ブ男?
6月30日(水) 決戦の日まであと5日
今朝も誠志朗は、午前4時ちょっと前に目を覚まして豆腐を作り始めた。今日は梅雨らしい小雨がそぼ降る空模様だ。雨の日は来店客が少ないので、いつもより作る数量を減すところなのだが、夕べの天気予報では蒸し暑くなると言っていたので、誠志朗は、木綿豆腐と寄せ豆腐はいつもどおりに作ることにした。冷や奴などで食べる人が増えると踏んだからだ。栃木県の県北地区は絹豆腐より木綿豆腐の方が沢山売れる。どういう訳か、冷や奴も絹豆腐より木綿豆腐がいいという人が多いのだ。
豆乳、木綿豆腐、寄せ豆腐を予定した数量分作り、絹豆腐は少し減らして、生揚げも揚げて、掃除を済ませた。
「おはよう。誠志朗君。朝ご飯出来てるわよ」
「おはよ。ありがと。生揚げやっといたよ」
「あら、ありがとう。助かるわー」
「どういたしましてっ」
笑いながら言って、誠志朗は、朝ご飯を作り終えて豆腐製造室に入ってきた母親の美也子と入れ替わりに、上着と恋し屋Tシャツを脱ぎながら脱衣所に行った。シャワーを浴びてジャージに着替え、丼にご飯をよそっているところに澪が起きてきた。
「おふぁよう、誠志朗君。ふあーっ」
「おはよ。そういえば昨日、常盤と静に、澪がよろしく言ってたって伝えといたぞ」
「おおー、出来したぞ誠志朗君。それで、何か言ってた?」
「二人とも、今度遊びにおいでだってさ。でも静には前にも同じこと言ったって怒られたぞ」
「そうか、そうか」
澪は、誠志朗の話を最後まで聞かないうちに上の空になっていた。
「まったく、もう」
テレビのスイッチを入れながら誠志朗が零したが、澪には聞こえていなかった。まあ、取り敢えずこれで、物忘れの酷い少年扱いされずに済むので、誠志朗的には一件落着といったところだ。
食べ終えた食器を洗って、出掛ける準備をするために誠志朗は2階の部屋へ上がった。今朝は配達もなく終日雨の予報なので、静の旅館へ行くだけだから雨合羽を着て『ゼッツー』で行くことにした。ゼッツーとは店の配達用の原付自転車のことだ。ホンダのスーパーカブという名前なのだが、なぜか父親の聖郎が「俺のゼッツーが……」などと呼んでいたので、誠志朗もいつの間にかそう呼ぶようになっていた。たまにはゼッツーもエンジンを掛けてやらないとバッテリーが上がってしまう。大型自動2輪の免許を取るまで、誠志朗はゼッツーには大変お世話になった。雨の日も風の日もほとんど毎日、通学や配達、教習所へも通った戦友だ。
そもそも、誠志朗が大型自動2輪の免許を取ろうと思ったのは、この戦友であちこち出掛けているうちに、風を切って走る楽しさを覚えてしまったことも理由の一つなのだが、小学生の頃、父親の聖郎に、若かりし頃のアルバムを見せてもらった時、カワサキの750CCのバイク、いわゆる『ナナハン』に跨っている写真を見付けて、いつもとは別人のようにかっこいい姿がまぶたに焼き付いて離れなかったのが最大の理由だった。「これが本物のゼッツーだ」と教えてくれた聖郎に、「このオートバイはどこにあるの?」と尋ねると、「そいつは、きらめくダイヤモンドになった」と笑いながら答えていたのを、誠志朗は今でもはっきりと覚えている。
1階に下りて、デイパックを背負ってから雨合羽を着て車庫に行き、キックペダルを踏んでゼッツーのエンジンを掛けると軽やかにエンジンが回った。久しぶりの戦友はちょっと埃を被っていたが元気そうだった。暖機運転している間に店のシャッターを開け、ガラス戸越しに「いってきます」と美也子に出掛ける挨拶をして出発した。
店の前の小原通りを南へ向かい、小原沢の橋を渡り吊り橋入口を左折して会津西街道に入る。滝見橋という吊り橋のたもとで小原沢の流れが鬼怒川に注ぎ込むところが『結の滝』で、『縁を結ぶ』と伝えられている縁起のよい滝だ。吊り橋の真ん中で愛を誓い合ったカップルは一生添い遂げることが出来ると言われているパワースポットでもある。そのまま直進して鬼怒川の対岸に常盤のきぬやホテルを見ながら進み、市役所支所の辺りでモウキ山の山陰を抜けると急に視界が明るくなって、下野銀行鬼怒川支店の手前を右折すると華なりの宿しずかに到着した。駐車場から裏口に行き、屋根のある駐輪場の端にゼッツーを停めさせてもらい、雨合羽を脱いでハンドルに掛けた。建物伝いに正面に回って玄関からロビーに入った。
ロビーには、チェックアウトする宿泊客と談笑する静の姿があった。鶯色と白の市松模様の絽の着物に薄紅色の帯と朱色の帯留。艶めく長い黒髪は銀の髪留で一つにまとめられていた。
「いらっしゃいませ。誠志朗様」
宿泊客のお見送りを済ませた静が、誠志朗に気付き微笑みながら傍にやってきた。
「おはよう。しっ、静」
「おはようございます」
どうも静のことを名前で呼ぶのは本当に慣れないなと思い、つい顔が強張ってしまった誠志朗だったが、静の方は零れんばかりの笑顔で返した。
「みんなは?」
「まだいらっしゃっておりませんわ」
静は、帯に挟んでいたウィステリアの鍵を取り出して誠志朗に渡した。
「じゃあ、先に行ってるよ」
「はい。ではのちほど」
誠志朗は、中庭の見える通路を通ってエレベーターホールに向かい、階段で3階に下りてウィステリアに入った。西向きの客室は、雨の日の午前中は可成り暗く感じるので、誠志朗は部屋の明かりを点けレースのカーテンを開けた。広縁の椅子に腰掛けて鬼怒川を見下ろすと、渓谷全体がもやに包まれていて、何ともノスタルジックな雰囲気を醸し出していた。
「お茶でも飲むか」
誠志朗は、独り言を言いながら、急須に緑茶のティーバッグを入れて一人分のお湯を注いだ。少し蒸らしてティーバッグのタグを持って3~4回振ってから湯飲み茶碗に注いだ。
「あちっ」
ポットのお湯を湯冷ましせずに注いだものだから、誠志朗は火傷しそうになった。
「何が『あちー』だよ」
呼び鈴も押さずにいきなりドアを開けて永一が入ってきた。
「お邪魔しまーす」
後に続いて常盤もやってきた。
「おはよ。……お茶を入れたら熱過ぎて……」
「まったく、ドジだねー」
「大丈夫?」
「大丈夫だよ。ちょっと熱かっただけだから」
