プロジェクトリーダー?
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6月26日(土) 決戦の日まであと9日
誠志朗は、午前4時に起きて豆腐を作り始めた。
手順はいつもと同じだが、今日は週末の土曜日で得意先からの注文も多い。全部で8回分の大豆を前日に浸しておいた。木綿豆腐と絹豆腐を3回ずつ、豆乳と寄せ豆腐を1回ずつ作る。
トラブルもなく順調にこなして、9時には掃除まで終わらせた。シャワーを浴びて、遅い朝食を食べ終えたのが10時少し前だった。
7時を回った頃、母親の美也子が、誠志朗と澪の朝食を用意してから豆腐製造室に顔を出した。
「誠志朗君、夕べ言ってたお父さんの書類、全部出しておいたから、終わったら見てみて」
誠志朗は、昨日の夜、家に帰ってから、静と親方から聞いた話をかい摘んで美也子に話し、書類を探してくれるように頼んでおいたのだ。
「ありがと。それらしいのあった?」
「ごめんね。お母さんが見ても分からないから、ダンボール箱のまま出しておいたわよ」
美也子は、銀行では預金窓口の担当だったので、融資の担当だった夫の仕事の内容はよく分からないようだった。
食べ終えた食器を洗って、誠志朗は、早速、床に置いてあるダンボール箱を開けてみた。中には、父親が下野銀行鬼怒川支店時代に担当していた取引先のファイルが並んでいた。背表紙に『鬼怒川ビューホテル』と書いてあるファイルを見付けた。確か、先代の女将さんが亡くなる前に、旅館の名前を華なりの宿しずかに替えたのだった。一人娘の名前を採って……
ファイルを開いてみると、旅館のパンフレットや配置図、館内の写真や不動産の明細などがつづられていたが、肝心の改善計画書のような書類は見当たらなかった。
「……駄目か……」
誠志朗はため息を吐いた。
でも、親方の話では、支援の必要がなくなって計画書が要らなくなったと言っていたから、書類としては残っていないのかもしれない。
そう考えながら、もう一つのダンボール箱を開けた。中には、10数冊の大学ノートと名刺の束、そして、プラスチックケースに入った10数枚のフロッピーディスクが入っていた。大学ノートの表紙にはホテルの名前が書いてあったので、鬼怒川ビューホテルのノートを見付けるのは簡単だった。
最初のページからめくっていく。
キックオフミーティング、インタビュー、デューディリジェンス、SWOT分析などと書かれたページがあり、細かい字でびっしりと書き込まれていた。親方や先代の女将さんにヒアリングした内容やミーティング時の内容が、こと細かに書かれている。書かれていた文字はお世辞にも上手とは言えなかったが……
「これは使えるかもしれないな」
誠志朗は、そのノートをテーブルの上に置いた。
名刺の束は見ても仕方ないと思ったが、念のためパラパラとめくってみた。赤い文字で『産業再生機構』と書かれた名刺が10数枚あった。親方の言っていた産業再生何とかのことだ。肩書は、アソシエイト、マネージャー、マネージングディレクターなどカタカナばかりだ。
「これは要らないな」
そのまま輪ゴムで束ねて、元のダンボール箱に放り投げた。
最後に、フロッピーディスクのプラスチックケースを開け、手前から順番にめくっていった。鬼怒川ビューホテルと書かれたフロッピーディスクが1枚だけあった。
急いでフロッピーディスクの中を確認しようと思ったが、誠志朗が使っているパソコンはフロッピーディスクが使えない。すぐに店に行って、澪と一緒に試作品の豆乳ババロアを試食していた美也子に尋ねた。
「ねえ、母さん。父さんが使ってたパソコンどこにある?」
「えーっ、あれ壊れちゃって、お父さんが燃えないゴミの日に出しちゃったわよ。……あれがないと駄目だった?」
「……駄目じゃないけど……分かった。ありがと」
パソコンって、燃えないゴミでいいのかちょっと疑問に思ったが、今はそんなことはさして重要ではないので、誠志朗は、居間に戻ってから少し考えて、電話を掛けた。
「はい、華なりの宿しずかでございます」
Gの音程、透き通るような声。
「……あっ、しずっ……、あっ、いや、星野? 俺、阿久津、……誠志朗だけど……」
誠志朗は、てっきりいつもの受付の人が電話に出るものと高を括っていたら、静だったのでしどろもどろになってしまった。そもそも、こちらから電話を掛けることなどほとんどなかったので……
「……ぷっ、誠志朗? 何、フルネームで名乗ってんのよ。おかしーっ」
静が、電話の向こうで声を上げて笑っている。
「何だよ、こっちから電話してやったのに……」
「……ごめんなさい。でも、おかしくって涙が出そう……」
まだ笑っている。
「切るぞっ」
「……んっ、んんっ……、はい、すみませんでしたっ。……で、どうだった?」
「まったく……、取り敢えず、鬼怒川ビューホテル関係のノートとフロッピーディスクを見付けたよ。肝心の計画書はなかったけど、フロッピーディスクに何か保存されてないかと思って……、でも、うちにフロッピーディスクを使えるパソコンがなくて……」
「うちにあるわよ、フロッピーが使える奴っ」
「じゃあ、これから行ってもいい?」
「ええ、これから『中抜け』だから大丈夫よ。気を付けて来てね」
「じゃあ」
中抜けとは、温泉旅館の長い昼休みのことだ。前日の宿泊客がチェックアウトしてから当日の宿泊客がチェックインするまでの間、女将や仲居が自由に過ごすことが出来る時間だ。
誠志朗は、すぐに着替えて、さっき見付けたノートとフロッピーディスクをデイパック入れて、バイクのエンジンを掛けた。暖機運転している間に店に顔を出し、「華なりに行ってくる」と美也子に告げて出発した。澪が「静様によろしくねー」と誠志朗を見送った。
いつものように会津西街道の旧道を行き、吊り橋入口の交差点を温泉街方面に左折する。土曜日ということもあってすれ違う車やバイクが多い。東武鉄道鬼怒川温泉駅のロータリー付近も大勢の観光客で賑わっているのが見える。平日もこんな感じならよいと思うのだが……
華なりの宿しずかに着くと、裏口にバイクを停め通用口の呼び鈴を押した。少ししてドアが開き、静が出迎えた。
「あら、早かったのね、誠志朗」
淡い水色の絞りの着物、白とクリーム色の格子模様の帯には紺色の帯留。きらきらと輝く黒髪は銀の髪留で一つにまとめられていた。
「……あっ、ああ……」
「もしかして、私に見とれてる?」
「違うよっ。いつもその髪留なんだなって思って……」
「……ああ、これ、……母の形見なの……」
髪留を押さえながら静が言った。
「……あっ、ごめん」
「平気よ。気を遣わないで。形見なんて言ったら、着物も帯も帯留だって、全部お母さんのだもの……。私が買ったのなんて足袋くらいかしら」
静は少し笑って、誠志朗を事務所へ案内した。
「親方は?」
「ちょっと横になってるわ。この時間はいつもそう」
「そうか」
「コーヒー……、じゃなかったわよね? お茶でいい?」
「いや、いいよ。それよりパソコンは?」
「そこの机の上のが使える筈よ」
静が、事務机の上のパソコンを、ちょんちょんと指差した。誠志朗は、パソコンを起動させ、デイパックからフロッピーディスクを取り出し、立ち上がるのを待って差し込んだ。その間に、誠志朗の父親が詳細に記入した鬼怒川ビューホテルのノートを静に渡した。
マウスを動かし、マイコンピュータからフロッピーディスクをクリックすると、その中にはいくつかのフォルダがあった。決算データ、借入明細、不動産担保明細、改善計画――
「あったよ! しずっ……、あっ、いや、星野」
ノートをめくっていた静が、誠志朗の後ろからパソコンをのぞき込んだ。
「ほんとに? どれどれ?」
誠志朗が、マウスポインタで円を描くようにして改善計画のフォルダを示した。
「これを開けば……」
事業改善計画と書かれたいくつかのエクセルファイルがあった。幾度となく修正したのだろうか、それぞれのファイルの右側に日付が付されている。一番新しいファイルを開いてみた。
その中には10数枚のシートがあり、表紙、目次、事業概要、実態BS・PL、不動産・設備概要、SWOT分析、ビジネスモデル、計画概要、計画BS・PL、資金計画、支援基準適合性という内容だった。それぞれのシートは文字や数字がびっしりと書き込まれていた。
「……書式は少し違うけど、加工すれば使えそうだな……」
