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鬼怒川温泉 恋し屋  作者: 獏人
4/11

インタビュー


6月28日(月) 決戦の日まであと7日

 

 今朝も誠志朗は、午前4時にセットしたスマホのアラームよりも少し早く目が覚めて、布団の中で微睡んでいた。アラームに無理やり起こされると物凄くだるくなってしまうので、誠志朗の体内時計はセットした時刻より少しだけ早く作動するようだった。

 夕べは、夕食の時に、母親の美也子がレシピを完成させるために作った豆乳ババロアを試食して、それが凄く美味しかったのはよかったのだが、またしても、静と常盤に、澪がよろしく言っていたことを伝え忘れたので、「ほんとにヤバいからマジで病院に行け」とか「3歩歩くと忘れちゃうんだから手の平に書いておけ」とか罵られて散々だった。

 すぐに支度をして豆腐製造室に下りていった。日曜日を定休日にしているので、月曜日は、豆腐のほかに当日揚げる生揚げとがんもどきの生地も作る必要があるので、いつもより多く製造しなければならない。全部で6回分の製造をして、掃除が終わったのが午前7時になるところだった。

「おはよう。誠志朗君、朝ご飯出来てるわよ」

「おはよ。ありがと」

 ちょうど、朝食を作り終えた母親の美也子が、豆腐製造室へ入ってくるのと入れ替わりに、誠志朗は上着と恋し屋Tシャツを脱ぎながら脱衣所に行った。シャワーを浴びてジャージに着替え、ニュースと天気予報をチェックしながら美也子が用意してくれた朝ご飯をいただいた。

 いつもなら、学校に間に合わせるために丼飯をかき込んでいるところだが、今日から一週間は花なりの宿しずかに直行なので、30分以上も余裕がある。

 遅くまでテスト勉強(?)をしていた妹の澪がまだ起きてこないので、一応、誠志朗が2階の部屋に向かって声を掛けたが、「ふあーい」という欠伸混じりの返事が返ってきただけだった。

 ご主人様がまだ起きないので、茶トラ猫のちゃあ君は「ホワッ、ホワワッ」と鳴いて、食道炎で声が出ない黒猫のシャア君は口だけ開いて、誠志朗に朝ご飯の催促をした。

「寝ぼちゅけご主人様で困りまちゅねー」

 なぜか赤ちゃん言葉で、誠志朗は、ちゃあ君にはカリカリの餌を、食道炎のシャア君にはペーストの餌を用意してあげた。

「きゃははっ、何が『寝ぼちゅけで困りまちゅねー』だ、誠志朗君」

 階段を下りてきた澪に、誠志朗の赤ちゃん言葉をばっちり聞かれてしまっていた。

「……お前が起きてこないから、俺がご飯をあげたんだろっ」

 誠志朗は、照れ隠しに語気を強めて澪を責めた。

「まずいぞ。若年性アルツハイマーの次は幼児退行か? 誠志朗君」

「……くっ、……そんなこと言ってないで、さっさと用意して学校へ行け」

「分かりまちた! 誠志朗君」

「こらっ」

「きゃー、お母さーん」

 誠志朗が右手のゲンコツを振り上げたので、慌てて澪は店の中に逃げ込んだ。

「……まったく、ほんとにまったく……」

 誠志朗は、残りの朝ご飯を平らげ、食器を洗って2階へ上がった。どんな服装で行けばいいのかちょっと迷ったが、経営実習という授業の一環なのだから、無難に学校の制服で行くことにした。

ライダースジャケットに袖を通し、デイパックを背負って1階に下り、そのまま車庫へ行ってバイクのエンジンを掛けた。暖機運転をしている間に、店の前のシャッターに掛けてある『風吹けど猫に出掛ける用がある 本日定休日』と書かれた木製のプレートを仕舞ってシャッターを開け、ガラス戸を叩いて「いってきます」と美也子と澪に手を振った。

澪が、親指をくわえて『バブー』という真似をしたので、誠志朗がまた右手のゲンコツを振り上げると、今度は舌を出して『あっかんべー』の仕草をした。

これ以上、澪の相手をしていても時間の無駄なので、誠志朗はヘルメットとグラブを装着して出発した。家の前の小原通りをどっちに行こうか少し考えたが、ガソリンメーターが残り1目盛りなのに気付き、ガソリンスタンドに行くことにして、右にハンドルを切った。 

誠志朗のバイク Kawasaki Ninja ZX‐14Rは、無鉛ハイオクガソリン1リットル当たり約10キロメートルしか走らない。おまけに、ガソリンタンクが22リットルしか入らないので、結構まめに給油しないとならない。大体、配達と通学で一週間に一度はガソリンスタンドに寄っている。学校への最短ルートにあるスタンドに恋し屋豆腐店のカードが置いてあるので、ほとんど店の経費でガソリンを入れてもらっている。そもそも、配達か通学にしか使っていないので、その辺は美也子も了承している。

会津西街道を南に走り、国道121号線のバイパスとの交差点にあるガソリンスタンドに寄って満タンにしてから、楯岩橋方面に右折し、東武鉄道の陸橋を渡ると鬼怒川温泉駅に浅草行きの特急ギャラクシアが停まっているのが見えた。次の信号を右折してもみじ通りに入るとすぐに駅前のロータリーが見えてきた。駅前にある無料の足湯『鬼怒太の湯』は、午前9時からなので、この時間は掃除中でまだ利用出来ないのだが、気の早い観光客が順番待ちをしていた。誠志朗も足湯が出来てすぐの頃に入ってみたが、ほどよく温くて気持ちよかったのを覚えている。

ロータリーを道形に左折し桜並木通りを右折すると、すぐ右側に下野銀行鬼怒川支店があり、その先を左折して華なりの宿しずかに着いた。

この時期、日曜日の宿泊客はそれほど多くはなく、駐車場の3分の2くらいは空いていた。誠志朗はいつものように裏口に回りバイクを停めて、正面玄関から入っていった。

「いらっしゃいませ。誠志朗様」

ガラスの自動ドアが開いてすぐのところに静が立っていた。紺色の小紋の着物とベージュ色の博多帯には朱色の帯留。窓から差し込む陽の光に、一つにまとめた黒髪と銀の髪留がきらきらと輝いていた。いつものことながら、女将モードの静は、近寄り難いほどの凄い美人で隙がなく、誠志朗にはとても同い年の高校生とは思えない大人の女性に見えていた。と同時に、どことなく、和服と薄化粧に本当の自分を隠しているような気がして、正直、余り好きにはなれなかった。

