ることじゃないって……」

「でも、ほんとに……」

「さあ、切りのいいところまでやって、続きはうちやるか? 澪も待ってるし」

「うん。そうだね。頑張るね」

 それから、30分くらいやって、一区切り付いたところでウィステリアでの作業は終わりにして、残りの作業に必要な資料は、誠志朗がディパックに無理やり詰め込んで帰ることにした。

 一旦、家に帰ると言う常盤の迎えの車が来るのを待って、「6時に行くね」と後部座席で手を振る常盤を見送ってから、誠志朗も家に急いだ。

 夕べから降り続く雨は、夕方になって益々激しさを増してきて、僅か10分程度の帰り道なのに、ヘルメットを伝った雨水が雨合羽の中に入ってきて、誠志朗が家に着いた時には、制服のワイシャツがびしょびしょに濡れてしまっていた。

「ただいまー」

 車庫にゼッツーを仕舞い、ハンドルに雨合羽を広げて、ヘルメットを脱ぎながら店に入った。

「常盤お姉ちゃんは?」

「何だよ、『おかえり』もなしかよ」

「はいはい、おかえり。誠志朗君」

「ちぇっ、……6時に来るってさ」

「じゃあ、もう、お店閉めちゃお!」

「駄目だよ。まだ残ってんじゃ……」

 そう言いながら、誠志朗が冷蔵ショーケースをのぞき込むと、大雨にも拘らずほとんど売れていて、残っていたのは木綿豆腐と絹豆腐が2丁ずつと、絹豆腐の生揚げが2パックだけだった。

「おーっ、流石、看板娘!」

「やめてったら! もう、誠志朗君はーっ」

「あははっ、悪い、悪い。じゃあ、お仕舞いにするか?」

 笑いながら誠志朗は、店の外に出てガラス戸を閉め、シャッターを2枚続け様に下ろしてから、『風吹けど猫に出掛ける用がある 本日定休日』と書かれた木製のプレートを掛けて、玄関に回って家に入った。

「おかえり、誠志朗君」

「ただいま」

「常盤ちゃん来るんだって?」

「うん。6時に来るって」

「豆乳プリン作っといたわよ」

「おーっ、ありがと。喜ぶよ、きっと」

「夕ご飯も奮発しておいたわよ」

「えっ、何? 何?」

「ジャジャーン!」

 声のファンファーレを鳴らして、美也子が誠志朗に見せたのは、大田原牛のサーロインだった。

「やっったぁー!」

 夢にまで見た大田原牛のステーキ肉が、誠志朗の目の前で後光を放っていた。

「でもね、2枚しか売ってなかったから、これは常盤ちゃんと澪ちゃんの分で、誠志朗君とお母さんはオージービーフのロースなのよ、ごめんね。でも、タレは『宮のタレ』にしたから……」

「…………」

 激しく誠志朗の心が折れる音がした。――が、当然、美也子には聞こえる筈はなかった。

大田原牛のサーローインステーキを、栃木県民が愛してやまない宮のタレで食べたらどんなにか美味しいだろうと想像した誠志朗は、『完全に沈黙』して暫く動けなくなった。そんなことなら、宮のタレなんかない方が、さっさと諦めがついて逆によかったとも思ったくらいだった。醤油・酢・玉ねぎ・にんにくだけで作られた宮のタレは、シンプルだけど、物凄く美味しくて、一度食べたら病み付きになる味なのだ。

「そんな殺生なぁ」

「ほんとにごめんね。また後で買ってくるからね」

「『後で』と『お化け』は出たことないよ」

 誠志朗は、弱々しく、そう答えるのがやっとだった。

「そんなこと言ってないで、早くお風呂入ってきなさい。風邪引くわよ」

 誠志朗がぬれて帰ってくると思って、美也子は早めに風呂の用意をしてくれていたようだった。

「分かったよ。ありがと」

 魂が抜け落ちたような誠志朗は、ぬれたブレザーとズボンをハンガーに引っ掛けてから、すっかり冷たくなった心と身体を引きずって脱衣所に行った。ちょっと熱めの風呂に浸りながら、大田原牛のステーキのことを考えてはブクブクと深いため息を吐いた。

 でも、いつまでもくよくよしていても仕方ないし、もしかしたら、澪は無理でも、常盤がちょっとだけ分けてくれたりするかもしれないなどと、淡い期待を抱いて風呂から上がった。

 いつもならジャージに着替えるところだが、今日はこれから常盤が来るので、誠志朗は、洗い立てのジーンズとポロシャツを引っ張り出した。

 約束の6時にはまだ30分くらいあるので、手持ち無沙汰の誠志朗は、ベッドに横になって休憩することにした。

 

 