「よかったー。気を付けてね」
憎らしい物言いをする永一に、優しい気遣いをしてくれる常盤の爪の垢でも飲ませてやりたいと思ったが、よく考えると、仮令、爪の垢でも永一にくれてやるのはもったいないと思った誠志朗だった。
それから、部屋の呼び鈴が鳴って、「お待たせー」と言いながら静がやってきて、メンバーが揃った。
「さーて、どーすっかなリーダーさんよ」
永一が誠志朗に話を振った。
「一応、確認だけど、日本料理を生かしつつ、オフシーズンに客を呼べるコンセプトを考える方向でいいんだよね?」
「そうね。うちにはそれしかないもの」
「実際よー、湯澤の所は参考にはなったけどよー、規模も設備も違うここでやるのは無理があるし、第1、真似じゃしょうがねーしな」
「そうだね。静ちゃんちには静ちゃんちのよさがあるもんね」
「じゃあ、オフシーズンに客を呼べるアイディアをブレインストーミングで出していくか?」
「はいはーい。じゃあ、私が書記やるね」
そう言って、静がホワイトボードに縦横の十字を書いた。
「2、3月でしょ。6月と9月。あれ、1個余っちゃった。まっ、いいか」
「じゃあよー、そこは通年って書いとけば」
「オ―ケー、通年っと」
「ほんじゃ早速、通年の所に、矢沢永吉記念館なっ」
「はあー? いくら何でも、それは無理だろっ」
「バカ野郎、ブレインストーミングは、人の意見にケチを付けちゃ駄目だろっ」
「それはそうだけど……」
「まあまあ、けんかしないで、はい、次、次」
「あのね、私は、2、3月に、日本庭園でかまくらとか雪だるまってどうかなって」
「いいんじゃない。じゃあ、私は、通年に、囲碁・将棋の大会っと。――ちょっと、誠志朗も黙ってないで何か出しなさいよ」
「あっ、ああ、通年に、落語や漫才なんかどうかと思うんだけど……」
「何よー、ちゃんとあるんじゃない。もったいぶらないでさっさと言いなさいよ。――落語・漫才っと」
静が、ぶつぶつ言いながらホワイトボードに誠志朗のアィディアを書き足した。
「はい、そのほかは? どんどん言ってねー」
「じゃあよー、俺は、通年に、最新型の家電が体験出来る旅館な」
「それ、いいわね。外国人観光客に受けそうだわ」
「あのね、私は、2月に、厄除け祈願パックなんていいと思うんだけど……、東照宮の神主さんに来てもらって、厄除け祈願をしたら、その後は宴会って感じで……」
「いいわね。ご利益ありそう。同窓会も兼ねて出来るし」
「確かに。それなら団体客やグループ客を取り込めそうだな」
常盤のアイディアに、静と誠志朗が賛同した。
「じゃあ、私は、2、3月に、イチゴ狩りパックね。何てったって旬の時期だから」
「えっ、そうなんだ? イチゴって、その頃が旬なんだ」
スーパーの店頭に1年中並んでいるイチゴの旬が、冬から春だということを、誠志朗は初めて知った。
「さあ、誠志朗の番よ。早く言いなさい」
「ちょっと待ってよ。そんなに簡単に出てこないよ」
「パスするなら、服を1枚ずつ脱ぐのよ」
「何だよそれ、そんなの聞いてないよ」
「じゃあ、早く出しなさいよっ」
急かされると余計に焦ってしまい、アイディアが浮かんでこない誠志朗だった。
「えーと、……、うーん、……」
「はい、時間切れね。ズボンを脱ぎなさい」
「ちょっと待ってよ。しかも、何でいきなりズボンなんだよ?」
「つべこべ言わないっ」
「えーと、じゃあ、通年に、グルメトークショーで」
「何よ、グルメトークショーって?」
「あっ、その、グルメリポーターを呼んで、親方の料理を食べながらトークショーをしてもらうっていう……」
「なるほど。誠志朗にしては、結構まともじゃない」
誠志朗は、以前、恋し屋豆腐店に態々豆腐を買いに来てくれたグルメリポーターの彦丸が、「何かあったら気軽に連絡してやー」と、名刺を置いていったことを思い出して、苦し紛れに口にしたのだった。
「じゃあよー、この辺で少し整理すっか?」
一人2つずつのアイディアが出たので、永一の提案で内容の整理をすることになった。誠志朗達は静が書き込んだホワイトボードに目をやった。
◇2、3月
かまくら・雪だるま
厄除け祈願パック
イチゴ狩りパック
◇通年
矢沢永吉記念館
囲碁・将棋の大会
落語・漫才
最新家電体験
グルメトークショー
6月と9月が空欄だったが、通年のイベントがあれば、そこはカバー出来るだろうと誠志朗は思った。
「じゃあよー、ケチを付ける訳じゃねーが、この中で実現が難しい順に外していくか?」
「そうね。それがよさそうね」
「じゃあ、矢沢永吉記念館で」
早速、誠志朗が永一のアイディアに駄目を出した。
「何だよ、いきなりかよっ」
「だって、記念館って、普通、その人の生まれ故郷や縁のあるところに造るもんだろう?」
「そりゃそうかもしれねーけど……」
「それに、仮に造れることになったとして、どこに造るんだよ?」
「そりゃー日本庭園をぶっ壊して……」
「駄目! 庭を壊すのは絶対駄目! こないだも言ったでしょ!」
静が、声を荒らげて永一の言葉を遮った。
「分かったよ。じゃあ、しょうがねー、これは没でいいよ」
ホワイトボードの矢沢永吉記念館のところに、静が、赤のホワイトボードマーカーで乱暴に大きな×印を付けた。
「じゃあ、次に難しそうなのはどれだ?」
「あのね、ちょっと言い難いんだけど、囲碁や将棋の大会って、もう何年も先まで決まっちゃってて、それに凄く審査が厳しいんだよ。うちのホテルも何年も前からエントリーしてるんだけど全然見込みが立たないんだよ」
「へえー、そうだったんだ。ごめんね、常盤、言い難いこと言わせちゃって」
「残念だけど、ごめんね」
少し機嫌が直った様子の静が、囲碁・将棋の大会にも×印を付けた。
「次は、どれだい?」
「あのよー、落語や漫才も没じゃねーか?」
「何でだよ?」
「ギャラと客数の問題だよ。確かここは最大収容人数が200人だったよな?」
「そうよ」
「仮に、満館の時に宿泊客の半分が落語や漫才を聞いたとして、客単価2,000円掛ける100人は20万円にしかならねーんだよ。その金額じゃ有名な落語家や芸人は呼べねーから、客が集まらねーよ」
「じゃあ、客単価を上げればいいんじゃないか?」
