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鬼怒川温泉 恋し屋  作者: 獏人
7/11

何か唇に・・・


7月1日(木) 決戦の日まであと4日


「やべっ、やっちまった!」

誠志朗はスマホのアラームで飛び起きた。時刻は午前4時15分を回っていた。3回目のスヌーズで漸く目が覚めた。急いで支度をして豆腐製造室に下りていった。夕べ遅くまでアニメ関係の情報収集をしていて寝落ちしてしまったのだ。

 いつもどおり、木綿・絹・寄せ豆腐と豆乳を1回分ずつ作って、掃除を終わらせたのが7時ちょっと前だった。

「おはよう、誠志朗君。朝ご飯出来てるわよ」

「おはよ。ありがと。今日はちょっと寝過ごしちゃって。ふあーっ」

 豆腐製造室に入ってきた美也子に、欠伸をしながら誠志朗が言った。

「あらあら、遅くまでやってたみたいね。お疲れ様。大丈夫なの?」

「うん。大丈夫だよ」

 誠志朗は、エプロンと長靴を洗って、上着とTシャツを脱ぎながら脱衣所に行った。シャワーを浴びてジャージに着替え、美也子が用意してくれた朝ご飯を食べ始めた。

「おっはー、誠志朗君、調子はどうだ?」

 今日から期末試験が始まる澪が、1階に下りてきた。

「おはよ。結構分かってきたぞ」

「そうか、それはよかったぞ。静様のために頑張るんだぞ、誠志朗君」

「ああ、分かってるよっ」

 澪は、足元に擦り寄ってきた茶トラ猫のちゃあ君と黒猫のシャア君の餌を用意してから、誠志朗と一緒に朝ご飯を食べ始めた。

「知ってるか? 声優のギャラってランク制になってるのな?」

「そんなの知ってるぞ、誠志朗君。毎年、ランクの改定があって、活躍しないと収入が増えていかないんだぞ」

「ほんとに、弱肉強食の世界なんだな。大丈夫なのか、お前?」

「大丈夫だぞ、誠志朗君。夢があれば、どんなアルバイトでも頑張れるぞ!」

「何だよ、アルバイト前提なのかよ?」

「最初のうちは仕方ないぞ、誠志朗君。頑張ればそのうち何とかなるぞっ」

「まあ、頑張ってくれ」

「もちろんだぞ、誠志朗君」

 厳しい世界と分かっていても、澪の、声優への夢は揺るぎないようだ。それだけアニメには人を引き付けて夢中にさせる魅力があるということなのか。

「ご馳走様。じゃあ、お先ーっ」

 誠志朗は食べ終えた食器を洗って2階へ上がり、ベッドに横になって、夕べ調べたことを書き込んだノートに目を通した。



「誠志朗くーん、時間だよー」

 澪の声で飛び起きた。いつの間にか心地よく二度寝してしまっていた。急いで出掛ける用意をして1階に下りていった。今朝は、夕べからずっと雨なのでゼッツーで行くことにして、暖機運転をしている間に雨合羽を着て、店のシャッターを開けてから、ガラス戸を叩いて「いってきます」と美也子に手を振った。

 店の前の小原通りを右に出て、小原沢の橋を渡り急な坂道を下ると、前方にブレーキを掛けながらゆっくりと自転車を走らせる澪を見付けた。誠志朗は、クラクションを鳴らしてゆっくりと追い越した。

「ばいばーい、誠志朗くーん」

 レモンイエローのレインコートのフードを押さえながら、澪が誠志朗に声を掛けた。誠志朗は、もう一度クラクションを鳴らして、振り返らずに左手を振って答えた。

 吊り橋入口の交差点を左折し、廃墟となったホテルを右に見て、消防署と市役所支所を過ぎると、ほどなく華なりの宿しずかに着いた。駐車場から裏口に回り、屋根のある従業員用の駐輪場の端にバイクを停めさせてもらい、雨合羽を脱ぎハンドルに掛けてから、正面に回り玄関からロビーに入った。

「おはようございます。誠志朗様」

まだ、余り人影のないロビーに静が立っていた。雨の日なので宿泊客のチェックアウトもゆっくりなようだ。牡丹の花が散りばめられた薄紅色の絽の着物とクリーム色の帯に薄紅色の帯留。艶めく黒髪は銀の髪留で一つにまとめられていた。 

「おはよ」

「お足下の悪い中、ありがとうございます」

「ああ、大丈夫だよ。結構慣れてるから」

「でも、お気を付け下さいね」

 女将モードの言い方でも、静が誠志朗のことを心配している気持ちは充分伝わってくる。

「ありがと。気を付けるよ。それよりみんなは?」

「湯澤様がお見えですわ」

「そうか。じゃあ、部屋に行ってるよ」

「では、のちほど」

 静に見送られて、誠志朗はウィステリアに向かった。階段で3階に下りて、部屋の呼び鈴を押すと、「はーい」と言って常盤がドアを開けた。

「おはよ」

「おはよう。お兄ちゃん」

「早かったんだな?」

「今来たとこだよ」

 常盤はそう言うものの、既に部屋の中には紅茶のいい香りが漂っていた。

「いい匂いだな」

「今日は、シナモンティーにしてみたよ」

「そうなんだ。でも、また、ホテルのを持ってきたのか?」

「そうだけど、駄目だった?」

「駄目じゃないけど、あまり気を遣わなくてもいいんだぞ」

「大丈夫、平気だよ」

 無邪気に笑う常盤の顔を見ているだけで、連日の疲れが飛んでいく気がする誠志朗だった。それから、常盤の入れてくれたミルクたっぷりのシナモンティーをご馳走になった。ほんのり甘くてちょっとだけスパイシーな香りが口一杯に広がった。

「体を温めて気持ちを安定させる効果があるんだって」

「ほんとだ。何か温まってきたよ」

 雨の中、バイクを走らせてきた誠志朗にはとてもありがたかった。若しかすると、常盤が誠志朗を気遣って態々シナモンティーにしてくれたのかもしれない。

「お疲れちゃーん」

 折角のいい雰囲気をぶち壊すかのように、永一がノックもせずに入ってきた。

「何だよ、その変な挨拶は?」

「おはよう。金崎君」

「これはよー、業界の挨拶言葉なんだぜ」

「えっ、どうしたの? 業界って?」

 常盤が、不思議そうに誠志朗と永一の顔を交互に見ていた。

「あっ、いやっ、夕べ、永一とアニメの話をしてたんだよ」

「アニメって、アニメーションのこと?」

「うん、そうなんだ。アニメがいいんじゃないかと思って……」

「アニメは地球を救うだなっ」

「何か変なのー」

「でも、真面目に考えてるんだよ」

「えーっ、そうなんだ。詳しく教えて」

「うん。静が来たら説明するよ」

 ほどなくして、部屋の呼び鈴が鳴って静がやってきた。

「お待たせー」

「じゃ、始めるか」

 誠志朗の仕切りでミーティングが始まった。

「じゃあよー、早速だけど、アニメと声優で集客するプランを発表するぜ」

 永一が、用意してきたレジュメを配った。

「えーっ、アニメって、漫画でしょう?」

 よほど意外だったのか、静が素っ頓狂な声を上げた。

「ちげーよ、漫画じゃなくて、アニメーション!」

 永一が、夕べの澪と同じことを言った。

「そんなのどうでもいいけど、あれでしょ、つまりはオタクでしょ?」

「まあ、一部、オタクと呼ばれる奴らもいるみてーだけど、全部が全部、オタクの訳じゃねーぞ。つまりよー、熱狂的なファンってことだな」

「そんなの駄目よっ。ここがオタクで一杯になるってことでしょ?」

「だーかーらー、オタクばっかりじゃねーって言ってるだろっ」

「まあまあ、静もちょっと落ち着いて、取り敢えず一通り説明を聞いてくれよ」

「分かったわよ。じゃあ、聞いてあげるから、さっさと言いなさいよ」

 こっちが手伝ってあげてるのに、まったく酷い言い草だとあきれた誠志朗だったが、そんなことは気にしていない様子の永一が、銀の板櫛でオールバックの髪をとかしながら説明を始めた。