誠志朗がつぶやくと、
「ほんと。大丈夫そう? やったーっ」
ちょっと興奮気味の静が、後ろから誠志朗に抱き付いた。静の頬が誠志朗の頬に触れた。
「……くっ、やめろよ、……おいっ」
突然のことに、驚いて誠志朗は体を左右に揺さぶった。
「さっき、ちゃんと名前を呼ばなかった罰よっ」
静が、離されまいと更に強く抱き付いた。誠志朗の背中に柔らかな感触が伝わった。
「うー、分かったから、ごめん、ごめんなさい。勘弁してよーっ」
誠志朗が悲鳴を上げると、
「しょうがないわね、許してあげるわっ」
漸く、静が誠志朗を解放した。
「……まったく、ふざけるなよっ」
肩をすくませて首を左右に振った時、誠志朗は、右肩に残る微かな香りに気付いた。
「あっ、ごめん。移っちゃった?」
「何の匂いだ、これ?」
「シャワーコロンよ、フレッシュライムの。母が好きだったの。仕事柄、余り強い香水は使えないから……」
「ふーん、そうだったんだ。……いい匂いだな」
「でも、これ、もう売ってないのよね。製造中止になっちゃって……」
静が寂しそうにそう言った。
「…………」
とにかく、使えそうな改善計画書が見付かったので、誠志朗と静は、これからどうするかを考えた。
まず、時間がない。
二人とも仕事と学校があるので、改善計画を作る時間を確保しなくてはならない。
次に、ブレインがいない。
たった二人プラス親方では心許ない。柔軟な発想、緻密な計算、大胆な行動が出来るブレインが必要だ。しかし、誰でもいいって訳ではない。気が置けない人物でないといけない。
そこで誠志朗は、まず、常盤に相談することにした。
常盤は、誠志朗とは幼なじみだし、静とも中学校からの付き合いだし、秘密は絶対守ってくれるし、何てったってあのきぬやホテルの一人娘だし。
次に、永一にも相談することにした。
永一は、誠志朗とは悪友のような親友のような仲だし、静とはあまり絡みはないが取り敢えずクラス委員長だし、ちょっと口が軽いのは心配だが、そこはきつく口止めすれば大丈夫だろうし、何てったってあのプレミアムグループの御曹司だし。
早速、静が、常盤の携帯に電話し、相談があるからと話したら、午後は大丈夫とのことで、3時に来てくれることになった。
永一には誠志朗が電話し、困っていることがあるからとにかく来てくれと頼んだら、一緒に霧降高原を攻めに行くことを条件にオーケーをもらって、やはり3時に来てくれることになった。
最後に、担任の睦美先生にも相談することにした。
静が、睦美先生の携帯に電話し、事の顛末を話し始めたが、途中まで説明したところで、しどろもどろになってしまったので、誠志朗が続きを説明したところ、貸切露天風呂に入りたいからと、これまた3時に来てくれることになった。
取り敢えず、有力(?)なブレインが揃いそうなので、誠志朗は一旦家に帰って出直すことにした。
「じゃあ、また3時に」
「うん、ありがとう。またね」
静が、誠志朗を通用口で見送った。
帰り際に、静が「さっきはふざけてごめんねっ」と謝ると、誠志朗は「ほんと、勘弁してくれよ」と返した。
振り向いた誠志朗の背中に、静が「やっぱり分かってないじゃない、バカ!」と小さくつぶやいた。
「ただいまー」
誠志朗が店に着いた時、時刻は正午を少し回っていた。
「おかえりー、静様によろしく言ってくれた?」
店番をしていた澪が顔を上げた。テスト勉強をしていたようだ。
「……あっ、忘れた」
「駄目だなー、誠志朗君はー。今度、慈眼寺のぼけ除け地蔵様をお参りして来なさいっ」
澪には、猫達と同じ程度かそれ以下に扱われてしまっている。
「母さんは?」
「はーっ、また、帰ってくるなりお母さんとは……、重度のマザコン症候群だな、誠志朗君はっ」
「……くっ、もういいっ」
誠志朗は段々腹が立ってきたので、それっきりにして居間に上がった。キッチンでは美也子が昼食の用意をしていた。
「ただいま」
「おかえり誠志朗君。どうだった?」
「フロッピーディスクに使えそうな書式があったんで、取り敢えず何とかなりそうだよ」
「あら、そう。捨てないでよかったわね」
「助かったよ。ありがと」
「すぐご飯にするから、手を洗ってうがいしなさい」
誠志朗は、また子供扱いされたと思ったが、言われたとおりにして、その後、澪と美也子と一緒に昼ご飯をいただいた。
午後の配達の予定は、龍王峡のドライブインだけだったので、誠志朗は2階で少し昼寝をすることにした。澪が、「店番を代われ」と言ってきたが、「マザコンって言ったからヤダ」と袖にした。
30分くらいベッドで微睡んでいたらセットしたスマホのアラームが鳴ったので、誠志朗は、少しぼーっとする頭を無理やり起こして1階に下りた。
店に行くと、今度は美也子が店番をしていた。
「あれ、澪は?」
「お友達のところで勉強するって出掛けたわよ」
店番を母親に押し付けて、ばっくれたようだ。
「じゃあ、配達行ってくるね」
「はい、これお願いね」
美也子が、豆腐の入った保冷バッグを誠志朗に渡した。
「ありがと。その後、また、華なりに行ってくるから」
「遅くなるの?」
「うーん、分かんないけど、今日は向こうも忙しいからそんなに遅くならないと思うよ」
「気を付けてね」
「うん。じゃあ、いってきます」
誠志朗は、バイクのエンジンを掛けてから、保冷バッグをデイパックに詰めて出発した。家の前の小原通りを左に出て北に向かい、東武鉄道の踏切を渡ってすぐのT字路を右折し川治方面にバイクを走らせた。東武鉄道の線路に沿って国道121号線を走り、野岩鉄道の南側の発着駅の新藤原駅を右に見て、ぼけ除け地蔵尊のある慈眼寺の前を通る時は左手だけで拝んで、日塩有料道路の龍王峡ラインの高架を潜って、ほどなくして『龍王峡』に着いた。
龍王峡は、約2,200万年前、海底火山の活動によって噴火した火山岩が、鬼怒川の流れによって浸食されて出来た峡谷だ。まるで龍が暴れまわったような形跡を残すことから龍王峡と名付けられた。上流から、安山岩で出来た紫龍峡、凝灰岩で出来た青龍峡、流紋岩が際立つ白龍峡と、岩の種類と色によって呼び名が分かれている。遊歩道の途中にある『むささび橋』の真ん中に立ってぐるりと峡谷を見渡せば、誰でも龍王峡の名前の由来を実感することが出来る。
土曜日の午後ということもあって、ドライブインの駐車場は、マイカーや観光バスで一杯だった。ドライブインに注文の豆腐を届けて誠志朗の配達は完了。
静のところに行くにはまだ少し早いので、誠志朗は、久しぶりに『五龍王神社』をお参りしようと、外国人観光客の団体に混じって、神社の鳥居を潜り九十九折りの石段を下りていった。遊歩道に続く石段は新緑の木々に覆われ陽の光がほとんど差し込まないので、6月も下旬だというのに少し肌寒いくらいだった。段々に、鮮やかなエメラルドグリーンの川面が見え始め、滝の音が近付いてくると『虹見の滝』が現れた。その雄大な滝を正面に見る岩の上に五龍王神社の祠がある。
五龍王とは言っても龍神様の御神体が五つある訳ではなく、弁天様とも言われる御神体が一体祀られている。尊敬の意を表わす『御龍王』がいつの間にか『五龍王』になったようだ。毎年7月に、温泉街を練り歩く神輿に御神体の札を入れる『御霊入れ』の神事を執り行って『龍王祭』の幕が上がる場所だ。
鬼怒川温泉と川治温泉の守り神でいらっしゃるので、誠志朗は、財布の中の5円玉を賽銭箱に奉納して拍手を打った。
もう少し遊歩道を進めば、竪琴の弦のように幾筋もの清らかな水が流れ落ちる『竪琴の滝』や水ばしょうが群生している湿地帯があるのだが、時間も押してきてしまったので、誠志朗は、九十九折りの石段を上って駐車場に戻っていった。駐車場に着く頃には既に薄っすらと汗をかいていた。バイクのエンジンを掛け、ハンカチで汗を拭ってからヘルメットとグラブを装着して、鬼怒川温泉方面へ戻った。
国道121号線を南に戻り、会津西街道に入り、東武鉄道会津高原駅を左に見て、吊り橋入口を直進し、15分ほどで華なりの宿しずかに着いた。
いつものように裏口に回り、従業員駐輪場の端にバイクを停めた。
「悪いな、誠ちゃん」
通用口で納品業者と立ち話をしていた親方が、誠志朗に気付いて声を掛けた。
「こんにちは。お疲れ様です」
「あいつなら、今、フロントにいるから、表から入ってよ」
「分かりました。ありがとうございます」