「誠志朗くーん、常盤お姉ちゃん来たよー」

 例によって、澪の声で飛び起きた。湯上がりの身体が少しずつ冷えるのに従って、いつの間にか眠りに就いてしまっていたのだ。

「ふあーい」

 欠伸と一緒に返事をして、誠志朗は急いで階段を駆け下りた。居間テーブルには、誠志朗がいつも座る席の右側の席に常盤が座っていた。

「こんばんは、お兄ちゃん」

「……あっ、ああ、こんばんは」

 小さな花模様が散りばめられた白のブラウスに、プリーツのある薄いグレーのノースリーブワンピース。栗色のポニーテールにはワンピースとお揃いのグレーのリボンが似合っていた。清楚でかわいい感じなのはいつもどおりだが、加えて今日はちょっと大人っぽい雰囲気の常盤だった。

「あーっ、常盤お姉ちゃんに見とれてるな! 誠志朗君」

「うっ」

 図星だったが、澪が余計なことを言うものだから、常盤は照れてうつむいてしまった。

「じゃあご飯にしましょうね。澪ちゃん、手伝って」

「はーい」

 よく通る声で澪が返事をしてキッチンに行った。

「お洋服が汚れるといけないから、常盤ちゃんにはナプキンをどうぞ」

 美也子が、どこからか、レストランで使用するようなナプキンを持ってきた。そんなものが我が家にあったなんて、誠志朗は初めて見て、知った。

「ありがとうございます。おば様」

「あら、おば様なんて言わないで、昔みたいに『お母さん』でいいわよ」

 澪が生まれてから暫くの間、美也子は育児休暇を取っていたので、両親がホテルの仕事で忙しい常盤のことを、誠志朗の家で預かることが多かった。その頃の常盤は、実の母親のことを『ママ』と呼んでいたので、美也子のことは誠志朗の真似をして『お母さん』と呼んでいたのだ。

「えーっ、でも、ちょっとー……」

「そんなこと言わないで、ほんとに『お義母さん』になってもいいんだけど……」

「…………」

 美也子が意味深なことを言ったので、常盤は誠志朗の顔をちらっと見て、顔を赤らめてまたうつむいてしまった。

「なっ、母さん、何、変なこと言ってんだよ。それより、早くご飯にしてよ」

 堪らず、誠志朗は場の空気を変えようと夕ご飯の催促をした。

「あら、残念! じゃあ、すぐ用意するわね」

 何が残念なのかはよく分からなかったが、誠志朗は「まったく」とつぶやきながらテレビのスイッチを入れた。

 キッチンでは、ステーキの焼ける音がして、宮のタレの香ばしい香りが居間の方まで漂ってきた。

「はーい、お待ち遠様。こっちが常盤お姉ちゃんので、こっちが誠志朗君のだぞ」

 澪が、大田原牛のサーロインとオージービーフのロースを運んできた。ジューシーそうな肉の厚みも然ることながら、大田原牛のサーロインは、見るからに柔らかそうで美味しそうなたたずまいをしていた。

「ありがとう、澪ちゃん」

「どういたしまして。冷めないうちにどうぞ」

 続いて、美也子が、絹豆腐の生揚げで作った揚げ出し豆腐擬きと木綿豆腐のサラダを運んできた。揚げ出し豆腐擬きは、絹豆腐の生揚げを、ボウルに入れた熱湯で10分くらい油抜きしてからザルに取って、更に熱湯を回し掛けて水切りしておいたものに、大根おろしを載せて、薄めた昆布つゆとなめこの温かいタレを掛けた、いわゆる『なんちゃって揚げ出し豆腐』なのだが、水切りの手間が掛からず、衣を付けて油で揚げる必要がないので、簡単で凄く美味しい時短料理なのだ。