「バーカ。東京なら2,500円くらいで、落語や漫才やマジックショーが一度に見られんだよ。無理に決まってんだろっ」
「何だよ。そんな言い方しなくてもいいだろっ」
「ちょっと、やめなさいよ! けんかしないで!」
「そうだよ。もっと冷静になろうよ。今、お茶入れるからね」
そう言って、常盤が、全員のお茶を差し替えてくれた。
「じゃあ、残念だけど落語・漫才も……」
静が、申し訳なさそうにホワイトボードに×印を付けた。
「じゃあ、次は?」
「続け様で悪いけどよー、グルメトークショーも落語・漫才と同じようだぜ」
「またかよ?」
「いや、別にケンカ売ってる訳じゃねーぞっ。そもそも、芸能人っていうのは出来高払いの仕事はやらねーんだよ。1日いくらとか1回いくらって相場が決まってて、トークショーの客の入りに関係なく契約したギャラは支払わなくちゃならねーから、予約が少ない日は旅館の持ち出しになっちまうんだよ」
「赤字になっちゃうってこと?」
「そういうこと」
「えー、唯でさえ利益が薄いのに、赤字になっちゃったらやる意味がないわ」
「だったら、予約が少ない日は客を集める努力をすればいいんだろ?」
「おめーよー、そんな簡単に言うなよ。宿泊代込みで3万円から4万円近くになるチケットは簡単にさばけねーぞ。いくらネットで告知してもこっちは受け身で、予約が入るのを待つしかねーんだから。宇都宮のホテルだって、年末のディナーショーのチケットを売りさばくのに、どんだけ苦労してるか知ってんのか? 仕舞いには、身内や関係者がチケットを買ってんだから。もっとも、そんなことやってたら蛸が自分の足を食ってんのと同じだから、ずっと続く筈もねーけどなっ」
「そういうものなのか?」
「ああ、そういうもんだっ」
敢えなく、誠志朗の出したアイディアは2つとも没になった。
残ったアイディアは、常盤のかまくら・雪だるまと厄除け祈願パック、静のイチゴ狩りパック、そして、永一の最新家電体験だ。
「金崎君、ごめんね。ネットで調べてみたんだけど、インバウンド関連の最近の売れ筋は、炊飯器、トイレ洗浄機、ステンレスボトルなんだって……」
「いきなり謝られてもなー。つまり、湯澤の言いたいことは、そいつらは鬼怒川温泉じゃなくても体験出来るってことか?」
「……トイレ洗浄機の体験はどうかと思うけど、それ以外はどこでもデモンストレーションが出来ちゃうって思うんだけど……」
「遠慮しなくていいぜー。はっきり没って言ってくれよ」
「そんなつもりじゃないんだけど……、ごめんね」
常盤は、ほんとに申し訳なさそうに永一に言ったのだが、静は、ホワイトボードにさっさと×印を付けてしまった。
「いいよ。気にするなって。そんじゃ、次いいか? イチゴ狩りパックはよー、東北のさくらんぼや桃とかなら、都心からの距離があるから1泊っていうのもありだけどよー、栃木くらいまでは日帰りコースなんだぜ」
「そうよね。帰りにイチゴを買っていきたいっていうお客様には、鬼怒川ストロベリーパークさんを紹介してるけど、お土産にちょっと買っていく程度で、イチゴを目当てに来てる感じはしないものね」
「そうだね。静ちゃんの言うとおりかもね」
静は、自分が出したイチゴ狩りパックのアイディアに×印を付けた。
「残るは、常盤の出したかまくら・雪だるまと厄除け祈願パックだな」
「凄いじゃない、常盤」
「えーっ、そんなことないよ」
「さてと、さっきから俺ばっかり批判して気が引けるけどよー、かまくら・雪だるまは、確か、湯西川温泉でやってたろ? それにここの中庭じゃ、あんなに沢山のかまくらや雪だるまは置けねーから、集客の材料には無理じゃね?」
「そうね。確か、湯西川温泉のかまくら祭は、日本夜景遺産の『歴史文化夜景遺産』認定イベントになってて、知名度があるしね。それに、うちの中庭では、かまくらが2個くらいしか出来ないし、積もるほど雪が降るのは年に2、3回くらいだもの」
静が、ホワイトボードに、そっと×印を付けた。
「じゃあ、残ったのは、厄除け祈願パックだな」
「これはいいんじゃね。厄除けは派手にやった方が厄払いになるっていう話もあるしよっ」
「へーっ、そうなんだ。でも厄除けって何歳になったらやるの?」
「男の人の大厄が数え年で42歳、女の人が33歳で、その前後の年が前厄と後厄なんだよ」
「って言うことは、仕事や子育てに忙しい年齢じゃない?」
「そうだね」
「じゃあ、宿泊での厄除け祈願は、週末しか期待出来ないってことになっちゃうわね」
「そうなっちゃうね」
「でもよー、客室稼働率が特に悪い1月中旬から3月中旬までの集客に使えりゃ御の字じゃねーの?」
「それは確かにそうね」
「じゃあ、このプランでシミュレーションしてみる?」
「そうね。そうしましょっ」
どうも専門的な話になると、名ばかりリーダーの誠志朗は、いつも蚊帳の外に置かれてしまっていた。
「じゃあ、期間は1月15日過ぎから3月20日までの金・土で、全部で16日間でいいかな?」
「それでいいと思うわ。料金はどうするの?」
「あのよー、厄除けと宴会のパックだから、客室は一番安い部屋でいいけど、宴会料理は真ん中のコースを一番安い料金で出来ねーか?」
「そうねー、ちょっと、親方に相談してくるわ」
静が、言い終わるよりも早く席を立って調理場へ向かった。
「金崎君、初穂料はどうするの?」
「ちょっと待ってろ」
革ジャンのポケットからスマホを取り出した永一が、ネットで検索を始めた。
「あのー、俺は何をすれば……?」
手持ち無沙汰の誠志朗が、何か手伝えることがないか聞いてみたのだが、「お茶でも入れてくれ」と、取り込み中の永一につれなく言われる始末だった。仕方なく、誠志朗は、言われたとおり、全員のお茶を入れた。
忙しくキーボードを叩いている常盤に、「ごめんね」と謝られてしまって、とてもやる瀬なかった誠志朗だった。
「初穂料はよー、ピンキリだけど、大体、5,000円くらいみてーたぜ」
「金崎君、ピンキリなんて言ったら罰が当たっちゃうよっ」
「大丈夫だー。俺は、そもそも神様なんか信じてねーから」
「えーっ、そうなの? じゃあ、結婚式とかはどうするの?」