誠志朗が、華なりの宿しずかに正面玄関から入るのは久しぶりだ。まだ、先代の女将さん、つまり静の母親が健在だった鬼怒川ビューホテルの頃に、家族で夕食を食べにきた時以来だった。もちろん誠志朗の父親も一緒に。
誠志朗は、裏口から建物伝いに正面に回り、御影石の玄関を上がった。書道は師範の腕前の先代の女将さんが、流麗な毛筆で『華なりの宿しずか』と認めた文字を白抜きした濃紺の大きなのれんを潜ると、玄関の重厚な木製の自動ドアが開き、少し進むと今度はガラス製の自動ドアが開いた。
ロビーは、落ち着いた朱を基調とした花模様のじゅうたんが敷かれ、大きなガラス張りのラウンジからは中庭の日本庭園が見える。鬼怒川温泉随一と誉れの高い庭園は、春にはソメイヨシノが咲き誇り、夏には野田藤と山ユリが涼やかさを演出し、秋には楓が燃え、冬には紅一点の寒椿が宿泊客を出迎える。
ロビーの中央には見事な生け花が飾られており、それを背にして女将の静が立っていた。
ぼかしの入った結城紬、水色の花柄の帯にはオフホワイトの帯留。フロントの照明に照らされて艶めく長い黒髪は銀の髪留で一つにまとめられていた。
「いらっしゃいませ、誠志朗様」
軽く会釈をして、静が誠志朗に挨拶した。
「……あっ、ああ……」
「もしかして、私に見とれていらっしゃいまして……」
「ふ・ざ・け・る・なっ」
誠志朗は、周りを気にしながら、小声で言い返した。
「残念ですわ。それでは、こちらへどうぞ」
静は、あくまで女将モードで、誠志朗をラウンジに案内した。
「……あっ、あの、しずっ、あっ、……女将さん、ロビーでいいよ。適当に座ってるから……」
「そういう訳には参りません。それに私のことは、『静』とお呼びいただいて構いませんわ。私も誠志朗様のことは、お名前で呼ばせていただいておりますので」
そう言って静は、誠志朗を玄関が見える席に案内した。
「分かったから、やめてくれよ、もう……」
「お分りいただければ結構ですわ、それではお飲物をお持ちいたします」
「あっ、いや、そういう意味じゃ……」
誠志朗が言い掛けたが、静はラウンジのカウンターに入っていってしまい、少しして、トレーに飲み物を載せて戻ってきた。
「お連れ様がいらっしゃるまでごゆっくりお過ごし下さいませ」
静は、誠志朗のテーブルに氷の入ったコーラとストローを置いて、フロントに入っていった。
「まったく、何なんだよ」
誠志朗は、ストローを袋から出してコーラを一口飲み、ふうっと息を吐いた。
まだチェックイン時間の前で、人気のないロビーを誠志朗が眺めていると、玄関の自動ドアが開き、ワンピース姿の少女が入ってきた。
裾の方に鮮やかな花柄のプリントのある白のワンピーススカートに白のミュール。色白の肌にくりっとしたとび色の瞳。待ち人を探しながら揺れるチョコミント柄のリボンと栗色のポニーテール。
誠志朗は、椅子から立ち上がって常磐に手を振った。気付いた常磐が、胸の前で小さく手を振りながら駆け寄ってきた。
「お兄ちゃん、早かったんだね」
「いや、俺もさっき来たとこだよ」
常盤が、誠志朗の右隣に腰を下ろした。
「……よかったー。誰も来てなかったらどうしようと思ってた」
「その時は、しずっ、……星野がいるから……」
「あははっ、そうだね」
屈託のない笑顔を見せる常盤は、明るい日差しを浴びた向日葵のようにまぶしい。
「……静ちゃんの相談って何なのかな?」
「みんなが来たら説明するよ」
「みんなって……?」
「永一と睦美先生!」
「えーっ、金崎君と沢畑先生? 何か意外な組み合わせー」
「…………」
誠志朗が言葉に詰まっていると、玄関の自動ドアが開き、一組のカップルが入ってきた。
先ず目を引いたのは、女性の方。深いスリットの入った赤いチャイナドレスと9センチメートルの黒のピンヒール、金色の髪を頭の上の方で2つのお団子にまとめ、左手には孔雀の羽のような扇子を優雅に扇いでいる。
男性の方は、黒の革ジャンと黒のビンテージジーンズに黒のブーツ。オールバックの黒髪は柳屋のポマードで固められ、黒のサングラスまで掛けていた。
誠志朗達を見付けた永一が、睦美先生を手招きしてラウンジにやってきた。
「よー、誠志朗。約束どおり来てやったぞ。この後、霧降高原に行くか?」
「……あのー、どちら様でしょうか?」
誠志朗は、思いっきり他人の振りをしてみた。
「ねえねえ、阿久津君、貸切露天風呂はどこ?」
こっちはこっちで、扇子を煽ぐ睦美先生も場違い感が半端ない。
「沢畑先生、金崎君、こんにちは」
常盤は、そんなことはまったく気にしていないようだ。
「あらあら、湯澤さんなのー? かわいいっ。制服姿もかわいいけど、……今度から、うちのクラスは私服オーケーにしようかしら?」
「お待たせいたしました。お部屋にご案内いたします。」
睦美先生の暴走が始まろうとした矢先、静がラウンジにやってきた。
「あらあら、星野さん? 素敵な紬ねー。帯の組み合わせも絶妙だわー。……今度からうちのクラスは和服もオーケーにしようかしら?」
「ありがとうございます。それではこちらへ」
女将モードの静が、暴走し始めた睦美先生を御して、誠志朗達をエレベーターに案内した。鬼怒川の渓谷が見える客室へつながる廊下を移動し、全員がエレベーターに乗り終えると、静は3階へ下りるボタンを押した。
鬼怒川の渓谷沿いにあるホテルや旅館は、競うように渓谷に迫り出して建っている。華なりの宿しずかも、崖下の川原の岩盤の上に建っているため、崖の上にあるフロントのあるフロアが5階になる構造になっているのだ。
3階に着くと、渓谷に沿った廊下の突き当たりの一番奥にある客室『藤』に通された。その部屋は、8畳の畳の上にテーブルと椅子を設えた和モダンな造りで、窓からは鬼怒川の渓谷が一望出来る。
「……こんないい部屋で大丈夫なのか?」
誠志朗が気を遣って、静に問い掛けると、
「ああ、この部屋? 入口の床がきしむから修理する予定なのよ」
と言って、静は、さっきまでの女将モードとは打って変わり、入口の床を踏んで態と音立ててみせた。
「適当に座って。あっ、誠志朗はここねっ」
入口から一番奥の議長席、若しくはお誕生日席と呼ばれる椅子を指差して、静がその左手に座った。静は、誠志朗にこの場を仕切ってもらうつもりのようだ。
「じゃあ、私、ここでいいかな?」
そう言って、常盤が誠志朗の右手に座った。後は、永一が常盤の隣で、睦美先生が静の隣に座った。
それから、静が、全員に飲み物のリクエストを聞くと、「誠志朗、始めといて」と言って部屋を出ていってしまった。
「……おい、しずっ、あっ、星っ……」
誠志朗が言い終わる前に、部屋のドアが閉まった。
「誠志朗、困り事ってなんだよ?」
待ちくたびれた永一が口を開くと、
「貸切露天風呂はどこ?」
睦美先生も、心ここに在らずのようだ。
常盤は、何を話すのかと、じっと誠志朗の顔を見ている。
「……んっ、んんっ、それでは、当事者不在ではございますが、始めさせていただきます」
場の雰囲気に耐え切れず、軽く咳払いをして誠志朗が切り出した。
それから、昨夜からのことを出来るだけ詳しく説明した。
一通り説明が終わると、盗聴でもしていたのかと疑いたくなるタイミングで、静が飲み物を運んできた。
「終わった? 誠志朗」
「……終わった? じゃないよ、まったくっ」
それぞれにリクエストされた飲み物を配り終えると、静が、自分が座る椅子の後ろに立って、
「私と親方だけではどうにもならないの。力を貸して下さい」
と、深々と頭を下げた。
誠志朗は、説明している最中も、「無理だ!」とか「出来る訳ない!」とかの、否定的な意見を投げ掛けられるのを覚悟していた――が、ここにいるメンバー誰一人、そんなことを言う者はいなかった。
そして、睦美先生が、話の口火を切った
「残り9日間で、銀行と金融庁を納得させる計画書を作るのは凄く大変な仕事よ。だから、明後日の月曜日から次の月曜日まで、みんなのことは経営実習扱いにしていただくように校長先生にお願いしておくわ」
「確かに、それだったら作業時間も確保出来るし、いいんじゃね。それに校長には睦美ちゃんが言えば一発だろっ」
片膝立てをして座っている永一が、銀の板櫛でオールバックの髪をなで付けながらそう言うと、
「静ちゃん、私に出来ることは何でも言ってねっ」
常盤も、胸の前で両手の拳をギュッと握り締めてやる気満々だ。
「みんな、ありがとう。よろしくお願いします」
静が、もう一度、深々と頭を下げた。