「デザートには豆乳プリンを作っておいたわよ」

「わーっ、ありがとうございます。『おかあさん』の豆乳プリン、大好きなんですっ」 

「あら、今のはどっちの『おかあさん』かしら?」

「じゃあ、食べよ。いただきまーす」

 また、美也子が意味深なことを言い出したので、誠志朗は、ナイフとフォークを持ってステーキを切り始めた。

「いただきまーす」

 それから、常盤も澪も美也子も声をそろえてステーキを食べ始めた。

「おいひー」

「澪ちゃん、食べながらしゃべっちゃ駄目よ」

「でも、ほんと美味しいよ、お母さんも食べてみてっ」

 澪は、切り分けた一切れを美也子のお皿に取ってあげた。

「あら、ほんと。凄く美味しいわね」

「口の中でとろけちゃうでしょ?」

「流石、大田原牛ね」

 そのやり取りを見ていた常盤が、自分のステーキと誠志朗のとを見比べて言った。

「あのね、お兄ちゃん。お肉、半分食べてくれないかな?」

「えっ、どうしたんだい? 遠慮しなくていいんだぞ」

「違うよ。お豆腐も食べたいし、こんなに食べられないから」

そう言って、常盤は、ステーキの真ん中にナイフを入れて、お皿を誠志朗の方に近付けた。

「えっ、いいのか?」

「うん。食べてっ」

「ほんとに? 後悔しない?」

「大丈夫だよー」

 笑いながら常盤が返した。

「ありがと。じゃあ、遠慮なく」

 誠志朗は、半分に切り分けられたステーキ肉にフォークを刺して、自分のお皿に載せた。夢にまで見た大田原牛のサーロインステーキが誠志朗の元にやってきた。すぐさまナイフで大き目に切り、宮のタレを存分に絡めて一気に頬張った。

「うまーーーーーーーーーーーーーーーいっ!」

 まるでカラオケのエコーが掛かったように、誠志朗の叫び声が家中に木霊した。

「ほんと、柔らかくて美味しいねっ」

 一口食べた常盤も、大田原牛の美味さに驚いていた。

「あら、よかったわ。常盤ちゃんのお口に合って」

「やだ、そんなこと言わないで下さい『おかあさん』!」

「あら、今のはどっちの『おかあさん』かしら?」

「母さん、もうその話はやめてよ!」

「えーっ、残念!」

 堪らず、誠志朗が泣きを入れた。それから、揚げ出し豆腐擬きと豆腐サラダも平らげて、賑やかな夕食タイムは終了。食後に美也子お手製の豆乳プリンを食べて、「常盤お姉ちゃんともっと一緒にいるー」と言って聞かない澪を何とか振り切って、誠志朗と常盤は改善計画書の作成に取り掛かることにした。

常盤が自宅から自分のノートパソコンを持ってきたので、場所はどこでも出来るのだが、澪がとぐろを巻いている居間ではちょっと落ち着かないので、店のカウンターの横のテーブルでやることにした。

 店の明かりを点けて、テーブルの正面に常盤が座ってノートパソコンを開き、誠志朗は左側に座ってデイパックに詰め込んできた資料を用意した。

 常盤が、昼間の続きをサクサクと入力していき、誠志朗は、ほとんど何もすることがなかったのだが、あるところで、はたと常盤の手が止まった。

「うーん、これってどうしたらいいのかなぁ?」

「えっ、どうしたんだい?」

「アフレコスタジオの賃料と保証金の相殺のことなんだけど、金崎君は、毎月の賃料を保証金と相殺して取り崩すって言ってたでしょ? でも、実際の会計処理はどうするのかなって? その辺は何も言ってなかったから……」

「確かに、具体的な話はしてなかったよな」

「どうしよう?」

「じゃあ、永一に電話して聞いてみるよ」

「うん。お願いね」

 誠志朗は、ジーンズのポケットからスマホを取り出して、永一の携帯に電話を掛けた。念のため、常盤にも永一の声が聞こえるようにスピーカーにしておいた。

「おー、何かあったかー?」

「ああ、ちょっと分からないことがあって……」

「何だよ、おめーが計画書を作ってんのかよ?」

「違うよ。今、常盤が分からないことがあるって……」

「ふーん、で、何だって?」

「アフレコスタジオの賃料と保証金の相殺のことなんだけど……」

「あーっ、わりー、わりー、金の流れまでは説明してなかったな」

「そうなんだよ。そこが分からないみたいで……」

「うーん、どうすっかなー、税金も絡んでくっからよっ、……じゃあ、賃料はうちから毎月星野んとこに振り込むから、保証金を取り崩して同額を振込みし直してもらうことにすっか? そうすりゃー、通帳に記録も残るしよ。湯澤にそう伝えてくれや。ほかに何かあっか?」

「今のところは大丈夫みたいだよ」

「じゃあ、また、分からねーことがあったら電話しろよ、何時でもいいからよっ」

 そう言って、永一の電話は切れた。誠志朗が礼を言う間もなく。

「常盤? 今ので分かった?」

「うん。分かったよ。ありがとう。でも、やっぱり凄いね、金崎君って」

「でも、俺にしてみたら、今の話で分かっちゃう常盤も充分凄いと思うんだけど」

「そんなことないよ。私なんか全然……」

 誠志朗にそう言われて、常盤はちょっと照れたが、すぐにまた、パソコンに向かってキーボードのテンキーを叩き始めた。

その後は順調に進んで、午後9時を回った頃には、最後の支援基準適合性のシートの入力を終えた。

「ふう、これで完成かな?」

 常盤が、エンターキーを押して一息吐いた。

「お疲れ様」

「お兄ちゃんもお疲れ様」

「それで、どんな感じ?」

「えーとね、要償還債務償還年数が25年以内になったよ」

「それって、大丈夫ってこと?」

「うん。そうだね。35年以内になればいいんだから」

「やったな、常盤」

「やったね、お兄ちゃん」

 誠志朗と常盤は、顔の前でハイタッチをして歓声を上げた。

 それを聞き付けた澪が、居間からガラス窓を叩いて「終わった? 誠志朗君?」と聞いてきたので、「ああ、終わったよ」と答えると、「常盤お姉ちゃん、こっち来てお話しようよ」と言うので、「今、片付けるからちょっと待っててね」と常盤が返した。