「あっ、おはよう。……しずっ、……」

「静で結構ですと申し上げた筈ですわ、誠志朗様」

「……あっ、うっ、うん。おはよう、しず、か」

「はい、おはようございます。誠志朗様」

 誠志朗は、静のことを初めて名前で呼んで、どうにもこうにも落ち着かない感じがしたが、静の方はにこやかな笑顔を浮かべて、あからさまに上機嫌になった。

それから、静が帯に挟んでいたウィステリアの鍵を受け取り、誠志朗は一人で先に3階へ下りていった。

ウィステリアにはまだ誰も来ていなかったので、取り敢えずパソコンを立ち上げ、窓を開けて部屋中に朝の空気を入れた。同時に鬼怒川の川音も部屋中に広がった。

対岸には東京電力テプコランドの森が広がっていて、陽の光を浴びる新緑の森はすこぶる付きの景観だ。明治の初めに、ここからの眺望を甚く気に入った創業者が、この場所に旅館を建てるために奔走したという話もうなずける。

誠志朗が広縁の椅子に腰を下ろして、暫くその景色を眺めていると部屋の呼び鈴が鳴った。誠志朗が「どうぞ」と言うと、「お邪魔します」と常盤が入ってきた。常盤も制服を着ていた。襟に赤いステッチの入った紺のブレザーと紺と赤とピンクのチェック柄のスカートがよく似合っている。

「おはよう、お兄ちゃん」

「おはよ」

「早かったんだね?」

「いつもどおり学校に行くつもりでやってたら早く終わっちゃって……」

「何時に起きたの?」

「4時だよ」

「いつも4時なの?」

「そうだよ。じゃないと終わらないから」

「大変なんだねー、お豆腐屋さんって」

「そんなことないって」

 そう言いながらも、常盤に感心されて誠志朗はちょっと誇らしかった。

「お茶入れるね。それともコーヒーがいい?」

「お茶でいいよ。……コーヒー苦手なんだ……」

「あっ、そうだったの? ごめんなさい、忘れてたかも。……でも、お兄ちゃん、いつもスプライト飲んでる感じがして」

「確かにな。でも、流石に寒い時は飲んでないよ」

「うふふっ、そうだね。お腹痛くなっちゃうもんね」

 クルクルと表情豊かな常盤はとてもかわいい。チョコミント柄のリボンを結んだ栗色のポニーテールも楽しそうに揺れている。

「ちーす」

 そこに、呼び鈴も鳴らさずに永一がやってきた。

「おはよう。金崎君」

「何だよ、その格好は?」

 永一は、昨日と同じく、黒のジーンズに革ジャンにブーツ、おまけにサングラス。ただし、革ジャンは同じ黒でもこれまた別物のようだ。

「いいじゃんよ。別に学校行く訳じゃねーんだから」

 まあ、確かに、それはそうだが、血液型A型の誠志朗は、そういうところがちゃんとしてないと気持ちが悪いのだった。

 少し遅れて、静もウィステリアにやってきた。

「ほら見ろ、星野だって制服着てねーじゃんよ」

「……えっ、何の話? 私はこれが制服なのよ」

「ねえ、お茶が入ったよ。どうぞ」

 常盤がお茶を入れて、その場を収めてくれた。

「何これ? いい香り」

「あっ、これ? 白桃烏龍茶だよ。はい、どうぞ。うちのホテルで使ってるの持ってきちゃった」

 常盤が、静にお茶の箱を見せながらペロッと小さい舌を出した。

「すっきりしていて美味しいわね。気持ちも華やぐし」

「うちのホテルのティーラウンジに置いてあるの。……私のアイディアなんだ……」

 常盤は、少し照れながらお茶の箱をテーブルに置いた。

「こういうサービスが外国人観光客に受けんじゃね。『お・も・て・な・し』」

 永一が、左手を顔の前に出して滝川クリステルの真似をした。

「確かに、欧米人には、日本茶は渋くて苦手という人が多いらしいから。それに日本に来たから必ず日本茶でもてなすってのもな……」

 誠志朗も常盤のアイディアに納得した。それから、お茶を飲みながらミーティングを始めた。

「では、昨日の続きで、華なりの宿しずかのアィディアを出していきたいと思います。じゃあ、まず、昨日のお復習いから……」

 誠志朗達は、静がSWOT分析を書き込んだホワイトボードに向き直った。

「夕べ考えたんだけどよー、和風旅館の路線はそのままにして、暇な時期に宿泊客を増やす作戦を考えるのが一番いいんじゃね?」

「何だよ、カジノはどうしたんだよ?」

「いやっ、あれはあれで、いいと思うんだけどよー、何も無理して和風旅館でやることもねーんじゃねーかと思ったりもしたんだよ。日本庭園をぶっ壊してカジノホールを造るって言うんなら話は別だけどよっ」

「駄目よ! お庭を壊すなんて絶対駄目! そんなの絶対……」

 急に静が、声を荒らげて猛反対した。

「何だよ、例えばの話だよ」

「例えばでも何でも、とにかく駄目なものは駄目!」

「静ちゃん、どうしたの?」

 常盤が、心配になって静の顔をのぞき込んだ。静はテーブルの上で両手を握り締めたまま、焦点が定まっていないように宙を見ていた。常盤は、静の湯飲みに白桃烏龍茶を注いだ。

「静ちゃん、お代わりどうぞ。落ち着くよ」

 静は、それを一口、ゆっくりと飲んだ。

「じゃあ、俺のアィディアの蕎麦道場だけど……」

 誠志朗が、話題を替えようと昨日の自分のアイディアを話し始めた。

「あー、それもよー、ちょっと調べてみたんだけどよ、実績のある蕎麦教室でも、年間に200人くらいしか集まらないみてーだぜ。一人7日間の宿泊講習として、年間に延べ1400人の計算だから、平日限定でやると260日で割るから1日平均5人しか集まらねーんだぜ」 

「そうなのか? ちょっと見込みが甘かったかな?」

 誠志朗は、よく調べもせず思い付きでアイディアを出した自分を恥ずかしく思った。――と同時に、普段は適当にやってる感じで、もの言いにもちょっと問題はあるが、きちんと調べてくれている永一のことを見直した。

「じゃあ、残るは、常盤の女性限定旅館か」

「それはよー、俺もいいと思うぜ。社員旅行とかの団体客を除けば、温泉ホテルや旅館に宿泊する客の6割以上が女性だから、女性限定旅館のニーズは確実にあるね。俺にはよく分かんねーけど、風呂入った後に化粧しなくていいとか、男の目を気にせずに酒飲んだり、スウィーツ食べ放題とか気兼ねなく出来るのが受けてるみてーよ」

「でも、逆に、夏休みとかゴールデンウィークに家族連れの受け入れが出来なくなるわ」

 落ち着きを取り戻した静が、冷静な意見を言った。

「そこは、割り切るしかねーな。それに、家族連れって言ったって男親が必ず来る訳じゃねーだろ。お父さんは仕事で来れませーんてなっ」

「確かにそうだけど……、出来れば夏休みくらいは家族みんなで来て欲しいわよね?」

 静は、常盤に同意を求めた。

「そうだよね。その方が子供達も楽しいし」

 常盤も静と同じ意見だ。

「そうなると、出来れば、女性限定旅館のデータが欲しいな」

「旅行代理店さんに聞いてみる?」

「もし、教えてもらえるなら、トップシーズンとオフシーズンの予約状況が分かるといいんだけど……」

「分かった。聞いてみるわ」

 誠志朗が欲しがっている情報を、静が、知り合いの旅行代理店の人に聞いてくれることになった。旅行代理店に電話するために事務所に行くと言う静に、一応、誠志朗も付いていくことにした。折角電話するのに、要領を得ないと困ると思ったからだ。