「じゃあ、取り敢えず乾杯ってことでっ」
永一がアイスコーヒーのグラスを持って立ち上がったので、ほかのメンバーも各々自分のグラスを持って立ち上がり、「かんぱーい」と、グラスを合わせた。
「じゃあ、最初にやることは、……このプロジェクトの名前を決めることね」
静が、誠志朗の父親のノートを見ながら言った。
実際に、産業再生機構のプロジェクトでは、守秘義務を徹底するため、支援先が特定されないようにプロジェクトに名前を付けていたようだ。栃木県の温泉再生案件は、栃木県の県花の『ヤシオツツジ』の後にアルファベットを付けていたらしい。
「……それなら、ウィステリア……ってどうかな? 藤の花のことなんだけど……、それに、日光市に合併する前の藤原町の町の花だったし……」
「いいわね。うちの中庭にも藤棚があるし、たまたま、この部屋の名前も藤だし……」
常盤の提案に静がすぐさま賛同した。
「いいんじゃね。それに決定!」
「早っ!」
誠志朗は、そんな乗りでいいのかと思ったが、永一が勝手に決定しても、誰からも異論がなかったので、プロジェクト名はすんなりウィステリアに決まった。
「えーと、次は、プロジェクトリーダーを決めます」
静の言葉に、メンバー全員が誠志朗の方を見た。
「…………えっ、俺?」
誠志朗が自分を指差してメンバーに確認すると、
「異議なーし」
と、満場一致で可決された。
「……はーっ……」
誠志朗は、大きなため息を吐いたが、決まってしまったことに、今更、四の五の言っても始まらないと諦めた。
「最後に、明日からのスケジュールを決めます。では、リーダー、お願いします」
静が、誠志朗にマイクを渡す仕草をした。誠志朗は、それをしぶしぶ受け取る真似をして議事を進めた。
「はい、それでは、時間も押してきましたし、明日からのスケジュールを決めて、今日は解散といたします」
「……ごめんなさい。今晩は団体さんが入ってて……、明日の朝は10時以降の開始でお願いします」
仕事が忙しい静が、10時以降の開始を希望したので、自ずとほかのメンバーも従わざるを得なかった。
「では、10時30分開始ということで……、明日やることは?」
誠志朗が、静にマイクを返す仕草をすると、それを受け取る真似をして静が続けた。
「明日は、まず、デューデレ? デューディリジェンヌ? 何これ?」
「デューディリジェンス。つまり精査のことね。略してデューディリとも言うわ」
初めて聞く言葉で噛みまくりの静に、睦美先生が助け船を出した。
「そうとも言うわね」
知ったか振りをする静を余所に、睦美先生が続けた。
「財務・法務・税務・ビジネス・設備などを専門家が精査することだけど、今回はそこまでは必要ないと思うから、財務とビジネスと設備のデューディリをしましょう。それとSWOT分析が必要ね」
「SWAT? 特殊部隊? 何それ?」
静は、――残念ながら、まるっきり分かっていなかった。
SWOT分析とは、Strength(強み)、Weekness(弱み)、Opportunity(機会)、Threat(脅威)の4つの視点から、支援企業の現状を客観的に分析する手法のことだ。分析をすることで、今後のビジネスの方向性が見えてくる。弱みを克服して全体の平均点を上げるか、強みを更に磨いてその分野のトップを目指すかなど。
「じゃあ、星野さんには、明日までの宿題ということで……」
「えー、そんなぁー……」
絶句する静に、一同、爆笑してミーティングは終了。
明日の準備として、ホワイトボードと決算書などの資料は静が、パソコンとプリンターは永一が用意することになった。
時刻は午後5時になるところで、静は、宿泊客の応対をするために、一足先に部屋を出ていった。誠志朗達に「よろしくお願いします」と何度も頭を下げながら――
睦美先生は、「貸切露天風呂に入る」と言って聞かないので、静がフロントに手配して、この後、温泉に入れることになった。
常盤は、永一に「送ってくか?」と聞かれたが、「ありがとう。でも、金崎君の車は牛の鳴き声みたいな音がするから遠慮しておくね」と断ったようだ。それでなくても、永一の運転する車に常盤を乗せることなどあってはならないと、誠志朗は思っていた。もっとも、常盤のことは誠志朗が送っていきたかったのだが、スカートではバイクに乗せられないし、自動2輪の免許取得後3年間は二人乗り禁止だし、そもそも無理だった。
誠志朗は、常盤の迎えの車が来るまで、一緒にロビーで待つことにした。
睦美先生は、何が入っているのか、大きなバッグを車から持ってきて、「またねー」と言って貸切露天風呂へスキップしていった。永一は、「See You」と言って、テスタロッサの『牛の鳴き声』を轟かせながら宇都宮市内の自宅へ帰っていった。
「……お兄ちゃん、何か大変なことになっちゃったね?」
「ほんとな。でも静のためにも親方のためにも、がんばらなくっちゃなっ」
「うん、そうだね。がんばろうねっ」
常盤はまた、胸の前で両手をギュッと握り締めていた。
ほどなく、迎えの車が来たので、後部座席に乗り「お兄ちゃん、また明日ねー」と言いながら小さく手を振る常盤を見送って、誠志朗も華なりの宿しずかを後にした。
誠志朗が家に着いたのは午後6時近くだった。
いつものように店から入ると、母親の美也子が店番をしていた。
「おかえり、誠志朗君」
「ただいま」
「澪は?」
「午後出掛けた切りよ。それよりどうだった?」
「……うーん、何とか……、それより明日も華なりに行かなくちゃならなくなったんだけど……」
「明日はお店は休みだから……、でも、誠志朗君もゆっくりしたらよかったのに……」
「俺は大丈夫だから、母さんこそゆっくりしたら」
「ありがとう。そうさせてもらうわ。じゃあ、夕ご飯の用意するから片付け頼める?」
「いいよ。やっとく」
「誠志朗君、何か食べたいものある?」
「……うーん……、炒り豆腐出来る?」
「大丈夫よ。でも、そんなものでいいの?」
「……うーん、じゃあ、大田原牛のサーロインステーキ!」
「それは無理ねっ」
速攻でリクエストが却下されてしまった誠志朗は、ライダースジャケットを脱いで店の片付けを始めた。今日の余り物は、木綿豆腐が2丁だけ。土曜日なので普段より可成り多めに用意したのだが、売れ行きは好調だったようだ。店のシャッターを下ろし戸締りをして、玄関から店の前に回って『風吹けど猫に出掛ける用がある 本日定休日』と書かれた木製のプレートをシャッターに掛けたら、本日の営業は終了。
その木製のプレートは、恋し屋豆腐店の開店当初に誠志朗の父親が作ったものだ。言葉の意味が分からなかった誠志朗が父親に尋ねると、「風が吹く日でも、猫にだって出掛ける用事がある。況や人間をや」と教えてくれたのだが、その意味も分からなかった誠志朗がぽかーんとした顔付きでいたので、「猫だって出掛けるのだから、人間ならなおさらだ。外出中という意味だ」と説明してくれた思い出のある代物だ。
木綿豆腐を持って居間に上がると、キッチンで美也子の足にまとわり付いていた茶トラ猫のちゃあ君と黒猫のシャア君が誠志朗に気付き、足元にやってきて、ちゃあ君は「ホワッ、ホワワッ」と鳴いて、食道炎で声が出ないシャア君は口だけ開いてご飯の催促をしてきた。
「もう少しでご主人様が帰ってくるよ」
まあ、そう言っても分かる筈はないので、仕方なく2匹を横にしてお腹をなでてあげると、グルルグルルと喉を鳴らした。
「ただいまー」
ちょうどそこに、澪が帰ってきた。
「ほら、ご主人様のお帰りだぞ」
「はいはーい。ちょっと待っててねー」
今度は澪にまとわり付く猫達。忙しい奴らだ。
「おかえり。澪ちゃん。手を洗ってうがいしてね」
美也子の言い方が、澪の時と自分の時では微妙に違うと誠志朗が不満に思っていると、洗面所でうがいしていた澪が誠志朗に話し掛けた。
「誠志朗君、静様によろしく言ってくれたー?」
「……あっ、忘れた……」
「お母さーん、誠志朗君はー、若年性アルツハイマーとマザコン症候群かもしれないから、一度、病院に連れていった方がいいよー」
「あら、まあ、大変!」
「まったく、……勝手に言ってろよ。もう」
澪も澪だが、澪の冗談を真に受ける美也子も美也子である。
澪が猫達にご飯をあげたら、誠志朗達も夕ご飯になった。今夜は、炒り豆腐と厚揚げ入り豚生姜焼きとみそ汁だ。
「いただきます」