「いいかー、耳の穴かっぽじってよく聞けよ。まず、ここに収録スタジオを造って、アニメのアフレコ用に安く提供すんだよ。そうすっと、鬼怒川温泉で声優がアフレコをやってるって話題になる訳よ。まあ、こっちからもマスコミに万々リリースすっけどな。当然、アニメや声優のファンがやってきて、ここがアニメと声優の聖地になるって寸法だよ。そんでもって、グッズも作ってお土産を売って、飯も食ってくから料飲収入も増えるってことになるぜ。おまけに、オフシーズンはアニメと声優の大イベントをやって、夜は大宴会場でトクショーをやるから宿泊客も増えるぜ。しかも、インバウンド対策として、ホームページには中国語と英語でイベントの告知をするし、旅行代理店とも提携すっからな!」

「えーっ、凄いねー。画期的だねっ」

「ふーん、でもどこに収録スタジオを造るのよ?」

「そりゃー、中庭をぶっ壊して……」

「駄目だって言ったでしょ! 何度言えば分かるのよ? お庭を壊すのは絶対駄目!」

 静が声を荒らげた。

「そんじゃあ、駐車場に造っか?」

「それも駄目よっ。唯でさえ土日や夏休みは駐車場が足りなくて、駅の反対側にも借りなくちゃいけないくらいなんだからっ」

「じゃあ、駐車場を立体駐車場にしたらどうだい?」

 誠志朗も、とっさに思い付いたアイディア言ってみた。

「それこそ駄目だぜ。立体駐車場は非生産設備の癖に、造るのに相当金が掛かるし、保守費用も半端じゃねーから、宿泊客から駐車料金を取らねーと赤字になっちまうぜ」

「そんなの、駐車料金を取ってるところなんて鬼怒川温泉にはないわっ」

「だからよー、この際、中庭をぶっ壊して……」

「駄目よ! お庭を壊すくらいなら何もしない方が増しだわ」

「でも、それじゃ、改善計画が作れないよ、静!」

「それでも駄目なものは駄目! あんたも分かんない人ねっ。もうこの話は終わりよ!」

 言い終わらないうちに、静は部屋を飛び出していってしまった。永一が、誠志朗を見ながらドアの方に顎を決って、静を追い掛けるように合図した。

「絶対説得しろよっ」

「何で俺なんだよ?」

 そう言いながらも、誠志朗は静を追い掛けて部屋を出たが、既に廊下には静の姿はなかった。仕方なく、取り敢えず事務所に向かった。エレベーターのボタンを押したが中々下りてこないので、階段で5階まで駆け上がった。息を切らしながらフロントに行って女将さんを呼んでもらったが、席を外しているとのことだっだ。次に静の行きそうなところは調理場かもしれないと思って、誠志朗は従業員通路から調理場に向かった。調理場には朝食の片付けをしていた親方がいた。

「親方、すみません。静、見ませんでした?」

「よう、誠ちゃん、毎日、お疲れさん。あいつぁ、見てねーけど……、藤の間に行ったんじゃねぇのかい?」

「ちょっと、怒って出ていっちゃって」

「何だい、誠ちゃん、何かやらかしたのかい? あいつの前で常盤ちゃんといちゃいちゃしたとか……」

「そんなことしてませんっ。それに、第1、そんなことで静が怒る筈ありませんっ」

「おいおい、何だよ。鈍いつーか、分かっちゃいねぇなー」

「分かりません。けど、静を説得しなくちゃならいんで……」

「まあ、いいけどよ。6階の一番南の非常階段に行ってみな。そういう時は、あいつはいつもあそこだ」

「分かりました。ありがとうございます」

 親方へのお礼もそこそこに、誠志朗は階段を駆け上がった。6階は、鬼怒川の渓谷が眺められる露天風呂付き客室のフロアだ。親方に言われたとおり、廊下の一番南の非常口に着いた誠志朗は、鉄製のドアをゆっくりと開けた。

 小雨がそぼ降る非常階段の踊り場に静が立っていた。

「何よ、誠志朗。どうしてあんたがここに来るのよ」

驚いた静は、着物の袖で目頭を拭いながら言った。

「親方に、ここにいるからって聞いて……」

「また、余計なことを……」

「ごめん、でもちょっと心配になって……」

「……」

「……あのさ、静。……さっきのプランだけど、あれなら上手くいくと思うんだよ」

 誠志朗は、また、静に怒られるのを覚悟しながら言った。

「だから、駄目って言ってるでしょっ。お庭を壊すくらいなら、何もしない方が増しだわ」

「でも、それじゃあ、銀行と金融庁を納得させる改善計画が出来ないよっ」

「だから、何もしなくていいって言ってるでしょ」

「そんなこと言ったって、お前一人の問題じゃないんだぞっ。親方だって、従業員の人だって……」

「そんなの、もうどうでもいいわ」

「ちょっと落ち着けよ、静」

 誠志朗は、落ち着かせようと静の両肩をつかんだ。

「やめてよっ。もうやめにするんだから、もう、これ以上、構わないでっ」

 誠志朗の両手を振り解こうとして、静は激しく身体を揺すった。非常階段の下は目が眩むほどの崖になっている。

「危ないって、静。ちょっと落ち着けよ!」

「やめてっ、放してよ! もうどうでもいいんだから!」

「バカ!」

 誠志朗は、思わず静の頬を平手打ちしてしまった。一瞬、静の動きが止まった。

「何よ、バカ! 大っ嫌いっ」

 そう叫んで静は、非常口のドアを開けて中に入っていってしまった。誠志朗が追い掛けようとしたが、静はドアの鍵を掛けてしまっていた。

「静、おい、静!」

 名前を呼びながら誠志朗が叩くドアの音は、鬼怒川の川音に消されていった。


 

 誠志朗は、非常階段を下りて駐車場からロビーに戻った。フロントで、また女将さんを呼んでもらったが、急用で出掛けてしまったとのことだった。仕方なく、また調理場に行くと、朝食の後片付けを終えた親方が、自宅へ帰るところだった。