 常盤は、データが間違いなくメモリースティックに保存されているのを確認してから、ノートパソコンをシャットダウンして居間に行った。誠志朗も、店の中を見回してから明かりを消して後に続いた。

 居間では、待ち切れない澪が、紅茶と常盤が持ってきてくれたケーキを用意していた。

「早く座って、常盤お姉ちゃん」

「ありがと、澪ちゃん」

「誠志朗君は、もう寝た方がいいぞ」

「何でだよ? 明日はお店休みだよ」

「あっ、そっか。でも、邪魔だからどっか行ってて」

「くっ」

 澪に冷たくあしらわれてしまったので、誠志朗は部屋で永一に電話を掛けることにした。

「あのさ、常盤。永一に『終わった』って電話しとくから」

「うん、お願いね。それと、お礼も言っといてね」

 誠志朗は、スマホを取り出し、永一に電話を掛けながら2階へ上がった。

「おーっ、終わったかー?」

「ああ、終わったってさ」

「それで、どうなったよ?」

「要償還債務償還年数が25年以内になったって」

「おーっ、そんじゃ、取り敢えずオーケーだな」

「うん、そうだね。色々助かったよ。ありがと」

「おい、まだ終わった訳じゃねーぞ。その計画を銀行と金融庁に認めさせなくちゃなんねーんだからよっ」

「ああ、そうだよな」

「まっ、一先ずお疲れさんってことでっ」

「ああ、お疲れ様」

「ほんじゃ、星野のところにも電話しておけよ。心配してっかもしれねーからよ」

「えっ、俺がか?」

「ほかに誰がすんだよ? いいから電話しとけよっ。後で何かあっても知らねーからな、俺は!」

 そう言い残して、永一は電話を切ってしまった。

「おい、永一……、何だよ、まったく」

 誠志朗は、スマホを持ったまま少し考えた。そして、着信履歴からリダイヤルした。

「お電話ありがとうございます。華なりの宿しずかでございます」

 Gの音程。透き通るような声。

「もしもし、阿久津だけど……」

「誠志朗? 何よこんな時間に?」

 静は、誠志朗の声を聞くなり、女将モードからたちまち高校生モードに切り替わった。

「いやっ、あのっ、さっき常盤から、改善計画書が作り終わって、要償還債務償還年数が25年以内になったって……」

「ほんと? それって大丈夫ってこと?」

「うん。大丈夫だって言ってたよ」

「やったー、ありがと。これでもう安心ね」

「まだだよっ。銀行と金融庁に改善計画書を認めてもらうまでは」

「そうだったわね。でも、ありがと。ほんとに助かったわ」

「永一と常盤に感謝しなくちゃな。あの二人がいなかったら、今頃どうなってたか……」

「それと、沢畑先生もねっ」

「あっ、忘れてたっ」

「あーっ、酷ーい! 明日、先生に言っちゃおう」

「えっ、駄目だよ。そんな……」

「じゃあ、黙っててあげるから、その代わり……」

「えっ、その代わり?」

「その代わり、……夏休みになったら、誠志朗……」

「……」

「……夏休みになったら、私をどこかに連れていってよ!」

「えーっ、俺が? 何で? どこに?」

「……そんなの、……どこでもいいわよ、二人で行くんなら……」

「……」

「ちょっとー、黙ってないで何とか言いなさいよっ」

「……だって、どこに行くんだよ? それに、夏休みは旅館が忙しくて、出掛ける暇なんてないだろう?」

「7月27日! その日は、電気の法定点検があって停電になっちゃうから休みなの。それに、出掛けるところなんてどこでもいいわよ、海でも山でも遊園地でも!」

「でも、何で俺なんだよ?」

「……それは……、だって、ほかにいないからよ!」

「じゃあ、常盤と行けばいいだろう?」

「常盤は駄目よ。忙しいから……。つべこべ言ってないで、約束よ! じゃないと、さっきのこと沢畑先生に言うからね!」

 そう言って、静は電話をガチャ切りした。

「おい、静、……何なんだよ、まったく」

誠志朗は、考えるのも嫌になって、スマホをベッドに投げ置き、自分も横になった。また静に、難題を押し付けられたと思いながら――



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