今日は、色々なことがあって頭も使ったし、可成りお腹が空いていた誠志朗が真っ先に食べ始めた。
「あっ、ずるいぞ誠志朗君。お肉ばっかり取って」
「早いものはち」
「誠志朗君、食べながらしゃべっちゃいけません」
「えっ、そっちなの? お母さんっ」
今一つ噛み合わない澪と美也子であった。
誠志朗は、炒り豆腐に箸を伸ばした。
「うん。美味しい」
「あら、そう。よかった」
「そう言えば、常盤の作った炒り豆腐も美味しかったな」
「あら、常盤ちゃん元気?」
「元気だよ。今日も華なりで一緒だったよ」
「いいなー、誠志朗君。常盤お姉ちゃん、かわいいよねー」
「今度、遊びに連れていらっしゃいよ」
「……前にも言ったかも知れないけど、母さんが作る豆乳プリンが好きだって言ってたよ」
「じゃあ、沢山用意しておくから」
「澪も、お母さんの豆乳プリン大好きだぞっ」
「澪には聞いてないって」
そんな調子で、賑やかな夕ご飯を食べて、誠志朗は早めの風呂に入った。2階に上がってベッドで教科書を開いたと思ったら、もう次の朝になっていた。
6月27日(日) 決戦の日まであと8日
誠志朗は、毎朝、午前4時ちょっと前に目が覚めてしまう。スマホのアラームは、定休日の日曜日はOFFにしてあるのだが、誠志朗の体内時計に曜日の設定はないようだ。
布団の中で時刻を確認して、「ふあーっ」っと大きな欠伸をして二度寝する。次に目が覚めた時は8時30分を回っていた。
パジャマのまま居間に下りていくと、美也子がテレビを見ていた。
「おはよ」
「おはよう、誠志朗君。朝ご飯出来てるわよ」
「ありがと。母さん、今日の予定は?」
「今日は、何にも予定がないのよ。……暇だから、昨日の豆乳ババロアのレシピを完成させちゃおうかなって思って……」
「美味しく出来た?」
「ええ、可成りの自信作よっ。澪ちゃんなんて2つも食べちゃったわよ。ゼラチンの替わりに寒天を使ってるからヘルシーだし」
「いいね。今度、味見させてよ」
「じゃあ、今日、作っておくから食べてみて」
「じゃあ、澪には内緒でねっ」
「そんなこと言って、澪ちゃんに怒られても知らないわよ、誠志朗君」
「……だから、澪には内緒で……」
「何を内緒にするのだ、誠志朗君」
そこに、夕べ遅くまでテスト勉強していた澪が起きてきた。
「げっ、……いや、何でも……」
「さては、澪に内緒で美味しいものでも食べるつもりだな。ずるいぞ、誠志朗君」
「……違うよ。母さんが豆乳ババロアを作るから、味見させてって話だよ」
「ほら、やっぱり。それなら、澪も味見するぞ。ねえ、お母さん?」
「はいはい、澪ちゃんの分も作っておきますよ」
「やったー。ありがと、お母さん」
『澪に内緒で味見作戦』は敢えなく失敗に終わり、その後は、澪と一緒に遅めの朝食を食べた。
澪が、英語の問題で分からないところがあると言うので、誠志朗が、電子辞書を片手に悪戦苦闘しながら教えていたら、静のところへ行く時間になってしまったので、「後は自力で頑張れ」とエールを送って、急いで着替えて家を出た。澪が「今日こそは静様によろしく。常盤お姉ちゃんにもよろしくー」と、誠志朗を見送った。
温泉街へ向かう会津西街道は、東武鉄道の鬼怒川温泉駅に近付くにつれ、チェックアウトを終えた宿泊客の車やバイクで混雑していた。いつもなら10分程度の道程に15分以上掛かってしまった。
誠志朗が、華なりの宿しずかに着いた時には、宿泊客用の駐車場はほとんど空になっていて、玄関前に停められた真紅のフェラーリ・テスタロッサだけがやけに目立っていた。 誠志朗は、裏口にバイクを停めて正面に回り、玄関から入っていった。
「いらっしゃいませ、誠志朗様」
フロントにいた女将モードの静に迎えられた。今日は、いつもの和服にまとめ髪ではなく、ピンクのブラウスにグレーのベストとスカートのスーツ姿、腰の辺りまである艶めく黒髪はサラサラのストレートにしていた。
「……あっ、おはよう……」
「誠志朗様、もしかして……」
「……見とれてない、見とれてない」
誠志朗は、頭を小さく左右に振って、静に反論した。
「あら、そうでしたの? 残念ですわ」
「みんなは?」
「皆様、ウィステリアでお待ちです」
「そうか、ごめん、遅くなった」
「では、こちらへ」
静に案内されて、エレベーターホールに向かい、一緒にエレベーターに乗った。静が3階のボタンを押して扉が閉まった。
「誠志朗様、密室で二人きりになったからといって、劣情を催さないで下さいね」
「……だっ、誰が催すかっ」
「あら、残念。あはははっ」
大きな口を開けて静が笑った。
「真面目にやれよ。もう……」
そんなことをやっているうちに3階に着いたので、今度は誠志朗が先に立ってウィステリアに歩いていった。
部屋の呼び鈴を押すと、「はーい」と常盤が返事をしてドアを開けてくれた。
「おはよう。お疲れ様」
「おはよ」
常盤は、白のブラウスにピンクのカーディガンとデニムのミニスカート。そしていつもの栗色のポニーテールにはチョコミント柄のリボン。
「遅せーよ、誠志朗」
「阿久津君、遅刻は駄目よ」
すぐさま、永一と睦美先生が責め立てる。
永一は、昨日と同じ、黒の革ジャンとビンテージジーンズとブーツの組み合わせだが、革ジャンは昨日とは別物らしい。
睦美先生は、胸の脇までスリットが入った鮮やかなスカイブルーのアオザイとヒールの高いミュール。余りにもスリットが深いので動く度にくびれたウエストの辺りがちらちら見えてしまう。
「ごめん、道路が混んでて……」
「罰として、一発芸の刑だなっ」
「えーっ、それは勘弁してよー」
「えーと、飲み物は冷蔵庫に入ってるから、適当に飲んでね。それと、お昼ご飯は親方特製の松花堂弁当よ」
永一が、誠志朗に罰ゲームをやらせようとしたが、静が、それをはぐらかすように話題を替えた。
「じゃあ、お昼まで頑張りましょう。阿久津君、お願いします」
ちゃっかりしたもので、松花堂弁当と聞いて睦美先生が、が然やる気を出した。
「えー、では、始めます。まず、今日やることの確認ですが、今日はSWOT分析をします」
「星野さん、昨日の宿題は出来てますか?」
「はいはーい。皆様、ホワイトボードをご覧下さい」
睦美先生が、昨日出した宿題のことを尋ねると、静は自信満々で答えていた。
用意されたホワイトボードには、中央に縦と横の線が引いてあり、4つに分けられたブロックに、Strength(強み)、Weekness(弱み)、Opportunity(機会)、Threat(脅威)と、流麗な文字で書かれていた。
書道の師範である母親に習った静のお手は、ペン字でも相当な腕前なのが分かる。『書は人なり』という格言があるが、一見、がさつで自己中心的に見える静は、実は、繊細で思いやりのある性格なのではないかと思った誠志朗だった。
「はい、そうですね。では、みんなでこの中を埋めていきましょう。やり方は、ブレインストーミングでやりますよ」
「ブレイン何とかって?」
早速、静が質問した。質問の中身はともかく、今日の静にはいつもとは違うやる気が感じられる。
「ブレインストーミングは、みんなでアイディアを出す時の方法で、自由にどんどん意見を言っていくの。ルールは簡単。絶対、ほかの人の意見を否定しないこと。それだけよ」
「へーっ、そうなんだ。勉強になりました」
常盤が、メモを取りながら睦美先生のアドバイスを聞いている。
「でも、その前に、みんなにうちの旅館を見てもらった方がいいんじゃない?」
「おーっ、そうだよっ。俺は今回の件で初めて来たし、実際に見学させてもらった方が生の意見が出ていいんじゃねーの?」
静の提案にすぐさま永一が賛同した。永一も、いつもに増して積極的な感じだ。
「そうね。じゃあ、これから設備のデューディリも兼ねて、館内を見学させてもらいましょう」
「じゃあ、早速行くわよ」
静の案内で誠志朗達はウィステリアを出て、まずはエレベーターで1階に下りた。1階には、男女それぞれの大浴場と露天風呂があり、加えて、貸切露天風呂が3つある。
「この時間、お客様はいないから中に入っても大丈夫よ」
静のオーケーが出たので、誠志朗と永一が男湯ののれんを潜り中に入ってから、常盤と睦美先生も「お邪魔します」と後に続いた。