「親方、静、来ませんでした?」

「何でぇ、また、どうしたんだい?」

「えっ、いや、あの、ちょっと……」

「けんかでもしちまったのかい? あいつぁ、怒り出すと始末に追えねぇからな。ほっとくに限るぜっ」

「でも、悪いのは俺ですから……」

「誠ちゃんよ、言うことを聞かねぇ時は、一発ぐらい引っ叩いてやんだよっ」

「……いえ、実は、さっきやっちゃって……」

「おっ、やるねぇ、誠ちゃん! それでこそ未来の旦那様ってか?」

「やめて下さいよ。それに何ですか、未来の旦那様って……? そんなことより静は?」

「いや、俺はよ、あいつが言うことを聞くのは誠ちゃんだけだと思ってんだよ。まあ、それは後にして。心配ねえよ、うちにでも帰ったんだろ。俺がこれから帰るから、誠ちゃんが心配してたって言っとくよ」

「はあ……?」

「それより、何でけんかなんかしたんだい?」

「……実は、新しいプランで、中庭を壊す話になって……」

「はあーん、そういうことかい」

「何かあるんですか?」

「いや、まあ、何だ、俺の口から言っていいもんか……、あいつぁ、まだ、母親のことを忘れられねぇでいるんだよ」

「…………」

「うちの奴、……あいつの母親は、あの庭が何より好きでよ。暇がありゃ、庭師と一緒になって手入れをしてたんだよ。夏でも冬でも、年がら年中。スズメバチに刺されて大騒ぎしたこともあったっけな……。あそこの藤棚は、そりゃあ立派もんだぜっ。中々あんなに見事に咲かせるのは大変なんだけどよ。まあ、言ってみりゃ、あの庭は、あいつにとっちゃ、母親の思い出が染み付いてるっつーか、母親そのものなんだよ。あいつが何を言ったか知らねぇが、まあ、そういうことなんで、今回は俺に免じて勘弁してやってくれよ、誠ちゃん」

「……そうだったんですか。……勘弁だなんて……、寧ろ許してもらうのは俺の方です」

「まあ、そういうこったから、あいつなしで話を進めておいてくれよ。大丈夫だよ。誠ちゃんがちゃんと考えてくれたことなら、あいつは必ず聞くと思うからよっ」

 そう言って、背中に龍の刺繍の入ったジャンパーを肩に羽織って、親方は調理場を出ていった。

仕方なく、誠志朗もウィステリアに戻っていった。部屋の呼び鈴を鳴らして入ると、常盤が心配そうに出迎えた。

「静ちゃん、どうだった?」

「ごめん。駄目だった。怒らせちゃって、家に帰っちゃったみたいなんだ」

「えーっ、そうなの? どうするの?」

「親方に話したら、大丈夫だから進めておいてくれって言ってた」

「でも、ほんとに大丈夫かな? 静ちゃん?」

「今、親方が、家に帰っていったから……、大丈夫だと思う……」

「まあよー、そういうことじゃ、時間もねーし、こっちはこっちでどんどん進めっか?」

 永一が、先に進めることを提案したが、誠志朗と常盤は静のことが気になっていた。

「あのさ、永一、中庭を壊さないで収録スタジオを造ることは出来ないのか?」

「あのよー、収録スタジオは完全防音だからよー、鉄筋コンクリート造りじゃなくちゃ駄目なんだよ。この前、館内を見学したけどよー、そもそも建物の構造が違うし、スペースもねーから、まず無理だな」

「そうなんだ……」

「何だよ。気乗りしねーなら無理強いはしねーけどよっ。リーダーってのは、決断出来ねーのが一番駄目だぞっ」

「……あのさ、永一、……今はこのプランが一番いいってことだよな?」

「ベストじゃねーかもしれねーが、ベターではあるな」

「よし分かった。これで進めよう!」

「んじゃ、早速、とっ掛かるか」

 永一の指揮の下、常盤がホワイトボードにこれからやることを書き出した。

 ◇収録スタジオの間取り、面積、建設費用

 ◇アニメ・声優関係の情報収集

 ◇アニメ関係のイベントの情報収集

 ◇アニメで町興しをしている地域の情報収集

 ◇アニメツーリズムの情報収集

 ◇最近のインバウンドの動向

 ◇旅行代理店の動向

「さあ、やることは一杯あるぜ」

「あのさ、この近くでは、茨城県の大洗町がアニメの町興しで成功してるらしいんだよ」

「それはよー、俺もネットで見て、実際に行ってみてーと思ってたんだよ」

 誠志朗は部屋の時計をちらっと見た。時刻はもうすぐ午前10時になるところだった。

「これから行ってみるか?」

「じゃあ、善は急げだ。大洗へゴー!」

 ぼそっと口に出した誠志朗の言葉を、永一は聞き逃さなかった。

「えっ、これから行くのか?」

「何だよ、おめーが言ったんじゃねーかよ?」

「いやっ、でも、時間が……」

「大丈夫だー。日光道と北関東道の高速で行けば2時間で着くって。昼飯は大洗の大盛屋でとびっきり美味い鰯料理を食わせてやっから」

「いやっ、でもお前の車は……」

「大丈夫だー。今日はフェラってこなかったからよー。雨の日は国産車だから湯澤も乗せられるって」

「いやっ、そうじゃなくて、お前の車は……」

「つべこべ言ってんじゃねーよっ。決断出来ねーのが一番駄目だって言っただろ!」

「私、行きたいなっ」

 どういう風の吹き回しか、常盤が行きたがった。

「常盤、分かってんか? 永一の運転なんだぞ?」

「大丈夫だよね、金崎君。安全運転でお願いねっ」

「おし、じゃあ行くべ」

 誠一は、ポケットから車の鍵を取り出すと、ジャラジャラと振り回しながら部屋を出ていってしまった。

「楽しみだね? お兄ちゃん」

 とび色のくりくりっとした瞳を輝かせながら、常盤が声を弾ませた。

「ほんとに分かってんのか? 常盤は、絶対、運転席の後ろに乗れよ! 一番安全らしいから」

「うん。分かったよ」

 仕方なく、部屋の鍵を閉めて、誠志朗と常盤も永一に続いた。フロントで鍵を返す時に、「出掛けますので昼食は不要です。戻りは夕方の予定です」と告げて、華なりの宿しずかを後にした。常盤が、静も連れていこうと携帯に電話を掛けたが、留守番電話になってしまってつながらないので、諦めて出掛けることにして、詳しいことはメールで知らせることにした。

 玄関には、早々に永一が車を回していた。常盤を運転席の後ろに乗せて、誠志朗も横に乗ろうとしたのだが、「おめーは助手席でナビだ」と永一に言われて、散々抵抗は試みたのだが、押し切られて助手席に乗る破目になった。一番、死亡率が高いのに……

 本降りになった雨の中、永ちゃんの曲をBGMにして、恐怖のドライブが始まった。

「永一、くれぐれも安全運転でな!」

「任せろって。泥舟に乗ったつもりでいろよっ」

「それじゃ、沈んじゃうだろ!」

「あはははははっ」

 笑いながら永一は、ホイルスピンをさせて車を発進させた。駐車場をショートカットして桜並木通りを右折し、途中の交差点のコンビニに寄って、永一が、会社のプリペイドカードで3人分のジュースと常盤の分のお菓子を買った。そこから、鬼怒楯岩大吊り橋のあるバイパスを通って国道121号線に入った。カーナビは、走行距離127キロメートル、所要時間2時間と表示していた。それにしても北関東道が出来て、北関東3県は可成りアクセスがよくなった。小学校の子供会の旅行で那珂湊の阿字ヶ浦海岸に海水浴に行ったことがあったが、一般道では大型バスで片道4時間近く掛かった記憶があった。