 従業員用通路の鉄製のドアを開け、通路を通りエレベーターで5階に上がった。事務所に行くと、静が名刺入れをパラパラとめくり、旅行代理店の担当者に電話を掛けた。

 丁重に挨拶をして、女性専用旅館について検討しているから、トップシーズンのとオフシーズンの予約状況とかメリット・デメリットなど気が付いたことを教えて欲しいと説明すると、担当者は、あまり詳細なデータは教えられないと前置きした上で、データを拾って連絡してくれることになった。

 用件が済んで、後は電話を待つだけなので、誠志朗と静はウィステリアに戻ることにした。途中、調理場に寄って、静が「お昼は個室で食べるわ」と言うと、親方は「おっと合点承知之助」と付け足し言葉で返事をしていた。

 ウィステリアに戻ると、部屋の中は常盤が入れてくれた白桃烏龍茶の甘い香りで一杯だった。

「お茶入れたよ。どうぞ」

「よー、どうだった? 分かったか?」

「あまり詳しくは教えられないって言ってたけれど、ある程度は教えてもらえそうよ」

 首尾を心配していた永一に、静が電話の内容を説明した。

「それとよー、俺達だけで話してないで、社長の意見も聞いた方がいいんじゃねーの? 誠志朗の親父さんのノートにも色んな人にインタビューした内容が書いてあるしよー」

 永一は、誠志朗と静が事務所に行っている間に、誠志朗の父親のノートを見返していたようだ。そのノートには、親方や当時の女将さんや仲居頭の従業員へのインタビューの内容が、細かい字でびっしりと書かれていた。

「うーん、それもそうだな。じゃあ、親方に話を聞いてみるか」

 誠志朗が静の方を見ると、

「えーっ、聞いたって時間の無駄だと思うけど……」

 静が、首を傾げながら答えた。

「そんなこと言ったって社長の意見を無視する訳にはいかないだろ……」

「まあ、いいけど。……あまり期待しない方がいいわよ」

 静は、渋々、部屋の電話の受話器を取り、調理場へ内線を掛けた。

「お疲れ様です。親方お願いします」

 従業員の板前が電話に出たらしく、静の声がGの音程になっていた。

「もしもし、誠志朗達が親方に話を聞きたいっていうから、今から大丈夫?」

 親方に代わると、静の声のトーンは元に戻っていた。

「……いいから、……親方に話を聞かなくちゃ駄目なの。何時なら大丈夫なの?」

 電話の向こうで、親方が「忙しい」とか「俺の話を聞いたってしょうがない」などと渋っているようだった。

「分かったわ。それまでによーく考えておいてっ」

 静は、少し苛々した様子で電話をガチャ切りした。

「私達がお昼を食べ終えたらいいって」

 静が、誠志朗達に親方へのインタビューの時間を伝えた時、部屋の電話が鳴った。

「はい、藤の間です」

 再び、Gの音程にして静が受話器を取った。

「つないで下さい。――お待たせしました。態々ご連絡いただきましてありがとうございます。……はい。女性限定旅館のことで――」

 電話の向こうは旅行代理店の担当者らしい。静はメモを取りながら聞いている。

「――そうなんですか。――はい。――オフシーズンなどはどのような感じでしょうか?――そうですか――」

 色々と教えてもらえているようだ。

「――はい。ありがとうございました。また何かございましたらよろしくお願いいたします。失礼いたします」 

静は、相手が電話を切るのを確認してから受話器を置いた。

「ふーっ。色々教えてもらったわ」

「で、どんな感じよ?」

 待ちきれない様子の永一が内容を聞きたがったので、早速、静がメモを読み上げた。

 ◇原則、利用客は女性のみ。ただし、小学校入学前の男児は可

 ◇スタッフも女性のみ。ただし、利用客の目に触れないバックスペースは除く

 ◇部屋はすべて同タイプで、食事は夕食・朝食ともバイキング

◇宿泊料金は土日平日問わずオールシーズン税込み10,800円+入湯税

◇バイキング会場は、アルコール・ソフトドリンク飲み放題

◇ラウンジは、コーヒー・ソフトドリンク飲み放題。スゥィーツ食べ放題

◇チェックアウトは正午

◇夜と朝とで2着選べる浴衣のサービス

◇源泉掛け流しのお風呂は入り放題

予約状況は、年間を通じ土日はほぼ満室、平日はトップシーズンが8割程度、オフシーズンが5割程度。

宿泊客の年齢層は、40代以上が主体だが、最近は学生グループの利用も増えてきている。また、ほとんどが個人・グループ客だが、女性の各種大会や企業の招待の団体客の利用もある。

夏休み期間中は、祖母・母・娘という3世代の家族連れの利用も多い。

問題点としては、ごく稀にニューハーフのお客様が宿泊してほかのお客様とトラブルになることがあるということであった。

「守秘義務があるからって、どこの温泉かは教えてもらえなかったけど、オールシーズン税込み10,800円プラス入湯税でこのサービス内容は凄いし、安いわねっ」

 驚きを隠せないといった感じの静が、少し興奮気味に話した。

「ほんとだね。うちもオフシーズンに10,000円のプランがあるけど、オールシーズンその内容でやっちゃうっていうのは……」

 常盤も、二の句が継げないという感じだ。

「今現在、女性限定旅館をやっているのは、都心からのアクセスがよくない地域の筈だから、宿泊料金の相場が安いのかもしれないけど、鬼怒川温泉なら都心から2時間の距離だし、本格的な日本料理をメインにすれば、もう少し料金的にはいけるんじゃないかな?」

「こんだけ分かれば、パソコンでシミュレーション出来んじゃねー。今より売上が上がるのか下がるのか」

「それもそうだな! 常盤、出来る?」

「うーん、……多分、夕べ作っといた客室稼働率のフォーマットを加工すれば……」

 誠志朗と永一の話を聞いていた常盤が、早速、シミュレーションに取り掛かった。昨日、睦美先生に頼まれた客室稼働率の計算をやってくれていたようだった。

「えーと、今の価格設定は変えないで……、客室稼働率だけを変えて……」

 常盤が、慣れた手付きでマウスとテンキーを操っている。

「はい、出来たよー。今、プリントするね」

 プリンターから出てきた資料を、常盤がみんなに配った。

「あのね、上の表が過去12ヶ月の月次の売上と客室稼働率で、下の表が女性限定旅館にした場合の客室稼働率で算出した売上だよ。」

「ねえ、どうなの? 早く教えてよっ」

 シミュレーションの結論を早く知りたがって、静が、誠志朗の肩を揺さ振った。

「分かったから、ちょっと待てよ……」

「あのよー、これだとよー、年間トータル600万円弱の売上アップだから、1ヶ月50万円、一日16,700円にしかならねーな」

 誠志朗の代わりに永一が解説してくれた。

「えー、そんなものなのー」

「客単価の高い8月の客室稼働率が下がるのが痛いな。客室稼働率が低い2月・3月が上がるのはいいんだけど……」

「しかもよー、飲み放題とか食べ放題をやってて、尚且つ、ここより客単価が安い旅館の稼働率なんだから、ここの現状のサービスと客単価だと、シミュレーションどおりの客室 稼働率にはならねーんじゃねーの?」