脱衣所とパウダールームを抜けて、ガラスの引き戸を開けると、中は御影石造りの大浴場になっている。壁側に洗い場があり、中央に、大人でも一度に30人は入れそうな大きな浴槽がある。その奥にはサウナと水風呂があり、更にその先には露天風呂に通じるガラスのドアがあった。そのドアを開けて外に出ると、目の前に鬼怒川の流れが望める石造りの露天風呂が現れた。
「おー、いいなっ。露天風呂入りてーな」と言う永一に、静が悪戯っぽく「みんなの前で今から入る? タオル持って来ようか?」とけしかけると、臆した永一は「やっぱ、やめとくわ」とたじろいでしまった。
男湯と女湯は、朝4時に入れ替えするので、1泊すると両方に入ることが出来るようになっている。
それから貸切露天風呂も見学した。龍王峡に因んで、『紫龍の湯』、『青龍の湯』、『白龍の湯』と名付けられ、それぞれの石の色や配置、浴槽の形が違っていて、3つとも全部入りたい気持ちにさせられる趣がある。睦美先生は、「昨日は白龍の湯に入ったから、今日は青龍に入ろうかしら」と、今日も入る気満々だ。
華なりの宿しずかは、鬼怒川温泉でも数少ない自家源泉を持つ『源泉掛け流しの宿』だ。源泉は、『美玉の湯』と呼ばれていて、鬼怒川の川原の下から湧き出ている無色透明のアルカリ性単純泉で、やけど・神経痛・筋肉痛・冷え性に効能があると言われている。
実は、鬼怒川温泉のほとんどのホテルや旅館は源泉を持っておらず、第三セクターの『鬼怒川資源開発』の所有する源泉からパイプを引いて温泉水を購入している。鬼怒川温泉で源泉を所有しているのは、華なりの宿しずかのほかには、常盤のきぬやホテルを含め数えるほどなのだ。
「じゃあ、次行く?」
静の案内で2階へ上がった。2階には大宴会場とカラオケルームがある。150畳の大宴会場は、パーテーションで4つに区切ることが出来るので、人数によって色々と組み合わせが可能だ。カラオケルームは2室あり、最新の通信カラオケが設備されている。永一が「永ちゃんを歌わせろ」とマイクをつかんだが、「はいはい、後でね」と静に軽くあしらわれてしまっていた。
続いて3階に上がった。3階は、鬼怒川の渓谷を臨む方が客室になっていて、エレベーターホールの角を曲がった奥が食事処となっている。完全個室の食事処は、家族連れやグループ客に食事を提供するところだ。それと、3階には簡易の厨房設備もある。これは、5階の調理場で下拵えしたものを食事の直前に調理、盛り付けするためのものだ。しかも、驚いたことに、3階の調理場と直通のエレベーターがあり、料理や食器を運べる構造になっていた。更には、お客様用の通路の内側のスペースに従業員用の通路やエレベーターがあって、お客様の目に触れずにシーツなどのリネンを運んだり、従業員が移動したり出来るようになっていた。誠志朗が感心していると、そんなことは当たり前に思っていた常盤は、誠志朗が驚いていることに驚いていた。
4階も、3階とほぼ同様の構造になっているとのことなので見学は省略した。
5階は、正面玄関、ロビー・フロント、ラウンジ、レストラン、お土産処、事務所、調理場のフロアとなっている。
6階は、鬼怒川の渓谷を望む露天風呂付き客室と、中庭の日本庭園が眺められる客室になっている。特に、6階の露天風呂からの眺めは本当に素晴らしく、誠志朗は、こんな部屋に母親の美也子を連れてきてあげたら、どんなに喜ぶかしれないと思った。
客室数50室、最大収容人数200名。ちょうど、常盤のきぬやホテルの10分の1のキャパシティーである。
一通り見学し終えて、誠志朗達がウィステリアに戻ってきた時、時刻はちょうど正午になるところだった。
「お昼にしましょうか?」
歩き回ってお腹も空いてきたので、静の提案に反対する者はいなかった。「お弁当を取ってくる」と言う静を、誠志朗が手伝うことにして一緒に調理場に向かった。従業員用の通路のドアを開けて従業員用のエレベーターで5階へ上がった誠志朗は、初めて見る裏方の様子にちょっと興奮した。親方から弁当の載ったワゴンを受け取って、帰りは誠志朗も料理用のエレベーターに乗ろうとしたものだから、静に「人は乗れないのよ」と笑われてしまった。
ワゴンを押してウィステリアに戻ると、みんなは冷蔵庫のジュースを選んでいるところだった。永一が「ドクターペッパーがねーぞ」と騒いでいたが、静に「あんなまずいものは置いてありませーん」と言われる始末で、仕方なくコーラを選んだ。誠志朗には常盤がスプライトを取っておいてくれた。
「いただきまーす」
みんなで声を合わせて、弁当の蓋を開けた。「奇麗!」、「美味そう!」と歓声があがった。それもその筈、手前から、鯛と鮪のお造り、鰆の西京焼きと出汁巻き卵、奥に、海老と季節の野菜の天ぷら、湯葉巻きと椎茸と絹さやの炊き合わせ、小鉢には、おぼろ豆腐の海老そぼろ餡掛け。それと、ご飯、お吸い物、香の物、デザートには栃木のいちご・とちおとめまで付いていた。
「いやーっ、うめーの、美味くねーのって!」
「どっちなんだい?」
「うめーよ! でもよー、いつもこんなうめー弁当食ってたのか? 星野」
松花堂弁当の余りの美味しさに、永一が羨ましそうに静に尋ねた。
「バカね。こんなのいつも食べてる訳ないじゃない」
「今度、俺にも持ってきてくれよっ」
「税込み2,500円いただきます」
「何だよ、金取んのかよ?」
「当たり前でしょ。味は折り紙付きだもの」
永一は、見事に一本取られたようだ。
「凄ーく美味しいね」
「ほんと、毎日でも食べたいわ」
常盤と睦美先生も舌鼓を打っている。流石に毎日では飽きてしまうと思うけれども……
「これって、売上アップの材料に出来ないかな? 例えば、貸切露天風呂と松花堂弁当のランチセットで……」
「以前、考えたことあるんだけど、お風呂の掃除が出来なくなるし、親方の休憩時間がなくなるので諦めたわ」
誠志朗が独り言のように言ったことに、静が即答した。
「そうかぁ……、確かにそうだけど、何かもったいない感じがするなぁ……」
「あのね、うちのホテルも、岩盤浴とランチバイキングのプランがあるけど、予約の団体の時しかやらないんだよ」
誠志朗が凄く残念がって言うものだから、常盤がきぬやホテルの話をしてくれた。
「そういうもんなんだ。ふーん……」
腑に落ちない感じがしたが、誠志朗は、何となく納得してしまった。
ゆっくり食事をして、お腹も一杯になったところで、みんなで午後の予定を話し合った。
「あのよー、館内設備は大体分かったとして、SWOT分析を完成させるには、銀行と金融庁が問題にしている財務内容の分析をしないと駄目なんじゃねーの?」
永一の言うとおりだと全員が納得して、午後は、まず財務のデューディリをやることにした。静には決算書3期分と月次試算表を1年分揃えてもらうことにした。
食器を片付けながら決算書を取りにいくと言う静を、また、誠志朗が手伝うことになった。食事を運んできた順路でワゴンを戻し、調理場にいた親方に「ご馳走様でした」とお礼を言うと、親方が「美味かった? 牛負けた?」と付け足し言葉で尋ねてきたので、誠志朗は「美味しかったです」と言って取り合わなかった。
静が、事務所の書棚から決算書と試算表を探して、それを誠志朗が受け取って部屋に戻った。
ウィステリアでは、永一が用意したノートパソコンを常盤が立ち上げて、誠志朗の父親の作った資料を開いていた。フロッピーディスクのままでは扱い難いので、USBメモリーに移してくれていた。
「とりあえず、決算書と試算表をエクセルに入力していきましょう」
睦美先生の指示で常盤が入力することになった。パソコンは得意だと言っていた常盤が手慣れたテンキー操作でどんどん入力していく。どの数字をどこに入力すればよいのかも分かっているようだった。
その間、ほかのメンバーはやることがないので、静が用意した旅館のパンフレットや観光協会の観光ガイド、旅館のホームページなどを眺めていた。
「はーい、出来たよー」
入力が終わると、常盤が5人分をプリントアウトしてみんなに配ってくれた。
「まず、決算書だけど、トレンドとしては2期連続の減収減益ね。減価償却費も年々少なくなっているから、当然キャッシュフローも減少しているわ」
睦美先生の解説に、すぐさま静が言い訳をした。
「努力はしてるんです。まめに旅館のホームページを更新したり、季節毎のお得なパックを用意したり、リピーター対策もやってて……、手書きの挨拶状を出したり……。でもお客様は減る一方で……」
悔しそうな表情で唇を噛んだ。