「あーん? そんときゃ、人前結婚式でもやるぜ。おめーらに証人になってもらってなっ。ところで、お二人さんの結婚式には、当然、呼んでもらえるんだろうな?」
「なっ、何言ってんだよ、永一!」
永一が、二人の結婚式なんて言うものだから、誠志朗は常盤を、常盤は誠志朗を見て、一瞬、目が合ったのだが、照れてたちまち目をそらしてしまった。常盤は耳の上の方まで真っ赤になって下を向いてしまった。デジャビュなのか、以前にもこんなシチュエーションがあったような気がした誠志朗だった。
「ヒューヒュー。熱いぜ、お二人さん!」
「いい加減なこと言うな、永一!」
誠志朗は、何とかこの話題を終わらせようと、いつもより声を荒らげていた。
「おー怖っ。しょうがねーな、お遊びはこのくらいにしといてやるよ。んじゃ、続きをやるか?」
「ふざけるなよ、まったく、ほんとにまったく」
その時、部屋の呼び鈴が鳴って、静が戻ってきた。
「お待たせー、大丈夫だってー。……あれ、どうしたの、常盤? 赤い顔して熱でもあるの?」
「何でもないよ。大丈夫だよ」
「はいはいっと。そんで、一番安い部屋と一番安い料理で、いくらになんだっけ?」
「失礼ねっ。安い安いって言わないでよ、もーっ。……えーと、お部屋が10,000円で、お料理が5,000円ね」
「じゃあよー、初穂料は、一人5,000円として、そのままそっくり神社に支払うから、収入と支出に同額計上だな。いいよな、湯澤」
「あっ、うん。大丈夫」
「何が大丈夫なんだよ? ちゃんと話、聞いてっか?」
「うん。大丈夫だよ。収入と支出に同額計上ね。それと、客室稼働率はどうするの?」
「一番安い部屋は何室あんだっけ?」
「だーかーらー、安い安いって言わないでよっ。八室よっ」
「おー、怖い怖い。じゃあ、100パーセント稼働はありえねーから、80パーセントの6室稼働ってとこだな」
「あのね、一応、確認だけど、6室、16日稼働、客単価15,000円、初穂料は5,000円で支出と同額計上でいいんだよね?」
「オーケー」
「じゃあ、後は、食材原価と追加の人件費が出れば出来るかな」
「食材はね、7,000円のお料理だから、えーと、……ちょっと電卓貸して」
静が、電卓を片手に食材原価の計算を始めた。
「あのよー、そんなの暗算で出来んじゃねーの?」
「うるさいわねっ。ちょっと黙ってて」
「おー、怖っ」
「えーと、4,500円ってところね」
「『ところね』って、それ、ほんとに合ってんのかよ?」
「失礼ねっ。2回計算したから間違いないわよっ」
「ほんとに大丈夫なのかよ? んじゃ、人件費は?」
静がまた電卓で計算を始めた。
「656,640円ね」
「何だよ、その細けー数字は? 一体、どういう計算してんだよ?」
「それは、教えられないわ。企業秘密だもの」
「あーん? 銀行に聞かれたら何て答えんだよ? まあいいや。湯澤、それでやってみ」
「はーい。ちよっと待っててね」
静の答えを聞きながらテンキーを叩いていた常盤が、残りの数字を打ち込んだ。
「出来たよー。今、プリントするね」
プリンターが動き出し、人数分印刷されたA4サイズの資料を常盤が配ってくれた。
「売上は768万円の増加で、支出は430万円だから、利益は337万円の増加になるけど、法人税等を30パーセント考慮すると、最終利益は235万円の増加かな」
「ねー、それってどうなの? いいの? 駄目なの?」
常盤の説明の内容が理解出来ていない静が、答えを急いだ。
「静ちゃん、2枚目の『計画PL』の下の方を見て。要償還債務償還年数が35年になってるでしょ」
「それって、いいってこと?」
「ちょっと微妙だなー。湯澤よー、これって直近の決算書にさっきの数字を乗っけてシミュレーションしたんだろ?」
「うん。そうだよ」
「だとしたらよー、毎年、売上はダウントレンドなんだから、実際にはもっと悪くなってる筈だよな?」
「えーっ、じゃあ、駄目ってこと?」
「いや、まるっきり駄目じゃねーが、まあ、やんねーよりはやった方が増しってレベルだな」
「そんなぁ……」
静は、あからさまに落ち込んでしまった。
「まあよー、これはこれで計画に入れといて、もう一つくらいアイディアを出すしかねーだろっ」
「あーん、がっかりだわ。……でも、仕方ないわね。もう少し頑張りましょ」
「でもよー、その前に飯にしねーか?」
永一の言葉で部屋の時計を見ると、時刻は正午を回っていた。お腹が空くのも忘れてシミュレーションに熱中していたようだ。
「今、親方がお蕎麦を打ってるから、そこの食事処に行きましょ」
静に連れられて部屋を出た誠志朗達は、同じフロアの個室食事処に入った。蕎麦を取りにいくと言う静を誠志朗が手伝おうとしたが、「ワゴンで運ぶから大丈夫」と言って、一人で5階に上がって行ってしまった。業務用エレベーターの落書きのことを、まだ気にしているのかと、誠志朗は申し訳ない気持ちになった。
ほどなくして、静がワゴンを押して戻ってきた。
「お待たせー。今日は、かも汁付け蕎麦よー」
常盤が配膳を手伝って、昼ご飯がテーブルに並んだ。打ち立ての冷たい蕎麦に温かいかもの付け汁、香の物と蕎麦湯も付いている。
かも汁付け蕎麦と言えば、この辺りでは、川治温泉の奥の五十里湖の畔にある『湖畔亭ほそだ』という食堂が有名で、芸能人がお忍びで食べにくるほどの店だ。店名のとおり五十里湖を見渡せる畔にあって、秋の晴れた日に、エメラルドグリーンの湖に写る紅葉を見ながら食べる蕎麦は、それはもう、言葉で言い表すことの出来ないほどの美味しさなのだ。蕎麦好きの誠志朗の父親は「ここのかも汁付け蕎麦は日本一だ」と言って、日曜日になると、蕎麦を食べに誠志朗達を連れていってくれた。幼かった澪は、最初のうちは「おいちいね。おいちいね」と喜んで食べていたのだが、ほとんど毎週のように連れていかれるものだから、暫くすると、すっかり食傷気味になってしまっていた。
「ほんじゃ、早速、いただきます」
七味唐辛子を振って勢いよく蕎麦をすすりだした永一に続いて、誠志朗達も声を揃えて蕎麦を頬張った。
「いやーっ、かもの出汁が、うめーの、美味くねーのって」