「だったら、こっちもケーキ食べ放題とかワイン飲み放題とかをやったらいいってこと?」

「そしたら、食材原価が上がっちゃって、今より利益が減っちゃうよ」

 誠志朗と永一の説明に、静がよく理解していないままプランを考えたが、常盤に一蹴されてしまった。

「えー、駄目なのー?」

「結論から言うと、トップシーズンの客室稼働率は下げないで、オフシーズの客室稼働率を上げる方法を考えないと駄目だな」

「誠志朗よー、『トーシロ』じゃねーんだから、そんなの誰でも考えてるだろ。って言うか、うまい方法がねーからどこでも困ってんだろうがっ」

「何だよ。そんな言い方しなくたっていいだろう」

 永一が、あからさまに駄目を出したので、誠志朗も言葉を荒らげてしまった。

「あの、ちょっといいかな? 『とうしろう』って誰?」

 場の空気が悪くなったのを察したのか、将又本当に知らないのか、常盤が素朴な疑問を投げ掛けた。

「常盤、トーシロって言うのはね、素人のことを言うのよ。知らなかった?」

「えー、そうなんだ。知らなかったー」

 静の説明に、初耳という感じで常盤が目を丸くした。

「ぷっ」

「くっくっくっ」

 そんな常盤に、誠志朗も永一も思わず笑ってしまった。

 しかし、どのアイディアも現状を打開出来そうにないので、誠志朗達は、早くも暗礁に乗り上げた気分になってしまった。

「……ねえ、ちょっと早いけどお昼にする?」

 気分を変えようと思ったのか、静が昼食の提案をしたので、誠志朗達はそれに従うことにした。

「本日は、個室食事処で召し上がっていただきます」

 女将モードの静に連れられて、誠志朗達は同じフロアの個室食事処に向かった。案内されたのは、畳の上にテーブルと椅子を設えた和モダンな部屋で、ウィステリアと同じ仕様だったが、間接照明がしっとりと落ち着いた雰囲気を演出していた。

「ただいまご用意いたしますので少々お待ち下さいませ」

 調理場に食事を取りにいく静を、誠志朗が手伝うことにした。誠志朗は、従業員用の通路とエレベーターがすっかり気に入っていた。裏方が見られるということは非日常を見ている気がして面白いと思ったのだ。

 5階の調理場で料理が載ったワゴンを受け取り、親方に「いただきます」と挨拶して、料理用のエレベーターに誠志朗も乗ろうとしたものだから、静に「分かんない人ねっ」と怒られてしまった。

 料理を運んで個室食事処に戻ると、常盤がお茶を入れてくれていた。

「お疲れ様。はい、どうぞ」

 誠志朗は、差し出されたほうじ茶で一服した。常盤が持ってきてくれた白桃烏龍茶も美味しかったが、ほうじ茶もこれはこれで美味しいと思った。

「本当は、出来立てを一品ずつお出しするんだけど、時間の都合でごめんなさいね」

 静が、一品ずつ説明しながらテーブルに並べていった。

 縞鯵と鳥貝のお造り、夏野菜の酢の物、蛸のやわらか煮、那須牛の陶板焼き、豆乳茶碗蒸し、ご飯にお味噌汁、食後のデザートにはとちおとめのジェラートが付くようだ。那須牛の陶板焼きは、ステーキソースのほかに藻塩と柚子胡椒も用意されている。

「いただきまーす」

 みんなで声を合わせて、ご馳走になった。

「昨日の松花堂弁当も美味かったけどよー、毎日こんなもん食えていいよなー」

「これは商売用だもの、毎日食べてる訳ないでしょ。私達には従業員用の食事があるの」

 永一が羨ましがったので、静が実際のところを話した。

「でも、テレビとかで見るけど、賄いも美味しそうだよな」

「賄いとも違うのよね。調理場の横に従業員用の休憩室があって、そこでカレーとか日替わり定食を食べるのよ」

「うちも従業員用の食堂があって、カレーとかラーメンとか定食が食べられるよ」

 静と常盤が、詳しく教えてくれた。

「こういう料理をメインにした改善策が出来ればいいんだけどなー……。ここでしか食べられない料理とか……」

「……郷土料理とかかな? でも、お料理だけでお客様を呼べるのは、そのお料理によほどの魅力がないと……」

「それによー、今はほとんどのものがネットでお取り寄せ出来るしなー。態々食べにくるってのもねーだろっ」

「お取り寄せ出来ないものもあるよ! 例えば、京都の嵯峨豆腐は消費期限が当日限りだから、態々食べにいくしかないんだよっ」

「でもよー、1月下旬から3月上旬までの、寒くてしかも雪が降るかもしれねーって時期に、態々鬼怒川温泉に食べにくるほどの魅力があるものって何だよ?」

「それが分からないから苦労してるんだろう」

 誠志朗と永一の立場が、食事の前と逆転していた。

 食後のデザートを取りにいくと言って、静が席を立ったので、誠志朗が手伝おうとしたら「ジェラートだけだからお茶でも飲んでて」と気を遣われてしまった。常盤が入れてくれたほうじ茶をすすっていると何だが眠くなってしまったので、「ちょっと寝るわ」と言って誠志朗はテーブルに突っ伏した。



「おわっ」

 誠志朗は、突然、痛みのような感覚を覚えて飛び起きた。

「はい、ジェラートどうぞ」

 静が、ジェラートの入った冷たい江戸切子の器を誠志朗の首筋に押し付けたのだ。

「ふざけるなよっ。心臓に悪いよ」

「あははっ、ごめんなさい。あんまり気持ちよさそうに寝てるからちょっと悪戯してみたくなっちゃって」

大きな口を開けて静が笑った。

「ほんとに、陸なことしないなっ」

「でも、これ凄く美味しいから食べてみて」

「まったく、ほんとにまったく」

 文句を言いながらも誠志朗は、静から渡されたとちおとめジェラートを一口食べてみた。

「おー、ほんとだ、美味しいっ」

「でしょう。これはですねー、とちおとめを凍ったままクラッシュして混ぜるのがコツなの。そうすると果汁を閉じ込めたまま混ぜられるのよ」

 さも自慢気に静が解説するのもうなずける美味しさだ。

「じゃあ、これを商品化して……」

「そりゃー駄目だな。もう、あちこちの道の駅に同じようなのがあるって」

「えっ、そうなんだ」

「おめー、何にも知らねーんだな!」

 永一にそう言われても誠志朗は反論出来なかった。バイクに乗るようになってからでさえ、宇都宮市内くらいまでしか出掛けたことがないし、ほとんどは地元の鬼怒川温泉かその近くで過ごしていたし、況してや、バイクに乗る前などは推して知るべしだったからだ。