「それはうちも同じみたい。鬼怒川温泉自体の宿泊客が減っているし、価格の安いプランを提供している旅館に流れていってしまうお客様もいるって……」
透かさず常盤が、静を援護した。
「鬼怒川温泉全体の問題だけど、それは行政とかを巻き込まないと、それぞれのホテルや旅館だけではどうしようもないことだから……。じゃあ、続けますよ。試算表を見てね」
試算表は、1ヶ月毎の収支を表していて、その12ヶ月分が決算書のベースになる。エクセルのシートには12ヶ月分の数値と売上・利益がグラフ化されていた。
「これを見て、何が言えますか? 阿久津君」
睦美先生が、誠志朗に質問した。
「えーとですね、まず、グラフを見ると、売上のピークは8月で、その次は10月、12月、5月です。逆に売上が少ないのは、2月がボトムで、3月、6月、9月です。」
「そうですね。それはどういうことですか? 金崎君」
「そんなの簡単だよ。8月は夏休み、10月は紅葉狩り、12月は忘年会と年越し、5月はゴールデンウィーク、逆に、2月3月は雪、6月は梅雨、9月は……えーと……何もない……」
永一が、オールバックの髪を銀の板櫛で整えながら答えた。
「どうですか? 星野さん?」
「そのとおりです。9月の理由ははっきりしないけど、夏休みと紅葉狩りの狭間で、ほんとに何もないからだと思います」
数値だけでは分かり難いが、グラフにすると一目了然だと、誠志朗は感心した。
「客室稼働率と客単価を出すともっと詳しく分かるんだけど、湯澤さん、後で出しておいてくれますか?」
「はい。分かりました」
睦美先生が続けた。
「恐らく、夏休みと紅葉狩りと年末年始とゴールデンウィークの客室稼働率は90パーセントを超えているわね。逆に、2月、3月は30パーセントを割ってるかもしれないわ。その辺はどう? 星野さん」
「そうですね。トップシーズンは、旅行代理店からの送客で、何もしなくても予約で一杯っ感じだし、逆に、オフシーズンは、価格の安いお得な宿泊プランを出しても、何をやっても駄目って感じです。」
静が、両手の掌を見せて『お手上げ』という仕草をした。
「星野さんと湯澤さんなら分かると思うけど、イールドマネージメントはやってるわよね?」
「はい」
「……えっ、あっ、はい」
睦美先生の質問の内容について、常盤は理解しているが、静は可成り怪しかった。
「ホテルや旅客機とかは、部屋数や座席数が決まってるでしょ。だから、需要が多い時期は価格を高めに設定して、需要が少ない時期は価格を下げて稼働率を上げるのよ。キャパシティーが限られる装置産業にとっては重要な手法よ」
「それはよー、うちのパチンコ店でもやってるよ。土日や給料日の後は黙ってても客が来るから出玉を出す割数を絞って、逆に平日や給料日の前は出血大サービスってねっ」
永一が、両手を大きく広げて『大放出』というジェスチャーをしながら説明したのだが、常盤と静は何のことかさっぱり分からないようだった。
「確かにそうだよな。お客さんが来なければ売上にならないし、用意した食材とかも駄目になるし……」
誠志朗も豆腐店に置き換えて、同じことだと思っていた。
「それだけじゃないわ。売上がなくても3大固定費と言われる減価償却費、支払利息、人件費は掛かるもの……。銀行が休みでも支払利息は24時間365日掛かってるから……」
ちょっとだけ嫌みを含んだ睦美先生の言葉に、誠志朗は父親の口癖を思い出した。『銀行はいい商売だぞ。休みだって寝てたって、利息はもらえるんだから』
「そうなのよねぇ……暇だからって給料を払わない訳にはいかないし、パートさんだって、長く休ませると生活が苦しくなるって転職しちゃうし……」
静が、眉間にしわを寄せて苦しい胸の内を吐露した。
「少し話が逸れたけど、もう一度ポイントを整理するわよ。そもそも、今回の金融庁検査で銀行の査定が否認されたのは、要償還債務の償還年数が35年を超えたからよね。その点を整理しましょう」
「要償還債務? 償還年数?」
最早、睦美先生の説明に静が質問するのはお決まりになってしまっていた。
「要償還債務っていうのは、返さなくちゃいけない借入金のこと。償還年数は、それをキャッシュフローで返すのに何年掛かるかってことよ」
「返さなくていい借入金なんてあるの?」
「役員借入金がそうよ。ある時払いの催促なしだから、実質自己資本に見なされるわ」
「もう、何が何だか分かんない」
「星野さんはもっと勉強が必要ね。続けるけど、要するに要償還債務償還年数を35年以内にする計画を作ればいいのよ。でも、それは簡単なことではないわ」
「つまりよー、分母を増やすか、分子を減らせばいいんだろ?」
腕組みをして聞いていた永一が口を開いた。その言葉に、常盤はうなづき、静は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていた。
「計算上はそういうことね」
「ちょっとー、お願いだから、私に分かるように説明してよー……」
堪らず静が白旗を揚げた。
「じゃあ、湯澤さん、説明してあげて」
睦美先生は、静の質問攻めに少し疲れてしまったようで、常盤にバトンを渡した。
「はい。えーとね、要償還債務償還年数の計算式の分子は要償還債務だから、借入金を返せば小さくなるでしょ。分母はキャッシュフローだから、利益を増やせば大きくなるでしょ。分かる? 静ちゃん」
「……ふーん、……ところで、キャッシュフローって何だっけ?」
「ここで使うキャッシュフローはね、経常利益から法人税などを引いて減価償却費を足したものだよ。借入金の返済原資になるんだよ」
「つまりよー、借金を減らすか、儲けを増やすか、その両方でもいいんだよ!」
永一がしびれを切らしたように言った。
「簡単に言わないでよっ。今までそれで散々苦労してきたんだから……。でも、今、分かったわ。……今までは、売上さえ上げれば何とかなると思って……、格安プランとか、値引きクーポンとかで、利益よりも宿泊客数を増やして売上を上げようとしか考えてなかったわ」
「単なる売上至上主義では駄目ね。それとは別に、要償還債務を減らす方法としては、遊休資産を現金化して返済に充てる方法があるわ。例えば、利用していない不動産があったら、それを売却して借入金を返済するとか……」
睦美先生が、具体的な例を挙げて説明した。
「えーっ、そんなのないわ。旅館も敷地も駐車場も、自宅だって銀行の担保に入ってて、売ることも出来ないし、ほかに遊休資産なんてある訳ないわ」
「そりゃそうだろ。売って金に出来るものがあれば、何も好き好んで銀行から借金しなくたっていいんだから……」
透かさず永一が、静に突っ込みを入れた。
「……つまり、うちの場合、簡単に要償還債務を減らすことは出来ないから、利益を上げる改善計画を作ればいいってことねっ」
静が、閃いた。――と言うより、漸く理解した。
「はい、よく出来ました。……ちょっと時間は掛かったけど……。ここまでやれば、SWOT分析が出来そうね。少し休憩してから始めましょうか?」
睦美先生が20分の休憩を提案した。
誠志朗は、いつもの癖で少し眠くなってきたので、「ちょっと寝るわ」と言って、そのままテーブルに突っ伏した。永一は、ポケットからイヤホンを取り出し、お気に入りの永ちゃんを聞き始めたようだ。常盤と静と睦美先生は、静が紅茶を入れると言うので鬼怒川が見える広縁に移って着物談義を始めた。
誠志朗は、トントンと右肩を叩かれたので、ハッとして振り返ると、頬に誰かの人差し指が食い込んできた。
「……おわっ、何すんだよ……」
「あははっ、ひっかかったわね、誠志朗」
寝こけていた誠志朗に静が悪戯したのだ。商売柄、爪は伸ばしていないのでそんなに痛い訳ではなかったが……
「始めるわよ、リーダー」
「……ふぁーっ、……もうそんな時間?」
「よく寝てたわよ。20分もっ」
「あー、悪い、悪い。……じゃあ、始めるか」
誠志朗は、眠気覚ましに首を左右にコキコキと振った。
「では、始めます。書記は、しずっ、……星野さん、お願いします」
「……んっ、んんっ、分かりました」
誠志朗が名前で呼ばなかったのが気に入らないようで、静は、態とらしく咳払いをした。
「ちょっといいかしら。弱みとか脅威とかの悪い方から始めるとやりやすいわよ」
睦美先生のアドバイスで、Weekness(弱み)から始めることにした。
全員で、華なりの宿しずかの弱みを挙げ、それを静がホワイトボードに記入していく。