「海っていいよね!」

 常盤が、鬱陶しい雨雲を吹き飛ばすくらいの笑顔で嬉しそうに言った。夏休みに二人で海に行くという誠志朗との約束を思い出していたのかもしれない。

 車は、カーナビの案内に従って、国道121号線から裏道に入り、大沢インターチェンジから日光道に入った。10分くらいで宇都宮インターチェンジから一般道の環状線に入り、30分くらいで宇都宮・上三川インターチェンジから北関東道に入った。ここから水戸大洗インターチェンジまでは約45分の道程だ。

 雨は相変わらずの本降りだったが、永一は永ちゃんの歌に聞き惚れていて、常盤はお菓子を食べながら、時折、誠志朗に楽しそうに話し掛けた。一応、授業の一環でもあり、静の旅館の未来が掛かっているのだと思い、誠志朗は夕べ調べたことを話し始めた。

「あのさ、これから行く大洗町は、ガールズ&パァンツァーっていうアニメで町興しをやってるんだ」

「ガールズ&パンツ?」

 永一がお約束の質問をした。

「違うよ。ガールズ&パンツァー! パンツァーは戦車のことだよ」

「そんなの知ってるよ」

「何だよ。態とかよ?」

「まあ、お約束だからなっ」

「それで、どういうお話なの?」

「実際にアニメを見た訳じゃないんだけど、大洗に大洗女子学園っていう女子高があって、戦車道っていう部活で活躍する話だよ」

「へー、何か面白そうなお話だね」

「アニメには、実際の大洗のお店や風景が出てくるんだけど、聖地巡礼って言って、ファンの人達がそれを目当てにやってくるんだって」

「観光名所になってるってことなのかな?」

「そうみたいだよ。だから、観光客に喜んでもらえるように、アニメとコラボしたお土産や食事を提供したり、定期的にイベントをやったりしてるんだって」

「へー、凄いねっ」

「それによー、茨城県や大洗町役場も可成り力を入れてるって話だぜー」

「やっぱり、行政を巻き込むと効果が大きいよなっ」

「そうだね。でもどうやったらいいのかな?」

「これから行って実際に見れば、何か分かるんじゃないかな?」

「うん、そうだね」

 車は、栃木県と茨城県の県境のトンネルを通過し、長閑な田園地帯を見ながら順調に進んでいった。左手には、御影石の採掘のために切り崩された山があったり、右手には、これから旬を迎える葡萄や梨の果樹園が広がったりしていた。

 常磐道とのジャンクションを通過し、水戸南インターチェンジを過ぎると、ほどなくして大洗インターチェンジに着いた。北関東道を下りて国道51号線を東に向かい、大洗市街の標識を左折し、涸沼川に掛る橋を渡ると、大洗の市街地に入った。

「さぁーて、どうするよ? 取り敢えずマリンタワーにでも行ってみっか?」

「マリンタワーって?」

「大洗が一望出来る展望台があんだよ」

「じゃあ、まずはそこで次に行くところを考えるか?」

「りょうかーい!」

 そのまま直進すると、正面にぽつんと、背の高いカーテンウォールの建物が見えてきた。

「あれがそうか?」

「凄ーいっ、マリンタワーって大きいんだねー」

「確かよー、60メートルくらいあった筈だぜ」

「見晴らしもよさそうだな」

「まっ、雨じゃなけりゃーなっ」

 そんなことを話しているうちに、車は、マリンタワーのある公園に着いた。

「そう言やー、アウトレットモールにもガルパン関係があった筈だから、そっちに停めっか」

 永一は、右にハンドルを切り、公園の隣のアウトレットモールの駐車場に入った。

「お疲れちゃーん」

「金崎君、お疲れ様。ありがとうございました」

「永一、お疲れ様」

 誠志朗達が車から降りると、雨は霧雨に変わっていた。

「もうすぐ上がるかもな? 傘、1本しかねーから湯澤が使えや。俺らは、ぬれねずみで行くべ」

 そう言って、永一が常盤に傘を差し出して、マリンタワーへ走っていった。

「待ってよ。金崎君。お兄ちゃんも早く行こう」

 傘を開いて、常盤が誠志朗に差し出した。相合傘で行こうと言っているようだ。

「ああ」

 ちょっと照れくさい気がしたが、常盤をぬれさせる訳にはいかないので、流れに任せて、誠志朗は相合傘でマリンタワーへ向かった。振り返った永一が「ヒューヒュー」と言いながら、車のロックを掛けた。

 交差点を渡ってマリンタワーのある公園に入り、建物の玄関に着くと、展望台の入場券の販売機があった。

「ほらよ」

 永一が、誠志朗と常盤の分の入場券を配った。

「えっ、お金は?」

「いいよ、必要経費っつーことで」

「えーっ、そうなの?」

 永一は、何も言わずに玄関の自動ドアを潜り、足早に奥のエレベーターに向かっていってしまった。

 エレベーターに乗って3階のボタンを押すと、結構なスピードで上昇していった。

「凄ーい、海だよ!」

 展望台は3階となっているが、1階と2~3階の間は相当な間隔が空いていて、展望エレベーターが上昇していくに連れ、大洗の港やフェリーターミナル、漁港や市場、海浜公園やサンビーチが見えてきた。雨でなければ、さぞかしよい眺めなのだろう。

 高が海でそんなに興奮するなと言われてしまうかもしれないが、栃木県は海なし県なので、海とか海産物への憧れや執着は相当なものなのだ。

 エレベーターのドアが開くと、そこは360度見晴らせる展望フロアになっていた。

 常盤が真っ先に海の見える東側に駆けていき、「凄い、凄い」と子供のようにはしゃいでいた。

 下から見た時には気が付かなかったが、窓の上の部分には、ガルパンのキャラクターが描かれていて、『ようこそ大洗へ』という文字が貼られていた。記念撮影用にキャラクターの等身大パネルも置かれている。

 雨模様の平日にもかかわらず、観光ガイドを手にした若い男性のグループが、嬉しそうに記念写真を撮っていた。

「さぁーて、どこ行くよ? まずは飯にすっか?」

 時刻は、正午を少し回ったところだった。

「そうだね。そうしよう」

「どうすっかなー。鰯料理の店はこっから少し遠いんで、手っ取り早くこの辺で何か食うか?」

「あのね、2階に喫茶店があるってエレベーターの中に書いてあったかも」

「ほんじゃ、取り敢えず行ってみっか」

 エレベーターで2階に下りると、そこは、やはり見晴らしのよい展望レストランになっていた。常盤が凄く残念がったが、海が見える席は既に埋まってしまっていたので、誠志朗達は、大洗の街並みが見える西側の席に案内された。