 ただ、高校生としては自分くらいが当たり前で、行動力とバイタリティーにあふれている永一の方が、寧ろ特異なんじゃないかと思ったりもした誠志朗だった。

 昼ご飯を平らげて、静が食器を下げるのを誠志朗が手伝うことにして、常盤と永一は先にウィステリアに戻ると言って、それぞれ個室食事処を出た。

 5階の調理場で包丁を研いでいた親方に誠志朗が「ご馳走さまでした」とお礼を言って、静が「1時からでいい?」とインタビューの時間を確認すると、親方は「結構、日光東照宮」と付け足し言葉で返事をしていた。

 従業員用エレベーターに乗って3階へ下りる時、誠志朗は壁の下の方に小さな絵を見付けた。それは子供の落書きのようだった。イガグリ頭の背の高い男の人の絵には『おとうさん』、和服姿の髪の長い女の人の絵には『おかあさん』、二人の間の髪の長い小さな女の子の絵には『しずか』と書いてあった。

 誠志朗が、静の肩を叩いてその絵を指差すと、一瞬、驚いた表情を見せたが、

「……あー、それ、私が書いた落書き」

 と、何事もなかったかのように言い放った。

「プッ、あははっ、……いくらなんでもマジックで書くなよー」

 思わず誠志朗が吹き出すと、

「小さい時の落書きよっ」

少し声を荒らげて、静は、耳の上の方まで真っ赤になってしまった。

「消せばいいだろ。こんなの……」

 誠志朗は、ラッカーシンナーとかで簡単に消せるだろうという意味で言ったつもりだったのだが、

「お母さんが、『それを見ると元気が出るから消さないでおいて』って言ってたの……」

 寂しそうに静がつぶやいた。

「…………ごめん。……そうだったんだ……」

 3階に着いたエレベーターのドアが開くと、静は先にウィステリアに向かって歩いていってしまった。まるで、誠志朗に顔を見られたくないかのように……

 ウィステリアに戻ると、永一はテーブルの上に両足を投げ出し、イヤホンで音楽を聴いていた。常盤は、窓側の席で誠志朗の父親のノートを見返していた。

「親方のインタビューは1時からね」  

 静の言葉で、永一が片方のイヤホンを外して、また付けながら「オーケー」と言い、常盤も「はーい」と返事をした。静は、常盤の前の席に腰を下ろし二人でおしゃべりを始めた。午後1時にはまだ15分くらいあるので、誠志朗はテーブルに突っ伏して昼寝を始めた。窓の外から聞こえてくる鬼怒川の川音が心地好い眠気を誘った。



「起きて。時間だよ」

 誠志朗は、常盤に優しく肩を揺すられて目を覚ました。あっという間に15分が過ぎてしまっていたようだ。同じ起こすにしても静に起こされた時とは、目覚め方が全然違っていた。

「ふあーっ、もう時間?」

 欠伸をしながら大きく伸びをして、誠志朗は起き上がった。

「あっ、よだれ!」

「……うそ、マジ?」

「あはははっ、うそぴょーん」

「……何だよ、まったく」

 静にだまされたのは癪に障ったが、今時、小学生でも「うそぴょーん」なんて言わないだろうと誠志朗はあきれた。危うく口に出るところだったが、エレベーターの落書きのことがあったので、これ以上余計なこと言うまいと、既のところで踏み留まった。

 誠志朗達は、静の案内で5階のレストランに向かった。移動の際に静は、宿泊客用の通路とエレベーターを使った。

 静は、レストランから調理場へ内線電話を掛け、親方が来るまでに全員分のお茶の用意をした。ちょうどお茶を配り終えた時に親方がレストランへやってきた。

「お世話になります」

 親方は、和帽子を脱ぎ、少し薄くなってきたイガグリ頭を深々と下げて、静の案内で席に座った。

「よろしくお願いします」

 誠志朗が挨拶すると、常盤と永一も同じように挨拶した。静は、親方にではなく、誠志朗達に「よろしくお願いします」と頭を下げた。 

「えーと、今、色々と改善計画のアイディアを出しているところなんですが、正直、中々いい案が浮かばないものですから、是非、親方にご意見をいただきたいと思いまして……」

 誠志朗が、途中まで話したところで親方に遮られた。

「誠ちゃん、硬い話は抜きでいいよ。要はあれだろ、誠ちゃんの親父さんに聞かれたようなことだろ?」

「はい。そう……だと思います。ただ、前回は10年も前のことですから、改めてお聞きしたいと思いまして……」

「バブルの頃はよー、鬼怒川温泉には団体客が大型バスを連ねてわんさかやってきたもんだよ。こっちは何にもしなくても代理店が勝手に送ってきやがるから。……その後だよ、ちょっと様子がおかしいって思い始めたのは。バブルが弾けて不景気になって、たちまち宿泊客が減ってよ、団体客や忘年会もめっきり少なくなっちまった。こりゃいけねぇってんで、慌てて旅館組合も動き出して、これからは個人客だグループだって言って、個室食事処だの貸切露天風呂だの、挙句の果てに客室に露天風呂まで造ることになったんだよ」

「昔話はいいから、肝心なとこを話しなさいよっ」

 静がしびれを切らして、親方をせついた。

「待ってろよ。話には順番ってもんがあんだよっ」

 焦れる静を制して親方が続けた。

「そんで、少しは持ち直したんだけど、その後、潰れたホテルを買い取って1泊2食付き8,800円なんて安売りのホテルが出てきちまって、どこもかしこも安売り合戦になってよ。ますます採算が合わねぇってんで、潰れるとこや、やめるとこが続いちまってよ……」

 親方がお茶を一杯すすって更に続けた。

「おまけに、頼りにしてた銀行まで潰れて国の管理になっちまって、流石に、これ以上潰れるとこが続いたら鬼怒川温泉自体やばいってんで、国や県も動き出して産業再生何とかのお出ましになった訳よ。たまたま運がよくて、うちの旅館なんかは銀行が潰れる前に借金出来て、食事処だの露天風呂だのを造っちまったから、よそに比べてまだ増しな方だったんで、産業再生何とかの世話にならずに済んだのよっ」

 喉が渇くのか、親方がもう一口お茶をすすってから話を続けた。

「でもそん時、あいつ……死んだ女将と、これからは値段で選ばれんじゃなくて、中身で選んでもらえる旅館になんなきゃ駄目だって話したんだよ。それからは、元々3通りある客室に3通りの料理のコースを用意して、9通りの組み合わせから客に選んでもらえるようにしたんだよ」

 誠志朗達は、黙って親方の話に耳を傾けている。

「だけど、今度は、そういうやり方がいいって分かると、どこも真似してくっから、段々、客室と料理だけじゃ客を呼べなくなってきちまったのさ。だからって、俺も何にもしてねぇ訳じゃねぇよ。若いねーちゃんのグループなら、今時の洒落たメニューとか盛り付けにして、年配の夫婦だったら塩分を控えめにしたりて、客に合わせてやれることは何でもやってるつもりだよ。だから、これからも料理には一切妥協しねぇで客に喜んでもらえるようにしてーんだよ。……俺は、……料理しか出来ねぇから……」