「どっちなんだい?」
「うめーよ!」
「でも、ほんとに美味しいね」
「そりゃそうよ。何てったって、打ち立ての茹で立てですもの」
「あれ、そう言えば、『3立て』って、もう一つは何だっけ?」
「ひき立てよ、誠志朗。お蕎麦は、味と香りが劣化し易いから、蕎麦粉もひき立てがいいんだけど、流石に、毎回石臼でひいてられないから、うちでは小分けしたものを使う分だけ届けてもらってるのよ」
「そうなんだ。だからこんなに香りがいいんだ」
「あら、ありがと」
そう言って、静はちょっと誇らしげに澄まし顔をした。
「おいおい、誠志朗よー、何だよその食い方はよー」
「えっ、何かおかしいか?」
「蕎麦を全部、汁に付けてんじゃねーよっ」
「えっ、駄目なのか?」
「あのなー、全部付けちまったら、蕎麦の香りがしなくなっちまうだろっ」
「えっ、そうなのか? じゃあ、どうやって食べるんだい?」
「いいかー、こうやって、蕎麦の下3分の1くらいを汁に付けて、一気にすするんだよっ」
いい音を立てて、永一が蕎麦をすすった。
「へーっ、そうなんだ」
誠志朗も永一の真似をして蕎麦をすすった。
「ほんとだ。さっきより香りと味が強い!」
「だろっ」
永一に教えられたとおりに蕎麦を食べてみて、父親もそんな風に、美味そうに蕎麦をすすっていたのを思い出した誠志朗だった。
蕎麦を食べ終わると、誠志朗達は、かもの付け汁に蕎麦湯を足して飲み干した。
「いやーっ、美味かったー。ご馳走さん」
「静ちゃん、ご馳走様でした。美味しくいただきました」
「ほんと、美味しかったよ。ご馳走様でした」
「お粗末様でした」
静が、誠志朗と永一の分の蕎麦を大盛りにしてくれていたので、誠志朗はすっかり満腹になった。そして、常盤が入れてくれたお茶をゆっくりすすった。
静と常盤が食器を片付け始めたので、誠志朗も手伝おうとしたが、「大丈夫だから休んでて」と常盤に言われたので、ウィステリアに戻って一眠りすることにした。
「起きて。時間だよ」
優しく肩を揺すって、常盤が誠志朗を起こしてくれた。
「ふあーっ」
優しく起こされると、それだけで寝起きがいいものだ。誰かさんも、こんな風に優しく起こせないものかと、欠伸をしながら誠志朗は思った。
「相変わらずよく寝んなー」
「ふあーっ、もう癖になっちゃってんだよ。ふあーっ」
座ったまま両腕を上げ、大きく欠伸をして、誠志朗は漸く眠りから覚めた。
「それじゃ、始めましょ」
「じゃあ、何だっけ? ああそうだ、厄除け祈願パックのほかに、もう一つのアイディアを出すんだよね? アイディアがある人、発表して下さい」
「さっき、常盤と話してたんだけど、蕎麦打ち体験なんでどうかしら。前に誠志朗が言ってたプロを目指す人の蕎麦道場じゃなくて、一般の人の体験教室みたいなものなんだけど」
「それはよー、態々、温泉に1泊してやんなくても、あちこちに日帰りのがあっから、どうしても安上がりの方に流れるだろっ」
「そうかぁ、やっぱりね」
静が出したアイディアは、永一に敢えなく却下された。
「じゃあよー、この際、スーパーコンパニオンプランで……」
「却下っ!」
永一がアィディアを言い終わる前に、静が露骨に嫌な顔をして駄目を出した。
「あのー、スーパーコンパニオンって……何?」
聞いたことのない言葉だったので、誠志朗が素朴な疑問を投げ掛けたが、「あんたは知らなくていいのっ」と、静に一蹴されてしまった。
「何だよー、誠志朗。スーパーコンパニオン知らねーのかよ?」
「あんたも、余計なこと教えなくていいのっ」
どうも静は、スーパーコンパニオンというのが嫌いらしい。
「うちも、スーパーコンパニオンは出入禁止だよ。静ちゃんのところもだよね?」
「そうよ! 仮令、お客様が一緒に連れてきても絶対に入れないわ!」
「おー、怖っ」
「もう、この話はお仕舞いよっ」
静の余りの剣幕に、誠志朗と永一は何も言えなくなってしまった。
「じゃあ、しょうがないから次ね。何かない?」
「……」
「……」
「……」
よいアイディアが浮かんでこないメンバーは、暫し無言のまま、永一はスマホで、常盤はパソコンで何かを検索していて、静は目をつぶって何かを考えている(寝ている?)ようだった。
時折、永一と常盤が、ネットで拾ったアィディアを口にするのだが、少し議論すると、結局、鬼怒川温泉や華なりの宿しずかには不向きということで没になった。静は、議論に参加する時以外は目をつぶったまま何かを考えて(寝て?)いた。
よいアイディアが浮かばないまま、時間だけがだらだらと過ぎていった。微かに窓の外から聞こえてくる鬼怒川の川音が、心地よいヒーリングミュージックのように流れるだけだった。
その時、部屋の呼び鈴が鳴った。「はーい」と言って常盤がドアを開けると、睦美先生が入ってきた。今日の衣装は、黒に近い紺のスーツと淡いピンクのブラウスの組み合わせ。もちろんスカートは超ミニで9センチメートルの黒のピンヒールを履いていた。
「どう、進捗は?」
「えーと、厄除け祈願パックというのを考えて、結構よかったんですが、それだけでは要償還債務償還年数を35年以内にすることが出来ないので、もう一つのアイディアを考えているところです……」
「そう。……でも、この感じでは難航しているということかしら?」
「はい」
「そうねぇ、だらだらやっていてもいいアイディアは浮かんでこないものよ。ちょっと早いけど、今日はこのくらいにして、少し頭を休めたら? ただし、もう時間的に限り限りだから、明日の朝までに、必ず一つ、アイディアを考えてくること。それでいいかしら?」
「はい」
中々、よいアイディアが浮かばず、考えることに疲れてきてしまっていた誠志朗達は、睦美先生の提案をすぐに受け入れた。
「じゃあ、明日の朝までに必ずなっ」
誠志朗は、自分言い聞かせるように言った。
「そんじゃ、俺は帰るわ。お先ーっ」
「じゃあ、私も仕事するわ」
そう言って、永一と静が部屋を出ていった。睦美先生は、「折角だから、露天風呂に入っていこうかしら」と言って、静を追い掛けていった。
「お兄ちゃん、お疲れ様」
「常盤もお疲れ様」
「やっぱり難しいね?」