 置かれていたメニューを開くと、そこにはガルパンのアニメに登場したであろうハンバーガーやスパゲティなどが並んでいた。

「紅茶もあるよ」

「じゃあ、ここで食ってくか?」

「そうだな。そうするか」

 常盤がナポリタンとダージリンの紅茶、誠志朗がサバ味噌煮定食と無料のお冷、永一はハンバーガーと、ドクターペッパーがないので仕方なくコーラを注文した。

 待っている間に、お店に置いてあった観光マップをいただいて、次の見学先の検討を始めた。まず、アウトレットモールにあるガルパンギャラリーに行くことにして、次に大洗駅、それから、キャラクター達の等身大パネルがある置いてある商店街を散策することにした。

 運ばれてきた料理はどれも美味しく、ガルパンのファンでなくとも充分楽しめる味になっていた。

「何か、アニメと一緒に盛り上げようっていう気持ちが伝わってくるね」

「ほんとだな」

「自分達も楽しみながらやってるって感じがいいんじゃねー」

 そんなことを話しながら、各々の料理を平らげ、常盤が紅茶を飲み終わるのを待ってマリンタワーを後にした。

外に出ると、もうほとんど雨は上がっていて、少し蒸し暑いくらいになっていた。アウトレットモールに着くと、回廊のように配置されているお店を1階から見て回った。ブランドショップを筆頭に、土産物屋や洋服店、サーフショップやスポーツ用品店などがあり、2階には飲食店やイベントスペースもあった。

肝心のガルパンギャラリーは南の外れの方にあり、マリンタワーから歩くと結構な距離があった。

入口にあるガルパンの大きなパネルに出迎えられ、中に入ると、大洗町とガルパンの歴史が書かれたパネルや戦車の模型、Tシャツやタペストリーなどが飾られていた。モニターにはガルパンのアニメの最新映像が映し出され、ラジコン戦車を動かせるフィールドも用意されていた。更に奥には、これまで制作されたグッズが展示されていて、中には大洗限定のグッズもあるようだった。

「沢山あるんだねー」

「だよなー、こういうのは購買意欲をあおるよなー」

「どういうことだい? 永一」

「あのなー、ここに来なくちゃ買えねーグッズってのは、必然的にファンの購買意欲を高めるってことだよ。こないだおめーが言ってた京都でしか買えねー豆腐と同じだよ」

「あー、そう言うことか」

 隣接された部屋はお土産コーナーになっていて、ガルパングッズだけでなくご当地のお土産物がところ狭しと並べられていた。ガルパンのお酒やお菓子なども置いてある。

「じゃあ、ここはこれくらいにして次に行くか。2時にはここを出ねーとなんねーからなっ」

「そうだな」

「ねえ、ここにレンタサイクルがあるんだって」

 常盤が、観光マップを開いて誠志朗達に見せた。

「おーっ、それ借りっか。車だと駐車場に困っからよっ」

「それがいいな」

 レンタサイクルは、アウトレットモールの1階の遊覧船の乗船券売り場にあった。

「俺達は普通の自転車にするから、おめーはこれな!」

 永一が指差した自転車は、フロントのディスクホイールにガルパンのキャラクターが描かれた可成り派手なマウンテンバイクだった。

「えーっ、ちょっと恥ずかしいよ、これ」

「駄目だぜ。百聞は一見に如かず。百見は一体験に如かずだからなっ」

「何だよ、それは? じゃあ、永一が乗れよ」

「いや、俺は遠慮しとくわ」

「俺も普通の自転車でいいよー」

「駄目だぜ。もう金払っちまったからな」

 そう言って、永一は自転車を押して外へ出ていってしまった。

「お兄ちゃん、カッコいいかも」

「じゃあ、常盤が乗る?」

「うーん、私も遠慮しておくね」

 常盤にも断られてしまった誠志朗は、諦めて自転車を押して外に出た。もうすっかり雨が上がった海岸には、磯の香りが広がっていた。

 誠志朗達は自転車をこいで、大洗駅に続く緩い坂道を上っていった。道路沿いの商店には至るところにガルパンのポスターが貼られているのが目を引いた。

 ほどなくして大洗駅に着いた誠志朗達は、駐輪場に自転車を停めて、駅舎に入っていった。中にはガルパンのポスターが貼り巡らされていて、観光案内所には戦車の模型まで展示されていた。

「凄い力の入れようだなっ」

「半端ねーな。気合いが違うわ」

「何か元気があるって感じだねっ」

 その雰囲気にただただ圧倒されてしまった誠志朗達だった。驚きの大洗駅を後にして、キャラクターの等身大パネルが置いてある商店街を目指して自転車を走らせた。

 米穀店や酒店、時計店や青果店の店先に等身大パネルが置かれている。時折、ガイドブックを手にした若い男性グループが記念写真を撮っている光景が見受けられた。

「あれが『聖地巡礼』って奴か?」

「そうなんじゃねっ。そんでもってブログとかにアップすんじゃねーの。『行ってきました』ってな」

「でも、そうやって来てくれるってことが嬉しいよねっ」

「そうだよな。まずは来てもらわないとな」

 そのまま先に進むと、やはりキャラクターの等身大パネルが置いてある鮮魚店の駐車場に県外ナンバーの車が沢山止まっているのが見えた。

「これも『聖地巡礼』なのか?」

「そうとは限んねーけど……、もともと海の幸は大洗のお土産の定番だからな」

「相乗効果ってことなのかな?」

 更に進むと、軒先に人だかりの出来ているお店があった。

「ちょっと寄ってくか?」

 永一が自転車を降りたので、誠志朗達も降りて、電柱の隣に並べて停めた。ガイドブックを手にしたグループが食べているのは、どうやらお団子のようだった。

「お団子下さい」

 永一が、臆せず人垣の中に割って入り、5本入り300円の『みつだんご』を買った。お店の中には、ガルパンのポスターや声優のサイン色紙が飾られている。

「ほらよ」

 永一が、自分の分を1串だけ取って、残りのパックを誠志朗に渡した。

「おっ、いいのか?」

「どうぞ、どうぞ」

 誠志朗は、パックを常盤に差し出し、常盤も1串だけ取った。

「ありがと。金崎君」

「どういたしまして」

 早速いただいてみると、柔らかい団子にみたらしのようなタレが掛かっていて、その上にきな粉が塗してあった。

「美味しーねっ」

「美味いっ」

 みたらしほどは甘くないタレに、きな粉が絶妙に絡んで凄く美味しい。

「あのね、……もう1本、いただいてもいいかな?」

 よほど気に入ったらしく、いつもは遠慮がちな常盤がお代わりするほどだった。

「どうぞ、どうぞ。俺はもういいから、残りは誠志朗が食えよ」

「えっ、いいのか。じゃあ。遠慮なく」

 残り1串ずつを平らげて、「美味しかったです。ご馳走様でした」とお礼を言って、食べ終えたパックと串をお店の人に渡した。

お店の人に、「ガルパンを見にきたの」と尋ねられたので、「学校の実習で来ました」と、それらしいことを永一が答えていたが、全身黒尽くめの人物を、お店の人が怪訝そう見ていたのは言うまでもない。このお店では、毎年、キャラクターの誕生日にイベントをやっていて、ガルパンファンはもちろんのこと、声優さんやガルパン関係者も来るのだと教えてくれた。