 親方は、静の方をちらっと見て話を終えた。

「ありがとうございました。……えーと、親方のご意見としては、これからも料理をメインにした旅館でやっていきたいということでよろしいでしょうか?」

「よろしいもよろしくねぇも、それしかねぇと思ってんだよ。温泉に来る客の楽しみは、風呂と料理と宿だろ? 後は、景色とかも風情があれば言うことねぇが、それは今更どうしようもねぇからよっ」

 誠志朗の質問に親方が語気を強めた。

「分かりました。……ほかに親方に聞いとくことある?」

 誠志朗がメンバーに確認すると、永一が口を開いた。

「親方、一ついいですか? もし、料理をフレンチのフルコースにするとしたら対応は可能ですか?」

「……んー、洋食は一通りかじっちゃいるが、本格的なフランス料理でしかもフルコースってなると、客に自信持って出せるのは、すぐには無理だな」

「そうですか。分かりました」

 永一は、和モダンな個室食事処でフレンチのフルコースを提供するアィディアを考えたようだった。

「ほかには、どうですか?」

 今度は常盤が親方に質問した。

「スウィーツを充実させるのはどうですか?」

「……甘いもんは、ラウンジであんみつとか葛切りをやってるけど、ケーキとかはちょっとね……」

「そうですか。ありがとうございました」

 常盤は、スウィーツを充実させて女性客を取り込むアイディアを考えているようだった。

「そのほかはどうですか?」

 誠志朗が静の方を見て言ったが、静は首を横に小さく振っただけだった。

「……では、親方へのインタビューはこれで終わりにしたいと思います。ありがとうございました」

 誠志朗に続いて、常盤と永一も親方にお礼を言った。静は誠志朗達に向かって頭を下げた。

親方は、イガグリ頭を深々と下げ、和帽子を被ってレストランを出ていった。

「だから言ったでしょ。親方に話を聞いたって無駄だって」

 親方の姿が見えなくなるのを待って静が吐き出すように言った。

「いや、一概にそうとは言えねーよ。親方の言うように徹底して料理にこだわれば、リピート率が上がったり、ネットや旅行代理店の口コミの評価が上がって新規の客が増えたりすっからよー。まあ、少なくともマイナス要因にはならねーわな」

「だって、現に、宿泊客は年々減って売上は下がってきてるのよ」

 静が、永一の言葉に納得出来ないという口調で言い返した。

「だからよー、親方の料理を食べさせる機会を増やせばいいんだよっ」

「じゃあ、どうすればいいって言うのよ?」

「だから、それをこれから考えんだろっ」

「ねえ、静ちゃんも金崎くんも落ち着いてよっ」

 だんだん荒っぽい口調になってきた二人の間に常盤が割って入った。

「そうだよ。もう少し穏やかにやろうよ。それにここじゃ何だからウィステリアに戻るか?」

 まだチェックイン時間の前で宿泊客はいないものの、営業の準備をしている従業員が驚いてこちらを見ているのを気にして、誠志朗が場所を変えようとした。

「分かったよ。そうすっか」

 席を立った永一の後に誠志朗が続いた。常盤は、静とお茶の片付けをしてから行くとレストランに残った。

 ウィステリアに戻ると、永一は窓側の席にどかっと腰を下ろして、胸のポケットから取り出した銀の板櫛でオールバックの髪を整え始めた。

「明日よー、湯澤んとこに行ってみねーか?」

 オールバックの髪をとかしながら永一が誠志朗に言った。

「……きぬやホテルに行くってこと?」

「そうだよ。ほかにどこに行くんだよ? ここだけじゃなくてよー、ほかのとこも見れば何かアイディアが出んじゃねーかと思ってよー」

 確かに、誠志朗もそのとおりだと思った。ほかのホテルや旅館を見ることによって違った面を発見出来るかも知れないし、況して地域一番店のきぬやホテルなら得られるものも多いだろうし。

 ちょうどそこに、片付けを終えた静と常盤が呼び鈴を鳴らして入ってきた。

「あのさ、明日、常盤のところを見学させてもらえないかな?」

「……えーっ、うちに見学に来るの?」

 誠志朗の突然の依頼に常盤は少し驚いた様子だったが、少しうれしそうに声のトーンが上がった。

「駄目かな?」

「……えーと、明日は火曜日だし、お客様もそんなに多くない筈だから、大丈夫だとは思うけど……」

「じゃあ、聞いてもらってもいいかな?」

「うん。分かった。聞いてみるね」

 制服のポケットから取り出したスマホで、すぐに常盤が電話を掛けた。

「もしもし、お母さん、今、大丈夫? あのね、明日ね、学校の実習でうちに見学に来るんだけど大丈夫かな? ――えーと、3人だよ。――お兄ちゃんと静ちゃんと金崎君なの。――えーと、ホテルの中を見学したり、色々。――うん、食べると思うよ。――えーっ、それはいいよー。――ほんとにいいってばー。じゃあね。切るね」

 電話の向こうは母親の女将さんだったようだが、常盤は顔を赤くしながら電話を切った。誠志朗も、常盤が無意識に自分のことをお兄ちゃんと言ったので、ちょっと照れてしまった。

「女将さん? 何て?」

「大丈夫だって。折角だから、お昼は食彩工房のランチを食べてって言ってたよ。……それと……」

「ん? それと……何?」

「……みんなで……スパに入ったらって……」

 そう言って常盤は真っ赤になってしまった。常盤のきぬやホテルは、先月、レストランと屋上露天風呂をリニューアルし、スパを新設したばかりだった。

「おーっ、それいいじゃん! スパ入りてーなっ」

永一がそう言うと、

「私も入ってみたい」 

静まで言い出す始末だった。

「えーっ、入るの? 静ちゃん?」

驚いて常盤が静に聞き返すと、

「だって、水着でしょ?」

 何か問題が? といった感じである。

「それはそうだけど……」

 常盤は、誠志朗の方をちらっと見た。

「まあ、水着着用なら問題ないんじゃない?」

「えーっ、そうなの?」

 誠志朗は、アイディアを出すのに、新しい施設を体験することは凄くよいことだと思って言ったのだが、意に反する答えだったらしく常盤は驚いて二の句が継げなかった。

「何よ、常盤? 学校のプールと変わんないじゃない?」

「それはそうかもしれないけど……」

「じゃ、決まりね。明日は水着持参で、きぬやホテルに集合!」

「えーっ」

 静が、常盤に有無を言わせず押し切ってしまった。

 誠志朗は、実は内心ちょっとドキドキしていた。学校のプールではスクール水着姿の常盤を遠くから見たことはあったが、スパのようなそれほど広くない場所で、しかも少人数では、否が応でも常盤の水着姿が目に入ってしまうと思ったからだ。