「ああ、ほんとな。どこでも苦労してることだから、簡単にはいかないと思ってたけど、こんなに難しいとは思わなかったよ。でも、常盤の厄除け祈願パックはよかったな」
「あのね、実は、来年からうちのホテルのプランに入れようと計画してるんだよ。静ちゃんには内緒だよ。気にすると悪いから……」
「いいのか? そんなアイディア出しちゃって?」
「大丈夫だよ。うちのお母さんは、静ちゃんのお母さんと大の仲良しだったから……」
「そういうものなのか?」
「そういうなものだよっ」
誠志朗と常盤は顔を見合わせて笑った。
そろそろ迎えの車が来る時間なので、誠志朗と常盤は部屋の鍵を閉めてロビーに上がった。ロビーでは、静が、チェックインする宿泊客を笑顔で迎えていた。宿泊客の列が途切れるのを待って、誠志朗はウィステリアの鍵を静に返した。
「お疲れ様」
「静ちゃん、お疲れ様」
「お疲れ様でした」
にこやかに微笑む静に見送られて誠志朗と常盤はロビーを出た。玄関に横付けされていた迎えの車の後部座席に乗って「またあした」と手を振る常盤を見送って誠志朗も帰路に就いた。
誠志朗が家に着くと、母親の美也子が店番をしていた。テスト前一週間は部活が休みの筈の澪はまだ帰っていないようだった。
「ただいま」
「おかえり。早かったのね、誠志朗くん」
「なんだか、今日は調子が出なくって……」
「あら、そうなの? まあ、調子が悪い時は、じたばたしても仕方ないわよね」
「うん。そうかもね」
「ちょっと、店番頼める? 配達してくるから……」
「あっ、俺が行くよ。どこ?」
「大丈夫よ。帰りに夕ご飯の買い物をしてくるから。誠志朗君、何か食べたいものある」
「うーん、そうだなぁ、昼ご飯は蕎麦だったから、……カレーがいいなっ」
「カレーとかでいいの? ほかに何か食べたいものないの?」
「じゃあ、大田原牛のサーロインステーキ!」
「それは無理ねっ」
誠志朗の切なる願いは、即座に却下されてしまった。
配達に出掛ける美也子を見送って、誠志朗は2階でポロシャツとジーンズに着替えて、店に戻った。
「何かないかなー」
明日の朝までに、必ずアイディアを考えていかなければならないので、誠志朗は、レジカウンターの椅子に腰掛けて、テレビのスイッチを入れた。平日の午後3時台なので、ドラマの再放送かワイドショーかテレビショッピングくらいしか放送していない。仕方がないので、誠志朗は『困った時のテレビ東京』のチャンネルを押した。生活情報番組を放送していたので、何か参考になるような特集でもないかと、店番をしながら眺めていた。
「ただいまー」
誠志朗は、澪の声で目を覚ました。
「ふあーっ、おかえりー」
「なんだ、寝てたのか、誠志朗君?」
いつの間にか、テレビを付けたまま居眠りをしてしまっていた。
「寝てないよっ」
そう言いながら、ポロシャツの袖でよだれを拭った。
「駄目だなー、そんなことじゃバイト代はもらえないぞっ」
おかしなこと言う奴だなと思った。そもそも、誠志朗は、ほとんど毎日のように豆腐を作っていても、給料などもらっていない。毎月1万円の小遣い制なのだ。
「んーっ? あーっ、お前、若しかして、店番して小遣いをせびってるな?」
「あっ」
澪は、雲行きが怪しくなったので、慌てて自転車を仕舞って、2階へ逃げ込んでしまった。
「あいつめー、少しとっちめてやるか」
そうつぶやいて立ち上がった誠志朗だったが、店番のバイト代とはいっても、せいぜいお菓子を買うくらいの金額だろうし、まあ、それほど目くじらを立てることでもないかと思って、椅子に座り直した。それに、澪が店番をすることで、美也子も誠志朗も配達や翌日の準備が出来たりするのだから、あれはあれで、恋し屋豆腐店の貴重な戦力なのだと思ったからだ。
ほどなくして、美也子が配達と買い物から帰ってきた。
「おかえり」
「ただいま、誠志朗君。ステーキは無理だったけど、豚ロースが安かったから、カツカレーにしましょうね」
「おっ、やったー。じゃあ、そろそろ片付けるね」
「お願いしていい? 夕ご飯作っちゃうから」
「うん。大丈夫だよ」
誠志朗は、店の冷蔵ショーケースをのぞいて、残り物をチェックした。絹豆腐が3丁と寄せ豆腐2丁が売れ残っていた。絹豆腐は、明日の生揚げ用に水切りして冷蔵庫に仕舞い、それから、翌日製造分の大豆を計量して水に浸した。ガラス戸を閉めて表に回りシャッターを下ろして、本日の営業は終了。
「母さん、寄せ豆腐が2丁余ったんだけど、どうする?」
「うーん、そうねぇ、この前、華なりの親方に教えてもらった海老そぼろあん掛けを作ってみようかしら?」
「あっ、それ、こないだご馳走になったよ」
「そうなの? じゃあ、比べてみてくれる? 上手に出来たらお惣菜の商品にしようと思ってるの」
「うん。分かったよ」
誠志朗は、店の明かりを消して居間に上がり、テレビのスイッチを入れた。いつものように、ニュースと天気予報をチェックする。栃木県北部は、梅雨前線が北上して今晩から明日の午後まで雨の予報だった。
「明日、雨だって」
キッチンでトンカツの準備をしている美也子に、誠志朗が告げると、「そうなの? 梅雨だから仕方ないわね」と美也子が返した。
「誠志朗君、知ってた? 梅雨には男と女があるんだって」
「えっ、何それ?」
「お父さんが言ってたんだけど、降る時は激しく降るけど全然降らない日もあるのが陽性の男梅雨で、しとしとと弱い雨の日が何日も続くのが陰性の女梅雨なんだって」
「へえーっ、じゃあ、今年は男梅雨ってこと?」
「そうかもね」
そんな会話をしていると、茶トラ猫のちゃあ君と黒猫のシャア君がやってきて、誠志朗の足元にまとわり付いてきた。
「澪ーっ、猫がご飯だってーっ」
階段に向かって、2階でテスト勉強している筈の澪に声を掛けると、「あげといてー」と、よく通る声で返ってきた。
「まったく、しょうがないな」
誠志朗が立ち上がると、猫達も後を付いてきた。ちゃあ君にはカリカリの餌を、シャア君にはペーストの餌を用意してあげた。「ホワッ、ホワワッ」とちゃあ君が鳴いて、シャア君は口だけ開いて、誠志朗に「いただきます」と言ったようだ。