◇月々の売上に波がある
◇売上が少ない時期が決まっている
◇エージェント頼みの営業
◇ホームページに魅力がない
◇日中の時間が活用されていない
次に、Threat(脅威)を挙げていく。
◇低価格ホテル・旅館の進出
◇原発事故の風評が払拭されていない
◇鬼怒川温泉全体の宿泊客の減少
◇鬼怒川温泉自体に温泉情緒がない
◇行政のかかわり不足
◇廃業したホテル・旅館が廃墟になっている
◇温泉街に賑わいがない
睦美先生の言うとおり、悪い点を挙げ連ねると枚挙に暇がない。
続いて、華なりの宿しずかのStrength(強み)を挙げていく。
◇自家源泉の100パーセント掛け流しの宿
◇日本料理が美味しく充実している
◇鬼怒川随一の日本庭園
◇現役高校生の美人女将
最後に、Opportunity(機会)を挙げていく。
◇世界遺産、ラムサール条約の登録
◇外国人観光客の増加
逆に、よい点は、中々出てこない。『現役高校生の美人女将』の項目は、嫌がる静を押し退けて、常盤が無理やり書き足したのだ。
「大体出揃ったようね。じゃあ、ビジネスの方向性を検討しましょう」
「……ビジネスの方向性って、具体的にどうすればいいの……?」
睦美先生にまた静が質問した。
「あら、ごめんなさい。ちょっと先を急ぎ過ぎたかしら……。ビジネスの方向性はね、華なりの宿しずかが、これからどういうお客様をターゲットにして、どういう風に営業していくかってことよ」
「……それは、……今までやってきたことが無駄だったってこと……?」
「無駄ではないわ。……無駄ではないけれど、正しくはなかったってことになるかしら……。残念だけど、それは決算書が物語ってるわよね……」
「…………」
睦美先生の説明を聞いて、静はがっくりとうなだれてしまった。
「何だよ、星野。別に気にすることねーじゃんかよ。俺、思うんだけどよー、やり方が間違ってたって分かったら、その時点で直せばいいだけだろっ」
「うん、私もそう思うよ」
すぐさま、永一と常盤が静を元気付けた。
「……ありがと。……でも、何かがっかり……。今まで本当に一生懸命やってきたのに、何だかなぁー……」
「まあ、そんなに腐るなよ。俺だって、絹豆腐が上手に出来なくて、もう辞めたいって何度思ったか分かんないけど、失敗を繰り返してるうちに段々分かってきて、ある日突然出来るようになったんだから……」
「……何か、例えが変だけど、誠志朗の言いたいことは分かったわ」
遅ればせながら、誠志朗も静を励まそうとしたのだが、ちょっと的が外れていたようだった。
「いいかしら? 考え方としてはこうよ。Threat(脅威)とOpportunity(機会)という外部環境を頭に入れて、Strength(強み)を更に伸ばすか、Weekness(弱み)を克服していくかっていうこと。もちろんその折衷案でもいいのだけれど……」
「あーん、どうすればいいのー……?」
静が頭を抱えていると、睦美先生が救いの手を差し伸べた。
「ここからが本番よ。自由な発想で、余所の真似ではないオンリーワンのアイディアを出してね」
「……あのね、ちょっといいかな?」
常盤が、遠慮がちに話し始めた。
「以前から考えていたアイディアがあって……、女性限定旅館ってどうかなって? お客様もスタッフも全員女性で……。あっ、もちろん裏方は男性でもいいんだけど……。どうかな?」
「常盤、それいいんじゃないっ」
「そうね。旅館に男性がいないっていうのはいいわね。お風呂上りにお化粧しなくてもいいし、お酒飲んで酔っ払っても構わないし」
すぐさま、静と睦美先生が賛同した。本心で言っている睦美先生の言葉には実感が籠っている。
「あのよー、盛り上がってるとこわりーんだけどよー、それって北陸とか九州にもうあったんじゃねー?」
永一が水を刺したが、
「栃木になければいいんじゃない?」
と、静が反論した。
「アイディア出しの段階では、細かいことは余り気にしないで、この調子でどんどんアイディアを出していきましょう」
睦美先生のフォローで今度は永一が発表した。
「じゃあよー、俺がスペシャルなアイディアを出しちゃうぜ。カジノ体験が出来る旅館ってどうよ? カジノはまだ法制化されてねーから、あくまでゲームセンター感覚で、カジノで遊んだり、ディーラー体験が出来たりするって奴なんだけどよー。それと、昼間はディーラーの養成所とかもやって」
「面白そうね」
「私、バニーガールやってみたいわっ」
またもや、静と睦美先生が乗ってきた。睦美先生は、本当にバニーガールの衣装を着そうで怖い。
「……でも、和風旅館にカジノは、折角の雰囲気が台無しになっちゃわない?」
常盤が、申し訳なさそうに意見した。
「それもそうね。お料理と日本庭園が台無しだわっ」
「ぷっ」
誠志朗は、さっきから考えがコロコロ変わる静に思わず吹き出してしまった。
「誠志朗、何笑ってんのよ。真面目にやりなさいよ。 それに、あんたもアイディア出しなさいよっ」
「あー、悪い。ちょっとおかしくて。……んっ、んんっ、……俺は、ベースはこのままにして、暇な時期に、親方の腕を生かした男の料理教室なんでどうかなって思うんだけど……。例えば、泊まり込みの蕎麦道場とか。脱サラして蕎麦屋を始める人の修行が出来る旅館なんていいんじゃないかと……」
「それもいいわね」
三度、静が賛同した。
「でもよー、それって、どんくらい需要があるんかな?」
永一が、ちょっと渋そうな顔付きをして首をひねった。
「……それはまだ調べてないけど……」
「どのアイディアにも、その計画の蓋然性を証明するデータが必要になるわね」
「蓋然性?」
「計画達成の確実性のことよ」
難しい言葉はまるっきり駄目といった感じの静に、分かりやすい言葉で睦美先生が説明してくれた。
その時、部屋の電話が鳴った。静が用件を聞いて受話器を置いた。
「ごめんなさい。仲居さんが1人お休みで、今から仕事になっちゃったの」
「……それじゃあしょうがないな。俺達だけで続けるか?」
誠志朗が、静抜きで続けようとした時、睦美先生が提案した。
「そうねぇ……、今日はここまで出来たから、続きは明日にしましょうか。各自、アイディアを整理して明日発表することにしましょう」
時刻は午後4時を回っていた。
「じゃあ、そうするか」
「明日、みんなはここに集合して。私は学校に行って、校長先生に経営実習扱いにしていただくようにお願いしてくるから。その後は授業があるから、ここに来られるのは午後になるわ」
校長先生のことは睦美先生に任せるとして、誠志朗は明日の段取りを始めた。
「分かりました。じゃあ、明日は何時に集合する?」
「学校が始まるいつもの時間でいいんじゃね」
「じゃあ、8時30分ということで」
永一の仕切りで明日のスタート時刻が決まった。
「星野さん、遅刻しないようにね」
「はい。……ん? 遅刻する訳ないでしょ」
静は、睦美先生の冗談を真に受けたようだ。
仕事がある静が先に出て、部屋の片付けをしてから誠志朗達もウィステリアを後にした。ロビーに上がると、フロアやラウンジはチェックイン待ちの宿泊客で賑わっていた。スーツ姿のままフロント業務をしている静にウィステリアの鍵を返して、誠志朗が「またあした」と挨拶すると、「お待ちしております、誠志朗様」と静がお辞儀をした。
睦美先生は、貸切露天風呂に入ると言って、空いている時間を静に確認していた。
永一は、日光自動車道路を流していくと先に帰った。
誠志朗は、常盤の迎えが来るまでロビーで一緒に待つことにした。
「お兄ちゃん、お疲れ様」
「常盤もお疲れ様」
「でも、みんなで考えると沢山アイディアが出て楽しいし、勉強になるね」
「常盤の女性限定旅館っていいよな」
「うふふっ、ありがと。実は、うちのホテルのどれか一つの館で出来ないかなって考えてたんだ」
「でも、いいのか? そんなアイディア出しちゃって」
「平気だよ。今は、少しでも静ちゃんの力になれたらいいなって……」
「変わらないな、常盤は」
「えっ、どういうこと?」
「優しいってことっ」
「そんなことないよ。当たり前のことだよ」
常盤は、胸の前で両手を小さく振って照れてしまった。
ほどなく、常盤の迎えの車が来たので、玄関で見送ってから誠志朗も帰り支度を始めた。
まだ夏至を過ぎたばかりだというのに、誠志朗が旅館を出る頃には、太陽は西側の山に隠れてしまい、温泉街に薄暮が迫ってきた。