「誕生祭って奴か」

 自転車をこぎながら永一がボソッと言った。

「誕生祭?」

「何だ、聞こえてたのか? キャラクターの誕生日を祝うイベントだよ」

「へー、そうなんだ。そしたら、キャラクターの数だけ誕生日イベントがあるってことだよね?」

「まあ、そうなるな」

「でも、そうだったら、毎月、この商店街のどこかで誕生日イベントをやってるってことなのか?」

「そうかもな」

「あのね、それなら、誕生日の度にファンの人達が定期的に来てくれるってことでしょう。それって凄いよねっ」

 確かに、それは画期的なことかもしれないと誠志朗は思った。毎年、キャラクターの誕生日には、決まってファンが来てくれるのだとしたら、集客のコストが掛からないからだ。

「おーっ、ここ、有名な店だぜ!」

 左カーブの手前で、永一が急ブレーキを掛けた。

「おわっ、急に止まるなよ。危ないだろっ」

「わりーわりー。でもよー、この旅館は、アニメの中で戦車が突っ込んだんで有名な旅館なんだぜ」

「えーっ、旅館なのか? ちょっと入ってみるか?」

「そうすっか」

「あれ、この人、さっきの紅茶の人だっ」

 自転車を停めて玄関を入ろうとしたところで、常盤が何かを見付けた。それは、マリンタワーの喫茶店で常盤が飲んだ紅茶のキャラクターの等身大パネルだった。

「へーっ、ダージリンさんって言うんだ。記念に写真撮りたいなっ」

「じゃあ、撮るか?」

「うん。お願いします」

 等身大パネルの隣でピースサインをする常盤を、誠志朗がスマホのカメラに収めた。

「はい、撮れたよ」

「ありがとう。後でメールで送ってね」

「ほら、もう行くぞ」

 待ち切れない様子の永一が、旅館の中へ入っていってしまった。

「まったく、せっかちだな」

 そう言いながら、遅れて誠志朗と常盤も旅館の中に入った。

 先に入った永一が、旅館の人と話をして、見学させてもらえることになったのだが、この黒尽くめの人物によく見学許可を出したものだと、誠志朗は感心した。

 ロビーには、ガルパンコーナーがあり、戦車のプラモデルやイベントの写真、声優のサイン入りのポスターや色紙が飾られており、ファン垂涎のお宝であふれていた。

 永一が、ガルパン関連でインタビューしたところ、この旅館では『ガルパン聖地巡礼応援プラン』というのがあり、夕食に、名物のあんこう鍋や常陸牛が選べる、お一人様でも気軽に泊まれるプランをやっていて、ファンの間では、この旅館に泊まるのが夢だという人が少なくないとのことだった。

 旅館の人にお礼を告げて、誠志朗達は先に進んだ。そこからはキャラクターの等身大パネルを置いた商店が軒を連ねていて、可成りの賑わいを見せていた。

 主役キャラクターの等身大パネルが置いてある文具店では、ガルパングッズも販売していて、メインの通りから少し奥に入ったところにある惣菜店や青果店も、ガイドブックを手にした聖地巡礼のグループで賑わっていた。

 商店街を更に進んでいくと、菓子店にも人だかりが出来ていて、ちょっとのぞいてみると、主役キャラクター達が通っている高校の校章を象ったべっ甲飴が名物のようだった。

 誠志朗達を驚かせたのは、そこから少し先に行ったところにある信用組合にもキャラクターの等身大パネルが置いてあったことだ。お堅い筈の金融機関までもが、ガルパンを応援しているということなのか。これがスーパーリージョナルバンクという奴なのか。と、誠志朗は感心した。

「あのよー、時間的に後1箇所くらいしか無理だぞ」

「もうそんな時間か。どうする?」

「あのね、この先に大きな観光ホテルがあって、そこを見学したいなと思って……」

「ほんじゃ、そこを見てお仕舞いってことで。さあ行くべ」

「ちょっと、待ってよー」

 先を急ぐ永一が急に自転車のスピードを上げると、常盤が付いてこれなくなってしまったので、誠志朗は常盤に合わせてゆっくり走ることにした。

 暫く行くと神社の大鳥居がある交差点に差し掛かり、そこを直進して、海沿いにある大型観光ホテルに着いた。

 永一が玄関前で手招きしている。自転車を停めて、玄関の自動ドアを潜りロビーに入っていった。

「海だーっ」

常盤が声を上げた。ロビーの大きな窓からは太平洋が一望出来る。砕け散る波飛沫がロビーの窓に掛かりそうな勢いだ。やはり、海には栃木県人を引き付ける魅力があるのだ。

 肝心のキャラクターの等身大パネルはお土産コーナーに置かれていた。これまで、どのお店でも店頭に置かれていたのだが、こちらでは、玄関を入ってロビーの左手にあるお土産コーナーに置かれている。

 永一が、お土産コーナーの担当者にインタビューしたところ、このホテルではガルパン関連の宿泊プランは取扱っていないとのことであった。ついでに、等身大パネルを店頭に置かない理由を尋ねたところ、分からないとの回答だった。

「何かもったいない気がするね」

「でもよー、こんだけのロケーションだから、ガルパンに関係なく客は来んじゃねーの?」

「それもそうだな」

「そうかもね」

 何だか、妙に納得して誠志朗達は観光ホテルを後にした。

 そこからは、海沿いの道路を通ってアウトレットモールに戻った。途中には、大洗漁港があって、地魚料理の飲食店や回転寿司、めんたいこの工場・直売所もあった。

 誠志朗達がアウトレットモールで自転車を返却しいる間に、静にお土産を買うと言ってガルパンギャラリーに行った常盤が戻ってくるのを少し待って、誠志朗達は帰路に就いた。

 帰りは、来た道を戻るだけだが、雨が上がって少し晴れ間も出てきたこともあって、周りの景色を見ながら快調に車は進んだ。途中、北関東道の宇都宮・上三川インターチェンジで下りる筈のところを、永一が「めんどくせー」と言って、下りずにそのまま北関東道から東北道、日光道を進んで、華なりの宿しずかに着いたのは午後4時少し前だった。

 帰り道、常盤が、「4時頃に帰るよ」とメールしたのだが、静からの返信はなかった。

 取り敢えず、フロントで鍵を借りて、永一と常盤はウィステリアに行って、誠志朗は調理場に向かった。

 調理場では、親方と従業員の板前が夕食の準備にてんてこ舞いしていた。

「あのー、親方……」

「おー、誠ちゃん、悪いね。今、手が離せねぇからよ」

「あっ、すみません。あのー、それで、静はどうでしたか?」

「あの野郎、相当へそ曲げちまって、口も利きやしねぇよっ」

「……そうですか」

「後で必ず電話させっから。悪いね」

「分かりました。ありがとうございました」

 仕方なく、誠志朗は調理場を後にしてウィステリアに向かった。従業員通路を通り従業員用のエレベーターに乗ると、子供の頃に描いた静の落書きが、誠志朗のため息を誘った。

 3階に着くと、エレベーターの到着を待っていた従業員の仲居に、追い立てられるように降ろされて、重い気持ちを引きずりながらウィステリアに着いた。

 呼び鈴を鳴らすのも忘れて部屋に入ると、常盤が昆布茶を入れてくれていた。

「はい、お疲れ様。静ちゃんどうだった?」

「あっ、うん。……親方に聞いたら、へそ曲げちゃって話もしないんだって」

「えーっ、そうなの。どうしよう?」

「まっ、明日になれば機嫌も直ってんじゃねーの? ほんじゃ、今日は帰るぜ。また明日なっ」

「あっ、ああ」

「お疲れ様、金崎君。今日はありがとうございました」

 永一は、振り返らずに、車の鍵を持った右手を上げて部屋を出ていった。

「ねぇ、お兄ちゃん。どうしよう?」

「今晩、電話してみるよ。常盤も連絡してみてくれる?」

「うん。分かった。そうするね」

「じゃあ、今日はお疲れ様」

「お疲れ様、お兄ちゃん」

 常盤の迎えの車が来るまでロビーで待つことにして、誠志朗達も部屋を後にした。

フロントで鍵を返した時も、常盤の迎えを待っている間も、静が姿を見せることはなかった。女将業を何よりも優先してきた静が、仕事をサボるなんてよほどのことだと、誠志朗は改めて思った。