「そろそろ出来るわよ」
美也子が誠志朗に声を掛けたので、「澪ーっ、ご飯だってー」と、再び階段に向かって声を掛けた。
「はーい」
返事をしながら澪が階段を下りてきた。
「やったー、今日はカレーだな、誠志朗君」
「『不細工は鼻が利く』って言うからなっ」
「ちっちっちっ、それを言うなら『ブ男は鼻が利く』だぞっ。誠志朗君のことだぞっ」
「何だとっ」
誠志朗が、椅子から立ち上がったので、「キャー、お母さん、ブ男が来るよー」と言いながら、澪はキッチンに逃げ込んだ。
「誠志朗君、駄目よっ」
美也子にたしなめられた誠志朗だったが、どうして『ブ男』=誠志朗のことだと思ったのか、納得がいかなかった。
それから、澪と美也子が夕食を運んできた。カツカレーに寄せ豆腐の海老そぼろあん掛けに玉ねぎスープ。美也子の作るカレーはシンプルだ。刻んだ玉ねぎをバターで炒めて、更に豚肉を炒めて、くし型切りの玉ねぎとブイヨンとローリエの葉を入れて火を通し、2種類のカレールーを入れて、最後にスライスしたニンニクとグリンピースを入れるだけ。元々は、父親の聖郎が、どこかの食堂から仕入れてきたレシピだと言っていた。
「誠志朗君、寄せ豆腐、食べてみて」
誠志朗は、美也子が勧める寄せ豆腐の海老そぼろあん掛けを食べてみた。
「うん。美味しいよ、これ」
「親方のと比べてどうかしら?」
「……流石に親方の方が美味しいけど、これはこれで美味しいよ」
「そう、よかった。親方の作り方は、昆布とカツオブシできちんと出汁を取るから、やっぱり違うわよね」
「これは何の出汁?」
「白だしと昆布つゆなのよ」
「だからかー。ちょっと甘いと思ったんだ」
「そうね、やっぱりきちんと出汁を取らないと駄目ね」
「そんなことないよ、お母さん。澪はこれ好きだよっ」
「あら、ありがとう。澪ちゃん」
「お前、母さんのご機嫌取りして、何か企んでるだろ?」
「何も企んでないぞ、酷いぞ、誠志朗君」
「あーっ、そう言えは、母さん。澪に、店番の小遣いをあげてない?」
「もらってないよね、お母さん」
「そうね、お小遣いはあげてないわね」
「『お小遣いはって』ことは、それ以外に何か見返りが……」
「何にもないぞ、誠志朗君。もうこの話はお仕舞いだぞっ」
澪が、無理やり話を終わりにしようとしていた。
「そう言えば、親方のところのお手伝いは進んでるの?」
澪と美也子の間で何らかの密約がありそうだったが、それをはぐらかすように美也子が話題を変えた。
「もう一息って感じなんだけど……」
「何? 静様がどうしたんだ、誠志朗君?」
「お前に言っても、どうせ無駄だよ」
「えーっ、ずるいぞ誠志朗君。澪は、静様のことなら何でも知りたいぞっ」
「でもなー、……じゃあ、店番の見返りの件と交換に教えてやるぞ」
「えーっ、だから、それは何にもないってば、誠志朗君」
「じゃあ、教えなーい」
「分かった。降参だぞ、誠志朗君。……お母さんと約束したんだもん。店番をしたら1時間500円の積み立てをしてくれるって。声優養成所に行くお金を……」
澪は、ちょっとすねたように言って、続けた。
「ほら、教えたんだから、誠志朗君も静様のことを教えてよっ」
何とも健気だと、誠志朗は思った。まだ中学生だから仕方がないにしても、たった500円の時給を、声の仕事に就きたいと考えた時から積み立てをしているとは。そして、まだ中学生の癖に、自分の将来の夢に向かって少しずつ歩み出している妹を。
「分かったよ。教えるけど絶対に秘密だぞ。静にも言うなよっ」
「約束するぞ、誠志朗君」
「んっ、んんっ」
誠志朗は、ちょっと咳払いをしてから話し始めた。
「今、静の旅館の新しいコンセプトを考えているんだよ。オフシーズンに宿泊客を呼べるアイディアをなっ。でも中々、いいアイディアがなくて困ってるんだよ」
「何だ、そんなことか」
「そんなこととは何だよっ」
誠志朗は、少しむっとして澪に言い返した。
「アニメでお客を呼ぶのだ、誠志朗君」
「アニメ? アニメって……、漫画?」
「アニメはアニメだぞ、誠志朗君。正確に言うとアニメーションだぞ」
「ふーん、それで、アニメで客を呼べるのか?」
「何だ、何にも知らないのか? 無知だな、誠志朗君は。『アニメで町興し』って聞いたことないのか?」
「『町興し』は聞いたことあるけど、アニメでっていうのは……」
「まったくしょうがないな、誠志朗君は。例えば、この近くだと、茨城県の大洗町が『ガールズ&パンツァー』で町興しをやってるんだぞっ」
「えっ、ガールズ&パンツ?」
「だーっ、まるでお約束だなっ、誠志朗君。『ガールズ&パンツァー』! パンツァーは戦車のことだぞっ」
「戦車? 戦車でどうやって町興しをするんだ?」
「違うぞ、誠志朗君。簡単に言うと、女子高生が戦車に乗って競技をするアニメで、大洗町がその舞台になってるんだぞ」
「ふーん、よく分からないけど、そうなんだ?」
「それと、そのアニメには、大洗町にある実際の建物とか電車とかが出てきて、ファンの人達が『聖地巡礼』に来るんだぞ、誠志朗君」
「聖地巡礼?」
「それはだな、アニメに出てきた場所に実際に行って、記念写真を撮ったりするんだぞ。毎年、イベントとかもやってるんだぞ、誠志朗君」
「へーっ、と言うことは、そのアニメのファンが沢山やってくるってこと?」
「漸く分かったのか、誠志朗君」
「へーっ、そうなんだ」
「ほかにも、アニメで町興しをやっているところは沢山あるんだぞ、誠志朗君」
「それを鬼怒川温泉でやるのか?」
「残念ながら、鬼怒川温泉をメインにしたアニメは、まだないんだぞ、誠志朗君。ワンシーンとかなら出てくるアニメもあるんだけど……」
「何だよ、それじゃ駄目じゃないか」
「……じゃあ、静様の旅館を舞台にしたアニメを作ればいいんだぞ、誠志朗君」
「誰が作るんだよ? それに今からじゃ間に合わないよ」
「うーん、困ったぞ、誠志朗君」
「何だよ、まったく。時間の無駄だったな」
最初は調子よかったのだが、澪の説明は段々と尻すぼみになってしまった。正に、竜頭蛇尾のお手本のようだ。
「でも、工夫すれば何か出来そうなのに……」