「じゃあ、ちょっと休憩にしましょ。甘い物でも持ってくるわ」

 すぐに静が席を立ったので、誠志朗が手伝おうとしたのだが、「大丈夫よ」と一人でさっさと行ってしまった。誠志朗は、まだ静が従業員用エレベーターの落書きのことを気にしているのかと気持ちが少し塞いだ。

「まずったなー」

「えっ、どうしたの?」

 常盤が、白桃烏龍茶を入れながら誠志朗に尋ねた。

「……いや、何でもないよ」

「……そう? ならいいけど……」

 誠志朗は、常盤に余計な心配をさせまいと、白桃烏龍茶をすすりながら平静を装った。

 ほどなくしてウィステリアの呼び鈴が鳴ったので、常盤が「はーい」と言ってドアを開けると、静が両手にトレーを持って「ありがと。両手塞がっちゃってて」と言いながら入ってきた。

「はい、さっき言ってた葛切りをどうぞ。吉野の本葛で、親方の手作りよ。和三盆の糖蜜と、お好みで、きな粉もどうぞ」

 静は、黒漆の器に入った葛切りと糖蜜を誠志朗達の前に並べ、テーブルの真ん中にきな粉を置いた。

「最初は、何も付けないで食べてみて」

 誠志朗達は静に言われたとおり、何も付けずに葛切りを食べた。口の中にほんのりとした甘みと微かな香り、ぷるぷるっとした弾力が伝わってきて、つるんと喉を通り過ぎた。

「美味しーね」

「こりゃー美味いわ」

 常盤と永一には、親方の作った葛切りの味が分かるようだ。誠志朗はというと、初めて葛切りというものを食べたので、ほかに比べられる記憶がせいぜい心太くらいのものだったから、何とも言葉で言い表すことが出来なかった。ただ、果敢ないような何か幽きものという感じはしたのだが……

「でしょう。次は和三盆の糖蜜を付けて食べてみて」

静は、「どうだ」とでも言わんばかりに顎をちょっと前に突き出して次の食べ方を指図した。

「うめー」

「黒糖よりくどくなくて、凄く上品な甘さだね」

 永一も常盤もよほど気に入ったようだ。誠志朗も、和三盆の糖蜜は黒蜜よりもすっきりした甘さで、これは比べるものがなくても素直に美味しいと思った。

「あっ、ごめんね。これには普通のお茶がよかったね」

 常盤は、白桃烏龍茶が葛切りの香りを邪魔してしまうと思ったようだ。

「確かに、これには渋めの番茶とかが合うのかもしれないな」

「そんなことないわ。これはこれで美味しいわよ」

 静が、『また余計なこと言って』という目で誠志朗をにらみ付けた。誠志朗は、心の中で『しまった。またやっちまった』とつぶやいたが、後の祭りだった。

 それから、誠志朗達は、糖蜜にきな粉も試して、親方手作りの葛切りを美味しくいただいた。

 おやつ休憩を終えて、時刻は午後2時30分を過ぎたところだった。いつもなら、もう1時限分の退屈な時間を過ごさないと放課にならない時刻で、担当の授業が終わったら来ると言っていた睦美先生もまだ来ていなかった。

「よー、この後どうする?」

 所在なげに銀の板櫛でオールバックの髪をとかしていた永一が、誠志朗に投げ掛けた。

「……そうだなー、……とにかくアイディアを出さないことにはどうしようもないから、……各自自習ということで……」

 永一にどうすると聞かれて、ノープランだった誠志朗は取り敢えず自習をすることにした。

「はいはい、自習ねー。じゃあ俺はその辺を流してくるわ」

 永一は、車で温泉街を見て回ることにしたようだ。

「じゃあ、俺はもう一度館内を見学するかな」

「私も一緒にいい?」

 常盤も、誠志朗と一緒に館内を見て回ることにした。

「私は、事務所に戻ってるわ」

「じゃあ、3時30分までってことで」

 そして、誠志朗が食器を載せたトレーを持って部屋を出て、従業員用通路の入口までいくと、「ありがとう。ここでいいわ」と、静がトレーを受け取ってそのまま奥へ入っていってしまった。

 誠志朗達は、お客様用のエレベーターで5階に上がり、永一は「そんじゃ」と言って玄関を出ていった。

「お兄ちゃん。これからどうするの?」

「そうだなぁ、取り敢えずお客様目線でいってみるか」

「お客様目線?」

 常盤が、小首を傾げて意味不明という顔で誠志朗を見た。

「この旅館に初めて来たお客様の目線と言うか、立場と言うか、そんな感じ」

「なるほどー。じゃあ、玄関を入ったところからだね」

 そう言って、常盤は誠志朗の手を引っ張って玄関に向かっていった。誠志朗は、ちょっと驚き、そして思い出していた。常盤と手をつなぐなんて何年ぶりだろうか。ピアノを習っているその手は、指が細くて長いけれども、凄く柔らかくて温かだった。子供の頃、小原沢で沢蟹や山椒魚を捕まえるのに、危ないからと言ってつないだのが最後だったかもしれない。

 玄関のガラスの自動ドアのところから、初めて旅館に来たお客様のつもりで一緒に歩いた。何か、新婚旅行で温泉旅館に泊まりにきたカップルのような気がして、誠志朗は少し気恥ずかしかった。ロビーを見回してからフロントに進んだ。いつの間にか常盤はつないだ手を離していた。

カウンターの前に立つと、日本語と英語で書かれている宿帳が置いてあり、その横には、使用出来るクレジットカードのPOPが置かれていた。そして、カウンターの一番端には白地にピンクのリボンが描かれた募金箱があった。募金箱には『乳がんをなくす ほほえみ基金』と書かれていた。

「お兄ちゃん、これって、静ちゃんが始めたんだよ」

「へー、そうなんだ」

「……静ちゃんのお母さんが亡くなった後、そういう人を少しでもなくせたらって……、旅館の売上の一部も寄付してるって言ってたよ。それと、館内の自動販売機も全部ピンクリボンので、代金の1パーセントが自動的に寄付される仕組みなんだって」

 静の母親で先代の女将は、今から約2年前に乳がんで亡くなった。まだ38歳の若さだったと誠志朗の母親の美也子が言っていた。静と同じように美しい黒髪が印象的な人で、鬼怒川温泉女将の会のポスターには、中央に常盤の母親と並んで写っていて、鬼怒川温泉の2大美人女将と称されていたのを、誠志朗は覚えていた。

 それから、フロントでチェックインを済ませたつもりで、仲居さんが来て部屋に案内されるまでロビーのソファーに座って待っているつもりで、誠志朗は常盤を手招きして中庭の日本庭園に出てみた。

 ガラスのドアを開けて中庭に出ると、客室のある建物の向こう側から鬼怒川の川音が微かに聞こえてきた。石橋の架かった小さな池が中央にある池泉庭園は、楓や桜の新緑がもえ、池の手前にある藤棚にはこれから見頃を迎える野田藤が花序を伸ばしていた。その藤棚の横には野点傘と緋毛氈を敷いた高座と縁台が設えてある。こけ生した庭石や石灯籠が歴史を感じさせ、白い玉砂利を踏み締める度にどこか懐かしい気持ちにさせられる。