常盤を見送ってから、誠志朗は、すっかり雨が上がった薄暮の温泉街を抜けて家路に就いた。



家に帰ると、母親の美也子が店番をしていた。

「おかえり、誠志朗君」

「ただいまー」

「あら、どうしたの? 何かあったの?」

「……いや、ちょっと、上手くいかなくて……」

「あら、大変ねー。そう言えば、さっき、華なりの女将さんから電話があったわよ」

「えっ、ほんと? 何て言ってた?」

「用件は言ってなかったけど、帰ったら電話下さいって。電話番号はこれね」

美也子から渡されたメモ用紙には、携帯電話の番号が書かれていた。

「でも、誠志朗君、華なりに行ってたんじゃないの?」

「いや、それが……、色々あって……、とにかく、ありがと」

誠志朗は、そのまま2階に駆け上がり、スマホを取り出して、息を整え、気持ちを落ち着かせてから、メモ用紙に書かれた電話番号をコールした。聴いたことのある箏の曲の呼び出し音がやけに長く感じた。

「はい、星野です」

「もしもし、俺だけど……」

「俺って誰よ?」

「俺だよ、俺っ」

「何よあんた、オレオレ詐欺でもやる気?」

「何だよ、人が折角心配してやってるのに……」

「誰も、心配してくれなんて頼んでないわよっ」

「そんな言い方しなくたっていいだろう……」

「はいはい。そんなことより、あんた、今晩7時に旅館に来なさいっ」

「えっ、何でだよ?」

「いいから、つべこべ言わずに来ればいいのよっ。言っとくけど、1秒でも遅れたら死刑だからねっ」

「何だよ、死刑って?」

「何でもいいから、絶対に来なさいよっ。分かった?」

「分かったよ」

「じゃあね」

 言い終わるや否や、携帯電話でもガチャ切りされた誠志朗だった。

「何だよ、まったく」

 そうつぶやきながらも誠志朗は、静の機嫌が少しは直ったような気がしてちょっと安心した。

 着替えて店に行くと、早速、美也子が尋ねてきた。

「女将さん、何だって?」

「何か、用件は言わないんだけど、7時に旅館に来いだって」

「あらあら、大変ね。じゃあ、夕ご飯は早めに用意するわね。誠志朗君、何か食べたいものある?」

「うーん、何でもいいけど……、昼ご飯はサバ味噌煮定食だったから……、じゃあ、大田原牛のサーロインステーキがいいかな」

「うーん、それは無理ね」

 そう簡単には大田原牛のサーロインステーキにあり付けない誠志朗だった。

「じゃあ、買い物してくるから、誠志朗君、店番お願いしていい?」

「いいよ。気を付けてね」

「ありがとう。いってきます」

「いってらっしゃい」

 車で出掛ける美也子を見送ってから、誠志朗は翌日の仕込みを始めた。店のホワイトボードには翌日の予約が書き込まれていて、金曜日ともあって、いつもより可成り多目の注文が入っていた。木綿豆腐と絹豆腐を2回ずつと、豆乳と寄せ豆腐を1回ずつの計6回分の大豆を準備して、網に入れて浸漬した。

 今日は、午前中ずっと雨模様で客足が悪かったらしく、木綿豆腐と絹豆腐が結構余ってしまっていて、翌日、生揚げにするにしてもちょっと多い。どうかして夕ご飯のおかずにしようと考えていたところに美也子が買い物から帰ってきた。

「ただいま、誠志朗君」

「おかえりなさい」

「今日は鶏肉が安かったから、唐揚げか油淋鶏にしようか? 誠志朗君」

「じゃあ、油淋鶏のタレを多めに作って、お豆腐にも掛けてみる?」

「あっ、それいいわねっ。それなら澪ちゃんも喜びそうね」

「いや、母さん。あいつは肉しか食べないと思うよ」

「あら、そう? じゃあ、レタスを千切って、その上に油淋鶏を載せてみようかしら?」

「ああ、それなら一緒に食べるかもね」

「じゃあ、早速作るわね。片付けお願いしてもいい?」

「うん。やっとく」

「ありがとう」

 それから、誠志朗は、店のシャッターを下ろしガラス戸を閉めて鍵を掛け、翌日生揚げにする豆腐の水切りをして冷蔵庫に仕舞った。手提げ金庫を持って店の明かりを消したら、本日の営業は終了。

 静のところに行く午後7時までにはまだ時間があるので、夕ご飯が出来るまでに風呂に入ってしまおうと、そのまま脱衣所に行って一番風呂をいただいた。

 永一の運転だったからか、可成り神経を磨り減らしたので、湯船に浸かりながらうとうとしていたら、美也子が呼ぶ声で目を覚まして風呂から上がった。バスタオルを用意しておくのを忘れたので、フェイスタオルで前を隠して風呂を出た。

「ギャー、変態!」

澪の叫び声に誠志朗も驚いた。

「何だ? どうしたんだ?」

「こっち来るなっ。露出狂!」

「あーっ、悪い、悪い」

そう言って、誠志朗は慌てて2階へ駆け上がった。

「お尻が見えてるぞっ。お母さーん、誠志朗君が裸で歩ってるよー」

「あらあら、風邪引くわよ、誠志朗君」

「えーっ、そっちじゃないでしょ? お母さん」

 そんな、かみ合わない会話が耳に入ってきた誠志朗だったが、澪が小学校の低学年くらいまでは、忙しい美也子の代わりに一緒に風呂に入ってあげていたのに、最早、変態露出狂扱いされてしまうのにはがっかりさせられてしまった。