ぶつぶつ言っている澪を他所に、誠志朗はカツカレーを平らげた。店の仕事は、今日はもうやることがないので、誠志朗は風呂に入ってから、明日の朝までの約束の宿題をやることにした。風呂に入っている間も、温泉をイメージして色々考えてはみたが、これというアイディアは浮かんでこなかった。ただ、澪が言った『アニメで町興し』という言葉が頭に引っ掛かっていた。
風呂を出て2階に上がり、ベッドに横になりながら、誠志朗はスマホで検索を始めた。『アニメ』、『町興し』で検索する。『地域興し』とも言われるようだった。
澪が言っていたガールズ&パンツァー、略して『ガルパン』のほかに『らき☆すた』という文字が目に付いた。調べてみると、作中に出てくる鷲宮神社の参拝客が、アニメ放送後は5倍増の47万人になったと書かれていた。
「凄いな!」
誠志朗は、思わずつぶやいていた。
「アニメの舞台になっただけで、こんなに増えるんだ」
すぐさまスマホで電話を掛けた。
「よー、どうした? 名案でも浮かんだか?」
電話の向こうでは永ちゃんのバラードが流れていた。
「あのさ、アニメでお客さんを呼べないかな?」
「アニメツーリズムのことか?」
「そう言うのか? 分かんないけど、アニメでお客さんを呼べるみたいなんだよ」
「そりゃ知ってるよ。だけどよー、生憎、鬼怒川温泉を舞台にしたアニメはねーぞ」
父親の経営するプラチナムグループがシネマコンプレックスを2店舗経営しているだけあって、永一は、アニメにも詳しいようだった。
「そうなんだけど、何か出来ないかなって思って……」
「おいおい、まさか、アニメを作るなんて言わねーよな?」
「そうじゃないよ。そうじゃないけど、何かほかに出来るんじゃないかと思って……」
興奮を抑え切れずに話す誠志朗を、押し止めるように永一が言った。
「もっと情報を集めねーとなっ。取り敢えず、アニメ・声優関連で調べられるだけ調べて、何か分かったら連絡すっから」
「分かった。俺も調べるよ」
永一は「この電話なら、24時間365日、出っから!」と言って電話を切った。
「澪ーっ」
永一が言った『声優』というキーワードで、誠志朗は、澪が声優養成所に入ろうとしていることを思い出した。
「なーにー、誠志朗くーん」
澪はまだ居間にいるようだった。急いで階段を下りていった。
「声優のこと教えてくれ」
「何だ? 何かひらめいたのか? 誠志朗君」
「いやっ、まだだけど、何か分かるかと思って……」
「よし、教えてあげるぞ、誠志朗君。そもそも、声優は、日本に2,000人くらいいるんだぞ」
「えっ、2,000人? そんなにいるんだ!」
「でも、常時活動している人は300人くらいで、そのうち、声優だけでやっていける人はその半分くらいなんだぞ、誠志朗君」
「って言うことは、ほとんどの人は、声優だけでやっていけてないってことか?」
「そうだぞ、誠志朗君」
「お前、よく、そんな世界に飛び込もうとしているな?」
「夢だぞ、誠志朗君。声優は、人に夢をあげる仕事なんだぞ」
「夢ねぇ……。でも、声優だけでやっていけない人は、ほかに何をしてるんだい?」
「アルバイトだぞ、誠志朗君」
「アルバイト?」
「アルバイトって言っても、声優養成所の講師とか、話し方教室の先生とか、ナレーションの仕事とか、声を使うアルバイトもあるし、まったく関係ない、コンビニとかでバイトしてる声優もいるんだぞ、誠志朗君」
「そうなんだ」
「だから、もっと出演料を上げて欲しいぞっ。誠志朗君」
「いやっ、俺に言われても……。って言うか、お前、そもそも、まだ、声優養成所にも行ってないだろっ」
「だから、将来、澪が声優の仕事に就いた時のためだぞ、誠志朗君」
「そんなこと言ったって、どうすれば……」
「簡単だぞっ、もっと声優の仕事を増やしてあげればいいんだぞ。誠志朗君」
「増やすったって、どうやって……」
「アフレコ以外の仕事を増やすんだぞ、誠志朗君」
「アフレコ以外?」
「トークショーとかイベントとかだぞ、誠志朗君」
「ふーん」
そこまで聞いて、誠志朗はひらめいた。そして、その場で永一に電話をした。澪にも会話の内容が分かるようにスピーカーをONにしておいた。
「よー、何か分かったか?」
「あのさ、声優は、意外と収入が少なくて、アルバイトとかで生計を立ててる人もいるんだってさ」
「そんなの知ってるよ。アニメ関係者の収入の低さは周知の事実だからな。所得が100万円台なんてザラにいるらしいぜ」
「そうなんだ? だから、鬼怒川温泉でアニメのイベントをやればいいんじゃないかって思うんだけど……」
「でもよー、ただのイベントじゃ、日帰りされて宿泊客の集客にはなんねーぞ」
「じゃあ、例えば、夕食をトークショー仕立てにするとか、宿泊客にはイベントチケットの優先購入権をあげるとか……」
「それだけじゃ、ちょっと弱いな。もっと何か、客に態々鬼怒川温泉に来させる仕掛けがよっ」
「スタジオとかはどうだ? 誠志朗君」
その時、澪がアイディアを出した。
「スタジオ?」
「そうだぞ、誠志朗君。アニメのアフレコをするスタジオを造って、見学も出来るようにすれば……。澪も行きたいぞ、誠志朗君」
「それいいな! 永一、あのな、アフレコのスタジオを造って、見学出来るようにしたらどうだい?」
「おー、そりゃー、いいかもな! ただ、見学は難しいかもしれねーが、スタジオを造って、アニメと声優の情報発信基地にするっていうのはおもしれーかもな。じゃあ、その線で、もっと情報収集すっか?」
「おおっ、分かった」
誠志朗は電話を切るなり、澪の両手をつかんでブンブン振った。
「澪、やったぞ、いいアイディアだったぞっ」
「そうか、そうか。じゃあ、上手くいったら、静様に頭をなでてもらいたいぞ、誠志朗君」
「ああ、いくらでもなでてもらいなっ」
そう言って、誠志朗は自分の部屋に戻った。澪は、静に頭をなでてもらっているところを想像しているのか、薄目を開けたまま暫くうっとりしていた。
調べることは沢山ある。アニメ・声優・トークショー・イベント・アフレコetc。明日の朝までに出来るだけ有用な情報を集めなくてはならない。
夜更けまで誠志朗の部屋に明かりが点っていた。