「こういうお庭っていいよね。落ち着くし……。うちのホテルは建物と駐車場しかなくって……」

 常盤の言うとおり、きぬやホテルは、敷地目一杯に4つの館と温浴施設が建っていて、その残りが駐車場といった感じなのである。敢えて庭と言えるのは、先月リニューアルしたばかりの屋上の空中庭園露天風呂くらいだろうか。

 それから、誠志朗と常盤は、仲居さんに部屋に案内され荷物を置いたつもりで、大浴場に下りていった。男湯と女湯にそれぞれ入って、出てきたつもりで、緋毛氈を敷いた縁台のある湯上がり処で麦茶を1杯飲んだ。浴衣ではないので余り雰囲気は出ないが、お風呂で汗を流してほっと一息といったところだ。

 華なりの宿しずかにはゲームコーナーがない。温泉旅館になら必ずありそうなUFOキャッチャーやテーブルゲーム機もなければ、開ける浴衣がちょっと色っぽい卓球台もない。日々のけんそうを忘れてゆっくり寛いでもらいたいと、先代の女将がゲームコーナーを湯上がり処に改装したと、誠志朗の父親のノートに書いてあった。

 そして、誠志朗と常盤は、一旦、部屋に戻り夕食の時間まで寛いだつもりで、ラウンジに上がっていった。時刻は午後3時を回ったところで、フロントのある5階のフロアでは、今晩の宿泊客がロビーやラウンジで和やかに談笑していた。

 そこに、宿泊客に混じり玄関の自動ドアを潜って睦美先生がやってきた。今日の装いは、ピンクの超ミニのスーツに9センチメートルの白のピンヒール。白のブラウスは第2ボタンまで開けて、バタフライシェイプのサングラスを掛けていた。傍目にはブロンドのハリウッドセレブがお忍びで日本の温泉旅館に泊まりにきたような感じだ。

 気付いた誠志朗が手を振ると、睦美先生は頭の上で大きく手を振りながら駆け寄ってきた。あんなに高いヒールでよく小走り出来るものだと誠志朗は感心した。

「こんなところでどうしたの?」

「……ちょっと行き詰って、……3時半まで自習にしたんです」

「あら、そうなの。コーヒーでも飲む?」

 睦美先生は、誠志朗と常盤の返答を待たずに、二人を手招きしてモンローウォークで歩いていった。ラウンジの一番奥のテーブル席に腰を下ろし、睦美先生はアイスコーヒーを、誠志朗はコーラを、常盤はミルクティーを注文した。

「それで、どんな感じなの?」

進捗状況を心配している睦美先生に、誠志朗が今日のミーティング内容を説明した。

「……永一のカジノ体験も、俺の蕎麦道場も、ちょっと無理があって……。常盤の女性限定旅館が一番可能性は高かったんですが、旅行代理店に聞いた情報だと、ここにはちょっと合わない内容だったんです。それで午後は親方にインタビューしてみたんですが、料理をメインにした売り方を続けていきたいということだけで……」

「そう。……簡単にはいかない筈よ。一日や二日で答えが出る訳がないもの」

 運ばれてきたアイスコーヒーにガムシロップを入れ、ストローで混ぜながら睦美先生がそう言った。

「それで、明日は、常盤のきぬやホテルを見学させてもらうことにしたんです」

「あら、それはいいわね。湯澤さんのところは、こちらとは設備もサービス内容も違ったホテルだから、きっと色々参考になるでしょうね。……でも、今日の明日で急に見学って、大丈夫だったの?」

「はい。さっき母に確認したら大丈夫だって言ってました」

「そう。じゃあ、よろしくお願いしますね。それと、阿久津君。先生は、明日は職員会議で、明後日からは来月の文科省の視察の準備があるので、次の土日しか来られないから、その間よろしくお願いしますね」

「あっ、はい、分かりました」

 それから、誠志朗達は、各々の飲み物を飲みながらウィステリアに戻る時刻まで雑談した。睦美先生が、今回の経営実習のことについて、「生徒の自主的な行動を尊重したい」と校長に進言したところ、「沢畑先生にお任せします」と快諾(?)してもらえたと言っていた。

 スーツに着替えてフロント業務をこなしている静に、誠志朗が手首を捻って鍵を開けるジェスチャーをすると、静は床の方を2回指差してウィステリアに永一がいることを伝えてきたので、誠志朗達はそのままエレベーターホールに向かった。エレベーターで3階に下りる際に一緒になった宿泊客は、制服姿の高校生カップル(?)とボディコンスーツの外国人(?)の組み合わせをいぶかしそうに見ていた。

 ウィステリアに戻ると、永一がテーブルの上に両足を投げ出してイヤホンで音楽を聴いていた。

「どこほっつき回ってたんだよ?」

永一が、イヤホンを外しながら聞いてきたので、

「いやっ、館内を見学してたら睦美先生が来てくれたんで、一緒にお茶してたんだよ」

と、誠志朗が答えた。

 ほどなく、呼び鈴を鳴らして静もやってきた。

「それじゃあ、今日はここまでってことで、明日はきぬやホテルに8時30分に集合でいい?」

「ちょっといいかしら? 大変だとは思うけど、ビジネスのアイディアは遅くとも水曜日までに決めないと……。その後は改善計画書の作成に時間を充てなくてはいけないから、時間管理をきちんとしてね」

 誠志朗は、「はい」と返事はしたものの、まだ方向性も決まっていないことに少し焦りを覚えた。

 残り一つの貸切露天風呂に入っていくという睦美先生を先頭に、誠志朗達はウィステリアを後にしてロビーに上がった。ロビーではチェックインのピークを迎えていて、静はすぐフロントに入ってしまい、永一ももう少し温泉街を流していくと言って先に帰った。

 誠志朗は、常盤の迎えが来るのをロビーのソファーで一緒に待つことにした。

「お疲れ様、お兄ちゃん」

「常盤もお疲れ様。明日、よろしくね」

「はい。畏まりました」

 そう言って常盤は、膝の上で両手を重ね、誠志朗に悪戯っぽくお辞儀をして微笑んだ。――が、その後、急に思い出したように続けた。

「……お兄ちゃん、明日、本当にスパに入るの?」

「えーっ、駄目なのか?」

「駄目じゃないけど……」

 誠志朗は、常盤の顔がみるみる赤くなっていくのが分かった。

「新しいスパに入ってみたかったんだけどなー……、でも、常盤が嫌ならやめるよ」

「嫌じゃないけど……、うん、分かった。大丈夫。みんなで入ろっ」

 常盤は、自分に言い聞かせるように語尾を強めた。

「よかった、ありがと」

 ほっとした誠志朗の顔を見て、常盤は少しはにかみながら笑った。

 迎えの車が着たので、後部座席に乗って「またあした」と手を振る常盤を見送って誠志朗も家路に着いた。

 


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