出掛ける服に着替えて1階に下りていくと、早速、澪に文句を言われた。

「来たなっ、変態露出狂!」

「ごめん、ごめん。でも、ちょっと驚き過ぎだろ?」

「誰だって驚くぞっ。家の中に裸族がいたら」

「でも、真っ裸じゃないだろっ。タオルで隠してただろ?」

「キャー、変態! それ以上言うなっ。思い出しちゃうから」

「分かったよ。悪かったよ」

「もう、ほんと、お願いだぞ、誠志朗君。それよりどうしたんだ。そんな格好して?」

「ああ、7時に華なりに行くんだよ」

「えっ、静様に会いにいくのか?」

「うん。何か話があるみたいなんだ」

「あー、ずるいぞ、誠志朗君。 澪も静様に会いたいぞ」

「駄目だよ。真面目な話なんだから。また今度なっ」

「あーん、残念だぞ、誠志朗君。じゃあ、今度、静様の写真撮ってきて欲しいぞっ」

「えーっ、まあ、多分無理だと思うけど……、今度頼んでみるよ」

「やった! よろしくお願いするぞ、誠志朗君」

「ほらほら、そろそろご飯にしましょう」

 澪と、そんな取り留めのない会話をしていたら美也子が夕ご飯を運んできた。

「あっ、油淋鶏だ。美味しそう」

「肉ばかりじゃなく野菜も食えよっ」

「えーっ、食べてるぞ。誠志朗君」

「ほんとかー?」

「本当だよね、お母さん?」

「うん、そうねぇ、澪ちゃんはもう少しバランスよく食べた方がいいかもね」

「ほらみろっ」

「あーん、お母さんまでー。分かったよ。食べればいいんでしょ」

「それじゃあ、しっかり食べてね。いただきます」

 美也子に続いて誠志朗と澪も声を合わせて、夕ご飯をいただいた。

 木綿豆腐はレンジでチンして湯奴にして、絹豆腐は冷たいまま冷や奴で、それぞれ油淋鶏のタレを掛けて食べた。

「美味しー、これー」

 豆腐の類には飽きてしまっていた澪だったが、油淋鶏のタレを掛けた豆腐は一味違って、お気に召したようだ。

「ほんと、美味しいわね。そう言えば、銀行に勤めていた頃、宇都宮のホテルで、お豆腐の上に肉味噌を載せた中華料理の前菜をいただいたことがあって、それが凄く美味しかったのよー。あの時初めて、お豆腐ってこんなに美味しいんだって思ったのよねー」

「あーっ、それも食べてみたい。お母さん」

「じゃあ、今度、思い出して作ってみようかしら?」

「その時は澪も手伝うねっ」

「また試食狙いだな」

「うるさいぞ、誠志朗君はー」

「はいはい、ごめんなさい」

「『はい』は1回だぞ、誠志朗君」

「……」

 そんなこんなで賑やかな夕食を食べ終えると、そろそろ出掛ける時間になったので、誠志朗がバイクの暖機運転をしながら準備をしていると、澪が「静様の写真をよろしく!」と言ったので、「まあ当てにするな酷過ぎる借金」と、イオン化列の語呂合わせで答えたのだが、「はあ? 何を言ってるのだ、誠志朗君はー」と、澪には皆目通じなかった。 



誠志朗は、静に言われたとおり、午後7時に華なりの宿しずかに来た。

玄関を抜けてロビーに入ると、夕食のピークの時間帯で人影のないラウンジのガラスの向こうに静の姿があった。藤の花模様の薄紫の紗袷にはクリーム色の帯と濃紺の帯留。日本庭園に向けられた照明に、きらきらと紫に艶めく長い黒髪は銀の髪留で一つにまとめられていた。

誠志朗が、ガラスのドアを開けて中庭に入ると、静は、何も言わず掌を向けて、緋毛氈を敷いた縁台に腰掛けるように案内した。

 目の前の藤棚には、薄紫の花序が枝垂れ始めていて、その横には、宿泊客を野点でもてなすための緋毛氈を敷いた高座があり、そこには1面の箏が置かれていた。

静は、高座に上がり箏の前に座ると、一度、誠志朗を見てからゆっくりと目を閉じ、深く息をして、再びその切れ長の大きな目を開き、奏で始めた。

 ゆっくりと丁寧に、一音一音、大切に……。華やかだけれども、どこか物悲しさを感じさせる音色が重なっていく。

  

 KIRORO『未来へ』


 いつもエールを贈ってくれていた母に、感謝して頑張っていこうという娘の気持ちを綴った曲

  

 乳がんのために幾許もない命の時間を告げられ、静の母は何を想っただろうか……

 残り少ない時間を恨んで泣き喚くこともせず、絶望に打ちひしがれることもなく、ただ、娘に、静に、何をしてあげられるか、何を残してあげられるか、それだけを……、残された時間を惜しみながら……、ただ只管に……


 最後の一音を奏で終え、静は深く息をしてから誠志朗を見た。

そして、誠志朗に何か言おうとした時、6階の客室のベランダにいた宿泊客が静の演奏に拍手をしたので、静は、宿泊客にお辞儀をして高座を下り、そのままガラス戸を開けフロントの奥へ入っていってしまった。

「何か言いたかったんじゃ……」

 誠志朗は、静を追い掛けてフロントに行き、女将さんを呼び出してもらったが、席を外しているとのことだった。

 思い立って、誠志朗は6階の非常階段に向かった。階段で6階に上がり通路の一番南の奥の非常口のドアを開けた。鬼怒川の川音が聞こえる踊り場に静が立っていた。

「川風が気持ちいいわ」

 静は、振り向かずに言った。ちょうど、東の山の上に昇った月が、薄雲に隠れておぼろ月のようになっていた。

「あの、……静、……何か言いたいことがあるんじゃ……」

「……言いたいことは、……色々あったわ。でも、もういいの。さっき、箏を弾いている時、お母さんのことを思い出したわ。……お母さんはいつも、お客様の笑顔が見たいって言ってた。『また来るね』、『また来たよ』って、笑って言ってくれるお客様の笑顔が嬉しいって。……そしたら、私のこだわりなんて意味がないって分かったわ」

「じゃあ、あのプランでいいのか?」

「……いいわよ。……形は違っても、お客様が笑顔になれる旅館が、お母さんが一生をかけて守ろうとしたものだから。……私が間違ってたわ」

 おぼろ月の柔らかな光に包まれて、月下美人のように黒髪があやしく艶めいた。静はゆっくりと近付き、その潤んだ瞳に誠志朗を映した。

「……静……」

「……誠志朗、……私、………………キスするとでも思った?」

「……なっ、何言ってんだよ!」

「そもそもあんた、昼間はよくもあんなに私のことばかり責め立ててくれたわねっ。1回くらい殴らないと気が済まないわっ。目をつぶって歯を食い縛りなさい!」

「えーっ、何で俺が殴られなくちゃならないんだよ?」

「それは……、あんたがリーダーだからよっ。つべこべ言ってないで、男ならさっさと目をつぶりなさい!」

「えーっ」

 そう言いながらも誠志朗は観念した。確かに、静の言うとおり、言い過ぎたとは思っていたからだ。それに、幾ら何でも、流石にグーパンチでは殴らないだろうとも思ったので、仕方なく、覚悟を決めて目をつぶった。

「!」

 静が腕を振り上げる気配がして、誠志朗は歯を食い縛った。次の瞬間、唇に柔らかな感触が重なった。微かにフレッシュライムが香った――

「……これで許してあげるわ。……ありがとう、誠志朗」

「…………」

 誠志朗が恐る恐る片目を開けると、静は少しはにかんで微笑んだ。

「……静、今、何かした?」

「知らないっ」

「でも、何か唇に……」

「バカ! もう知らないっ」

 そう言って、静は、非常口のドアを開け、鍵を掛けて行ってしまった。

「おい、静……、静さーん」

 おぼろ月の薄明かりの下で、非常口のドアノブがいつまでも空しい音を立てていた。



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